後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す

 目を開くと何もない暗闇の中にメリーは立っていた。いろんな嘆きの声が頭を侵食するように飛び交っている。だが微かに近くにスイウの気配を感じた。

「スイウさん! どこにいるんですか? 返事をしてください!」

スイウの気配を辿るようにして、暗闇の中を走る。

 その先にぼんやりと小さな塊が見えた。よく目を凝らして見ると、座り込んで背中を丸くしたスイウだった。

「スイウさん、聞こえたら返事はしてください」
「……」

スイウはじっと黙ったまま、真っ黒な地面を見つめ続けている。

 今まで失われていたスイウの生前の記憶。あれを目の当たりにすれば茫然ぼうぜん自失とするのも仕方ないだろう。
 復讐の果ての結末がこれだったのだ。同じ復讐者の身であったからこそ、その悔しさと後悔は計り知れない。

 様子を静かに見守っていると、スイウは肩を震わせて小さく笑い声を上げる。少しずつ大きくなるそれは泣き笑いのようで、悲痛さに胸を締め付けられていく。その姿がどうしようもなく歯痒くてたまらない。
 弱々しくて、今にも消えそうなスイウを何とかこの場に繋ぎ止めようと、その肩を正面から押して揺さぶり上向かせる。

「しっかりしてください!! 笑ってる場合ですか!!」

メリーが叱咤しったすると、スイウはハッとした表情で顔を上げた。

「メリー……いたのか」

 これまでの声も存在も気づかないほど、スイウは憔悴していたようだった。

「お前も見たか? 本当に……俺はどうしようもない阿呆だ。救いようもないな」

 スイウはいつもの調子に戻り、過去の自分を鼻でわらった。先程までの様子が嘘のようだった。スイウはあんな現実を目の前に突きつけられても平気なのだろうか。

「一度目の破滅の元凶は俺だ。俺の存在がグリモワールを発動させるきっかけになった。その俺が魔族で世界の秩序を守るって? そんなおかしな話があるかよ」

 スイウは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに吐き捨てる。彼らしさのない弱音のような言葉に、やはり平気なはずがないのだと悟る。
 スイウはいつでも魔族の使命を優先し、時に冷徹さを感じさせるほどの気迫があった。生前の記憶を知った今、それは皮肉なことでしかない。

「さすがに滑稽こっけいだな」

 力なく乾いた笑いを漏らす姿が、あまりにも痛々しくて見ていられなかった。
 メリーには過去のスイウ……アーテルの思いは痛いほどに理解できる。

大切な者を奪われ、復讐してやりたいという感情。
この身がどうなろうと構わない、手段は選ばないという自暴自棄にも似た苛烈な思い。
たとえ人の道を外れることになったとしても、それでも構わないという刹那的な思考。
実際に行動に出るだけの覚悟。

その全てが同じだった。

 アーテルとメリーは、一体どこで明暗を分けたのか。言葉が見つからず思案を巡らせていると、メリーはふとあることを思い出した。
 リブニークの街で人の道を逸れそうになったとき、スイウが止めてくれたことを。メリーは肩を掴んでいた手を背中へと回してスイウを引き寄せる。そしてゆっくりと子供をあやすように背中をさすった。

「もういいんです。アーテルさんは十分頑張りました」
「……頑張った、か。ハッ、結果がこれじゃ何の意味もないだろ」
「そう言う人もいるかもしれないですね。でも私はそうは思いません。アーテルさんは今、スイウさんとして存在してます。きっとそのことに必ず意味があるはずなんです」

 スイウは弱々しく「あるわけないだろ」と独り言のように呟く。

「スイウさんはもう、ここで立ち止まるんですか?」
「立ち止まるも何も……あの日から俺は何も進んでない。死人に進むも止まるもあるかよ」
「スイウさんは魔族として新しい道を進んでいるはずです」

