前章─復讐の先に掴む未来は(1)
01 そして全てを失った私は
闇夜に潜むように降る雪が、街灯の明かりに浮かび上がる。
静寂を切り裂き駆ける人影が一つ、薄く積もった雪の上に足跡を残していく。その腕の中には幼い地霊族 の少女。
「……メリー……おね、ちゃ……」
少女──妹のフランの顔色はすっかり青ざめ、息も絶え絶えだ。
「大丈夫だよフラン。もうすぐ病院につくからっ」
フランを一瞥 し、炎霊族 の少女メリーは前に広がる暗闇へ視線を戻す。足を止めることはない。薄紅色の髪と紐状の髪飾りを振り乱し、吐く息は白く荒く、心臓の音は急げ急げと、けたたましく内側から叩きつけてくる。
「もう、ダメ……」
「フラン諦めないで!」
『霊族 』と呼ばれる魔力を持つ種族は、その体に保持しておける魔力許容量より魔力が枯渇したり飽和することに弱い。魔力を吸いつくされ『解離』が始まっているフランの体は、人とは思えないほどに軽かった。
「お願い……ミュール……お兄……を」
「うん。後で必ず私が助けに行くから」
「ごめん……ね……メリー、お、姉……」
その後に続く言葉をメリーは聞き取ることができなかった。
目の前が一瞬にして橙色に染まる。腕の中からふわりと吹いた柔らかな風がフランの言葉を遮った。
一年のほとんどが冬の気候であるこのノルタンダールに似つかわしくないほど暖かく優しい風。
フランの髪と同じ橙色の花が腕から溢れて零れ落ち、はたりはたりと音を立てる。
「え……」
走る速度を緩め、やがて止まる。腕の中にはフランが着ていたはずの服とたくさんの橙色の花。恐る恐る振り返ると、自分の足跡を彩るように花が落ちている。
灰色の石畳。純白の雪。漆黒の闇。橙色の花、花、花、花。
無彩色の景色に花の色だけがゾッとするほど華やかに映え、メリーの目に焼き付く。フランは『解離』した。『解離』とは、体と魂がこの世界の自然に還る現象のことを指す。端的に言えば『死』とほぼ同義だ。フランが自然へと帰してしまったのだ、と停止していた思考がゆっくりと理解し始めた。
「フラン、フランっ!!!」
メリーの叫びは届かない。降り続く雪の中へ虚しく吸い込まれていくだけだった。走り続けていた足が震え、膝から崩折れる。堪らずフランの服をギュッと握りしめて抱えこんだ。
──私はどうすれば良かった?
ほんの数時間前まで、たわいない会話を交わしていた。夕飯の買い出しから帰ってきたときにはすでに手遅れで。リビングに倒れていた妹のフランに駆け寄って、兄のミュールが連れ去られたことを知った。
買ってきた食材をどうしたのかは覚えていない。魔力を補填したが、すでに『解離』の始まっている体には効果がなかった。それでも病院に行けばもしかしたら、と一縷の望みをかけて走ったのに。
『ごめ……なさい。フランが弱いから、白い人たちに……ミュールお兄、ちゃんが……』
フランの言葉が、表情が、瞼の裏に蘇る。最期の言葉も「ごめんね」だった。これがまだ九歳の女の子の最期だというのか。
「利用価値もないと吐き捨てたのはあなたの方でしょう……父さん」
このやり口と「白い人」という単語で犯人はすぐにわかった。憎い相手の顔が、声が、記憶がちらつく。
『なぜお前は穢れているのだ』
悍 ましいものを見るような目で、そう吐き捨てる父の姿が脳裏を掠める。握りしめた拳を新雪の上に叩きつけると、痺れるような強い痛みと凍りついた石畳の感触がした。その冴えた痛みが煮え滾るような思いを凍てつかせ、閉じ込めていく。
「何事においても、冷静さを欠いた方が負ける」いつか兄のミュールが口にしていた言葉を思い出した。冷えた夜の空気を肺いっぱいに吸って、吐き出す。
「フラン、ミュール兄さんは必ず連れ戻すからね」
