長編「今度はあなたを」
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それから一時間。
最終確認をして、私は教育委員会宛に添付メールを送信した。
「終わったぁ」
クリック一つで全てが終了し、達成感というより解放感がこみ上げてくる。
「お疲れ様でした」
笑いかける鵺野先生に胸がずきりと痛む。
「俺は強くなりました。苛められ、誹られたあの頃の俺じゃないんです」
「思い出せなくてすみません。ずっと昔にお会いしていたんですよね」
「俺は強くなりました。そして、貴女も」
鬼の手に触れてから、いつかはたどり着くのだろうと思っていた。
鵺野先生は思い出したのだろうか。
それともアルバムを見たのだろうか。
いずれにせよ、あの時が切っ掛けで彼は思い出そうとしてくれたのだろうか。
嬉しくもあり、怖くもあった。
私は見ているだけだった。
貴方を守れなかった。
それを知られたくなかった。
胸に秘めておこうと思ったのに、貴方を知れば知るほど気持ちは止められなくなった。
貴方を好きになってしまった。
豪快に笑う姿も、
得意そうに鉄棒で大車輪を披露する姿も。
子ども達にからかわれてムキになる姿も。
お腹を空かせて困っている姿も。
この世のものではないものに恐れず闘う姿も。
鬼の手の封印を解いて異形のものを睨む紅い瞳も。
黒い髪、太い眉、白いシャツ、黒いネクタイ。
全てが好きになって、目が離せなくなって、胸が騒ぐ。
好き。
でも知られたくない。
それでも貴方が好き。
2つの「でも」が、私の胸を揺さぶる。
思い出されなくていい。
過去のことなど無かったことにして、新しく歩んでいけばいい。
そう思った。
友達のままでいいとさえ。
でも。
鵺野先生の真っ直ぐさを前に、過去を無かったことになんかできなかった。
芳男くんに悩んでいた私に手を差し伸べてくれた。
夜の学校に来た広くん達を本気で叱った。
そんな彼に隠し続けることの後ろめたさが常にあったのだ。
それでも山内先生の登場にホッとしてしまったのは、知られたくなかったという気持ちの方が強かったのだろう。
私が認めない限り、過去に出会っていたことは確定されないなんて、子どもみたいな言い逃れをしているのは分かっている。
逃げ続けているだけなのは分かっている。
いつかすぐに機会はやってくる。
その時、私は話さなくてはならない。
見ているだけだった私の事を。
「お腹空きましたね」
「ええ」
書類を整え、島の端に置かれたキャビネットにしまう鵺野先生は黙ってしまった。
「こんな時間ですけど、どこか食べに行きませんか?」
いつもの私ならこう言うだろう。だから敢えて言ったのだけれど、自然に言えただろうか。
バタンとキャビネットの引き出しを閉めた鵺野先生の表情は固かった。
「折角ですが、今日は遠慮します」
その声に、心の中がポッカリと穴が空いたようだった。
「いつもの通り、金欠ですし」
「奢りますよ」
「いつも悪いですし。それに」
鵺野先生は大きく伸びをする。
「眠くて眠くて………こんな時間まで働いたことなんて無かったですから」
ギュルルル
大きな唸り声が彼の腹の中から聞こえた。
「………」
「………」
みるみる顔が赤く染まる鵺野先生に私もいたたまれなくて、スマホに手を伸ばした。
「とりあえず、回答したって同期に連絡しますね」
「は、はい」
こんな時間に職場にいるかは分からないし、スマホに掛けるのも気が引けたので、文字で伝えることにした。
鵺野先生はといえば、物珍しそうに私のスマホ画面をガン見してくるので、同期なのについかしこまった文章になってしまった。
送りました。明日、確認をお願いします。
遅れて申し訳ありません。………と送れば、すぐに既読が付いて、電話がかかってきた。
「………出ますね」
もしかしてまだ職場にいてさっそく回答内容を確認しているのだろうかと通話ボタンを押そうした時、鵺野先生と目が合う。
寂しそうに眉を下げ、私を見ていた。
まるで捨てられた子犬のようだった。
ドキリとしながら通話ボタンをスライドさせ、スマホを耳に当てる。
「お疲れ様」
「そっちこそお疲れ。どうした」
畏まった文章に笑っているようだ。
「いや。申し訳ないなって思って」
「俺も今から退庁するとこ」
「え?今?!」
私の声の大きさに鵺野先生は驚いたようで、目を丸くしていた。
そんな彼に頭を下げて謝る。
「そー。ほんっと疲れた。明日確認するわ。たぶん大丈夫っしょ。それよりめっちゃ腹減った」
「私もだよ」
空いている手でパソコンをシャットダウンさせ、荷物をまとめることにした。
「あ。ならこの後軽くどっか行く?」
「いいの?」
その時。鵺野先生はガタリと勢いよく椅子から立ち上がった。
眉を釣り上げて私を見下ろす鵺野先生はちょっと怖かった。
「一時間くらい。明日も仕事だし」
「むしろいいの?行って」
「美味いもん食って、英気を養って寝たい」
「ふふ………大変だね」
その時、スマホを持つ手を強く掴まれてしまった。
彼しかいないのに、鵺野先生が掴んできたと認識するまでワンテンポ遅れてしまった。
「会うの久しぶりだし。童守駅でいい?」
鵺野先生は首を振る。
口を一文字にして、必死の形相をしている。
もしかして、この通話の内容が聞こえているのだろうか。
静かだし、同期は声が通るので不思議ではない。
「あー………」
「どした?」
鵺野先生は私の手首から手を離したかと思うと、両手を合わせ頭を下げた。
かと思えば、腹を抱えて苦しそうな顔をして私を見ている。
彼のジェスチャーに、私は笑いを堪えるのに必死だった。
「ごめん。やっぱり行けない」
「ふーん。分かった」
「ごめんね。明日も頑張ってね」
「また今度な。お疲れ」
「お疲れさま」
通話を終えた私に、鵺野先生は再び手を合わせてきた。
「すみません!やっぱり奢ってください!!お腹空きました!!」
「………わかりました」
先程の硬い声の鵺野先生とは打って変わって、いつもの様子に安堵する。
「次の給料日に返しますから!」
「いいですって」
二人で職員室を出て施錠をする。
非常灯の緑の光が薄ぼんやりとリノリウムの廊下を照らしていた。
「………仲いいんですね」
ぽつりと落ちた鵺野先生の呟きは少しの幼さが混じっていた。
「同じ大学でゼミも一緒でしたから」
「そうですか」
何でつまらなそうに答えるのだろう。
なぜやけになったように頭を掻くのだろう。
「いいんですか?断っちゃって」
「え。だって………」
あの時、鵺野先生は行かないでって訴えていたからであって。
といっても、鵺野先生を優先させたのは私だ。
顔が熱い。
「道明先生、ごちそうになります」
ヘラヘラ笑う鵺野先生の耳も、確かに赤かったのだった。