続・本編、その後
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「(………)」
ぱち、と。
ついに目を開いてしまった僕は、ベッドから身体を起こしてため息をついた。
無理矢理寝てしまおう、と何とか瞳を閉じるも虚しく、眠気がやってくる気配は一向になかった。
状況を整理しよう。
時刻。……1時38分。この時計は24時間表示だから、深夜の1時過ぎということになる。
気温。……26℃。加えて湿度も問題ない。オーケー、快適だ。
光量。……枕元の電灯だけが、暗闇の中でぽっと灯っている。
音。……聞こえるのは、自分ともう一人の吐息だけ。
淡い光に照らされた赤褐色の肌。
黒い革製のコートを着たままベッドに横たわっているその子は、2時間前から相も変わらず、その真っ白な瞳で眠れない僕を見つめていた。
***
遡れば数時間前、告げられた新たな実験のはじまり。
『特異個体の完全な同条件下における永続的監視及び接触の経過観察』――要は、僕とネメシスを同じ部屋に住まわせるという話だ。
命懸けで助けに行ったと思ったら、今度は突然の同棲生活――当然、順応できるはずもなく。
いや、だって、そりゃそうだ。
なんかこう……距離感とか、心の準備とか、普通はそういうのが、こう……本来ならあるはずで。
それをいきなり取っ払って、こんなことって。なんか。
……頭の中を通り過ぎていく言語すらおぼつかない。
そんな緊張なのか感動なのか分からない複雑な感情に取り巻かれながら、僕達の一日が始まってしまった。
***
時刻、19時39分。
あの実験の後、どのくらい眠っていたのか分からないが――いつもなら、夕食は済ませて本でも読んでいる時間だ。
とりあえずネメシスにはソファに座ってもらい、僕もその隣に浅く腰掛けた。
「えっ………と、寒かったり暑かったりしない?」
その、なんとも当たり障りの無い質問に、ネメシスはきょとんとした表情で答えた。『どうしてそんなことを聞くのか』と言っているようにすら見える。
「う、うん、そうだよね……」
ああ、僕には話題作りの才能が全く無い――テレビも元々大して見ないし、雑誌も読まない。新聞やニュースは一般常識としてある程度読んではいるが、話題にするほど掘り下げられる訳でもない。
しかし、例えそれらを欠かさず取り入れていたとしても、悲しいかなこの子との話題になる気もしない――。
それでも、諦める気にはならない。
無口なこの子自身から、この子自身のことを教えてくれたら、それはとても嬉しいことだ。
強制的で突然とはいえ、こんなに落ち着いた長い時間を一緒に過ごせるのは初めてなんだ。
いつ突然終わってしまうかも分からないこの幸せな瞬間を、少しでも無駄にしたくないから――。
僕は気を取り直して、共通の話題を考えて直すところから始め……いや、むしろ普段人と会話する時には問題ないんだから、いつも通りにしていればいいんだ。
なにも特別に構えることはない。
そう、友人と温かいコーヒーでも飲みながら話すような――と、考えた時にふと気付いた。
しばらく眠っていた上に、まだ夕食も食べていないというのに、僕には強い空腹感がなかった。
恐らく、意識がない状態の時は点滴でも打たれていたのだろう。栄養さえ足りていれば、案外“食べる”という行為は必要ない。
そこで頭に過ぎったのが――
「君は、どうやって栄養を取るの・・・?」
ネメシスには、口と歯はある。
ただ、唇は無くて・・・・・・舌は、ありそうな気がする。
人の形にかなり近い姿をしていても、やはり人間とは違う部分もあるはずなのだ。
ネメシスはそれを聞いて、少し悩むような表情を見せ・・・・・・10秒ほど停止し、すっくと立ち上がった。
「?」
僕もそれについて立ち上がり、数歩歩いて辿り着いたのはリビングテーブル――その上の、ノートパソコンの前だった。
「・・・・・・!?え!?こ、こんなのあったっけ!?」
いや、あの実験が始まる前には確かに無かった物だ。
連絡手段は元から取り付けられていた内線だけだったはずだが、何らかの理由で『必要』とみなされ、ここに設置されたのだろうか。
はっとして周囲を見渡す。
そういえば、さっき、無かったはずのものがあった――そう、時計だ。
元々この部屋には時計が無かった。その理由も分かっていなかったが、このタイミングで出現する理由もまた分からない。
この分だと、更に何か仕込まれている気がしてならない・・・・・・が、まずは、目の前のこの子の行動を見守ることにした。
ネメシスはパソコンの前に座ると、慣れた手つきで操作していく。タイピングは思いのほか軽いタッチで、マウス等は使わずキーボードのみで操作していた。
なんだか、少し――正直かなり――意外な一面。
「(知的だ・・・・・・)」
そんなギャップといつもとはまた違った凛々しさをたたえたその姿に、見惚れざるを得ない。
しばらくその横顔にぼうっと見入っていると、ネメシスは突然こっちを向いて画面を指差した。
視線を誤魔化すように僕は慌てて画面を見た。
開いているのはメールソフトのようだった。
そこに届いていたのは一通のメール。
差出人は――レイン・ヘイル。
受信日時は・・・・・・ついさっき。
件名と本文には何も書かれておらず、添付ファイルだけがひとつだけ。
――読めない。
いや、字は書いてあるのだが、全然意味が分からない。
だが恐らくここに僕の質問の答えが書いてあるのだろう、
ネメシスは『ねっ』みたいな表情で僕と画面を交互に見る。こころなしか、キラキラとした目で。
「――・・・うん!!なるほどね!!」
その期待の込められた視線に、思わず精一杯強がってしまった。
と、それを諌めるように内線が鳴り響いた。
「・・・・・・」
僕はその恐るべきタイミングのコールで、なんとなく――いや、確信といっていい――その電話の主が分かってしまい、電話の前には立ったもののしばらく聞こえないふりをした。
何だか嫌な予感がするからだ。
この電話を取って、話を聞いたら、僕にとってあまり嬉しくない事を聞かされそうで。
・・・・・・しかし、ずっとこうしているわけにもいかないか。
僕は深く溜息をつき、受話器をとった。
「・・・・・・はい」
『遅いな、何を考え込んでいた』
ああ、やっぱり。
今のレインの発言で、“嫌な予感”が的中した。
「あの・・・・・・、この部屋、見てますよね?」
『当然だ。監視、録音、各種行動の分析から思考解析まで、君とα型は常時観測されている』
「・・・・・・」
やってそうだと思ってました、と喉まで出た言葉をぐっと飲み込む。
『それはさておき、如月、君の疑問に答えよう』
「疑問?」
『α型に頼まれて私が送った資料の意味だ』
「あ、あー・・・はい、それはお願いしま・・・・・・え?」
聞き流しそうになったが、かすかに引っかかる。
「頼まれて・・・って?」
『α型から信号が送られてきたんだ、「自分の栄養源について如月聖に教えたい」と。だから君のPCにメールを送らせてもらった』
信号――?そんなタイミング、一体どこに・・・?
