鬼の手短編
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お月見とハロウィン
秋になればマロン味やさつまいも味のお菓子がスーパーやコンビニで期間限定と銘打っては棚に並び始める。
そして10月にもなれば、コウモリやジャック・オー・ランタンや白いオバケのモニュメントがあちこちに並び始める。
ハロウィンに向けて、童守町商店街も紫と黒色のデコレーションがあちこちに施されていた。
お祭り騒ぎが好きそうな鵺野先生は、さぞはしゃいでいるのではないかと思ったが、意外にもそうでは無かった。
放課後の廊下で偶然お会いした時に、ハロウィンの話を振れば、彼は顔を顰めていた。
「全く、何がハロウィンだ!ここは日本だぞ!秋といえば十五夜だろう!」
9月に十五夜もやれば10月のハロウィンもやる。そしてクリスマスをケーキで祝い、年越しそばを啜る。
それが日本だ。
「私に言われましても」
「あ、ああ。すみません。つい興奮してしまいまして」
意外な面を見た。
たははと笑いながら頭を搔く鵺野先生に、私も笑う。
「あ!いたいた、ぬ~べ~!」
「ぬ~べ~!早く早く!」
5年3組の教室から飛び出してきた美樹ちゃんと広くんは、鵺野先生を見つけるなり、得意気な笑みを浮かべ手招きしている。
「何だお前ら。まだいたのか」
下校時刻まであと少しなのに、5年3組の教室は賑やかだった。
「もうすぐハロウィンだろ?だから皆でどんな仮装をするか話し合っていたんだ」
「ぬ~べ~も強制参加だから」
「はぁ?!全くお前ら、…は………!!?」
鵺野先生の腕を引いて教室の中へ招き入れようとする生徒達を微笑ましく見ていたが、教室の中の光景を見て、私も鵺野先生も目が点になった。
「あら、鵺野先生に道明先生」
教室には、黒の光沢質なボンテージに黒のマントとつば広の帽子を被らされたリツコ先生が赤面しながらも、満更でも無さそうな様子で立っていた。
「どう、かしら?………似合ってる?」
魔女の仮装のつもりだろうか。
その魅惑的な太股を惜しみなくさらけ出している何とも大胆な魔女だこと。
術や薬を使わずとも己の魅力で人を魔法にかけられそうだ。
鵺野先生は絶句している。
「リツコ先生超似合ってる!」
口笛を吹きながら賛辞する克也くんを始めとする男子生徒に、教室の端で少し呆れ気味で額に手を当てている郷子ちゃんが見えた。
少しませている克也くんはともかく、子ども達には刺激が強すぎるのではないだろうか。マコトくんや、明くんは真っ赤になって俯いている。
学業に関係の無いものを持ち込んでいるし、風紀上大変よろしくない。
盛り上がりきった空気を壊すのは躊躇うけれど、リツコ先生も含め、ここは強めに注意すべきだろう。
だが、注意するのは担任の鵺野先生であるべきだ。
横目で彼を見れば、再び私は目を点にしてしまった。
「ハロウィン……なんて魅惑的なイベントなんだ!」
鼻血を流しながら真顔で拳を握る鵺野先生がいた。
そして鼻の下を伸ばし、教室の中にダイブしてリツコ先生の足元に滑り寄った。
「素晴らしいです!ベリーナイスです!リツコ先生!似合っています!」
どこから取り出してきたのか、インスタントカメラ片手に、あらゆる角度からリツコ先生を撮り始める鵺野先生に、私は盛大な溜息をついた。
リツコ先生はリツコ先生で、鵺野先生から褒めちぎられてご機嫌だし。
……彼氏さんにチクっちゃうからね?と、つい意地悪なことを思ってしまう。
これでは収集がつかない。私が注意するしかないじゃないか。
覚悟を決め、息を大きく吸った。
「ここは学校です!勉強に関係ないものを持って来ちゃダメ!それに、早く帰りなさい!」
突然の大音声に、皆は10センチは飛び上がったと思う。
「リツコ先生も鵺野先生も!何やってるんですか!!」
この二人は乗せられやすい。
美樹ちゃんを始めとする口が達者な生徒にすぐ乗せられてしまう。
私の注意に二人とも直立不動で聞いていた。
