SS 141~160

『決して逃げられるだなんて思わないで。もし逃げたら、そうだなぁ。地の底まででもきみを追いかけて、』

――きみを殺して僕も死のう。

そう言ってあたしの薄い胎を撫でる男はにこやかに笑った。
あたしを逃がさないと言うこの男の考えはまったくもって分からない。
あたしは逃げる気なんてまったくないのに。
そもそもこの薄い胎の中に居る命を優先したいあたしが逃げるという行為をするとは思わないで欲しいものだなぁ。
そうは思うけれども、あたしにはこの男の考えは分からないから、だからいつだって『はいはい』と流してきた。

「ねえ、きみはどうして僕から逃げないの?」

「その言い草だと逃げて欲しいみたいに聞こえるんだけどなぁ……」

「まさか。そんなことをされたら殺さなくちゃいけないから僕はきみが逃げないでいてくれるならそれでいいんだ」

それでいい。そう言う癖に何処か不満げなのはどうしてなのか。
まあ、そんなこと分かりきっているんだけれどもね。

「あたしはアンタのこと好きだよ」

「それは嘘?それとも本当?」

「どっちでも良いよ。どっちでも好きな方に取ればいい」

「なら、嘘だ」

その答えにあたしは笑った。こんなにも信じられていないのかと、笑った。
この男は愛されるという行為に慣れていない。
それは生まれも育ちも関わっているのかも知れないけれども。
それでもあたしはこんな男でもいとおしいと思う。
それだけは真実。

まあ、信じてくれないのは悲しくないと言うのは嘘になるけれども。
それでもあたしはいい。
あたしにしか分からないこの感情を抱えて生きるのもまた、楽しいというものだろう。

「ねぇ、きみはどうしたら僕のものになるのかなぁ」

「さあ?神様にすらそいつは分からないんじゃないのかな?」

あたしの想いは、神様とやらにすら分かってたまるか。
あたしの想いはあたしだけのもの。あたし以外に分かってたまるか。

「もし、さぁ」

男が何かを思いついたように話かけてきた。
なんだい?と答える。

「もし、腹の子を下ろせって言ったら、きみはどう思う?」

「そうさねぇ……そうしてあげてもいいかもね」

「……冗談だよ」

「知ってるよ」

冗談でも言って欲しくない言葉というものはこの世界に存在するが。
この男は自分の気分で平気でそんな言葉を吐くから困ったものだ。

「僕は、きみだけの存在になりたいなぁ……」

「それはそれは。無理なお話で」

「無理ではないと思うけれども、難しいだけで」

「なら、あたしの為だけの存在になってみるかい?」

「なれるものならね」

そう言って男はあたしを抱き締める。
そのぬくもりはあたたかく、心地好く。
あたしの肌をあたためる。

薄い胎は未だ大きくなることはなく。
あたしは未だ、温度をもつことはなく。
それでもあたしがこの男の傍に未だ未練のように居るのは、あり続けるのは。

ひとえに、この男を愛してしまったからだろう。

「愛してるよ」

「そうかい」

今度はもう、あたしからの愛の言葉は吐かなかった。
ただ、この男の背中に回す腕が半透明でなければ良かったのになぁ、と。そう思うくらいで。
あたしは一度死んで、けれども未練として残ってしまった魂。
故に、この男を離してはやれないのだ。
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