『そういえば言っていなかったが、α型が思考したことは全て私の端末にリアルタイムで共有される。・・・・・・まあ、分かりやすく言えばテレパシーみたいなものだな。通常は思考結果の記録として利用しているが、α型から連絡手段として使われたのはこれが初めてだ』
「ええ・・・!?」
思わず驚く。そして――
「――・・・・・・・・・・・・ええー!?」
また驚く――。
「(さっき一瞬固まってたのは、信号を送ってたからなのか)」
想定の範囲外というか、予想の斜め上というか。
この子はいつも僕の想像を簡単に越えてしまう。
『今言ったとおり、α型は常に思考や行動のデータを私に送信している。そのデータはα型の意思に関係なく強制的に吸い出しているが、吸い出される側がエネルギーを使わないというわけではないし、作戦遂行中はこちらから情報を送信することもある。情報は戦闘の要だからな、作戦の遂行に利用しない脳系統のリソースは全てこのデータの送受信に割り当てるよう調整してある』
「・・・・・・つまり、行動するために利用している部分以外を使ってるってことは、ずっと脳がフル稼働してるってことですか?」
『当然だ。必要も無いのに稼動させない部分など、ただの重りでしかない。ちなみに、戦闘行為等の激しい消耗が無ければその状態で1週間程度はエネルギー摂取が必要ない』
唖然とした。
レインは簡単に言ったが、脳を100%稼動させたままの状態で1週間も活動しているということは他の生物と比較しても尋常じゃない。
人間の脳には定期的に睡眠という休息が必要になる上に、起きている状態でもほとんどの部分が眠っているというのに、この子は――
『栄養源は・・・・・・そうだな、先ほどの資料にも記載があるが、基本的には何でもいい』
「なっ、何でも!?」
内線をPCの隣に移動させ、画面に表示されている資料を覗き込む。
――うん。やはり分からない。
『研究所にいる間は専用の薬液に全身を浸して、表皮全体から栄養を摂取させている。加えて電気――いわゆる充電のようなことも可能だ。我々人間のように食べたり、飲んだりする“食事”は出来ない事も無いが一番効率が悪い。時間もかかる上に大した量が補給できないからな。一度実験したきりやらせていない』
「そ、そうですか・・・・・・」
『ただ、味覚はあるぞ。感覚器として舌を残してあるからな』
「じゃあ好みの味とかもあるんですか?」
『いや、好みが出来るほど舌に情報を与えていない。・・・・・・好みが知りたければ、手料理でもふるまってやるといい』
それを聞いて、自分に得意料理が無いことをこの上なく悔やんだ。
『以上だ。質問は?』
「いえ、特には……」
『緊急でなければ今後メールで連絡しろ。では』
「っあ、ま、待った!」
淡々と電話を切ろうとするレインを引き留めた。
『なんだ』
「このパソコン、一体いつからあったんですか?」
『君が手術台の上で目覚める前だ。その時にはもう、この実験は決まっていたから
な』
……まあ、順番的には確かにそうだ。しばらく気が付かなかった僕も僕だ。
「あと、なかったはずの時計もあるんです。これは――」
『それも、同じタイミングだ。時間を認識できる生物が2体いる時は、時計があると
意思の疎通が上手くいく。2体の間に、基準がもたらされる訳だ』
うーん、と。
僕は眉間にしわを寄せつつ、もう少し突っ込んで聞いてみた。
「それはなんとなく分かりますが、別に一人の時に時計があってもよかったんじゃ
…?」
『ああ、それは実験の為にあえて外しておいた』
「ええ!?」
あの平和に平穏を上塗りしたような生活の中に、実験が組み込まれていた――
―……!?