先程までの賑やかさが嘘のように静まり返った教室。みんなは呆然と私を見ている。
いたたまれなくなって私は職員室へ向かった。
鵺野君は変わってしまった。
勝手なイメージを押しつけているのは分かってはいるけれど、割り切れない自分もいた。
あの鵺野君がどうしてあんなにもスケベになってしまったのだろう。
ついた溜息は間違いなく濁った色をしていたと思う。
ーーー
中秋の名月を過ぎても、月は尚も美しい。
夜空から浮かび上がって見えるほど光り輝いている。
今日は比較的早く帰れたけれど、このまま家に向かうのは勿体なくて。
学校を出たはいいけれど、私はこの月をよく見ていたくて、童守公園のベンチに腰を下ろす。
過ごしやすい気候なのに、夜の公園にはカップルもいない。
遊具がしんと眠っていた。
「道明先生」
声と共に肩を叩かれた。
首だけ振り返れば鵺野先生がいた。
「お疲れ様。どうしたんです?こんなところで」
公園内は街灯が少なく、薄暗いというのに私の姿をよく見つけたものだ。
にっこりと笑いかける鵺野先生に、私も微笑み返した。
「月が綺麗だったから」
最後まで言わなくても伝わったのだろうか、鵺野先生は頷きながら私の隣にどっかりと座り、空を見上げた。
「確かに。綺麗ですね」
「ボンテージ姿のリツコ先生とどちらが?」
数時間前の鼻下を伸ばした鵺野先生を思い出し、私はニヤニヤと彼を覗き見た。
「そりゃあリツコ先生ですよ……って何言わせるんですか?!」
「見事なノリツッコミですね」
鵺野先生の素直な意見に私は吹き出してしまった。
「それで?鵺野先生は何に変装することになったんですか?」
「………狼男」
「襲う相手もいないのに」
「余計なお世話だ!」
美樹ちゃんにも同じ事を言われたようで、私はゲラゲラ笑う。
そこに鵺野先生のお腹の虫が鳴ったから、更に私が笑うから鵺野先生はとうとう落ち込みだした。
「………いいんだ俺なんて……どうせ、どうせ」
ベンチの上で体育座りをして人差し指同士をつんつんさせる彼の姿は何とも哀愁を誘う。
そうしている間も彼の腹の虫は鳴くのを止めなかった。
「ごめんなさい鵺野先生、お詫びにこれを差し上げますから」
バッグから取り出したのは、ハロウィン仕様のチョコレート菓子だ。
鵺野先生は目と涎を輝かせて受け取ったが、彼は苦笑する。
「これじゃ狼というよりただの犬だな」
「お手」
「わん!……って何させるんですか!」
ノリの良い鵺野先生に、私はついつい悪ノリをしてしまう。
「あまり悪ノリが過ぎると」
そういう鵺野先生もニヤリと笑い、お手をしたままの彼の手は、私の手首を掴む。
ぐい、と引っ張られ、鵺野先生の顔がすぐ近くにきた。
「噛みつきますよ?」
普段はお調子者でだらしなくて、へらへらと笑っている彼だけれど、真顔になれば目鼻立ちがはっきりしているのが分かって、私の胸の中がざわつくのだ。
声だって、よく通る艶っぽい声だ。
いつもより低い声で囁かれ、頬が熱くなった私は何も言えなかった。
そんな私に満足した様子で手を離し、「どうだ」と胸を張る鵺野先生。
そんなお調子者だから、胸のざわめきは何とか整うのだ。
「ちょっと遅いけど、月見団子ならぬ、月見チョコでもしますか」
鵺野先生はチョコの箱を開けて、さっそく一粒摘まんだ。
「道明先生も、どうぞ。と言っても、元々道明先生のなんですよね」
「そう。じゃあ遠慮なく」
口の中に広がる甘味が疲れた体を癒してくれる。
甘みを堪能しながらしばし月を見る。
虫の声と、鵺野先生が箱からチョコを取り出すガサガサとした音と、少し離れた市街地の喧騒。
電気が無くて、夜は真闇が支配する時代にも、この月は変わらない光を放っていたのだろう。灯り一つない中で見る星と月の美しさは如何ほどだろうか。
妖怪や幽霊達はそんな夜を楽しく徘徊していたのだろうか。
「ねえ、鵺野先生」
チラリと隣を見れば、リスのように両頬にチョコを詰め込んだ彼と目が合う。
見ないことにして私が再び空を仰げば、視界に入ってくる。
