続・本編
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靴の底が床を叩く音が、窮屈な薄暗闇に響く。
恐らくは作業用の通路なのだろう。どうやら非常用の照明は点検を疎かにされているらしく、しばらく目を凝らしてやっと伸ばした手の指先が見える程度の明度しか無い。
『その先の水路を横切れば、B-87実験室に直通している非常階段に出る』
「了解」
カルロスと別れ、僕が一人になった事を考慮してレインは敵が現れにくいであろうルートを選別した。
距離的に考えれば遠回りしてしまうのは確かだが、僕が死んだらそれで終わりなのだとレインは言う。
・・・確かに弾薬の量にも限りがあるし、傷口の出血は止まったが体力そのものが回復した訳じゃない。
急ぎたい気持ちもあったが今は素直にレインの指示に従い、水路を目指すことにした。
***
扉を開けると、そこには水路―――いや、水路と呼ぶには巨大過ぎるだろうか。
暗闇の奥で剛流がぶつかり合い、轟音を響かせ、僕の前を通り過ぎて、再び別の闇に呑まれていく。
照明の量は更に減り、僕が今立っている足元と向こう岸の足元に、蛍光灯の無機質な光が一つだけ見えた。
水路を横断する為の通路は一応用意されているが、通路の両側に手すりが設けられているだけ。階段の途中から水に浸っており、本来ここを通る時は水が流れていない状態の時だけなのだろう―――もっとも、今この状況でそれを期待する事も無いのだが。
「(よし)」
溜息をつくことも無く、僕は水路へ足を踏み入れた。
水深はおおよそ1m強、ちょうど僕の胸の高さ程度。
全身で受け止める水流は当然のように冷たく、激しい。それに加えて水から伝わる冷気が身体の芯を痛いほどに締めつけた。
だがそれはつまり、この水の中に「“何か”がいる」という可能性が限りなく0に近いという事なのだ。
ラクーンシティの一件で、水辺で良い思いをした覚えが全く無かった僕はそれだけに感謝しながら前へと進む。
「・・・っふう!」
しばらくして反対側の足場に辿り着き、服に吸い付いた水気を大雑把に払う。
何度か足が滑り、ひやりとした瞬間もあったが何とか無事に渡り切る事が出来た。
しかし、かなりの体力を消耗したのも事実。歩いただけとはいえ、激流に抵抗しながら身体中の筋肉を緊張させながら動く事は意外と身体に負荷がかかるものだ。
一度、深呼吸。
強張った全身の筋肉を緩ませ、また即座に力を込める。そうすることで適度に身体が脱力し、余分な緊張がほんの少しだけ解ける。
少しだけで良い。
今だけで良い。
だからあとちょっとだけ、僕の言う事を聞いてほしい。
僕には“今”、進まなくちゃいけない理由があるから。
***
僕の頭上と足元に延びる螺旋階段。その両端は闇に覆われていて、見通すことは出来なかった。
金属製の簡素な造りで、一段一段が高めに造られており、緊急時の移動以外は利用しないものだろう。
『そのまま87階まで移動、そこからはまた作業用の通路を利用して進んでもらう』
「今、何階ですか?」
『104階だ。20階弱ほど上ればいい』
「・・・了解」
肺の底から出そうになった溜息をぐっと呑み込み、背中に先程の水路の音を聞きながら、僕は最初の一段を飛ばし駆け上がる。
今この場所が104階で、20階弱“上る”と、87階。それはつまり、ここが地下施設だという事を意味していた。
いくらアンブレラが世界規模の企業といえ、これほど大きい施設を隠すことは不可能に近いだろう。それが軍事生物兵器の開発施設であるなら尚更だ。
ああ、じゃあ僕がいた部屋に窓が無かったのもそのせいなのか?