「食事の回数を変えたり、部屋の温度を変えたり」
『あ、ああ、そういう……』
「あとは食事に薬物を入れたり、部屋にウイルスを散布していたくらいだ」
『………………』
思わず、頭を抱えた。
秘密裏にそんなことをされていたこと……というよりは、全く気が付かなかった自
分にショックを受けている。
『君のようなタイプは少しでも余計な情報を与えると、変に勘ぐって余計な体力を
使って無駄な思考をするからな。思考・行動分析においてノイズは最大限取り払いた
かった』
「……そうですか……」
これ以上はあまり聞きたくない・・・・・・そんな気持ちでレインとの通話を終える。
「・・・・・・ふう」
僕は小さなため息をつきながら、受話器をそっと置いた。
それから一呼吸おいて、ネメシスに語りかけてみる。
「今度、一緒に料理でもしてみようか」
ネメシスはその言葉を聞いて、一瞬「?」のような表情をしたものの、しばらく考え込んでからぱあっとした顔で首を縦に振ってくれた。
もしかしたら、『料理』という言葉を知らなかったのかもしれない。
それでもきっと、僕と一緒に何かをすることを喜んでくれているのかな。
――この子と、こんな会話ができる日が来るなんて。
「ふふ、楽しみだね」
お互いに空腹感がないことを確認した僕達は、また、何でもない時間を過ごすことになった。
……この子に趣味というものはあるんだろうか……?
と、疑問を浮かべるのも束の間、自分にも大した趣味がないことに気が付く。
趣味らしい趣味といえば読書くらいのもので、ミステリ、SF、恋愛、ハードボイルド等々基本的には何でも読むが、そこまで冊数を読んでいるかと聞かれると、『人並み』でしかない。
好みに合わなければ読むのをやめてしまうし、好きなものでも1回読めば満足する。
それに、あまり長時間読むのも得意じゃない。細かい文字を読んでいると、ついつい瞼が重くなってしまうのだ。
「(…そういえば)」
この部屋には当初から数冊の本が置いてあって、まだ読めていない本もいくつか残っている。
「―――本、読んでみる?」
僕は小さな本棚から何冊かを手に取り、机にまとめて置いた。
「うーん……そうだな、これとかどうかな」
その中から一冊選び、手渡す。
ネメシスは僕から本を受け取ると、その表紙をまじまじと見つめ、回してみたり、開いてみたり、振ってみたり……しばらく観察を続けた後、表紙のページを開く。
僕は思わず、喉をごくりと鳴らした。
まず、『本』というものの構成を理解したのだろう。これからいよいよ中身の確認に入るようだ。
「(気にいるかな……)」
今ネメシスが持っているのは、ページ数の比較的少ないSF短編集。僕もここにいる間に一度読んだが、いくつかの短編小説で構成されており、文量も少なめで軽く読むには一番適していると思ったのだ。
ところが、ネメシスはペラペラと素早くページをめくり、それが最後のページまで行くとすぐにぱたんと閉じて僕に返してきた。
「あんまり好みじゃないかな?そしたら……これは?」
少し悩んで、今度は現代を舞台にしたミステリ小説を選んだ。
上下巻で構成されており、後半の鮮やかな解決劇は爽快だが、最初は解説が多く中々読み進められない部分もある。
ところがネメシスは再び表紙からペラペラとページをめくり――先程より速い速度で――あっという間に裏表紙へ到達し、再び僕に本を返す。
「……好みを見つけるのは中々難しいね、じゃあ次は――」
僕が本を選ぶ前に、ネメシスは今読んだミステリ小説の下巻を手に取った。
そして再び表紙を開き、パラパラと一瞥だけして、閉じる。
「……」
その間、わずかに10秒弱。
ある考えが僕の頭に浮かんだ。
上巻の次に、下巻を選んだこと。
超短時間ではあるが、全ページを必ず一度開いていること。
「……もしかして、読んでる?」
ネメシスはこくりと頷いた。
ページをぱらぱらめくっていたのは決して読み飛ばしていた訳ではなかったのだ。
開いた瞬間にそこにある全ての文字情報を認識し、記憶できる――人間にもごく稀にそういう能力を持った人がいるとは聞いたことがあるが、いざ目の当たりにすると、あまりにも並外れたものに感動すら覚える――。
すっかり感心している僕を尻目に、ネメシスは次々と本をめくり、ついには本棚まで行って僕が読んでいない本も全て読み尽くした。
この部屋にあった数冊の本を読むのに5分とかからず、またしても僕達は暇を持て余すこととなる。
僕達は再びソファで隣り合って座った。
「ごめん、退屈させちゃって・・・・・・」
僕は浅めの溜息をつきながら、謝る。
せっかくこんなところに来てくれたのに、娯楽も何も無いなんてあまりにも申し訳なかった。
しかし、ネメシスは首を横に振った。
紫色の触手をつつつ・・・と僕の腕に這わせ、ごく軽い力で締めてきた。
これは、手をつないでる感覚なのだろうか――。
同じくらいの力で握り返すと、ネメシスは僕を見てこくりと頷いた。
言葉は無い。
でも、柔らかな眼差しが、慰めでもない、同情でもない言葉を僕に伝えてくれる。
「――ありがとう。そうだ、無理に楽しむものじゃない。もう、ゆっくりでいいんだね」
ネメシスは首を縦に振った。
そうだ。
もう、あの死の街――ラクーンシティ――にいるわけじゃないんだ。
生き急ぐように、走らなくていい。
隣を見れば、君がいる。
それから僕達は、手を握り合ったまましばらく何も喋らなかった。
心地よいやわらかさと熱が、僕に安らぎを与えてくれる。
ここに来てから、直接的に命の危険は無かったとはいえ、生殺与奪を握られているに等しい状況ではあった。
上等なホテルの一室のように見えても、ここはアンブレラの施設であることには変わりない。
飼い殺されているだけの暮らしに対する焦燥感は、拭えずに僕の中にずっと存在していた。
――でも、今は。
喪ったはずの最愛の人が、僕の手を握ってくれている。
未だアンブレラの手中にいることには変わりない状況でも、この子は安らぎを与えてくれる。
伝わってくる温かさが張り詰めていた糸を緩ませ、夢のような心地でゆったりとした時間を味わった。
「(いつか君と、本当に自由な所へ――)」
この子と、どこか遠くへ行って、誰にも支配されることなく静かに暮らせたらどんなにいいだろうか。
二人だけで、贅沢ではないけど満たされた時間を過ごせたなら、どんなに幸せだろうか。
――でもきっと、それは叶わない。
この子は特殊な肉体や性質を持っていて、それを完璧に把握しているのはアンブレラなんだ。
この子がこの子である以上、アンブレラという存在からは逃れられない。
どうしたら。
***
「・・・・・・どう・・・・・・したら・・・・・・」
自分の目がうっすらと開いているのが分かった。
「・・・・・・ん?」
ぱちぱち、と。
何度か瞬きをする。
体を起こすと、すぐ近くでネメシスが僕を眺めていた。
――体を、起こす――?