右を見れば、一拍置いてゲジ眉のリスが私の視界をジャックする。左を見ても下を見ても、頬袋にチョコを詰めた鵺野先生が映り込む。
「や、やめて………お腹、いたい……」
「ふはは!地獄先生ぬ~べ~の勝ち!」
何も勝負していないのに、何が勝ちか。
鵺野先生は結構ひょうきんなところがある。
「で。どうしたんです?」
背中を曲げて膝に肘をついて頬杖をついた鵺野先生は私を見上げる。
人懐こい笑みが、私の心を擽る。
「うん。昔のオバケはこんな夜にどう過ごしていたのかなって」
忍者と疾走したり、酔っ払いの前にのっぺらぼうとして現れたりしていたのだろうか。
「聞いてみます?」
想像で返すのでなく取材しようとするあたり、さすが左手に鬼の手を持つ男である。
「えっと」
どんな物の怪を連れてくる気か……そう身構えていれば、膝を突つかれる感覚。
見下ろせば、おかっぱの着物姿の小さな女の子。
突然の気配に私は背筋がぞわりとする。
ちょこんとしていて可愛らしい女の子だけれど、明らかにする人間ではないこの世のものではない気配を纏っている。
うまく言葉にはできないけれど、明らかに異質なのだ。
怖くはないが、突然の怪異に固まってしまう。
「この子………」
「座敷わらしだ」
聞いたことがある。
この子が憑いた家は繁栄するとか、いなくなれば落ちぶれてしまうとか。
まじまじと座敷わらしを見る。
ざっくりと切り揃えられた黒髪を揺らしながら、にこにこと微笑んでいる。
その笑顔を見ると、何かあげたくなってしまう。
バッグの中にある一口サイズのチョコレートを渡せば、糸目の彼女は口をOの字にしてそれを見る。
「美味しいよ」
私の一言に、座敷わらしはチョコを風のように奪い攫い、トトトトと夜闇に溶けるように去って行った。
「お口に合うといいんだけど」
「きっと気に入りますよ。何か良いことが起こるかもしれないですよ」
家に居憑かれなくても座敷わらしに気に入られれば良いことが起きるらしい。鵺野先生は教えてくれた。
「良いことですか。特別手当、宝くじの一等を拾う、10万円分のお食事券が貰える……」
「お金関係ばっかりじゃないですか」
思い付く良いことといえばそんなところだった。呆れたように笑う鵺野先生だが、彼だってそう願うはずだ。
「じゃあ、楽しみにしながら帰るとしますか」
「そうですね」
ベンチから立ち上がろうとしたとき、何かを踏んでバランスを崩してしまう。
体育教師として転びはすまいと、バランスを保とうとしたところ、ぐいと腕を引かれた。
「っと」
まるでスローモーションにかかったようだった。
温もりに包まれる。
掌に伝わる彼の逞しい胸板。
両肩から伝わる彼の大きくて温かい掌。
真っ直ぐな瞳がすぐ近く。
そして、
柔らかい感触が唇に一瞬だけ。
「ん……!」
どちらともなく離れたのだと思う。
私達はそれぞれ後ろを向く。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ!」
鵺野先生も私も、あははと意味の無い愛想笑いをする。
十月の半ばだというのに暑くて仕方がない。
木の葉が擦れるような、小さなクスクスとした笑い声が聞こえた気がした。
このハプニングはあの子の仕業か。
違う、こういうのは望んでない。と、あの子に言いたい。
宝くじの一等とは言わない。
商店街の福引きで一等を当てたり、もっとささやかな願いを言えば、コンビニのクジや自販機で当たりを引くとかだ。
こういうのは、別にいいんだってば。
ちらりと鵺野先生の方を振り向けば、鵺野先生も同じように私の様子を同じように覗っていた。
視線が合えば、鵺野先生は頭を乱暴に搔きながら、尚も笑い続けていた。
「いやぁ、珍しいですね!道明先生が躓くなんて?!」
「え、ええ。本当に!」
「じゃあ帰りましょう!途中まで一緒ですよね?!」
私達は何故か声を張り上げていた。
月が綺麗とか、今日は少し寒いとか、上辺だけの会話を続けながら、私達は公園を出た。
