後章─幾星霜を越え、錆びついた時は動き出す
夢を見た。それは遥か遥か遠い昔の、愛しい人の夢だった。顔はぼんやりとしていてよく見えないが、心の安らぐ気配がした。
物静かで、それでいてよく笑う、笑顔の素敵な人だったように思う。静かな朝の森を彷彿 とさせる、隣にいると心が癒やされていくような心地になる人だ。
「アーテル」
彼女の慈しみのこもった声が、アーテルと名を呼んだ。この前の夢にもアーテルという名の青年の姿があった。きっと彼女がアーテルの婚約者のクリスティナなのだろう。
「ティナは俺が幸せにする。もっと稼いで、早く安全な暮らしをさせてやる。必ず俺が守る」
「……アーテル、私はあなたの隣にいられればそれだけで十分幸せよ」
隣に柔らかな重さと温もりが寄り添う。それをどこか心地よく感じる自分がいた。心の奥に強い意志が芽生える。
守りたい。
大切にしたい。
失いたくない。
共に人生を歩んでいきたい。
たった一人の、家族になってくれる人。
愛しい人。
それはキリキリと胸を締め付けるような切実な願いだった。
「戦場で無理しないで。あなたが無事に帰ってきてくれるだけでいいから」
怯えて震える手を、壊れ物のように優しく握る。力の加減なんてよくわからなかったが、とにかく彼女を安心させてやりたかった。
心配するな。
俺が怪我一つ負うわけがない。
必ず帰ってくる。
いろんな言葉が浮かんでは消え、口にすることが難しく感じられた。アーテルという男はあまり思いを口にするのが上手くはなかったらしい。
無言で肩を引き寄せ、優しく摩 った。彼女は小さく肩を揺らして笑む。
「あなたのそういうところ、好きよ」
自分も彼女の好きなところはたくさんある。だがそのどれもが口にできない。言ってやった方が喜ぶのはわかっていた。それでも照れくささと言わなくても伝わっているという思いに甘え、引き寄せる手に少しだけ強く力を込めた。
穏やかで小さな幸せを感じる、なんてことのない日常風景だった。
だが突然突風が吹き、気づくと目の前の景色が変わっていた。
灰色の街は瓦礫 と化し、黄昏の色の空の中に立ち尽くしていた。目の前には折り重なるようにして死んだ人々が散らばっており、流れた血で赤く染まっている。
死体の中を亡霊のように彷徨 い歩いていくと、見覚えのある姿に心臓を握り潰されるような心地がした。
「ティナ……?」
愛しい婚約者の名が口から零れ落ちる。
その亡骸 が瓦礫の街の片隅に転がっていた。彼女の遺体を壊してしまわないように優しく抱き上げる。質量を持った柔らかい固形のものが地に落ちる音がした。
それは「無事に帰ってきて」と震えていた彼女の片腕だった。冷たくて脆 く、簡単に崩れてしまうほどに遺体は無残な姿をしていた。
「なんでだ……なんで、ティナがっ……!」
人目も憚 らずに泣き叫んだ。
普段無愛想なアーテルからは想像もできないような悲痛な嘆きが瓦礫の街に虚しく響く。血で張り付いた髪を除け、指先で頬をなぞった。
「もう一度だけでいい。笑ってくれ……頼む……」
懇願 も虚しく、乾いた風が砂埃と血の臭いを乗せて吹き抜けていく。
強く抱きしめたら壊れてしまいそうな遺体を血に濡れるのも構わずそっと抱きしめ、頬を寄せた。もう人ではなくなった冷たい感触だけがそこにある。
守るという約束を守ってやれなかった。愛や家族を知らなかった孤児の自分にそれを教えてくれた優しい人。
失いたくなかった。
もっと喜ぶことをしてあげればよかった。
突き上げるような悲しみと後悔と喪失感。そして憎しみ。
金と地位を上げる存在としてしか見ていなかった魔物が、初めて憎くて堪らない……復讐すべき存在へと変わった瞬間だった。
「ティナ……弱い俺を許してくれなくていい。だが、俺はお前の仇を必ず取ってやる。俺が魔物を殺し尽くしてやる……最後の一匹まで残らず……!」
その声は低く唸るような、激しい憎悪に満ちたものであった。