「・・・・・・――!!!」
慌てて見た時計には、23時5分、と表示されていた。
・・・・・・いつの間にか、ネメシスの肩に寄り掛かって眠ってしまっていたのだ。
「っあ、ごめん!僕いつの間に……!」
眠るつもりは全く無かった。
眠気だって感じていなかった。
それなのに、ゆっくりでいいとかそんなレベルを軽々と越え、いきなり目の前で眠りこけてしまうとは何事か。
それに加えて肩を数時間専有して、この子はその間動けない訳で。
ああ、どこをとっても救いようが無い――!!
「な、何て言ったらいいか・・・・・・」
謝罪の言葉を言い過ぎて、ついに言葉を失う。
そんな頭を抱える僕を見て、ネメシスは――
ふ、と。
「・・・・・・!?」
一度瞬きをすると、いつもの表情に戻っていた。
「(間違いない)」
しかし、この目ではっきりと認識できた。
「(今のは)」
――笑顔だ。
「(う……!)」
僕は思わず顔を下に向け、自分の表情を隠した。
この子はあまり感情を表に出さないものだから、これはあまりにも不意打ちで。
「(っか……っかわいい……!)」
この子の顔の造形は特殊で――唇が無い。
人為的に削ぎ落とされたような状態になっているため、人間が通常笑顔を作る時の『口角を上げる』という仕草は存在しない。
だが、頬が少し緩み、目元が綻んだのが分かった。
あまりにも一瞬で、あまりにも控えめで、あまりにも魅力的な笑顔。
それは、僕の心臓を再び煩くさせるには十分だった。
「(この子と)」
「(手、つないで)」
「(肩、借りて)」
「(……隣で寝てしまった)」
意識することで、今までこの子にしてきたことが、急に、更に恥ずかしくなり――
「ぼっ……僕、シャワー浴びてくるね!?」
これは、もう頭を冷やすしかない。
僕は逃げるようにシャワールームへと向かった。
己の行いを悔いながら深く溜息をついて、普段より2℃低い温度のシャワーを頭から浴びる。
先ほどまであの子と繋いでいた手をじっと見つめた。
「(あの子から、繋いできてくれた)」
二人で手を繋いだのは、これが初めてではない。
今や地図から消えた死の街ラクーンシティ、その時計塔で僕達は初めて手を繋いだ。
あの時は確か僕から繋いだんだっけ。
ニコライと出会い――ミハイルが死んだ時だ。
あの子は、アンブレラの兵器として忠実に任務を遂行した。
人を一人、いや、僕達のような標的だった人間以外も殺めてきたのかもしれない。
S.T.R.A.S.を――僕を殺すために。
でも、今は違う。
あの子が、あの子のままでいられるんだ。
誰にも操作されず、命令されず、自分だけの意思で。
「(こんな機会、もう無いのかもしれない)」
明日か、1時間後か。
いつ、どんな気まぐれでこの生活が終わるのかも分からない――。
そう思うと、いてもたってもいられなくなってしまう。
僕は急いでシャワールームから出て、濡れた体のままネメシスの元へ駆け出した。
本当に、あの子の事となると自分は冷静さを失ってしまう。
みっともないくらいに動揺して、呆れるくらいに間違える。
少しは落ち着きを見せて、頼れるところもあるんだぞ、と言いたいところだがそんな余裕は全く無い。
それほどまでに。
僕は、君が好きなんだ。
タオルを一枚だけ巻いて飛び出した僕の目に、先程と変わらない様子で座っているネメシスが映る。
僕は心底安堵して、歩みを遅めた。
手の届くところに、いてくれた―――。
ネメシスは僕の存在に気が付くと、視線をこちらに向けてくる。
しかし、僕の装いを認識するとぱっと目を逸した。
「あ、こんな格好でごめん!……あはは」
笑って誤魔化そうとしたものの、ネメシスから強い動揺の感情を感じた。
背中をきゅうっと縮こませ、指先をもじつかせるその様子は可愛らしいことこの上ないのだが、ずっとこの状態にしているのも申し訳ない。
「――急いで着てくる!!」
ぱち、と。
ついに目を開いてしまった僕は、ベッドから身体を起こしてため息をついた。
無理矢理寝てしまおう、と何とか瞳を閉じるも虚しく、眠気がやってくる気配は一向になかった。
状況を整理しよう。
時刻。……1時38分。この時計は24時間表示だから、深夜の1時過ぎということになる。
気温。……26℃。加えて湿度も問題ない。オーケー、快適だ。
光量。……枕元の電灯だけが、暗闇の中でぽっと灯っている。
音。……聞こえるのは、自分ともう一人の吐息だけ。
淡い光に照らされた赤褐色の肌。
黒い革製のコートを着たままベッドに横たわっているその子は、2時間前から相も変わらず、その真っ白な瞳で眠れない僕を見つめていた。
***
遡れば数時間前、告げられた新たな実験のはじまり。
『特異個体の完全な同条件下における永続的監視及び接触の経過観察』――要は、僕とネメシスを同じ部屋に住まわせるという話だ。
命懸けで助けに行ったと思ったら、今度は突然の同棲生活――当然、順応できるはずもなく。
いや、だって、そりゃそうだ。
なんかこう……距離感とか、心の準備とか、普通はそういうのが、こう……本来ならあるはずで。
それをいきなり取っ払って、こんなことって。なんか。
……頭の中を通り過ぎていく言語すらおぼつかない。
そんな緊張なのか感動なのか分からない複雑な感情に取り巻かれながら、僕達の一日が始まってしまった。
***
時刻、19時39分。