「すみません本当に。…嫌だったでしょう?」
どうせならそんなハプニングは、リツコ先生となら良かったと彼は思っているだろう。
言葉にすれば不思議と気持ちが沈んでくる。
隣を歩く鵺野先生を見れば、彼は私の言った意味が分からないようで、数秒の間、ポカンとしていた。
「え?!…いやいやいやいや」
分かったようで、彼は手と首を激しく振る。
「嫌だなんて、むしろラッキーというか……あ!別にやましい気持ちはなく!!しかし、それは道明先生に魅力が無いということでは決してなく!むしろかなり有るというか!」
必死に言葉を紡ぐ鵺野先生だけど、話せば話すほど、顔が真っ赤になっている。
私もそこで笑って受け流せばいいのに、頬が熱くなってしまった。
妙な沈黙が漂い始めてしまった。
その沈黙を破るための話題を探すも、焦りで浮かんでこない。
「そうだ、ハロウィン!」
鵺野先生がポンと手を打った。
「美樹達が猫娘の衣装はどうかと言ってました」
「私に……?」
「ええ」
「遠慮します」
「えぇ?!」
早足で帰路につく。
鵺野先生は私の歩調を合わせ、食い下がる。
「お願いしますよ。絶対似合いますって」
「嫌です。ていうか学校でやるんですか?だめでしょ、そんなの」
「かわいい生徒達の頼みですよ?」
「とかなんとか言って。食べ物に釣られたんでしょう?」
何も返ってこないのをみると図星らしい。
彼は生徒にまで餌付けされているのか。
月に照らされたアスファルトの道で、押し問答をしながら帰宅する。
結果的に私が折れて、ハロウィン当日に猫耳と尻尾を付けたのだけれど、思い出したくもない。
あれだけ食い下がった鵺野先生といえば、私を見て、ひたすら黙っていたのだから酷い。
郷子ちゃんは「ぬ~べ~ったら本気で照れてる」と揶揄っていたけれど、そんなことは無いと思う。いい歳した大人が猫耳付けてる姿を見て、気まずくなったのだろう。
リツコ先生の時とは大違いだ。
彼の耳まで真っ赤だったのは、狼の手足を付けて暑かったからに違いない。
きっとそうだ。
秋になればマロン味やさつまいも味のお菓子がスーパーやコンビニで期間限定と銘打っては棚に並び始める。
そして10月にもなれば、コウモリやジャック・オー・ランタンや白いオバケのモニュメントがあちこちに並び始める。
ハロウィンに向けて、童守町商店街も紫と黒色のデコレーションがあちこちに施されていた。
お祭り騒ぎが好きそうな鵺野先生は、さぞはしゃいでいるのではないかと思ったが、意外にもそうでは無かった。
放課後の廊下で偶然お会いした時に、ハロウィンの話を振れば、彼は顔を顰めていた。
「全く、何がハロウィンだ!ここは日本だぞ!秋といえば十五夜だろう!」
9月に十五夜もやれば10月のハロウィンもやる。そしてクリスマスをケーキで祝い、年越しそばを啜る。
それが日本だ。
「私に言われましても」
「あ、ああ。すみません。つい興奮してしまいまして」
意外な面を見た。
たははと笑いながら頭を搔く鵺野先生に、私も笑う。
「あ!いたいた、ぬ~べ~!」
「ぬ~べ~!早く早く!」
5年3組の教室から飛び出してきた美樹ちゃんと広くんは、鵺野先生を見つけるなり、得意気な笑みを浮かべ手招きしている。
「何だお前ら。まだいたのか」
下校時刻まであと少しなのに、5年3組の教室は賑やかだった。
「もうすぐハロウィンだろ?だから皆でどんな仮装をするか話し合っていたんだ」
「ぬ~べ~も強制参加だから」
「はぁ?!全くお前ら、…は………!!?」
鵺野先生の腕を引いて教室の中へ招き入れようとする生徒達を微笑ましく見ていたが、教室の中の光景を見て、私も鵺野先生も目が点になった。
「あら、鵺野先生に道明先生」
教室には、黒の光沢質なボンテージに黒のマントとつば広の帽子を被らされたリツコ先生が赤面しながらも、満更でも無さそうな様子で立っていた。
「どう、かしら?………似合ってる?」
魔女の仮装のつもりだろうか。