メリーはキッと天を睨む。月の見えない夜。雲の切れ間から赤い星が降るのを見た。
────────────────────
02 崩壊
黄昏色の空に長く伸びる影が二つ。一人は猫のような耳と尾を、もう一人は狼のような耳と尾を持つ青年。獣の特徴を体に宿すのは魔族である証だ。
猫の青年──スイウは体に纏わりつくような生温い空気を断ち切るように刀を払った。
地面の黒いシミから湧き上がる塊を、構えの姿勢をとり迎え撃つ。同時に猫のような耳を動かして周囲を探るが、抜けられそうな隙はない。
「完全に囲まれてるな。どうするんだ?」
「どうするって言われてもなぁ。しっかし、どーなってんだー……こりゃ」
「それは俺が聞きたい」
斬っても斬っても黒い魔物のようなものが湧き出てくる異様な光景。何が起こっているのか確認しに行こうにも、四方八方を塞がれ思うように移動できない。刀を構えたまま警戒していると、狼の青年──クロミツの尾がスイウの背に触れた。
「邪魔っ……気が散るだろ」
「おっとと、悪ぃ悪ぃー」
全く反省の色が見えないクロミツの声に小さく溜息をついた。
『スイウ、クロミツ……』
新たな気配に咄嗟に身構えたが、聞き覚えのある声と気配に僅かに驚く。
「え、冥王様?」
クロミツの声と共に、声のした方へ視線だけを向けた。少し離れたところに、確かにぼんやりと冥王が立っている。冥王は言葉を続ける。
『グリモワールを奪われたのだ』
「はぁ? グリモワール!?」
「そんな簡単に奪われててどうするんだ……」
災禍の魔書グリモワール。天界に存在する終焉の角笛と対を成す。願いを叶える代償に人の魂を喰らい、心の魔を引きずり出す。そうして得た負の力と魂を触媒に世界を終わらせると言われる書だ。
『我も書に封印され、多くの魔族もまた封印されてしまった』
よくよく見れば、冥王の姿は若干透けている。封印される前に力を外に残しておいたのだと察した。だとすればあまり長くはこの場に留まっていられないだろう。
「それを奪い返せば良いんだな。で、奪ったのは誰だ?」
『すまないがわからぬ』
「えぇー、そりゃないだろ冥王様……」
『犯人は地上界へ逃げた。そなたらを含め、残っている魔族はできる限り地上界へ送るが余力がほとんど残っていない故、期待はするな。どこへ飛ばされるかもわからぬが……頼んだぞ。世界が終わる前に何としても』
普段からは想像もつかないほどの弱々しい冥王の姿に、スイウは思わず鼻で笑った。
「承知した」
「了解しましたよ! ったく相変わらず余裕だなースイウ?」
体が青白い光に包まれる。冥界の門からではなく転移術のようなもので飛ばされるらしい。その光の向こう側に、いたずらっぽく笑うクロミツの顔が見えた。魔族が地上界へ行くことは本来ならまずありえない。基本的に冥界は、生きてる人には積極的に干渉しないからだ。
「冥界にも飽きたし、ちょうど良い」
「とか言って、太陽に灼かれて蒸発すんなよ〜」
太陽の光は魔族にとって猛毒だ。数分直接浴びれば消滅してしまうらしく、太陽の出ていない夜にしか活動できないと聞いたことがあった。だが一つだけそれを回避する方法がある。
「人と契約すれば太陽も平気なんだろ?」
「はぁー? お前み……な愛想のない……が、簡……に契約なん……でき……?」
クロミツの声が遠退く。お互いが違う場所へ飛ばされようとしているのだろう。
「別に、テキトーに騙すなり何なりして契約すれば良いだけだろ」
この声が届いたか届いてないか、クロミツの返事は聞こえなかった。ふわりと宙に浮く感覚、体が反転する。
「健闘を祈る」
今はもう視界にもいない友に向けてスイウは小さく呟いた。魔族特有の耳と尾を視認されないように消す。これから行くところは人の世界だ。無闇に魔族であることを知られるわけにはいかない。その間にもスイウは暗闇の海へ緩やかに沈んでいく。