あの実験の後、どのくらい眠っていたのか分からないが――いつもなら、夕食は済ませて本でも読んでいる時間だ。
とりあえずネメシスにはソファに座ってもらい、僕もその隣に浅く腰掛けた。
「えっ………と、寒かったり暑かったりしない?」
その、なんとも当たり障りの無い質問に、ネメシスはきょとんとした表情で答えた。『どうしてそんなことを聞くのか』と言っているようにすら見える。
「う、うん、そうだよね……」
ああ、僕には話題作りの才能が全く無い――テレビも元々大して見ないし、雑誌も読まない。新聞やニュースは一般常識としてある程度読んではいるが、話題にするほど掘り下げられる訳でもない。
しかし、例えそれらを欠かさず取り入れていたとしても、悲しいかなこの子との話題になる気もしない――。
それでも、諦める気にはならない。
無口なこの子自身から、この子自身のことを教えてくれたら、それはとても嬉しいことだ。
強制的で突然とはいえ、こんなに落ち着いた長い時間を一緒に過ごせるのは初めてなんだ。
いつ突然終わってしまうかも分からないこの幸せな瞬間を、少しでも無駄にしたくないから――。
僕は気を取り直して、共通の話題を考えて直すところから始め……いや、むしろ普段人と会話する時には問題ないんだから、いつも通りにしていればいいんだ。
なにも特別に構えることはない。
そう、友人と温かいコーヒーでも飲みながら話すような――と、考えた時にふと気付いた。
しばらく眠っていた上に、まだ夕食も食べていないというのに、僕には強い空腹感がなかった。
恐らく、意識がない状態の時は点滴でも打たれていたのだろう。栄養さえ足りていれば、案外“食べる”という行為は必要ない。
そこで頭に過ぎったのが――
「君は、どうやって栄養を取るの・・・?」
ネメシスには、口と歯はある。
ただ、唇は無くて・・・・・・舌は、ありそうな気がする。
人の形にかなり近い姿をしていても、やはり人間とは違う部分もあるはずなのだ。
ネメシスはそれを聞いて、少し悩むような表情を見せ・・・・・・10秒ほど停止し、すっくと立ち上がった。
「?」
僕もそれについて立ち上がり、数歩歩いて辿り着いたのはリビングテーブル――その上の、ノートパソコンの前だった。
「・・・・・・!?え!?こ、こんなのあったっけ!?」
いや、あの実験が始まる前には確かに無かった物だ。
連絡手段は元から取り付けられていた内線だけだったはずだが、何らかの理由で『必要』とみなされ、ここに設置されたのだろうか。
はっとして周囲を見渡す。
そういえば、さっき、無かったはずのものがあった――そう、時計だ。
元々この部屋には時計が無かった。その理由も分かっていなかったが、このタイミングで出現する理由もまた分からない。
この分だと、更に何か仕込まれている気がしてならない・・・・・・が、まずは、目の前のこの子の行動を見守ることにした。
ネメシスはパソコンの前に座ると、慣れた手つきで操作していく。タイピングは思いのほか軽いタッチで、マウス等は使わずキーボードのみで操作していた。
なんだか、少し――正直かなり――意外な一面。
「(知的だ・・・・・・)」
そんなギャップといつもとはまた違った凛々しさをたたえたその姿に、見惚れざるを得ない。
しばらくその横顔にぼうっと見入っていると、ネメシスは突然こっちを向いて画面を指差した。
視線を誤魔化すように僕は慌てて画面を見た。
開いているのはメールソフトのようだった。
そこに届いていたのは一通のメール。
差出人は――レイン・ヘイル。
受信日時は・・・・・・ついさっき。
件名と本文には何も書かれておらず、添付ファイルだけがひとつだけ。
――読めない。
いや、字は書いてあるのだが、全然意味が分からない。
だが恐らくここに僕の質問の答えが書いてあるのだろう、
ネメシスは『ねっ』みたいな表情で僕と画面を交互に見る。こころなしか、キラキラとした目で。
「――・・・うん!!なるほどね!!」
その期待の込められた視線に、思わず精一杯強がってしまった。
と、それを諌めるように内線が鳴り響いた。
「・・・・・・」
僕はその恐るべきタイミングのコールで、なんとなく――いや、確信といっていい――その電話の主が分かってしまい、電話の前には立ったもののしばらく聞こえないふりをした。
何だか嫌な予感がするからだ。
この電話を取って、話を聞いたら、僕にとってあまり嬉しくない事を聞かされそうで。
・・・・・・しかし、ずっとこうしているわけにもいかないか。
僕は深く溜息をつき、受話器をとった。
「・・・・・・はい」
『遅いな、何を考え込んでいた』
ああ、やっぱり。
今のレインの発言で、“嫌な予感”が的中した。
「あの・・・・・・、この部屋、見てますよね?」
『当然だ。監視、録音、各種行動の分析から思考解析まで、君とα型は常時観測されている』
「・・・・・・」
やってそうだと思ってました、と喉まで出た言葉をぐっと飲み込む。
『それはさておき、如月、君の疑問に答えよう』
「疑問?」
『α型に頼まれて私が送った資料の意味だ』
「あ、あー・・・はい、それはお願いしま・・・・・・え?」
聞き流しそうになったが、かすかに引っかかる。
「頼まれて・・・って?」
『α型から信号が送られてきたんだ、「自分の栄養源について如月聖に教えたい」と。だから君のPCにメールを送らせてもらった』
信号――?そんなタイミング、一体どこに・・・?