その魅惑的な太股を惜しみなくさらけ出している何とも大胆な魔女だこと。
術や薬を使わずとも己の魅力で人を魔法にかけられそうだ。
鵺野先生は絶句している。
「リツコ先生超似合ってる!」
口笛を吹きながら賛辞する克也くんを始めとする男子生徒に、教室の端で少し呆れ気味で額に手を当てている郷子ちゃんが見えた。
少しませている克也くんはともかく、子ども達には刺激が強すぎるのではないだろうか。マコトくんや、明くんは真っ赤になって俯いている。
学業に関係の無いものを持ち込んでいるし、風紀上大変よろしくない。
盛り上がりきった空気を壊すのは躊躇うけれど、リツコ先生も含め、ここは強めに注意すべきだろう。
だが、注意するのは担任の鵺野先生であるべきだ。
横目で彼を見れば、再び私は目を点にしてしまった。
「ハロウィン……なんて魅惑的なイベントなんだ!」
鼻血を流しながら真顔で拳を握る鵺野先生がいた。
そして鼻の下を伸ばし、教室の中にダイブしてリツコ先生の足元に滑り寄った。
「素晴らしいです!ベリーナイスです!リツコ先生!似合っています!」
どこから取り出してきたのか、インスタントカメラ片手に、あらゆる角度からリツコ先生を撮り始める鵺野先生に、私は盛大な溜息をついた。
リツコ先生はリツコ先生で、鵺野先生から褒めちぎられてご機嫌だし。
……彼氏さんにチクっちゃうからね?と、つい意地悪なことを思ってしまう。
これでは収集がつかない。私が注意するしかないじゃないか。
覚悟を決め、息を大きく吸った。
「ここは学校です!勉強に関係ないものを持って来ちゃダメ!それに、早く帰りなさい!」
突然の大音声に、皆は10センチは飛び上がったと思う。
「リツコ先生も鵺野先生も!何やってるんですか!!」
この二人は乗せられやすい。
美樹ちゃんを始めとする口が達者な生徒にすぐ乗せられてしまう。
私の注意に二人とも直立不動で聞いていた。
先程までの賑やかさが嘘のように静まり返った教室。みんなは呆然と私を見ている。
いたたまれなくなって私は職員室へ向かった。
鵺野君は変わってしまった。
勝手なイメージを押しつけているのは分かってはいるけれど、割り切れない自分もいた。
あの鵺野君がどうしてあんなにもスケベになってしまったのだろう。
ついた溜息は間違いなく濁った色をしていたと思う。
ーーー
中秋の名月を過ぎても、月は尚も美しい。
夜空から浮かび上がって見えるほど光り輝いている。
今日は比較的早く帰れたけれど、このまま家に向かうのは勿体なくて。
学校を出たはいいけれど、私はこの月をよく見ていたくて、童守公園のベンチに腰を下ろす。
過ごしやすい気候なのに、夜の公園にはカップルもいない。
遊具がしんと眠っていた。
「道明先生」
声と共に肩を叩かれた。
首だけ振り返れば鵺野先生がいた。
「お疲れ様。どうしたんです?こんなところで」
公園内は街灯が少なく、薄暗いというのに私の姿をよく見つけたものだ。
にっこりと笑いかける鵺野先生に、私も微笑み返した。
「月が綺麗だったから」
最後まで言わなくても伝わったのだろうか、鵺野先生は頷きながら私の隣にどっかりと座り、空を見上げた。
「確かに。綺麗ですね」
「ボンテージ姿のリツコ先生とどちらが?」
数時間前の鼻下を伸ばした鵺野先生を思い出し、私はニヤニヤと彼を覗き見た。
「そりゃあリツコ先生ですよ……って何言わせるんですか?!」
「見事なノリツッコミですね」
鵺野先生の素直な意見に私は吹き出してしまった。
「それで?鵺野先生は何に変装することになったんですか?」
「………狼男」
「襲う相手もいないのに」
「余計なお世話だ!」
美樹ちゃんにも同じ事を言われたようで、私はゲラゲラ笑う。
そこに鵺野先生のお腹の虫が鳴ったから、更に私が笑うから鵺野先生はとうとう落ち込みだした。
「………いいんだ俺なんて……どうせ、どうせ」
ベンチの上で体育座りをして人差し指同士をつんつんさせる彼の姿は何とも哀愁を誘う。
