続・本編
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長く、長く。
風景の変わらない廊下を歩調を乱さずに進む白衣の男、レイン・ヘイルは、口を開く事も無くただ前だけを見つめて歩き続けていた。
「・・・あの、これから何処へ?」
僕がそう聞くと、レインは顔を動かさず視線を少しだけこちらに流したかと思うとまたすぐに正面を見つめ、大きくは無いがはっきりとした声で言った。
「君の身体に異常が見つかった。今はその異常を検査する為の場所へ向かっている」
『異常』。
聞き慣れた、いや、見慣れた、というべきか。
街を彷徨う生ける屍。肥大化した吸血昆虫。死肉を喰らう土蛇。そして今度は―――『僕』?
それを冗談だと捉えられるような度量は持ち合わせていなかったし、このレイン・ヘイルという人間が冗談を言う性格とも考えられなかった僕はあまりに急で突拍子も無いその言葉を噛み砕き、飲み込み、反芻し、更に細かく噛み砕く。
予想、検討、憶測、推量。
その全てが全て、僕の持つ知識では不可能だと気が付くまでに四秒、それを数えるのにまた一秒。声に出すのに四分の一秒。
「は?」
素直な感情が、それらを合計し切る前に口から零れた。
***
遡る事数十分、僕は相も変わらず言われた通りの「何もしない」生活を続けていた。
ホテルの一室を思わせる程の上等な部屋。
栄養バランスの取れた、決して不味くはない食事。
暖かく、柔らかく、今まで身体を休めたどんなベッドより心地良いソファ。
「・・・痛い」
この部屋に来てからというもの、僕は目覚める度に頬をつねっていた。
意味の無い事だと分かっているはずなのに自分の意志とは関係無くそれはただただ繰り返されてきて―――今ではもうこれが何度目なのかも覚えていない。
頬に残る鈍い痛みがこの環境を幻覚と思い込みたい自分を責めているようで、あまり良い気はしなかった。
むくりとソファから身体を起こす。
大きく伸びをして縮こまっていた骨と筋肉を一気に引き延ばし、息を吐きながら身体を緩めて何度か深呼吸すると脳に送られた酸素が目の前にかかるぼんやりとした靄を取り払う。
それでもしつこく頭の奥に残るずっしりと重い倦怠感は、それじゃあ物足りないと言わんばかりに僕を洗面台へと向かわせた。
「(あの時から、僕は一歩でも進んでいるのか?)」
何度見ても柔らかい照明の中の鏡に映る自分の姿は、依然と何も変わっていないような気がしていた。
あの時―――窓から飛び降りて、捕まって、目が覚めたらここにいて。
死に物狂いで掴み取った束の間の平穏な日常は、再び同じ者の手によってあっけなく奪われてしまって。
いや、奪われたどころかこの軟禁状態。抵抗の代わりに選んだ『内部からの調査』なんて選択肢は、最早無いに等しい状態だった。
自分がアンブレラにいると知った時、真っ先に感じたのは絶望だった。そして、恐怖。
内部から調査するなんて、自分が生き延びる為の勝手な理由作り。
僕は、命が惜しかった。
「・・・はは」
ラクーンシティから脱出し、生き延びた事。良くも悪くも自分を成長させたと、強くさせたと思っていたのに。
自分に対する憤りが腹の底で黒く燻り始める。いや、それだけじゃない何かも一緒になって僕の気分を一層滅入らせているんだ。
―――それが何かも分からないっていうのに、調査なんて。
意味の無い不安と焦燥に耐え兼ねた僕は蛇口を捻った。
手で水を受け取り、それを乱暴に顔に叩き付ける。水の冷たさと叩き付けた衝撃が、薄暗い気分を少しだけ晴らしてくれる。
口をすすいだ水を吐き捨て、手探りで近くにあったタオルを取る。
「(・・・まだだ)」
僕はまだ死んじゃいない。
僕にはまだ『抵抗』出来る意思がある。
そうだ、今じゃなくてもいい。僕がここで生存し続ける限り、好機は必ず来てくれる。
まだ全部八方塞がりという訳じゃない、きっと何か見落としている事があるはずだ。僕も、アンブレラも気付いてない『何か』が。
正面の鏡を睨むと、その中の自分もまた僕の目をきつく睨み返した。
―――アンブレラに、僕がしてやりたい事。
命の大切さを教えてやりたい?
弄ばれる者の気持ちを思い知らせてやりたい?
