前章─復讐の先に掴む未来は(1)
すっかり日も暮れ、外は黒のインクで塗りつぶしたかのように何も見えない。
あの騒動の後すぐに二人は客室にこもった。ただ騒動前の客室とは違う。お礼がしたいと言って聞かない船員があまりにもしつこく、無駄に注目が集まってしまったために、さっさと受け入れることにしたのだ。
部屋はこの船の客室の中でも高いランクなのか、ベッドだけでいっぱいいっぱいだった前の狭い客室とは比べ物にならない。ソファや美しいデザインのテーブル、ベッドは四つもあり、寝具も良いものが使われているのかふかふかだった。
そしてもう一つ、丁寧に調理された夕食がこの部屋に運ばれていることだ。かぼちゃのポタージュからはほわほわと湯気が上がり、スモークサーモンのマリネは色の濃い野菜と共に華やかさを添えている。
つやつやでふっくらとしたオムレツ、何より厚切りのローストビーフは赤身とソースのコントラストが食欲をそそる。デザートにはプリンまでしっかりつけてもらった。メニューを見て、全て自分で注文したものばかりだ。
「いただきます」
早速ポタージュを口に運ぶ。とろりととろけるような舌触りと牛乳の濃厚さがかぼちゃのまろやかさと甘みを引き立てている。
数日ぶりのまともな食事にじんわりと感動しつつも、ミュールやフランにも食べさせてあげたかったと寂しさが込み上げた。
「美味しいですね、スイウさん」
思考を切り替えるように、目の前の人物に話しかける。魔族は食べなくても大丈夫だと言っていたが、二人分を平らげる自信はメリーにはなく、スイウにも食べるように勧めてみたのだが……
正面を見ると、スイウは眉間にシワを寄せていた。口に合わなかったのだろうかと静かに観察していると、フォークとナイフの使い方が若干ぎこちないのがわかる。
食事をしないのであれば、カトラリーを使う機会もないはずだ。むしろ初めてなら、使い方を教えてもいない道具を器用に扱えている方だ。ふと、スイウが左手で刀を扱っていた姿が頭に浮かぶ。
「スイウさん、左利きならフォークとナイフは逆の方が使いやすいと思いますよ」
「……そうか」
スイウは素直にフォークとナイフを持つ手を入れ替える。おそらく右利きのメリーの持ち方を見て真似ていたのだろう。
「スイウさんは今まで何か食べたりはしなかったんですか?」
「木の実とか果物、あと水は飲んだことがある。だが一々調理はしないし必要もないからな」
そう話しながらも、すでにカトラリーの使い方が馴染み始めているのには感心する。
「メリーは使い慣れてるな」
「人は食事をするから、みんな慣れてると思いますが?」
確かに習慣のないスイウに比べれば慣れているが、それはメリーに限ったことではなく人であれば当たり前だ。
「随分恵まれた環境で育ったんだな」
想定外の言葉にスイウの言いたいことが汲み取れず首を傾げる。
「動きに無駄がないし、甲板で食べてたヤツらより丁寧だ。それだけの教養を身に着けられる環境にいたって言いたいだけだ」
スイウはちょいちょいとオムレツを指差す。
「甲板にいたヤツらはフォーク一本かスプーンで食べてたからな」
その言葉を聞き、メリーはオムレツに使っていたナイフを置く。
「所作一つでそいつがどんな育ち方をしたか何となくわかる。ナイフもフォークも揃ってて、そうやって食べるように教えられた。貧乏で食うに困ってるヤツらもお前や他のヤツらと同じように道具を上手く使いこなせると思うか?」
「それは……」
確かにスイウの言うとおりだ。使う習慣がなければ上手くは扱えない。そういう人の存在に思考が働かない程度には、貧しい人の暮らしはメリーにとって遠い世界の話になっていた。
「別に説教したいわけじゃない。もっと一般人に擬態しないと些細 なとこから探りを入れてくるヤツもいるって忠告したかっただけだ」