そうしている間も彼の腹の虫は鳴くのを止めなかった。
「ごめんなさい鵺野先生、お詫びにこれを差し上げますから」
バッグから取り出したのは、ハロウィン仕様のチョコレート菓子だ。
鵺野先生は目と涎を輝かせて受け取ったが、彼は苦笑する。
「これじゃ狼というよりただの犬だな」
「お手」
「わん!……って何させるんですか!」
ノリの良い鵺野先生に、私はついつい悪ノリをしてしまう。
「あまり悪ノリが過ぎると」
そういう鵺野先生もニヤリと笑い、お手をしたままの彼の手は、私の手首を掴む。
ぐい、と引っ張られ、鵺野先生の顔がすぐ近くにきた。
「噛みつきますよ?」
普段はお調子者でだらしなくて、へらへらと笑っている彼だけれど、真顔になれば目鼻立ちがはっきりしているのが分かって、私の胸の中がざわつくのだ。
声だって、よく通る艶っぽい声だ。
いつもより低い声で囁かれ、頬が熱くなった私は何も言えなかった。
そんな私に満足した様子で手を離し、「どうだ」と胸を張る鵺野先生。
そんなお調子者だから、胸のざわめきは何とか整うのだ。
「ちょっと遅いけど、月見団子ならぬ、月見チョコでもしますか」
鵺野先生はチョコの箱を開けて、さっそく一粒摘まんだ。
「道明先生も、どうぞ。と言っても、元々道明先生のなんですよね」
「そう。じゃあ遠慮なく」
口の中に広がる甘味が疲れた体を癒してくれる。
甘みを堪能しながらしばし月を見る。
虫の声と、鵺野先生が箱からチョコを取り出すガサガサとした音と、少し離れた市街地の喧騒。
電気が無くて、夜は真闇が支配する時代にも、この月は変わらない光を放っていたのだろう。灯り一つない中で見る星と月の美しさは如何ほどだろうか。
妖怪や幽霊達はそんな夜を楽しく徘徊していたのだろうか。
「ねえ、鵺野先生」
チラリと隣を見れば、リスのように両頬にチョコを詰め込んだ彼と目が合う。
見ないことにして私が再び空を仰げば、視界に入ってくる。
右を見れば、一拍置いてゲジ眉のリスが私の視界をジャックする。左を見ても下を見ても、頬袋にチョコを詰めた鵺野先生が映り込む。
「や、やめて………お腹、いたい……」
「ふはは!地獄先生ぬ~べ~の勝ち!」
何も勝負していないのに、何が勝ちか。
鵺野先生は結構ひょうきんなところがある。
「で。どうしたんです?」
背中を曲げて膝に肘をついて頬杖をついた鵺野先生は私を見上げる。
人懐こい笑みが、私の心を擽る。
「うん。昔のオバケはこんな夜にどう過ごしていたのかなって」
忍者と疾走したり、酔っ払いの前にのっぺらぼうとして現れたりしていたのだろうか。
「聞いてみます?」
想像で返すのでなく取材しようとするあたり、さすが左手に鬼の手を持つ男である。
「えっと」
どんな物の怪を連れてくる気か……そう身構えていれば、膝を突つかれる感覚。
見下ろせば、おかっぱの着物姿の小さな女の子。
突然の気配に私は背筋がぞわりとする。
ちょこんとしていて可愛らしい女の子だけれど、明らかにする人間ではないこの世のものではない気配を纏っている。
うまく言葉にはできないけれど、明らかに異質なのだ。
怖くはないが、突然の怪異に固まってしまう。
「この子………」
「座敷わらしだ」
聞いたことがある。
この子が憑いた家は繁栄するとか、いなくなれば落ちぶれてしまうとか。
まじまじと座敷わらしを見る。
ざっくりと切り揃えられた黒髪を揺らしながら、にこにこと微笑んでいる。
その笑顔を見ると、何かあげたくなってしまう。
バッグの中にある一口サイズのチョコレートを渡せば、糸目の彼女は口をOの字にしてそれを見る。
「美味しいよ」
私の一言に、座敷わらしはチョコを風のように奪い攫い、トトトトと夜闇に溶けるように去って行った。
「お口に合うといいんだけど」
「きっと気に入りますよ。何か良いことが起こるかもしれないですよ」
家に居憑かれなくても座敷わらしに気に入られれば良いことが起きるらしい。鵺野先生は教えてくれた。
