ハイドランジア
いつかこんな日が来るような、そんな気はしていた。
「ギル、バート……」
「久し振りだね、俺のハイドランジア」
目の前に居たのは、灰色の艶々した髪に金色の縦に割れた捕食者の瞳を持った、ボクの――夫。
『あの日』ボクを犯し、望まぬ子どもを作る原因になった男。
魔物は力の強いモノが望めば、簡単に子供ができる。逆を言えば望まなければ永遠に出来ないということだけれども。
それは魔女と人狼であっても変わらない。
人狼であるギルバートが望まなかったから、ボクには子供が出来なかった。
でもあの日。確実で明確な行為が行われた。
「どうして、此処が……」
「俺が、大事な大事なハイドランジアの居場所を把握していないわけないでしょう?」
「……っ!」
つまるところボク達は踊らされていたということか。
この百年間、ずっと。
はぁ、と溜め息を吐いた。
ああ、どうしたってボクはこの男から離れられないのか。それが運命のように決まっているのか。ギュッと唇を噛み締める。
「ダメだよ、ハイドランジア。そんな風に唇を傷付けたら」
それに、
「俺の許可なく、俺のモノを傷付けたらいけないって言っただろう?」
「ボクは!もう、ギルバートのモノじゃ……っ!」
「そんなこと、言ってもいいの?」
スッとギルバートの瞳から温かみが消えた。
ボクには常に向けられるその温かな色は、今は断罪者に向けるが如く冷たく冷え切っている。
胸にはない筈の心臓がドクドクと鳴っている気分になった。
ないモノはないのだから、そんなことはあり得ない筈なのに。
「俺の妻でありながら、不貞を働いたね?」
「……彼は関係ない」
極めて冷静な声を出したつもりだった。ここで動揺したらギルバートの思う壺だ。
「ふぅん。ハイドランジアはどうやって其れを証明するの?」
「そ、れは……。ボクは、」
ボクは誰も愛せないのだから、証明も何もないじゃないか。
知っている筈の其れを今更どうして言うのだろうか。
「俺はね、ハイドランジア。きみの願いならなんだって叶えてあげたいし、なんだって応えてあげたい。何故ならハイドランジア。きみを愛しているから」
愛して、しまったから。
掠れた声で切なそうにそう言うギルバートは、何処か悔いているようにも見えた。
そうだよね。本当に想い合って結婚した奥君を、あなたは自分から手放したのだから。
そんなことを考えていたら、ギルバートが胸の前で拳を作る。そうしてボクに差し出した。
「返してあげる」
「……え、」
ギルバートの手のひらの中。そこには蒼い炎。――ボクの心臓があった。
『ラン!ハイドランジア!頼む、頼むから!俺を嫌いでもいい!どうか、俺の前から居なくならないで!』
自分の命を断とうとしたその場に偶然居合わせてしまったギルバートが、ボクの心臓を無理矢理奪って死ねないようにした。
ギルバートがあまりに必死だったから、動かない心が、掛け違えられて壊れた感情が、ほんの少しだけ動いたような気がした。
気がしただけかも知れない。ギルバートに感情の核である心臓を奪われてしまったので、その時はもう何も感じなかったけれども。
感じない筈の感情。ない筈の心臓。
それがどうしてあの人間の前では動いたのだろうか?
「要らないの?ハイドランジア」
「ボク、は……」
これは罠だろうか?それとも本当?
分からない。でも、ボクは縋るようにギルバートの手のひらに手を伸ばす。
もう少しで心臓に届く時だった。
「……やっぱり、動いているんだね」
「え、」
ギルバートは空いていたもう片方の手でボクの腕を掴むと、ボクの身体を抱き寄せた。
何が起きているのかまったく理解が出来ないままに、ボクは久しぶりのギルバートの匂いに包まれる。
嫌な匂いはしない、品の良い香水をつけているのは変わらず。
あんなことがあったのに、どうしたってこの匂いは嫌いにはなれないんだと、少しだけ絶望した。
「どうして、」
「どうして?どうしてだと思う?」
「ギルバート……?」
「……俺は、きみに呼ばれるその名前にすら嫉妬する……!」
「いたッ」
ギュッと手首を強く握られ吠えるように叫ぶギルバートのその瞳は、先程までの冷たさはなかった。
今度はギルバートが縋るようにボクの身体に擦り寄る。
親が子供に無償の愛を与えるように、彼はボクに愛を求めた。
ボクは、そんなもの与えてなんてあげられないのに……。
「ハイドランジア……、お願いだから、俺の手を取って」
「……ギルバート。ボクは」
「きみが居ないのは、寂しいよ……」
可哀想なギルバート。ボクなんかを愛したせいで。ボクなんかに魅了されたせいで。
魅了の眼は人狼にさえ効くのだ。人間である彼にも余裕で効くだろう。
人狼帝とアイリスちゃんの二人と違って、ボクとギルバートは本当に愛し合っているわけではないのだ。
この目がギルバートを魅了し、本来あるべき形を壊してしまった。
此処にギルバートが現れたのも何かの縁なのかも知れない。
――罪人は、贖罪をしなくてはいけないね?