メリーはそっとスイウから離れ、立ち上がる。

「人の道から外れそうになった私を止めてくれたのはあなたです。スイウさんがいなければ、きっと私はアーテルさんと同じ道を辿っていました」
「……」
「私と行きましょう。今度は私があなたを……こちらへ引き戻してみせます」

 まだ終わりではない。生ある限り、いくらでも前に進むことができる。きっとスイウなら立ち上がる、そう信じている。メリーはスイウへ……アーテルへと手を差し出した。

「まさか、こんなガキに叱咤される日が来るなんて……俺もいよいよ焼きが回ったか」

 スイウはいつもの人相の悪い不敵な笑みを浮かべ、メリーの手を取った。

「魂の欠片を奪い返すにはアレを殺さないとだな。外側からはかなり厳しいが、内側はボロボロでもろい」

 それはメリーもあの記憶でなんとなく理解している。いろんな人間の感情が混ざり合って、傷つけ合って、共鳴していた。瓦解させるなら内側だ。

「キメラの弱点は繋ぎ目だ。確か前にエルヴェがそう言ってたはずだ」
「内側はつぎはぎだらけでしたね」
「あぁ、弱点がわかれば余裕だな。内側から崩せば一撃、力業は得意分野だろ?」

 握ったままになっていた手をスイウは強く握り返してくる。その力強さに、元のスイウが戻ってきたと安堵あんどした。

「我が名は『ウラバ』。名を代償に、汝『フレージエ』との契約解消を宣言す」

 突然のことにメリーの思考は一度停止する。今のは契約解消の言葉ではなかったか、と。
 かつて一方的に契約を結んだときのように、スイウはそれを一息で言い切った。こちらに気取られて遮られる前に。

「スイウ、さん……今、何を……?」

 困惑と焦燥と動揺が同時にメリーに襲いかかり、状況が飲み込みきれず意味のない問いかけが漏れた。寸前までキメラと戦う話をしていたばかりだった。

「俺は共には行けん……気を緩めたらすぐにでも魂を持ってかれそうだからな」

 それまで余裕すら感じられた表情が焦燥を滲ませた笑みへと変わり、メリーは掴まれていた手を振り払った。

それももう遅い。
全てが遅すぎた。

「飲まれたらそれこそ終わりだろ? だがこれでアレは魂が欠けたままで完全な形を成せない……ハッ、ざまあみろ」

 スイウは焦燥を飲み込み、清々しい声色としたり顔で言い放った。

「お前との約束を守れないことは謝る。だがこんな俺でも、世界の秩序を守る……その役目くらいはさすがに果たしてかないと、だろ?」

言いたい言葉が溢れて、メリーは言葉が紡げなくなった。

俺は約束を守る。

スイウはそう言ってくれていた。

 だがそれ以上に役目に対して実直な人であったことをよく知っている。非難できるわけがなかった。
 魂を代償にし消滅を待つスイウへ、感謝も文句も胸の奥から溢れて詰まる。今言うべき言葉が何かわからず、思考がぐちゃぐちゃになっていく。

「俺を……アーテルを元の道に戻してやってくれ」

スイウの体から光の粒子が溢れ、体が透けて明滅し始める。

「どうして諦めてしまったんですか!!」
「違う、諦めてないからだ。取り込まれたときが諦めたときだからな」

 やっとの思いで口にした言葉の真意はスイウに伝わらなかった。
 そういう意味ではない。なぜ共に生きることを、前へ進むことを諦めてしまったのかと言いたかった。

 だがスイウはアーテルであった頃から、未来を託すつもりで今を刹那的に生きている人間だった。消滅することが最も未来を守る可能性が高いとわかっている。だからこそ未来を確実に守るための選択を、躊躇ためらいもなく選んだ。そう理解できてしまった。