いや、そんな善人染みたいな事を今更言うつもりなんかない。
すごく単純な事なんだ。
誰でも分かっているような事を、面と向かって言ってやりたいだけなんだ。
そう、僕はただ―――
「如月聖」
鏡の中の自分の背後に音も無く立っていた白衣の男が、突然に僕の名前を呼ぶ。
安っぽいホラー映画にも似た演出に、僕の心臓は一瞬動きを止めた。
レインはそんな僕の挙動を笑う事も驚く事も無く、相も変らぬ平坦な声と表情で一言。
「来てもらおう」
***
「い、『異常』って?」
僕はお守り代わりにしている小さな黒いベルトを腕に付けながら、再び尋ねる。
レインは少し考える様な仕草をすると、暫くして口を開いた。
「そうだな、簡潔に言うとするなら、重層的防御体制における先天性免疫能力の非普遍性及び第三階層防御反応の高度な免疫記憶維持能力―――・・・聞き取れたか?」
勿論、僕は首を横に振る。
レインは肩をすくめ、素直で結構、というような顔をして先程より少しだけ分かりやすい言葉で話し始めた。
「君の身体には、少しだけ特殊な免疫能力が備わっている」
「免疫・・・ですか?」
僕自身、医学的な事については詳しく無いが『免疫』という言葉自体にあまり否定的なイメージは持っていない。『異常』と銘打つからにはさぞかしおぞましい事なのだろうと気構えした分拍子抜けした所はあるが、その本心は隠しておく事にした。
「君のその特殊な免疫能力は、我々のような一般人が持ち合わせているそれとは一線を画するレベルのものだ。例えば現時点で世界に存在する悪性細菌、神経ガス等の兵器・・・これらは全て、君には効力を示さないだろうな」
その言葉の一部が僕の眉をしかめさせ、その様子を見たレインが僕に尋ね返す。
「何か、思い当たる事でも?」
「ああ、いや・・・僕が貴方達に襲撃された時、部屋に催涙弾が投げ込まれて―――その時、確かに目や喉に痛みがありました。ガスを大量に吸わなかったから何とか動く事は出来たものの、あのままだったら完全に身動きが取れなくなっていたはず・・・なんて」
僕がそう言うとレインはうっすらと微笑、いや、嘲笑を見せて続けた。
「その思い付きは褒めてやりたいが・・・免疫は『盾』ではない。あくまでも『知識』だ。君は今まで、いや、その催涙弾を投げ込まれるその時までに一度でも催涙ガスを吸った事があるか?」
「い、いえ」
「だろうな。そもそも免疫と言うのは一度攻撃を受け、その後の同じような攻撃から宿主の肉体を守る為に発動する。つまり、一度も体内に入った事の無い物質には全くの無抵抗、という訳だ」
「それじゃあ」
「ああ、『効力を示さない』というのはあくまで『一度体内に接種した事がある』条件が揃えば、の話だ。・・・が、君を特別扱いする理由はそこじゃない」
「・・・?」
「覚えは無いか?君が実際に経験し、監視員の口からも告げられたものだと思っていたが」
『監視員』。
その一つの単語で、焦点の合わなかった話が全て合致した。
銀色の髪をした、巨躯の軍人。
零度の瞳の、冷酷な男。
僕とカルロスを欺き、利用し、殺そうとしたあの男。
あの子を傷付け、甚振り、消そうとしたあの男だ。
ニコライ・ジノビエフ―――彼はそう、あの時、僕がこの手で―――。
「・・・僕がワクチンを打って正常でいられるのがおかしいとかなんとか・・・確かそんな事を」
「そうだ、君の特異な体質―――それは、原子の基礎的な構造の物質が似ていれば、侵入してきた毒に見合った免疫を体内で作り出し、使役出来るというものだ」
「どういう事ですか?」
その問いにレインは少し考えた後、口を開いた。
「ウィルスを難解な数学の問題だと考えてみてくれ。そして君はその問題に挑もうとしている」
「はぁ」
「君は感染・・・つまりウィルスという問題を制限時間付きで与えられた。しかしそれは全く見た事も聞いた事も、無論解いた事など一度も無い問題だった」
心なしかレインの歩調が速くなり、僕はその横に少し遅れながら続く。
「君の体にとってかつて無い窮地、しかしそこにヒントが現れた」
「・・・ワクチン」