「グリモワールの厄災の種か」
眼下に見える赤い光の全てがその種だ。人の心の闇を炙り出す種。これから爆発的に魔物も増えるだろう。無数に散り、不気味な輝きを宿したそれは、地上界を目指して降り注いでいた。
第0話 赤い星の降る夜(メリー/スイウ) 終
闇夜に潜むように降る雪が、街灯の明かりに浮かび上がる。
静寂を切り裂き駆ける人影が一つ、薄く積もった雪の上に足跡を残していく。その腕の中には幼い
「……メリー……おね、ちゃ……」
少女──妹のフランの顔色はすっかり青ざめ、息も絶え絶えだ。
「大丈夫だよフラン。もうすぐ病院につくからっ」
フランを
「もう、ダメ……」
「フラン諦めないで!」
『
「お願い……ミュール……お兄……を」
「うん。後で必ず私が助けに行くから」
「ごめん……ね……メリー、お、姉……」
その後に続く言葉をメリーは聞き取ることができなかった。
目の前が一瞬にして橙色に染まる。腕の中からふわりと吹いた柔らかな風がフランの言葉を遮った。
一年のほとんどが冬の気候であるこのノルタンダールに似つかわしくないほど暖かく優しい風。
フランの髪と同じ橙色の花が腕から溢れて零れ落ち、はたりはたりと音を立てる。
「え……」
走る速度を緩め、やがて止まる。腕の中にはフランが着ていたはずの服とたくさんの橙色の花。恐る恐る振り返ると、自分の足跡を彩るように花が落ちている。
灰色の石畳。純白の雪。漆黒の闇。橙色の花、花、花、花。
無彩色の景色に花の色だけがゾッとするほど華やかに映え、メリーの目に焼き付く。フランは『解離』した。『解離』とは、体と魂がこの世界の自然に還る現象のことを指す。端的に言えば『死』とほぼ同義だ。フランが自然へと帰してしまったのだ、と停止していた思考がゆっくりと理解し始めた。
「フラン、フランっ!!!」
メリーの叫びは届かない。降り続く雪の中へ虚しく吸い込まれていくだけだった。走り続けていた足が震え、膝から崩折れる。堪らずフランの服をギュッと握りしめて抱えこんだ。
──私はどうすれば良かった?
ほんの数時間前まで、たわいない会話を交わしていた。夕飯の買い出しから帰ってきたときにはすでに手遅れで。リビングに倒れていた妹のフランに駆け寄って、兄のミュールが連れ去られたことを知った。
買ってきた食材をどうしたのかは覚えていない。魔力を補填したが、すでに『解離』の始まっている体には効果がなかった。それでも病院に行けばもしかしたら、と一縷の望みをかけて走ったのに。
『ごめ……なさい。フランが弱いから、白い人たちに……ミュールお兄、ちゃんが……』
フランの言葉が、表情が、瞼の裏に蘇る。最期の言葉も「ごめんね」だった。これがまだ九歳の女の子の最期だというのか。
「利用価値もないと吐き捨てたのはあなたの方でしょう……父さん」
このやり口と「白い人」という単語で犯人はすぐにわかった。憎い相手の顔が、声が、記憶がちらつく。
『なぜお前は穢れているのだ』
「何事においても、冷静さを欠いた方が負ける」いつか兄のミュールが口にしていた言葉を思い出した。冷えた夜の空気を肺いっぱいに吸って、吐き出す。
「フラン、ミュール兄さんは必ず連れ戻すからね」
メリーはキッと天を睨む。月の見えない夜。雲の切れ間から赤い星が降るのを見た。
────────────────────
02 崩壊
黄昏色の空に長く伸びる影が二つ。一人は猫のような耳と尾を、もう一人は狼のような耳と尾を持つ青年。獣の特徴を体に宿すのは魔族である証だ。
猫の青年──スイウは体に纏わりつくような生温い空気を断ち切るように刀を払った。
地面の黒いシミから湧き上がる塊を、構えの姿勢をとり迎え撃つ。同時に猫のような耳を動かして周囲を探るが、抜けられそうな隙はない。