「良いことですか。特別手当、宝くじの一等を拾う、10万円分のお食事券が貰える……」
「お金関係ばっかりじゃないですか」
思い付く良いことといえばそんなところだった。呆れたように笑う鵺野先生だが、彼だってそう願うはずだ。
「じゃあ、楽しみにしながら帰るとしますか」
「そうですね」
ベンチから立ち上がろうとしたとき、何かを踏んでバランスを崩してしまう。
体育教師として転びはすまいと、バランスを保とうとしたところ、ぐいと腕を引かれた。
「っと」
まるでスローモーションにかかったようだった。
温もりに包まれる。
掌に伝わる彼の逞しい胸板。
両肩から伝わる彼の大きくて温かい掌。
真っ直ぐな瞳がすぐ近く。
そして、
柔らかい感触が唇に一瞬だけ。
「ん……!」
どちらともなく離れたのだと思う。
私達はそれぞれ後ろを向く。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ!」
鵺野先生も私も、あははと意味の無い愛想笑いをする。
十月の半ばだというのに暑くて仕方がない。
木の葉が擦れるような、小さなクスクスとした笑い声が聞こえた気がした。
このハプニングはあの子の仕業か。
違う、こういうのは望んでない。と、あの子に言いたい。
宝くじの一等とは言わない。
商店街の福引きで一等を当てたり、もっとささやかな願いを言えば、コンビニのクジや自販機で当たりを引くとかだ。
こういうのは、別にいいんだってば。
ちらりと鵺野先生の方を振り向けば、鵺野先生も同じように私の様子を同じように覗っていた。
視線が合えば、鵺野先生は頭を乱暴に搔きながら、尚も笑い続けていた。
「いやぁ、珍しいですね!道明先生が躓くなんて?!」
「え、ええ。本当に!」
「じゃあ帰りましょう!途中まで一緒ですよね?!」
私達は何故か声を張り上げていた。
月が綺麗とか、今日は少し寒いとか、上辺だけの会話を続けながら、私達は公園を出た。
「すみません本当に。…嫌だったでしょう?」
どうせならそんなハプニングは、リツコ先生となら良かったと彼は思っているだろう。
言葉にすれば不思議と気持ちが沈んでくる。
隣を歩く鵺野先生を見れば、彼は私の言った意味が分からないようで、数秒の間、ポカンとしていた。
「え?!…いやいやいやいや」
分かったようで、彼は手と首を激しく振る。
「嫌だなんて、むしろラッキーというか……あ!別にやましい気持ちはなく!!しかし、それは道明先生に魅力が無いということでは決してなく!むしろかなり有るというか!」
必死に言葉を紡ぐ鵺野先生だけど、話せば話すほど、顔が真っ赤になっている。
私もそこで笑って受け流せばいいのに、頬が熱くなってしまった。
妙な沈黙が漂い始めてしまった。
その沈黙を破るための話題を探すも、焦りで浮かんでこない。
「そうだ、ハロウィン!」
鵺野先生がポンと手を打った。
「美樹達が猫娘の衣装はどうかと言ってました」
「私に……?」
「ええ」
「遠慮します」
「えぇ?!」
早足で帰路につく。
鵺野先生は私の歩調を合わせ、食い下がる。
「お願いしますよ。絶対似合いますって」
「嫌です。ていうか学校でやるんですか?だめでしょ、そんなの」
「かわいい生徒達の頼みですよ?」
「とかなんとか言って。食べ物に釣られたんでしょう?」
何も返ってこないのをみると図星らしい。
彼は生徒にまで餌付けされているのか。
月に照らされたアスファルトの道で、押し問答をしながら帰宅する。
結果的に私が折れて、ハロウィン当日に猫耳と尻尾を付けたのだけれど、思い出したくもない。
あれだけ食い下がった鵺野先生といえば、私を見て、ひたすら黙っていたのだから酷い。
郷子ちゃんは「ぬ~べ~ったら本気で照れてる」と揶揄っていたけれど、そんなことは無いと思う。いい歳した大人が猫耳付けてる姿を見て、気まずくなったのだろう。
リツコ先生の時とは大違いだ。
彼の耳まで真っ赤だったのは、狼の手足を付けて暑かったからに違いない。
きっとそうだ。