「そうだ。ワクチンという名の式の解法―――君はそれを把握し、理解し、応用し、見事にウィルスを解き明かした」
「で、でもあれは」
「分かっている。君が接種したワクチン、あれは一般の人間に使って効果が得られるような代物ではない。だが、ワクチンは元々ウィルスを弱毒化あるいは無毒化した物質。呼称こそ変わるものの、元のウィルスと基本的な構造は完全に同じものだ。接種後は副作用も無く現状に復帰―――だろう?」
あの時はただ助かった事に感謝して、ワクチンが不完全なものだとか、自分が特異な体質だとか、そんな事を知る由も無かった。
もし僕がその特異な体質でなかったなら、ワクチンを取って来てくれたカルロスの喉に噛みつき、腹を食い千切り、街に蔓延る死者達の仲間になっていたはずだったのか。
「・・・っ!」
想像しただけで背筋が凍る。
複雑な気分ではあるが、自分の特異らしい体質に心の中でそっと感謝した。
***
たどり着いたのは、大きな白い部屋。
踏み入ることすら憚られるような一面の純白―――強い光が差しているような白、というのが一番正しい表現だろうか―――潔癖過ぎる程の白色。
目の前には様々な機械が設置してあり、ガラスの仕切りの向こうにはただただ広い空間が広がっている。
どうやら何かを観察しながら、それを記録していく施設のようだ。
辺りを見回すと、レインと同じ白衣を着た数人の研究員達が液晶と向かい合い、キーボードのようなものにせわしなく指を滑らせている。
ここはどこかと僕が尋ねる前にレインが口を開いた。
「第2実験施設、主に戦闘能力の測定を行う為の施設だ」
「ここで僕の検査を・・・?」
「ああ。少し待っていてくれ。―――様子はどうだ」
僕から離れ、レインは一番近くにいた研究員に問い掛ける。
「問題ありません。システムはいずれも正確に作動しています」
「よし、始めろ」
レインのその一声が室内の空気に一瞬の緊張を走らせる。
「第2実験、開始します」
研究員の一人が発したその声と同時にガラスの奥で何かが動いたのが見えた。
「起動確認」
それはゆっくりとした動作で立ち上がり、一旦静止する。
それは静かに呼吸を繰り返し、周囲を見回す。
それは紫色の触手を小さく波打たせながら、こちらを向く。
―――目が、合った。
「・・・!」
何故かは分からないけど、反射的に僕は目を逸らしてしまった。
全身の筋肉が震え、肌から熱が吹き出すような感覚。
熱くて、冷たくて、何だか苦しい―――。
いつの間にか息を止めていたのに気が付いた直後、嫌な音が耳に入って来た。
あの街で飽きる程聞いた、肉が千切れ骨が折れる音。
眩しい程に白かったはずの床が、壁が、天井が、不気味な赤色に染まっていた。
何処からか沸いて来るゾンビを次々に挽き肉へと変貌させているのは、その中央で紫の触手を振り乱し、血飛沫に舞う黒衣の死神―――僕はそこに『復讐の女神』の姿を見た。
溢れ返るゾンビをまるでただの人形のように叩きのめし、砕き、圧し折る。
一言で表すならば、『壮絶』。
「活性死者、終了。DD、開始」
その言葉を合図に、ゾンビの代わりに今度はおぞましい程の巨大な虫が沸き始めた。
頻りに金切り声を上げ、我先にと復讐の女神へ攻撃を仕掛ける。
「ドレインディモス、ウィルスに接触し、巨大化を遂げた吸血虫―――ノミの変異体だ。君も見た事はあるだろう」
今まで黙ってその光景を眺めていたレインが突然僕に話し掛ける。
「はぁ、まぁ、何度かは・・・」
「君が街で遭遇したのは我々が意図して造ったものではなく、あくまで副産物。しかし今この場に居るのは更に実用的な改良を加え調整した新型だ」
ノミの怪物は触手の猛攻を跳ねるようにして軽々と回避していく。
確かにあの街にいた物とは違う、何倍も厄介そうな怪物だった。
「機動力―――元々跳躍力には飛び抜けた能力を持つ個体だった。今回はそれを制御し、近接戦闘に特化させた」
枝のようにか細い腕の先に白く輝く巨大な鉤爪が宙を凪いだ。触手の主は身を逸らしそれを避けるとすかさず触手を突き出した。