スイウはフォークとナイフを置くと、おもむろにスープの皿を持ち上げ、あろうことか直接ごくごくと飲み始めた。
「ちょ、スイウさんっ。それはマナー違反です! あと音を立てるのもダメなんですよ!」
「そんなちっさい匙 で一々掬ってられるかよ、めんどくせー。腹に入れば同じだろ」
「スイウさんも変に探られたくなければ、最低限のマナーは必要ですよ。私がビシビシ指導してあげますねっ!」
この後メリーとスイウの食事マナー講座が開催され、全て食べ終わる頃にはすっかり料理も冷めきっていた。
翌朝、船は無事にセントゥーロ王国領の港町エスノへと到着した。二人は早速、ベジェという村を目指す。エスノから街道を歩いて半日ほどの比較的近くに位置する農村だ。
エスノでは、そのベジェという村が魔物に襲撃されたという話題ばかりが飛び交っている。二人は船上で魔物を撃退したせいで「昨日みたいに退治してくれよ」などと何度も絡まれる羽目になった。碌 に情報収集もできないまま最低限の準備だけを済ませて逃げるように出立した。
ここのところ天候にも恵まれ、見渡す限りの草原に通った街道には、少しひんやりとした心地良い風が吹き抜けていく。これから魔物に襲撃された村へ向かうとは思えない清々しさだ。
「襲撃した場所にグリモワールを盗んだ人がいるんでしょうか?」
「まぁ、まずいないだろ。そもそもこれがグリモワールの仕業とも限らないしな。だが手がかりを掴めないことには動きようもない」
ストーベルの行方もわからない今、メリーが次に向かうのは首都のサントルーサにある研究所だが、そこにミュールやストーベルがいるとは限らない。
そしてグリモワールの件も決してスイウだけの問題ではない。世界が終わってしまうというのであればメリーにとっても無関係な話ではなかった。
ベジェに何か手がかりがあることを祈るしかない。先の見えない焦燥感を拭うように一歩一歩街道を進んでいく。今の自分にできることはそれだけなのだ。
第5話 海峡の空に舞いて(2) 終
あの騒動の後すぐに二人は客室にこもった。ただ騒動前の客室とは違う。お礼がしたいと言って聞かない船員があまりにもしつこく、無駄に注目が集まってしまったために、さっさと受け入れることにしたのだ。
部屋はこの船の客室の中でも高いランクなのか、ベッドだけでいっぱいいっぱいだった前の狭い客室とは比べ物にならない。ソファや美しいデザインのテーブル、ベッドは四つもあり、寝具も良いものが使われているのかふかふかだった。
そしてもう一つ、丁寧に調理された夕食がこの部屋に運ばれていることだ。かぼちゃのポタージュからはほわほわと湯気が上がり、スモークサーモンのマリネは色の濃い野菜と共に華やかさを添えている。
つやつやでふっくらとしたオムレツ、何より厚切りのローストビーフは赤身とソースのコントラストが食欲をそそる。デザートにはプリンまでしっかりつけてもらった。メニューを見て、全て自分で注文したものばかりだ。
「いただきます」
早速ポタージュを口に運ぶ。とろりととろけるような舌触りと牛乳の濃厚さがかぼちゃのまろやかさと甘みを引き立てている。
数日ぶりのまともな食事にじんわりと感動しつつも、ミュールやフランにも食べさせてあげたかったと寂しさが込み上げた。
「美味しいですね、スイウさん」
思考を切り替えるように、目の前の人物に話しかける。魔族は食べなくても大丈夫だと言っていたが、二人分を平らげる自信はメリーにはなく、スイウにも食べるように勧めてみたのだが……
正面を見ると、スイウは眉間にシワを寄せていた。口に合わなかったのだろうかと静かに観察していると、フォークとナイフの使い方が若干ぎこちないのがわかる。