「お前に後を託す。最後まで引っ掻き回して悪かったな」

 スイウは刀を外し、こちらへと差し出す。メリーはその刀とスイウの顔を交互に見つめる。
 とても手を伸ばす気にはなれなかった。受け取った瞬間、この場から消えてしまいそうだと思ったからだ。

「だが、それもこれで終いだ。じゃあな、メリー」

 スイウは今までに見たことのない、憑き物の落ちたような晴れやかな笑みを浮かべる。

「そんな笑い方、できたんですか。みんなにもそうやって──

その笑顔は音もなく、次第に暗闇に溶けて消えていった。

 スイウの手をすり抜けた刀が、固い音を立てて虚しく地に落ちる。一人残された暗闇の中、メリーは呆然と落ちた刀を見つめていた。

「いつもいつも、勝手すぎるんですよっ……!」

ぽつりと一粒だけ雨が降り、黒い地面へ吸い込まれる。

 いつも役目に対して鋭すぎるくらいまっすぐに向き合っていた。最期までそうだった。人には散々言っておきながら、スイウは簡単に消滅を選んでしまった。
 スイウはアーテルの頃から何も変わらない。彼の中には元から未来を歩む自分の姿など存在していなかったのだ。

だからこそ諦めてほしくなかった。
消えてほしくなかった。

 存在を保てば飲まれるかもしれない、そんなことは想定済みだ。もし飲まれてもそこからこちらへ引き上げてやるつもりだった。その無駄に研ぎ澄まされた決意だけが行き場を失って彷徨さまよっている。

「……最悪の気分ですね」

胸の中に淀む虚しさと怒りと悲しみを言葉と共に吐き捨てた。

 過去は変わらない。過ぎ去ったこの瞬間は変えられないのだ。ならば進む以外に道はない。
 メリーは涙のにじむ目元を拭い、落ちている刀を強く握りしめた。その瞬間、暗闇が裂けて光が差す。

 飛び起きるようにして目を覚ますと、手にスイウの刀が握られていた。スイウの姿はやはりどこにもなく、気配も感じられない。あれは単なる夢ではなかったのだ。部屋にはメリー一人が残されており、三人の姿も見えない。

『ヨコセ……タマシ……タマシイイ、ヲ……ヲ』

 強く魂を呼ぶ声と頭痛が暴風の如く一瞬だけメリーを襲う。このままベッドの上で悲しみに打ち拉がれていられたらどんなに楽だろうか。
 それでも行かなければ、と自身を奮い立たせる。そうでなければスイウの死が無駄になる。魂をかけ、その遺志と刀を託された。

 どうして自分は誰かを犠牲にしなければ道を切り拓けないのだろう。ミュール、フラン、スイウ。目の前で何かがすり抜けていくのはもううんざりだ。

大切な者を守りたい。

 そのためなら奪うことも、傷つけることも躊躇いはしない。たとえ自分が酷く傷つくことになっても、命を散らすことになっても構わないという覚悟さえあった。
 それでも彼らはメリーが守るより先に、守るために逝ってしまった。一瞬前までは確かに握っていたはずの手が、今はもう二度と届かないところへいってしまったのだ。

 メリーは悔しさに強く刀を握りしめ、宿を飛び出した。騒然とする街の中を、ただ一人キメラを目指し全速力で駆け抜けていく。

 地響きの先に、守りたい仲間たちがいるはずだ。今度こそ誰も失わないように、この手が届くように。たとえ心が傷つき悲鳴を上げ、この命が全て燃え果てようとも。絶対に守ってみせると、この思いが打ち負けないよう強く鋭く意思を固める。

 街を抜けると、街道の先に夢の中で見たのと同じキメラの姿が闇夜に浮かび上がっていた。アイゼア、エルヴェ、フィロメナの姿と街の騎士たちが応戦している。

「スイウさん、行きますよ……!」

 メリーは刀に声をかけ、走る速度を更に上げた。まだ魂を求めるあの声は聞こえている。


第84話 屍を踏み越え私は征く(2)  終
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