その隙をつかれ、ノミの怪物は真っ直ぐに腹部を貫かれ床に叩きつけられる。一際大きな断末魔を上げ、奇妙な色の体液を辺りに撒き散らしながら絶命したようだった。
「ウィルスを感染させる事無く攻撃が出来る部分は評価しよう。耐久性は犠牲にしてもいい、次回はさらに高い機動力を発揮してもらう」
レインの言葉を一人の研究員が一語一句正確かつ迅速にデータに収めていく。
「第3実験、ハンターβ開始」
どうやら昆虫の出番は終了したようで、次に現れたのは不気味な色をした怪物。
筋肉で構築された背中、グロテスクな色をした肉腫の付いた肩、その先に鋭く光るのは大きな象牙色の爪。その表面には皮を突き破り肉を掻き分けた、明らかに後から刺し込まれた様な跡がある。
赤と緑を混ぜた様な色をした肌に浮かぶのは絶え間無く脈動する血管は遠目からでもよく見えた。
その姿を見て、僕は恐怖するより先に哀れみを感じた。
本来なら右腕が存在するであろう場所には何も無かった。まるで根元から引き千切られたかの様に、雑な傷跡だけが残っている。
有るべきものを奪われ、欠けた部分には無理矢理捻じ込まれ。
継ぎ接ぎ―――そんな言葉さえ生温い。
「・・・あ!」
ハンターの大爪が触手の一部を刈り取った。
紫色の肉片が飛び散り、それを同じ色の体液が床や壁にへばり付く。触手の主は小さな悲鳴を上げ一歩後退した。
それを好機と見たのか、ハンターは触手の主へ更なる攻撃を仕掛ける。
しかし、もう見切られていた。
触手の主は紙一重でハンターの猛攻をかわし、一瞬の隙をついてその顔面を叩き割った。
迷い無く、躊躇い無く、まるで物でも壊す様に。
「・・・聖・・・、如月聖」
はっとして声のする方向を向く。
そこには何の表情も窺わせる事のない、レインの顔があった。
「待たせたな」
「・・・?」
「君の出番だ」
先程からの光景に呆然としていた僕には、レインの言葉の意味が分からなかった。
「な・・・」
レインはそんな僕を見下ろしながら、言う。
「最後の検体は君だ、如月聖」
風景の変わらない廊下を歩調を乱さずに進む白衣の男、レイン・ヘイルは、口を開く事も無くただ前だけを見つめて歩き続けていた。
「・・・あの、これから何処へ?」
僕がそう聞くと、レインは顔を動かさず視線を少しだけこちらに流したかと思うとまたすぐに正面を見つめ、大きくは無いがはっきりとした声で言った。
「君の身体に異常が見つかった。今はその異常を検査する為の場所へ向かっている」
『異常』。
聞き慣れた、いや、見慣れた、というべきか。
街を彷徨う生ける屍。肥大化した吸血昆虫。死肉を喰らう土蛇。そして今度は―――『僕』?
それを冗談だと捉えられるような度量は持ち合わせていなかったし、このレイン・ヘイルという人間が冗談を言う性格とも考えられなかった僕はあまりに急で突拍子も無いその言葉を噛み砕き、飲み込み、反芻し、更に細かく噛み砕く。
予想、検討、憶測、推量。
その全てが全て、僕の持つ知識では不可能だと気が付くまでに四秒、それを数えるのにまた一秒。声に出すのに四分の一秒。
「は?」
素直な感情が、それらを合計し切る前に口から零れた。
***
遡る事数十分、僕は相も変わらず言われた通りの「何もしない」生活を続けていた。
ホテルの一室を思わせる程の上等な部屋。
栄養バランスの取れた、決して不味くはない食事。
暖かく、柔らかく、今まで身体を休めたどんなベッドより心地良いソファ。
「・・・痛い」
この部屋に来てからというもの、僕は目覚める度に頬をつねっていた。
意味の無い事だと分かっているはずなのに自分の意志とは関係無くそれはただただ繰り返されてきて―――今ではもうこれが何度目なのかも覚えていない。
頬に残る鈍い痛みがこの環境を幻覚と思い込みたい自分を責めているようで、あまり良い気はしなかった。
むくりとソファから身体を起こす。
大きく伸びをして縮こまっていた骨と筋肉を一気に引き延ばし、息を吐きながら身体を緩めて何度か深呼吸すると脳に送られた酸素が目の前にかかるぼんやりとした靄を取り払う。