がばっと布団を押しのけて上体を起こす。呼吸は荒く、鼓動は早い。昨日に引き続き、今朝のこの夢は一体何なのだろうか。
妙に現実味のある夢は、迫り来るような悲しみと憎悪をメリーの中に残す。まるでストーベルへの復讐のみに囚われていた頃の自分を追体験させられているようで、寝覚めは最悪だった。
呼吸を少しずつ落ち着ける。フィロメナとポルッカの目が覚めていなかったのは幸いだった。こんな姿を見られてはおそらく無駄に心配をかけてしまうだろう。
夢のことを思い出さないようにし、少し早いが身支度にとりかかることにした。
船は無事に対岸のレーニスへと到着した。一日と少しかかったため、すっかり日は落ちている。
次に目指す方向を探るため、使い魔のエナガにモナカの気配を探らせると、サントルーサ方面を示した。ここでアイゼアたちとは別れることになるかもしれないと思っていたが、最後まで行動を共にできそうだ。
かなり高額ではあるがアイゼアと折半でサントルーサ行きの夜間特急券を人数分購入した。夜間特急は寝台付きになるらしく、その分やはり割高らしい。
カストルやポルッカには悪いが、極力先を急ぐ身としては車中泊も我慢してほしいとしか言えない。とはいえ本人たちは初めての寝台列車に興奮気味だったが。
レーニスからサントルーサまで乗り換えなしの一本とはいえ、かなり時間がかかる。到着は明朝か午前中くらいになるだろう。
寝台列車の最も安い部屋は八人で一つの個室になっている。基本的には相部屋のようだが、こちらは七人ということもあり相部屋にはならなかった。
室内には二段の簡易ベッドが四つ詰め込まれ、それぞれが仕切りやカーテンで区切られるようになっている。上で寝たがる双子とフィロメナに上の段を譲り、残りの四人で下の段のベッドを使うことになった。
「馬鹿と煙はなんとやら、だな」
聞こえないくらいの小さなスイウの呟きにひやりとする。アイゼアはシャワーを浴びに行くと言って外しているから良いが、問題はフィロメナだ。
こっそりとメリーの真上のベッドにいるフィロメナへ視線を向けると、どうやら聞こえてないらしくホッと胸を撫で下ろした。
メリーも所定のベッドへ腰を下ろし、鞄から作成中の魔法薬の小瓶を取り出して窓辺へと置く。早くシャワーを浴びてしまおうと、荷物を簡単にまとめて部屋を出た。
第80話 秘密の味を識りたくて(1) 終
物静かで、それでいてよく笑う、笑顔の素敵な人だったように思う。静かな朝の森を
「アーテル」
彼女の慈しみのこもった声が、アーテルと名を呼んだ。この前の夢にもアーテルという名の青年の姿があった。きっと彼女がアーテルの婚約者のクリスティナなのだろう。
「ティナは俺が幸せにする。もっと稼いで、早く安全な暮らしをさせてやる。必ず俺が守る」
「……アーテル、私はあなたの隣にいられればそれだけで十分幸せよ」
隣に柔らかな重さと温もりが寄り添う。それをどこか心地よく感じる自分がいた。心の奥に強い意志が芽生える。
守りたい。
大切にしたい。
失いたくない。
共に人生を歩んでいきたい。
たった一人の、家族になってくれる人。
愛しい人。
それはキリキリと胸を締め付けるような切実な願いだった。
「戦場で無理しないで。あなたが無事に帰ってきてくれるだけでいいから」
怯えて震える手を、壊れ物のように優しく握る。力の加減なんてよくわからなかったが、とにかく彼女を安心させてやりたかった。
心配するな。
俺が怪我一つ負うわけがない。
必ず帰ってくる。
いろんな言葉が浮かんでは消え、口にすることが難しく感じられた。アーテルという男はあまり思いを口にするのが上手くはなかったらしい。
無言で肩を引き寄せ、優しく
「あなたのそういうところ、好きよ」
自分も彼女の好きなところはたくさんある。だがそのどれもが口にできない。言ってやった方が喜ぶのはわかっていた。それでも照れくささと言わなくても伝わっているという思いに甘え、引き寄せる手に少しだけ強く力を込めた。