「完全に囲まれてるな。どうするんだ?」
「どうするって言われてもなぁ。しっかし、どーなってんだー……こりゃ」
「それは俺が聞きたい」
斬っても斬っても黒い魔物のようなものが湧き出てくる異様な光景。何が起こっているのか確認しに行こうにも、四方八方を塞がれ思うように移動できない。刀を構えたまま警戒していると、狼の青年──クロミツの尾がスイウの背に触れた。
「邪魔っ……気が散るだろ」
「おっとと、悪ぃ悪ぃー」
全く反省の色が見えないクロミツの声に小さく溜息をついた。
『スイウ、クロミツ……』
新たな気配に咄嗟に身構えたが、聞き覚えのある声と気配に僅かに驚く。
「え、冥王様?」
クロミツの声と共に、声のした方へ視線だけを向けた。少し離れたところに、確かにぼんやりと冥王が立っている。冥王は言葉を続ける。
『グリモワールを奪われたのだ』
「はぁ? グリモワール!?」
「そんな簡単に奪われててどうするんだ……」
災禍の魔書グリモワール。天界に存在する終焉の角笛と対を成す。願いを叶える代償に人の魂を喰らい、心の魔を引きずり出す。そうして得た負の力と魂を触媒に世界を終わらせると言われる書だ。
『我も書に封印され、多くの魔族もまた封印されてしまった』
よくよく見れば、冥王の姿は若干透けている。封印される前に力を外に残しておいたのだと察した。だとすればあまり長くはこの場に留まっていられないだろう。
「それを奪い返せば良いんだな。で、奪ったのは誰だ?」
『すまないがわからぬ』
「えぇー、そりゃないだろ冥王様……」
『犯人は地上界へ逃げた。そなたらを含め、残っている魔族はできる限り地上界へ送るが余力がほとんど残っていない故、期待はするな。どこへ飛ばされるかもわからぬが……頼んだぞ。世界が終わる前に何としても』
普段からは想像もつかないほどの弱々しい冥王の姿に、スイウは思わず鼻で笑った。
「承知した」
「了解しましたよ! ったく相変わらず余裕だなースイウ?」
体が青白い光に包まれる。冥界の門からではなく転移術のようなもので飛ばされるらしい。その光の向こう側に、いたずらっぽく笑うクロミツの顔が見えた。魔族が地上界へ行くことは本来ならまずありえない。基本的に冥界は、生きてる人には積極的に干渉しないからだ。
「冥界にも飽きたし、ちょうど良い」
「とか言って、太陽に灼かれて蒸発すんなよ〜」
太陽の光は魔族にとって猛毒だ。数分直接浴びれば消滅してしまうらしく、太陽の出ていない夜にしか活動できないと聞いたことがあった。だが一つだけそれを回避する方法がある。
「人と契約すれば太陽も平気なんだろ?」
「はぁー? お前み……な愛想のない……が、簡……に契約なん……でき……?」
クロミツの声が遠退く。お互いが違う場所へ飛ばされようとしているのだろう。
「別に、テキトーに騙すなり何なりして契約すれば良いだけだろ」
この声が届いたか届いてないか、クロミツの返事は聞こえなかった。ふわりと宙に浮く感覚、体が反転する。
「健闘を祈る」
今はもう視界にもいない友に向けてスイウは小さく呟いた。魔族特有の耳と尾を視認されないように消す。これから行くところは人の世界だ。無闇に魔族であることを知られるわけにはいかない。その間にもスイウは暗闇の海へ緩やかに沈んでいく。
「グリモワールの厄災の種か」
眼下に見える赤い光の全てがその種だ。人の心の闇を炙り出す種。これから爆発的に魔物も増えるだろう。無数に散り、不気味な輝きを宿したそれは、地上界を目指して降り注いでいた。
第0話 赤い星の降る夜(メリー/スイウ) 終
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