それでもしつこく頭の奥に残るずっしりと重い倦怠感は、それじゃあ物足りないと言わんばかりに僕を洗面台へと向かわせた。
「(あの時から、僕は一歩でも進んでいるのか?)」
何度見ても柔らかい照明の中の鏡に映る自分の姿は、依然と何も変わっていないような気がしていた。
あの時―――窓から飛び降りて、捕まって、目が覚めたらここにいて。
死に物狂いで掴み取った束の間の平穏な日常は、再び同じ者の手によってあっけなく奪われてしまって。
いや、奪われたどころかこの軟禁状態。抵抗の代わりに選んだ『内部からの調査』なんて選択肢は、最早無いに等しい状態だった。
自分がアンブレラにいると知った時、真っ先に感じたのは絶望だった。そして、恐怖。
内部から調査するなんて、自分が生き延びる為の勝手な理由作り。
僕は、命が惜しかった。
「・・・はは」
ラクーンシティから脱出し、生き延びた事。良くも悪くも自分を成長させたと、強くさせたと思っていたのに。
自分に対する憤りが腹の底で黒く燻り始める。いや、それだけじゃない何かも一緒になって僕の気分を一層滅入らせているんだ。
―――それが何かも分からないっていうのに、調査なんて。
意味の無い不安と焦燥に耐え兼ねた僕は蛇口を捻った。
手で水を受け取り、それを乱暴に顔に叩き付ける。水の冷たさと叩き付けた衝撃が、薄暗い気分を少しだけ晴らしてくれる。
口をすすいだ水を吐き捨て、手探りで近くにあったタオルを取る。
「(・・・まだだ)」
僕はまだ死んじゃいない。
僕にはまだ『抵抗』出来る意思がある。
そうだ、今じゃなくてもいい。僕がここで生存し続ける限り、好機は必ず来てくれる。
まだ全部八方塞がりという訳じゃない、きっと何か見落としている事があるはずだ。僕も、アンブレラも気付いてない『何か』が。
正面の鏡を睨むと、その中の自分もまた僕の目をきつく睨み返した。
―――アンブレラに、僕がしてやりたい事。
命の大切さを教えてやりたい?
弄ばれる者の気持ちを思い知らせてやりたい?
いや、そんな善人染みたいな事を今更言うつもりなんかない。
すごく単純な事なんだ。
誰でも分かっているような事を、面と向かって言ってやりたいだけなんだ。
そう、僕はただ―――
「如月聖」
鏡の中の自分の背後に音も無く立っていた白衣の男が、突然に僕の名前を呼ぶ。
安っぽいホラー映画にも似た演出に、僕の心臓は一瞬動きを止めた。
レインはそんな僕の挙動を笑う事も驚く事も無く、相も変らぬ平坦な声と表情で一言。
「来てもらおう」
***
「い、『異常』って?」
僕はお守り代わりにしている小さな黒いベルトを腕に付けながら、再び尋ねる。
レインは少し考える様な仕草をすると、暫くして口を開いた。
「そうだな、簡潔に言うとするなら、重層的防御体制における先天性免疫能力の非普遍性及び第三階層防御反応の高度な免疫記憶維持能力―――・・・聞き取れたか?」
勿論、僕は首を横に振る。
レインは肩をすくめ、素直で結構、というような顔をして先程より少しだけ分かりやすい言葉で話し始めた。
「君の身体には、少しだけ特殊な免疫能力が備わっている」
「免疫・・・ですか?」
僕自身、医学的な事については詳しく無いが『免疫』という言葉自体にあまり否定的なイメージは持っていない。『異常』と銘打つからにはさぞかしおぞましい事なのだろうと気構えした分拍子抜けした所はあるが、その本心は隠しておく事にした。
「君のその特殊な免疫能力は、我々のような一般人が持ち合わせているそれとは一線を画するレベルのものだ。例えば現時点で世界に存在する悪性細菌、神経ガス等の兵器・・・これらは全て、君には効力を示さないだろうな」
その言葉の一部が僕の眉をしかめさせ、その様子を見たレインが僕に尋ね返す。
「何か、思い当たる事でも?」
「ああ、いや・・・僕が貴方達に襲撃された時、部屋に催涙弾が投げ込まれて―――その時、確かに目や喉に痛みがありました。ガスを大量に吸わなかったから何とか動く事は出来たものの、あのままだったら完全に身動きが取れなくなっていたはず・・・なんて」