『そういえば言っていなかったが、α型が思考したことは全て私の端末にリアルタイムで共有される。・・・・・・まあ、分かりやすく言えばテレパシーみたいなものだな。通常は思考結果の記録として利用しているが、α型から連絡手段として使われたのはこれが初めてだ』
「ええ・・・!?」
思わず驚く。そして――
「――・・・・・・・・・・・・ええー!?」
また驚く――。
「(さっき一瞬固まってたのは、信号を送ってたからなのか)」
想定の範囲外というか、予想の斜め上というか。
この子はいつも僕の想像を簡単に越えてしまう。
『今言ったとおり、α型は常に思考や行動のデータを私に送信している。そのデータはα型の意思に関係なく強制的に吸い出しているが、吸い出される側がエネルギーを使わないというわけではないし、作戦遂行中はこちらから情報を送信することもある。情報は戦闘の要だからな、作戦の遂行に利用しない脳系統のリソースは全てこのデータの送受信に割り当てるよう調整してある』
「・・・・・・つまり、行動するために利用している部分以外を使ってるってことは、ずっと脳がフル稼働してるってことですか?」
『当然だ。必要も無いのに稼動させない部分など、ただの重りでしかない。ちなみに、戦闘行為等の激しい消耗が無ければその状態で1週間程度はエネルギー摂取が必要ない』
唖然とした。
レインは簡単に言ったが、脳を100%稼動させたままの状態で1週間も活動しているということは他の生物と比較しても尋常じゃない。
人間の脳には定期的に睡眠という休息が必要になる上に、起きている状態でもほとんどの部分が眠っているというのに、この子は――
『栄養源は・・・・・・そうだな、先ほどの資料にも記載があるが、基本的には何でもいい』
「なっ、何でも!?」
内線をPCの隣に移動させ、画面に表示されている資料を覗き込む。
――うん。やはり分からない。
『研究所にいる間は専用の薬液に全身を浸して、表皮全体から栄養を摂取させている。加えて電気――いわゆる充電のようなことも可能だ。我々人間のように食べたり、飲んだりする“食事”は出来ない事も無いが一番効率が悪い。時間もかかる上に大した量が補給できないからな。一度実験したきりやらせていない』
「そ、そうですか・・・・・・」
『ただ、味覚はあるぞ。感覚器として舌を残してあるからな』
「じゃあ好みの味とかもあるんですか?」
『いや、好みが出来るほど舌に情報を与えていない。・・・・・・好みが知りたければ、手料理でもふるまってやるといい』
それを聞いて、自分に得意料理が無いことをこの上なく悔やんだ。
『以上だ。質問は?』
「いえ、特には……」
『緊急でなければ今後メールで連絡しろ。では』
「っあ、ま、待った!」
淡々と電話を切ろうとするレインを引き留めた。
『なんだ』
「このパソコン、一体いつからあったんですか?」
『君が手術台の上で目覚める前だ。その時にはもう、この実験は決まっていたから
な』
……まあ、順番的には確かにそうだ。しばらく気が付かなかった僕も僕だ。
「あと、なかったはずの時計もあるんです。これは――」
『それも、同じタイミングだ。時間を認識できる生物が2体いる時は、時計があると
意思の疎通が上手くいく。2体の間に、基準がもたらされる訳だ』
うーん、と。
僕は眉間にしわを寄せつつ、もう少し突っ込んで聞いてみた。
「それはなんとなく分かりますが、別に一人の時に時計があってもよかったんじゃ
…?」
『ああ、それは実験の為にあえて外しておいた』
「ええ!?」
あの平和に平穏を上塗りしたような生活の中に、実験が組み込まれていた――
―……!?
