ハイドランジア
ふ、と意識が浮上した。
どうやらボクは深く眠っていたようだ。
つまりアレは『夢』だ。だからこそ、其れは紛れもなく、事実なのだとも思った。
夢で見た『あの日』のことが脳裏を過る。
吐き気がする、と眉を顰めた。
本当に吐き気がする。あんな事実は在ってはならないことだ。
ボクはただ、愛されなくても良かった。御下がりの妻でも良かった。子供は望まなかったのは自分が愛されたことがなかったから。
愛されたことのないボクが、誰かを愛せるだなんて到底思えなかったのだ。
けれどもギルバートはボクとの間で『明確な行為』をした。
『こんなの、強姦だ……』
そう言って泣いたのを良く覚えている。
そんなボクを見ても、ギルバートはボクの薄い腹を撫でながらにこやかに笑うのみだった。
狂気染みたその笑みに、ボクは恐怖した。
壊れかけ、掛け違えた歯車のような心が反応するレベルには。
「ギルバート……」
己で呟いた筈の声は、何処か遠くで聞こえてきた気がした。
今は姉と最近生まれたばかりの幼い……とはいえ、人間で言うところの高校生の妹と三人で暮らしている。
子供を生んでどれほど経った頃か忘れてしまったけれども、姉であるアイリスが派手に人狼帝と喧嘩をした末に人間界まで逃亡するという事態に巻き込まれたからだ。
それに加えて、何番目か数えるのが面倒くさいほどの数居る妹が生まれた。
その妹――カンナの母親は所謂ネグレクトをしたらしく、見ていられなくなったらしいボクとアイリスちゃんの実の母親がボク達の元へと逃したのだ。
子供だけ作って終わりの父親……魔女王は本当に愚かしく見える。
あの男に怯えていたのが馬鹿みたいだとも思った。
まあ、そんなこんなで人間界で三人暮らしをしているのだが。
「ハイドランジア、ちょっと来てくれ~」
「なぁに、アイリスちゃん」
へろへろの声が聞こえてきて、どうしたのかな?と姉の名前を呼びながら、声のする方へと向かって歩いて行く。
「うわぁ、凄いね。コレ……」
「そうなんだよ……春斗のやつ、ニヤついた顔で渡して来やがってよォ……。持って帰ってくるのがどれだけ恥ずかしかったか」
「あはは、春斗くんはアイリスちゃん大好きだもんねぇ」
「あの人間は百年人間界に住んでて分かった。マジで食えねぇやつだわ」
「……アイリスちゃんは、魔界に戻るつもりはないの?」
「ない」
即答で返されたその言葉に相変わらず頑固だなぁ、と小さく笑った。
アイリスちゃんだって本当は帰りたいだろうに。何も嫌い合って逃げ出したわけではないのだから、素直になって帰れば良いのに。――ぶっちゃけ今のうちに。
春斗と言う男性が今、アイリスちゃんに猛アタックを仕掛けている。そのことがあの愛妻家というか何というか、な人狼帝にバレたら……。
(まあ、春斗くんの人生終了のお知らせだよね)
正直、他人事だし人間の寿命は短いからいつか別れてしまうのだろうし、今はもしかしたら運が良ければ大丈夫かも知れないけれども。
「しかし、凄いね。赤薔薇の花束なんて久し振りに見たよ」
「そうだよなァ……普通の人間はこんな大量の花束渡さねぇよなァ……」
「何本あるんだろ?いち、にい、さん……あー、めんどくさくなってきた」
「何本あろうとも関係ねぇよ。私はアイツの求愛には一応まだ堪応えられない身だしな」
「いや、……うん。ソウダネ」
絶対に人妻という地位から逃してくれないだろうけれども、アイリスちゃんのささやかな抵抗と思って聞き流しておこう。
「そーいや、ハイドランジア」
「なぁに?アイリスちゃん」
「お前、最近魘されてること多いけど大丈夫か?」
「……うん。大丈夫だよ」
「……そうか」
何か言いたそうなアイリスちゃんに、ボクはただ笑って答えるしか出来ない。
「それよりその大きな花束、どうするか考えよ」
「薔薇風呂にでもするか、久し振りに」
「いいねぇ、薔薇風呂」
アイリスちゃんは薔薇風呂が好きだ。
乙女チックな理由ではなく、薔薇風呂に浸かると魔女は自身の魔力が高まるのだ。
そういう理由で、アイリスちゃんは薔薇風呂を好むし、人狼帝は好きなだけ与えた。
というか、人狼帝が好きだからアイリスちゃんに与えた、の間違いかも知れないなとも思ったし、アイリスちゃんはそんな人狼帝に応えていたから、本当に二人は相思相愛なんだねぇ、と何度思ったことか。
今では懐かしい、百年前の記憶だ。
「さて。今日の晩飯、どーっすかなァ……」
「ボク、お魚が食べたいなぁ」
今はとてもじゃないけれども、肉の気分じゃなかった。
結婚してからずっと肉食だったことを思い出してしまったからかもしれない。
そんなことで動くほど、ボクの心はまだ稼働していたのかと、なんだか不思議な気持ちになって胸に手を宛てる。
そこには在る筈の心臓はない。いつか死のうとした時に、ギルバートに攫われてしまったから。
だからボクの心臓は今、ギルバートの元にある。
トクリとも動かない空の心臓は、いっそ寒々しささえ感じたけれど、涙すらもう出てはこない。
胸に手を宛がったまま動かないボクをアイリスちゃんがジッと見ていたけれども、ボクは何も返せなかった。