僕がそう言うとレインはうっすらと微笑、いや、嘲笑を見せて続けた。
「その思い付きは褒めてやりたいが・・・免疫は『盾』ではない。あくまでも『知識』だ。君は今まで、いや、その催涙弾を投げ込まれるその時までに一度でも催涙ガスを吸った事があるか?」
「い、いえ」
「だろうな。そもそも免疫と言うのは一度攻撃を受け、その後の同じような攻撃から宿主の肉体を守る為に発動する。つまり、一度も体内に入った事の無い物質には全くの無抵抗、という訳だ」
「それじゃあ」
「ああ、『効力を示さない』というのはあくまで『一度体内に接種した事がある』条件が揃えば、の話だ。・・・が、君を特別扱いする理由はそこじゃない」
「・・・?」
「覚えは無いか?君が実際に経験し、監視員の口からも告げられたものだと思っていたが」
『監視員』。
その一つの単語で、焦点の合わなかった話が全て合致した。
銀色の髪をした、巨躯の軍人。
零度の瞳の、冷酷な男。
僕とカルロスを欺き、利用し、殺そうとしたあの男。
あの子を傷付け、甚振り、消そうとしたあの男だ。
ニコライ・ジノビエフ―――彼はそう、あの時、僕がこの手で―――。
「・・・僕がワクチンを打って正常でいられるのがおかしいとかなんとか・・・確かそんな事を」
「そうだ、君の特異な体質―――それは、原子の基礎的な構造の物質が似ていれば、侵入してきた毒に見合った免疫を体内で作り出し、使役出来るというものだ」
「どういう事ですか?」
その問いにレインは少し考えた後、口を開いた。
「ウィルスを難解な数学の問題だと考えてみてくれ。そして君はその問題に挑もうとしている」
「はぁ」
「君は感染・・・つまりウィルスという問題を制限時間付きで与えられた。しかしそれは全く見た事も聞いた事も、無論解いた事など一度も無い問題だった」
心なしかレインの歩調が速くなり、僕はその横に少し遅れながら続く。
「君の体にとってかつて無い窮地、しかしそこにヒントが現れた」
「・・・ワクチン」
「そうだ。ワクチンという名の式の解法―――君はそれを把握し、理解し、応用し、見事にウィルスを解き明かした」
「で、でもあれは」
「分かっている。君が接種したワクチン、あれは一般の人間に使って効果が得られるような代物ではない。だが、ワクチンは元々ウィルスを弱毒化あるいは無毒化した物質。呼称こそ変わるものの、元のウィルスと基本的な構造は完全に同じものだ。接種後は副作用も無く現状に復帰―――だろう?」
あの時はただ助かった事に感謝して、ワクチンが不完全なものだとか、自分が特異な体質だとか、そんな事を知る由も無かった。
もし僕がその特異な体質でなかったなら、ワクチンを取って来てくれたカルロスの喉に噛みつき、腹を食い千切り、街に蔓延る死者達の仲間になっていたはずだったのか。
「・・・っ!」
想像しただけで背筋が凍る。
複雑な気分ではあるが、自分の特異らしい体質に心の中でそっと感謝した。
***
たどり着いたのは、大きな白い部屋。
踏み入ることすら憚られるような一面の純白―――強い光が差しているような白、というのが一番正しい表現だろうか―――潔癖過ぎる程の白色。
目の前には様々な機械が設置してあり、ガラスの仕切りの向こうにはただただ広い空間が広がっている。
どうやら何かを観察しながら、それを記録していく施設のようだ。
辺りを見回すと、レインと同じ白衣を着た数人の研究員達が液晶と向かい合い、キーボードのようなものにせわしなく指を滑らせている。
ここはどこかと僕が尋ねる前にレインが口を開いた。
「第2実験施設、主に戦闘能力の測定を行う為の施設だ」
「ここで僕の検査を・・・?」
「ああ。少し待っていてくれ。―――様子はどうだ」
僕から離れ、レインは一番近くにいた研究員に問い掛ける。
「問題ありません。システムはいずれも正確に作動しています」
「よし、始めろ」
レインのその一声が室内の空気に一瞬の緊張を走らせる。
「第2実験、開始します」
研究員の一人が発したその声と同時にガラスの奥で何かが動いたのが見えた。