「食事の回数を変えたり、部屋の温度を変えたり」
『あ、ああ、そういう……』
「あとは食事に薬物を入れたり、部屋にウイルスを散布していたくらいだ」
『………………』
思わず、頭を抱えた。
秘密裏にそんなことをされていたこと……というよりは、全く気が付かなかった自
分にショックを受けている。
『君のようなタイプは少しでも余計な情報を与えると、変に勘ぐって余計な体力を
使って無駄な思考をするからな。思考・行動分析においてノイズは最大限取り払いた
かった』
「……そうですか……」
これ以上はあまり聞きたくない・・・・・・そんな気持ちでレインとの通話を終える。
「・・・・・・ふう」
僕は小さなため息をつきながら、受話器をそっと置いた。
それから一呼吸おいて、ネメシスに語りかけてみる。
「今度、一緒に料理でもしてみようか」
ネメシスはその言葉を聞いて、一瞬「?」のような表情をしたものの、しばらく考え込んでからぱあっとした顔で首を縦に振ってくれた。
もしかしたら、『料理』という言葉を知らなかったのかもしれない。
それでもきっと、僕と一緒に何かをすることを喜んでくれているのかな。
――この子と、こんな会話ができる日が来るなんて。
「ふふ、楽しみだね」
お互いに空腹感がないことを確認した僕達は、また、何でもない時間を過ごすことになった。
……この子に趣味というものはあるんだろうか……?
と、疑問を浮かべるのも束の間、自分にも大した趣味がないことに気が付く。
趣味らしい趣味といえば読書くらいのもので、ミステリ、SF、恋愛、ハードボイルド等々基本的には何でも読むが、そこまで冊数を読んでいるかと聞かれると、『人並み』でしかない。
好みに合わなければ読むのをやめてしまうし、好きなものでも1回読めば満足する。
それに、あまり長時間読むのも得意じゃない。細かい文字を読んでいると、ついつい瞼が重くなってしまうのだ。
「(…そういえば)」
この部屋には当初から数冊の本が置いてあって、まだ読めていない本もいくつか残っている。
「―――本、読んでみる?」
僕は小さな本棚から何冊かを手に取り、机にまとめて置いた。
「うーん……そうだな、これとかどうかな」
その中から一冊選び、手渡す。
ネメシスは僕から本を受け取ると、その表紙をまじまじと見つめ、回してみたり、開いてみたり、振ってみたり……しばらく観察を続けた後、表紙のページを開く。
僕は思わず、喉をごくりと鳴らした。
まず、『本』というものの構成を理解したのだろう。これからいよいよ中身の確認に入るようだ。
「(気にいるかな……)」
今ネメシスが持っているのは、ページ数の比較的少ないSF短編集。僕もここにいる間に一度読んだが、いくつかの短編小説で構成されており、文量も少なめで軽く読むには一番適していると思ったのだ。
ところが、ネメシスはペラペラと素早くページをめくり、それが最後のページまで行くとすぐにぱたんと閉じて僕に返してきた。
「あんまり好みじゃないかな?そしたら……これは?」
少し悩んで、今度は現代を舞台にしたミステリ小説を選んだ。
上下巻で構成されており、後半の鮮やかな解決劇は爽快だが、最初は解説が多く中々読み進められない部分もある。
ところがネメシスは再び表紙からペラペラとページをめくり――先程より速い速度で――あっという間に裏表紙へ到達し、再び僕に本を返す。
「……好みを見つけるのは中々難しいね、じゃあ次は――」
僕が本を選ぶ前に、ネメシスは今読んだミステリ小説の下巻を手に取った。
そして再び表紙を開き、パラパラと一瞥だけして、閉じる。
「……」
その間、わずかに10秒弱。
ある考えが僕の頭に浮かんだ。
上巻の次に、下巻を選んだこと。
超短時間ではあるが、全ページを必ず一度開いていること。
「……もしかして、読んでる?」
ネメシスはこくりと頷いた。
ページをぱらぱらめくっていたのは決して読み飛ばしていた訳ではなかったのだ。
開いた瞬間にそこにある全ての文字情報を認識し、記憶できる――人間にもごく稀にそういう能力を持った人がいるとは聞いたことがあるが、いざ目の当たりにすると、あまりにも並外れたものに感動すら覚える――。
すっかり感心している僕を尻目に、ネメシスは次々と本をめくり、ついには本棚まで行って僕が読んでいない本も全て読み尽くした。
この部屋にあった数冊の本を読むのに5分とかからず、またしても僕達は暇を持て余すこととなる。
僕達は再びソファで隣り合って座った。
「ごめん、退屈させちゃって・・・・・・」
僕は浅めの溜息をつきながら、謝る。
せっかくこんなところに来てくれたのに、娯楽も何も無いなんてあまりにも申し訳なかった。
しかし、ネメシスは首を横に振った。
紫色の触手をつつつ・・・と僕の腕に這わせ、ごく軽い力で締めてきた。
これは、手をつないでる感覚なのだろうか――。
同じくらいの力で握り返すと、ネメシスは僕を見てこくりと頷いた。
言葉は無い。
でも、柔らかな眼差しが、慰めでもない、同情でもない言葉を僕に伝えてくれる。
「――ありがとう。そうだ、無理に楽しむものじゃない。もう、ゆっくりでいいんだね」
ネメシスは首を縦に振った。
そうだ。
もう、あの死の街――ラクーンシティ――にいるわけじゃないんだ。
生き急ぐように、走らなくていい。
隣を見れば、君がいる。
それから僕達は、手を握り合ったまましばらく何も喋らなかった。
心地よいやわらかさと熱が、僕に安らぎを与えてくれる。
ここに来てから、直接的に命の危険は無かったとはいえ、生殺与奪を握られているに等しい状況ではあった。
上等なホテルの一室のように見えても、ここはアンブレラの施設であることには変わりない。
飼い殺されているだけの暮らしに対する焦燥感は、拭えずに僕の中にずっと存在していた。
――でも、今は。
喪ったはずの最愛の人が、僕の手を握ってくれている。
未だアンブレラの手中にいることには変わりない状況でも、この子は安らぎを与えてくれる。
伝わってくる温かさが張り詰めていた糸を緩ませ、夢のような心地でゆったりとした時間を味わった。
「(いつか君と、本当に自由な所へ――)」
この子と、どこか遠くへ行って、誰にも支配されることなく静かに暮らせたらどんなにいいだろうか。
二人だけで、贅沢ではないけど満たされた時間を過ごせたなら、どんなに幸せだろうか。
――でもきっと、それは叶わない。
この子は特殊な肉体や性質を持っていて、それを完璧に把握しているのはアンブレラなんだ。
この子がこの子である以上、アンブレラという存在からは逃れられない。
どうしたら。
***
「・・・・・・どう・・・・・・したら・・・・・・」
自分の目がうっすらと開いているのが分かった。
「・・・・・・ん?」
ぱちぱち、と。
何度か瞬きをする。
体を起こすと、すぐ近くでネメシスが僕を眺めていた。
――体を、起こす――?