どうやらボクは深く眠っていたようだ。
つまりアレは『夢』だ。だからこそ、其れは紛れもなく、事実なのだとも思った。
夢で見た『あの日』のことが脳裏を過る。
吐き気がする、と眉を顰めた。
本当に吐き気がする。あんな事実は在ってはならないことだ。
ボクはただ、愛されなくても良かった。御下がりの妻でも良かった。子供は望まなかったのは自分が愛されたことがなかったから。
愛されたことのないボクが、誰かを愛せるだなんて到底思えなかったのだ。
けれどもギルバートはボクとの間で『明確な行為』をした。
『こんなの、強姦だ……』
そう言って泣いたのを良く覚えている。
そんなボクを見ても、ギルバートはボクの薄い腹を撫でながらにこやかに笑うのみだった。
狂気染みたその笑みに、ボクは恐怖した。
壊れかけ、掛け違えた歯車のような心が反応するレベルには。
「ギルバート……」
己で呟いた筈の声は、何処か遠くで聞こえてきた気がした。
今は姉と最近生まれたばかりの幼い……とはいえ、人間で言うところの高校生の妹と三人で暮らしている。
子供を生んでどれほど経った頃か忘れてしまったけれども、姉であるアイリスが派手に人狼帝と喧嘩をした末に人間界まで逃亡するという事態に巻き込まれたからだ。
それに加えて、何番目か数えるのが面倒くさいほどの数居る妹が生まれた。
その妹――カンナの母親は所謂ネグレクトをしたらしく、見ていられなくなったらしいボクとアイリスちゃんの実の母親がボク達の元へと逃したのだ。
子供だけ作って終わりの父親……魔女王は本当に愚かしく見える。
あの男に怯えていたのが馬鹿みたいだとも思った。
まあ、そんなこんなで人間界で三人暮らしをしているのだが。
「ハイドランジア、ちょっと来てくれ~」
「なぁに、アイリスちゃん」
へろへろの声が聞こえてきて、どうしたのかな?と姉の名前を呼びながら、声のする方へと向かって歩いて行く。
「うわぁ、凄いね。コレ……」
「そうなんだよ……春斗のやつ、ニヤついた顔で渡して来やがってよォ……。持って帰ってくるのがどれだけ恥ずかしかったか」
「あはは、春斗くんはアイリスちゃん大好きだもんねぇ」
「あの人間は百年人間界に住んでて分かった。マジで食えねぇやつだわ」
「……アイリスちゃんは、魔界に戻るつもりはないの?」
「ない」
即答で返されたその言葉に相変わらず頑固だなぁ、と小さく笑った。
アイリスちゃんだって本当は帰りたいだろうに。何も嫌い合って逃げ出したわけではないのだから、素直になって帰れば良いのに。――ぶっちゃけ今のうちに。
春斗と言う男性が今、アイリスちゃんに猛アタックを仕掛けている。そのことがあの愛妻家というか何というか、な人狼帝にバレたら……。
(まあ、春斗くんの人生終了のお知らせだよね)
正直、他人事だし人間の寿命は短いからいつか別れてしまうのだろうし、今はもしかしたら運が良ければ大丈夫かも知れないけれども。
「しかし、凄いね。赤薔薇の花束なんて久し振りに見たよ」
「そうだよなァ……普通の人間はこんな大量の花束渡さねぇよなァ……」
「何本あるんだろ?いち、にい、さん……あー、めんどくさくなってきた」
「何本あろうとも関係ねぇよ。私はアイツの求愛には一応まだ堪応えられない身だしな」
「いや、……うん。ソウダネ」
絶対に人妻という地位から逃してくれないだろうけれども、アイリスちゃんのささやかな抵抗と思って聞き流しておこう。
「そーいや、ハイドランジア」
「なぁに?アイリスちゃん」
「お前、最近魘されてること多いけど大丈夫か?」
「……うん。大丈夫だよ」
「……そうか」
何か言いたそうなアイリスちゃんに、ボクはただ笑って答えるしか出来ない。
「それよりその大きな花束、どうするか考えよ」
「薔薇風呂にでもするか、久し振りに」
「いいねぇ、薔薇風呂」
アイリスちゃんは薔薇風呂が好きだ。
乙女チックな理由ではなく、薔薇風呂に浸かると魔女は自身の魔力が高まるのだ。
そういう理由で、アイリスちゃんは薔薇風呂を好むし、人狼帝は好きなだけ与えた。
というか、人狼帝が好きだからアイリスちゃんに与えた、の間違いかも知れないなとも思ったし、アイリスちゃんはそんな人狼帝に応えていたから、本当に二人は相思相愛なんだねぇ、と何度思ったことか。
今では懐かしい、百年前の記憶だ。
「さて。今日の晩飯、どーっすかなァ……」
「ボク、お魚が食べたいなぁ」
今はとてもじゃないけれども、肉の気分じゃなかった。
結婚してからずっと肉食だったことを思い出してしまったからかもしれない。
そんなことで動くほど、ボクの心はまだ稼働していたのかと、なんだか不思議な気持ちになって胸に手を宛てる。
そこには在る筈の心臓はない。いつか死のうとした時に、ギルバートに攫われてしまったから。
だからボクの心臓は今、ギルバートの元にある。
トクリとも動かない空の心臓は、いっそ寒々しささえ感じたけれど、涙すらもう出てはこない。
胸に手を宛がったまま動かないボクをアイリスちゃんがジッと見ていたけれども、ボクは何も返せなかった。