「起動確認」
それはゆっくりとした動作で立ち上がり、一旦静止する。
それは静かに呼吸を繰り返し、周囲を見回す。
それは紫色の触手を小さく波打たせながら、こちらを向く。
―――目が、合った。
「・・・!」
何故かは分からないけど、反射的に僕は目を逸らしてしまった。
全身の筋肉が震え、肌から熱が吹き出すような感覚。
熱くて、冷たくて、何だか苦しい―――。
いつの間にか息を止めていたのに気が付いた直後、嫌な音が耳に入って来た。
あの街で飽きる程聞いた、肉が千切れ骨が折れる音。
眩しい程に白かったはずの床が、壁が、天井が、不気味な赤色に染まっていた。
何処からか沸いて来るゾンビを次々に挽き肉へと変貌させているのは、その中央で紫の触手を振り乱し、血飛沫に舞う黒衣の死神―――僕はそこに『復讐の女神』の姿を見た。
溢れ返るゾンビをまるでただの人形のように叩きのめし、砕き、圧し折る。
一言で表すならば、『壮絶』。
「活性死者、終了。DD、開始」
その言葉を合図に、ゾンビの代わりに今度はおぞましい程の巨大な虫が沸き始めた。
頻りに金切り声を上げ、我先にと復讐の女神へ攻撃を仕掛ける。
「ドレインディモス、ウィルスに接触し、巨大化を遂げた吸血虫―――ノミの変異体だ。君も見た事はあるだろう」
今まで黙ってその光景を眺めていたレインが突然僕に話し掛ける。
「はぁ、まぁ、何度かは・・・」
「君が街で遭遇したのは我々が意図して造ったものではなく、あくまで副産物。しかし今この場に居るのは更に実用的な改良を加え調整した新型だ」
ノミの怪物は触手の猛攻を跳ねるようにして軽々と回避していく。
確かにあの街にいた物とは違う、何倍も厄介そうな怪物だった。
「機動力―――元々跳躍力には飛び抜けた能力を持つ個体だった。今回はそれを制御し、近接戦闘に特化させた」
枝のようにか細い腕の先に白く輝く巨大な鉤爪が宙を凪いだ。触手の主は身を逸らしそれを避けるとすかさず触手を突き出した。
その隙をつかれ、ノミの怪物は真っ直ぐに腹部を貫かれ床に叩きつけられる。一際大きな断末魔を上げ、奇妙な色の体液を辺りに撒き散らしながら絶命したようだった。
「ウィルスを感染させる事無く攻撃が出来る部分は評価しよう。耐久性は犠牲にしてもいい、次回はさらに高い機動力を発揮してもらう」
レインの言葉を一人の研究員が一語一句正確かつ迅速にデータに収めていく。
「第3実験、ハンターβ開始」
どうやら昆虫の出番は終了したようで、次に現れたのは不気味な色をした怪物。
筋肉で構築された背中、グロテスクな色をした肉腫の付いた肩、その先に鋭く光るのは大きな象牙色の爪。その表面には皮を突き破り肉を掻き分けた、明らかに後から刺し込まれた様な跡がある。
赤と緑を混ぜた様な色をした肌に浮かぶのは絶え間無く脈動する血管は遠目からでもよく見えた。
その姿を見て、僕は恐怖するより先に哀れみを感じた。
本来なら右腕が存在するであろう場所には何も無かった。まるで根元から引き千切られたかの様に、雑な傷跡だけが残っている。
有るべきものを奪われ、欠けた部分には無理矢理捻じ込まれ。
継ぎ接ぎ―――そんな言葉さえ生温い。
「・・・あ!」
ハンターの大爪が触手の一部を刈り取った。
紫色の肉片が飛び散り、それを同じ色の体液が床や壁にへばり付く。触手の主は小さな悲鳴を上げ一歩後退した。
それを好機と見たのか、ハンターは触手の主へ更なる攻撃を仕掛ける。
しかし、もう見切られていた。
触手の主は紙一重でハンターの猛攻をかわし、一瞬の隙をついてその顔面を叩き割った。
迷い無く、躊躇い無く、まるで物でも壊す様に。
「・・・聖・・・、如月聖」
はっとして声のする方向を向く。
そこには何の表情も窺わせる事のない、レインの顔があった。
「待たせたな」
「・・・?」
「君の出番だ」
先程からの光景に呆然としていた僕には、レインの言葉の意味が分からなかった。
「な・・・」
レインはそんな僕を見下ろしながら、言う。
「最後の検体は君だ、如月聖」