「ギルバート」
「なぁに?ハイドランジア」
「心臓は、要らない」
「え、」
「ギルバート。……きみの幸せを壊して、ごめんなさい」
そう言ってボクはそっと目を閉じると、ギルバートの心に触れた。
「ハイ……ド、ランジア?何、する気?」
「さよなら。ギルバート」
ボクなんかを仮初でも愛してくれて、ありがとう。
「ギル、バート……」
「久し振りだね、俺のハイドランジア」
目の前に居たのは、灰色の艶々した髪に金色の縦に割れた捕食者の瞳を持った、ボクの――夫。
『あの日』ボクを犯し、望まぬ子どもを作る原因になった男。
魔物は力の強いモノが望めば、簡単に子供ができる。逆を言えば望まなければ永遠に出来ないということだけれども。
それは魔女と人狼であっても変わらない。
人狼であるギルバートが望まなかったから、ボクには子供が出来なかった。
でもあの日。確実で明確な行為が行われた。
「どうして、此処が……」
「俺が、大事な大事なハイドランジアの居場所を把握していないわけないでしょう?」
「……っ!」
つまるところボク達は踊らされていたということか。
この百年間、ずっと。
はぁ、と溜め息を吐いた。
ああ、どうしたってボクはこの男から離れられないのか。それが運命のように決まっているのか。ギュッと唇を噛み締める。
「ダメだよ、ハイドランジア。そんな風に唇を傷付けたら」
それに、
「俺の許可なく、俺のモノを傷付けたらいけないって言っただろう?」
「ボクは!もう、ギルバートのモノじゃ……っ!」
「そんなこと、言ってもいいの?」
スッとギルバートの瞳から温かみが消えた。
ボクには常に向けられるその温かな色は、今は断罪者に向けるが如く冷たく冷え切っている。
胸にはない筈の心臓がドクドクと鳴っている気分になった。
ないモノはないのだから、そんなことはあり得ない筈なのに。
「俺の妻でありながら、不貞を働いたね?」
「……彼は関係ない」
極めて冷静な声を出したつもりだった。ここで動揺したらギルバートの思う壺だ。
「ふぅん。ハイドランジアはどうやって其れを証明するの?」
「そ、れは……。ボクは、」
ボクは誰も愛せないのだから、証明も何もないじゃないか。
知っている筈の其れを今更どうして言うのだろうか。
「俺はね、ハイドランジア。きみの願いならなんだって叶えてあげたいし、なんだって応えてあげたい。何故ならハイドランジア。きみを愛しているから」
愛して、しまったから。
掠れた声で切なそうにそう言うギルバートは、何処か悔いているようにも見えた。
そうだよね。本当に想い合って結婚した奥君を、あなたは自分から手放したのだから。
そんなことを考えていたら、ギルバートが胸の前で拳を作る。そうしてボクに差し出した。
「返してあげる」
「……え、」
ギルバートの手のひらの中。そこには蒼い炎。――ボクの心臓があった。
『ラン!ハイドランジア!頼む、頼むから!俺を嫌いでもいい!どうか、俺の前から居なくならないで!』
自分の命を断とうとしたその場に偶然居合わせてしまったギルバートが、ボクの心臓を無理矢理奪って死ねないようにした。
ギルバートがあまりに必死だったから、動かない心が、掛け違えられて壊れた感情が、ほんの少しだけ動いたような気がした。
気がしただけかも知れない。ギルバートに感情の核である心臓を奪われてしまったので、その時はもう何も感じなかったけれども。
感じない筈の感情。ない筈の心臓。
それがどうしてあの人間の前では動いたのだろうか?
「要らないの?ハイドランジア」
「ボク、は……」
これは罠だろうか?それとも本当?
分からない。でも、ボクは縋るようにギルバートの手のひらに手を伸ばす。
もう少しで心臓に届く時だった。
「……やっぱり、動いているんだね」
「え、」
ギルバートは空いていたもう片方の手でボクの腕を掴むと、ボクの身体を抱き寄せた。
何が起きているのかまったく理解が出来ないままに、ボクは久しぶりのギルバートの匂いに包まれる。
嫌な匂いはしない、品の良い香水をつけているのは変わらず。
あんなことがあったのに、どうしたってこの匂いは嫌いにはなれないんだと、少しだけ絶望した。
「どうして、」
「どうして?どうしてだと思う?」
「ギルバート……?」
「……俺は、きみに呼ばれるその名前にすら嫉妬する……!」
「いたッ」
ギュッと手首を強く握られ吠えるように叫ぶギルバートのその瞳は、先程までの冷たさはなかった。
今度はギルバートが縋るようにボクの身体に擦り寄る。
親が子供に無償の愛を与えるように、彼はボクに愛を求めた。
ボクは、そんなもの与えてなんてあげられないのに……。
「ハイドランジア……、お願いだから、俺の手を取って」
「……ギルバート。ボクは」
「きみが居ないのは、寂しいよ……」
可哀想なギルバート。ボクなんかを愛したせいで。ボクなんかに魅了されたせいで。
魅了の眼は人狼にさえ効くのだ。人間である彼にも余裕で効くだろう。
人狼帝とアイリスちゃんの二人と違って、ボクとギルバートは本当に愛し合っているわけではないのだ。
この目がギルバートを魅了し、本来あるべき形を壊してしまった。
此処にギルバートが現れたのも何かの縁なのかも知れない。
――罪人は、贖罪をしなくてはいけないね?
「ギルバート」
「なぁに?ハイドランジア」
「心臓は、要らない」
「え、」
「ギルバート。……きみの幸せを壊して、ごめんなさい」
そう言ってボクはそっと目を閉じると、ギルバートの心に触れた。
「ハイ……ド、ランジア?何、する気?」
「さよなら。ギルバート」
ボクなんかを仮初でも愛してくれて、ありがとう。