食事をしないのであれば、カトラリーを使う機会もないはずだ。むしろ初めてなら、使い方を教えてもいない道具を器用に扱えている方だ。ふと、スイウが左手で刀を扱っていた姿が頭に浮かぶ。
「スイウさん、左利きならフォークとナイフは逆の方が使いやすいと思いますよ」
「……そうか」
スイウは素直にフォークとナイフを持つ手を入れ替える。おそらく右利きのメリーの持ち方を見て真似ていたのだろう。
「スイウさんは今まで何か食べたりはしなかったんですか?」
「木の実とか果物、あと水は飲んだことがある。だが一々調理はしないし必要もないからな」
そう話しながらも、すでにカトラリーの使い方が馴染み始めているのには感心する。
「メリーは使い慣れてるな」
「人は食事をするから、みんな慣れてると思いますが?」
確かに習慣のないスイウに比べれば慣れているが、それはメリーに限ったことではなく人であれば当たり前だ。
「随分恵まれた環境で育ったんだな」
想定外の言葉にスイウの言いたいことが汲み取れず首を傾げる。
「動きに無駄がないし、甲板で食べてたヤツらより丁寧だ。それだけの教養を身に着けられる環境にいたって言いたいだけだ」
スイウはちょいちょいとオムレツを指差す。
「甲板にいたヤツらはフォーク一本かスプーンで食べてたからな」
その言葉を聞き、メリーはオムレツに使っていたナイフを置く。
「所作一つでそいつがどんな育ち方をしたか何となくわかる。ナイフもフォークも揃ってて、そうやって食べるように教えられた。貧乏で食うに困ってるヤツらもお前や他のヤツらと同じように道具を上手く使いこなせると思うか?」
「それは……」
確かにスイウの言うとおりだ。使う習慣がなければ上手くは扱えない。そういう人の存在に思考が働かない程度には、貧しい人の暮らしはメリーにとって遠い世界の話になっていた。
「別に説教したいわけじゃない。もっと一般人に擬態しないと
スイウはフォークとナイフを置くと、おもむろにスープの皿を持ち上げ、あろうことか直接ごくごくと飲み始めた。
「ちょ、スイウさんっ。それはマナー違反です! あと音を立てるのもダメなんですよ!」
「そんなちっさい
「スイウさんも変に探られたくなければ、最低限のマナーは必要ですよ。私がビシビシ指導してあげますねっ!」
この後メリーとスイウの食事マナー講座が開催され、全て食べ終わる頃にはすっかり料理も冷めきっていた。
翌朝、船は無事にセントゥーロ王国領の港町エスノへと到着した。二人は早速、ベジェという村を目指す。エスノから街道を歩いて半日ほどの比較的近くに位置する農村だ。
エスノでは、そのベジェという村が魔物に襲撃されたという話題ばかりが飛び交っている。二人は船上で魔物を撃退したせいで「昨日みたいに退治してくれよ」などと何度も絡まれる羽目になった。
ここのところ天候にも恵まれ、見渡す限りの草原に通った街道には、少しひんやりとした心地良い風が吹き抜けていく。これから魔物に襲撃された村へ向かうとは思えない清々しさだ。
「襲撃した場所にグリモワールを盗んだ人がいるんでしょうか?」
「まぁ、まずいないだろ。そもそもこれがグリモワールの仕業とも限らないしな。だが手がかりを掴めないことには動きようもない」
ストーベルの行方もわからない今、メリーが次に向かうのは首都のサントルーサにある研究所だが、そこにミュールやストーベルがいるとは限らない。
そしてグリモワールの件も決してスイウだけの問題ではない。世界が終わってしまうというのであればメリーにとっても無関係な話ではなかった。
ベジェに何か手がかりがあることを祈るしかない。先の見えない焦燥感を拭うように一歩一歩街道を進んでいく。今の自分にできることはそれだけなのだ。
第5話 海峡の空に舞いて(2) 終