ハイドランジア

「こんなの、強姦だ……」

ぽつりと零された言葉はなんだか遠くて、俺はとても悲しくなったのを覚えている。
それでもハイドランジアの胎に確かに種を植え付けたことの方が嬉しくて。
いつからだろうか。
いつから、俺達は狂ってしまったんだろうね?

「ハイドランジア……」

呼んでも、呼んでも、その声が俺に応えてくれることはない。
ハイドランジアは人狼帝、兄上の嫁でありハイドランジア自身の姉でもある女、アイリスによって人間界に連れ去られている。
本当に騒ぎしか起こさない女だな、と思うと同時に、あの何も映していない瞳で見つめられることもないのかと思うと、俺は何処かで安心するんだ。
ハイドランジアのことは心から愛しているし、なんなら今すぐにでも迎えに行きたい。
それでも行けない理由は、ひとえに兄上が御許しくださらないから。

「兄上、そろそろその怒りを収めたら如何ですか?」

「私は怒ってなどいないが?」

サラサラと書類にサインをする兄上の姿は百年前よりもやつれたような気がする。

「だからあれほど言ったでしょう。アイリス以外の嫁を取ろうとするからこうなるのですよ」

「結果的に取らなかった」

「まるで自分は何も悪くないとばかりに言いますね」

「アレが妬かないから悪いんだ」

むぅ、と唇を尖らせる兄上は先程とは打って変わって子供のようだ。
まったく。兄上もアイリスも素直になってくれれば俺だって大手を振ってハイドランジアを迎えに行けるのに。

(儘ならないなぁ)

人狼帝の側近として長らく仕事をしているが、こんなにも人生が儘ならないことはハイドランジアを迎えてからずっとだ。
それが楽しくて、けれどもすべてが手に入らないことがどうしたって苦しいから。

(兄上に内緒で、少しだけ様子を見に行って来ようかなぁ)

そうだ、そうしよう。
決まりだとばかりに俺は未だ唇を尖らせている兄上が居る執務室から可及的速やかに退室した。
あのまま居たらナニを言われるか分かったものじゃないからね。

「ハイドランジアに会える……」

言葉にしたらこんなにも甘美なことはなかった。
そこに例えば絶望が待ち受けていたとしても。
今の俺はただ浮かれていた。
ハイドランジアが俺を裏切っているだなんて、微塵も思わなかったんだから。

心のどこかで俺は、ハイドランジアの一番で在るという自負があったのかも知れないね?
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