「・・・・・・――!!!」
慌てて見た時計には、23時5分、と表示されていた。
・・・・・・いつの間にか、ネメシスの肩に寄り掛かって眠ってしまっていたのだ。
「っあ、ごめん!僕いつの間に……!」
眠るつもりは全く無かった。
眠気だって感じていなかった。
それなのに、ゆっくりでいいとかそんなレベルを軽々と越え、いきなり目の前で眠りこけてしまうとは何事か。
それに加えて肩を数時間専有して、この子はその間動けない訳で。
ああ、どこをとっても救いようが無い――!!
「な、何て言ったらいいか・・・・・・」
謝罪の言葉を言い過ぎて、ついに言葉を失う。
そんな頭を抱える僕を見て、ネメシスは――
ふ、と。
「・・・・・・!?」
一度瞬きをすると、いつもの表情に戻っていた。
「(間違いない)」
しかし、この目ではっきりと認識できた。
「(今のは)」
――笑顔だ。
「(う……!)」
僕は思わず顔を下に向け、自分の表情を隠した。
この子はあまり感情を表に出さないものだから、これはあまりにも不意打ちで。
「(っか……っかわいい……!)」
この子の顔の造形は特殊で――唇が無い。
人為的に削ぎ落とされたような状態になっているため、人間が通常笑顔を作る時の『口角を上げる』という仕草は存在しない。
だが、頬が少し緩み、目元が綻んだのが分かった。
あまりにも一瞬で、あまりにも控えめで、あまりにも魅力的な笑顔。
それは、僕の心臓を再び煩くさせるには十分だった。
「(この子と)」
「(手、つないで)」
「(肩、借りて)」
「(……隣で寝てしまった)」
意識することで、今までこの子にしてきたことが、急に、更に恥ずかしくなり――
「ぼっ……僕、シャワー浴びてくるね!?」
これは、もう頭を冷やすしかない。
僕は逃げるようにシャワールームへと向かった。
己の行いを悔いながら深く溜息をついて、普段より2℃低い温度のシャワーを頭から浴びる。
先ほどまであの子と繋いでいた手をじっと見つめた。
「(あの子から、繋いできてくれた)」
二人で手を繋いだのは、これが初めてではない。
今や地図から消えた死の街ラクーンシティ、その時計塔で僕達は初めて手を繋いだ。
あの時は確か僕から繋いだんだっけ。
ニコライと出会い――ミハイルが死んだ時だ。
あの子は、アンブレラの兵器として忠実に任務を遂行した。
人を一人、いや、僕達のような標的だった人間以外も殺めてきたのかもしれない。
S.T.R.A.S.を――僕を殺すために。
でも、今は違う。
あの子が、あの子のままでいられるんだ。
誰にも操作されず、命令されず、自分だけの意思で。
「(こんな機会、もう無いのかもしれない)」
明日か、1時間後か。
いつ、どんな気まぐれでこの生活が終わるのかも分からない――。
そう思うと、いてもたってもいられなくなってしまう。
僕は急いでシャワールームから出て、濡れた体のままネメシスの元へ駆け出した。
本当に、あの子の事となると自分は冷静さを失ってしまう。
みっともないくらいに動揺して、呆れるくらいに間違える。
少しは落ち着きを見せて、頼れるところもあるんだぞ、と言いたいところだがそんな余裕は全く無い。
それほどまでに。
僕は、君が好きなんだ。
タオルを一枚だけ巻いて飛び出した僕の目に、先程と変わらない様子で座っているネメシスが映る。
僕は心底安堵して、歩みを遅めた。
手の届くところに、いてくれた―――。
ネメシスは僕の存在に気が付くと、視線をこちらに向けてくる。
しかし、僕の装いを認識するとぱっと目を逸した。
「あ、こんな格好でごめん!……あはは」
笑って誤魔化そうとしたものの、ネメシスから強い動揺の感情を感じた。
背中をきゅうっと縮こませ、指先をもじつかせるその様子は可愛らしいことこの上ないのだが、ずっとこの状態にしているのも申し訳ない。
「――急いで着てくる!!」
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