穏やかで小さな幸せを感じる、なんてことのない日常風景だった。
だが突然突風が吹き、気づくと目の前の景色が変わっていた。
灰色の街は
死体の中を亡霊のように
「ティナ……?」
愛しい婚約者の名が口から零れ落ちる。
その
それは「無事に帰ってきて」と震えていた彼女の片腕だった。冷たくて
「なんでだ……なんで、ティナがっ……!」
人目も
普段無愛想なアーテルからは想像もできないような悲痛な嘆きが瓦礫の街に虚しく響く。血で張り付いた髪を除け、指先で頬をなぞった。
「もう一度だけでいい。笑ってくれ……頼む……」
強く抱きしめたら壊れてしまいそうな遺体を血に濡れるのも構わずそっと抱きしめ、頬を寄せた。もう人ではなくなった冷たい感触だけがそこにある。
守るという約束を守ってやれなかった。愛や家族を知らなかった孤児の自分にそれを教えてくれた優しい人。
失いたくなかった。
もっと喜ぶことをしてあげればよかった。
突き上げるような悲しみと後悔と喪失感。そして憎しみ。
金と地位を上げる存在としてしか見ていなかった魔物が、初めて憎くて堪らない……復讐すべき存在へと変わった瞬間だった。
「ティナ……弱い俺を許してくれなくていい。だが、俺はお前の仇を必ず取ってやる。俺が魔物を殺し尽くしてやる……最後の一匹まで残らず……!」
その声は低く唸るような、激しい憎悪に満ちたものであった。
がばっと布団を押しのけて上体を起こす。呼吸は荒く、鼓動は早い。昨日に引き続き、今朝のこの夢は一体何なのだろうか。
妙に現実味のある夢は、迫り来るような悲しみと憎悪をメリーの中に残す。まるでストーベルへの復讐のみに囚われていた頃の自分を追体験させられているようで、寝覚めは最悪だった。
呼吸を少しずつ落ち着ける。フィロメナとポルッカの目が覚めていなかったのは幸いだった。こんな姿を見られてはおそらく無駄に心配をかけてしまうだろう。
夢のことを思い出さないようにし、少し早いが身支度にとりかかることにした。
船は無事に対岸のレーニスへと到着した。一日と少しかかったため、すっかり日は落ちている。
次に目指す方向を探るため、使い魔のエナガにモナカの気配を探らせると、サントルーサ方面を示した。ここでアイゼアたちとは別れることになるかもしれないと思っていたが、最後まで行動を共にできそうだ。
かなり高額ではあるがアイゼアと折半でサントルーサ行きの夜間特急券を人数分購入した。夜間特急は寝台付きになるらしく、その分やはり割高らしい。
カストルやポルッカには悪いが、極力先を急ぐ身としては車中泊も我慢してほしいとしか言えない。とはいえ本人たちは初めての寝台列車に興奮気味だったが。
レーニスからサントルーサまで乗り換えなしの一本とはいえ、かなり時間がかかる。到着は明朝か午前中くらいになるだろう。
寝台列車の最も安い部屋は八人で一つの個室になっている。基本的には相部屋のようだが、こちらは七人ということもあり相部屋にはならなかった。
室内には二段の簡易ベッドが四つ詰め込まれ、それぞれが仕切りやカーテンで区切られるようになっている。上で寝たがる双子とフィロメナに上の段を譲り、残りの四人で下の段のベッドを使うことになった。
「馬鹿と煙はなんとやら、だな」
聞こえないくらいの小さなスイウの呟きにひやりとする。アイゼアはシャワーを浴びに行くと言って外しているから良いが、問題はフィロメナだ。
こっそりとメリーの真上のベッドにいるフィロメナへ視線を向けると、どうやら聞こえてないらしくホッと胸を撫で下ろした。
メリーも所定のベッドへ腰を下ろし、鞄から作成中の魔法薬の小瓶を取り出して窓辺へと置く。早くシャワーを浴びてしまおうと、荷物を簡単にまとめて部屋を出た。
第80話 秘密の味を識りたくて(1) 終