・・・いや、ここが地下施設じゃなかったとしても監禁している相手に外を見せるはずもないか。
脱走しようという考えを起こさなかった訳ではないが、いくら僕でもそれがどんなに無謀な事かは分かっている。
・・・それに、僕はここで働く事を曲がりなりにも承諾したんだし。
ひたすら機械的に階段を上り続けている間に、色んな事が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え。
それに気を取られている内に、あっさりと目的の階まで辿り着いてしまった。
「87階、到着しました」
『正面扉の脇に作業用通路に通じる扉がある。施錠はされていないはずだ』
「了解」
言われるままに辺りを見回すと、頑丈そうな電動式の二枚扉のすぐ横に目立たないように存在している扉があった。
ドアノブに手をかけると、確かに鍵がかかっていない。
―――この先だ。この先に、君が待っている。
心臓の鼓動がわずかに早くなったことに気が付いた。
「(・・・いつもこうなんだ)」
今まで不安と焦りに覆われていた気持ちが、今度は言い表せない他の感情に支配され始めた。
「(君の近くに行こうとすると、僕はいつも)」
苦しくて、痛むような。
それでいて、柔らかくて、くすぐったいような。
「(これを何て言ったらいいかは分からないけど)」
心で感じているだけじゃ、君に伝わらないから。
もっと、たくさん伝えたい事があるから。
“今”、行くよ。
***
「よっ・・・!と」
B-87実験室―――その天井に設置されていた換気口を蹴り開け、狭い隙間に身体を滑り込ませて室内へ降りる。
着地の足音は床を伝い、壁に跳ね返り、そこに“いる”全てに僕の存在を気付かせた。
左と、右と。
視界の端々に、“人間だったもの”が見えた。
爛れた喉を通過した空気は唸り声となって僕の耳に侵入する。
しかし、もうこの身体は震えない。
溜息をつくことも無く、銃弾の空箱を後ろに投げ捨ててハンドガンを構えた。
もうこの手は迷わない。
僕は銃の照準越しに、生ける屍達の姿を真っ直ぐに見つめる。
もうこの目は逸らさない。
実験室の中央にある気配―――水が抜かれた巨大な水槽の中。
平坦な声が告げた。
『目標地点だ』
***
「え?・・・換気口から?」
『そうだ』
数分前、作業用通路に足を踏み入れた直後にレインが言った。
目標の実験室へと入るのに扉ではなく、天井に取り付けられた換気口から入るように、と。
「了解。何か問題でも?」
『B-87実験室の扉は大型生物兵器搬送用の扉としても設計されている。その近辺が爆発物の設置場所であることも考慮し、あまり大きな動きはすべきではない』
「えーと、つまり、大きなものを運んだりするから扉も大きく造ってあって、そんな大きい扉が開閉すると結構目立つし、何がきっかけで爆発するか分からないから、ここは回り道した方がいいだろう・・・と」
『そういう事だ』
ようやく僕もレインの言い回しに慣れてきたようだ。
『部屋に合わせて換気口もその分大きめに造られている。君なら何とか入れるだろう』
「換気口はどこに?」
『部屋の外部周辺に露出した部分があるはずだ。探してみろ』
そう言われて僕はぐるりと頭上を見回す。
「あ」
壁―――手を伸ばして思い切りジャンプすれば届く程度の高さに、格子状の金属板が張られた換気口がひっそりと隠れているのが分かった。
僕はレインの許可を受け、換気口の四隅の留め具を撃ち抜く。留め具から解放された金属板はガランと音を立てて僕の足元に落ちた。
壁から四角く切り取ったような暗い穴が、音の反響からしてかなり奥まで続いている。
僕はハンドガンを収め、換気口の真下で強めに床を蹴った。
何とか換気口のふちに両手がかかり、そのまま腕力で自らの体を持ち上げて換気口の中へと滑らせる。相当窮屈だが、腹ばいの態勢なら移動に問題は無かった。
しかし換気口の中は完全な闇―――まぁ、それも当然だろう。通常、こんな所を好んで通る人間がいるわけがない。
僕は完全な闇に塞がれた視界に少し気後れしながら前へ進んだ。
「!」
しかしその不安は思ったよりも早く収まった。ひたすらに直進を続けていたら、実験室内から漏れ出ている淡い光がすぐさま進行方向に現れたのだ。僕は少しだけ速度を上げてそれに向かった。
「(ここか)」
眼下に先程と同じ様に格子状の金属の板がはめ込まれており、隙間から薄っすらと光が漏れている。
中の詳細な様子を確認出来る程ではないが、一度行ったことのある場所だ。ぼんやりとした物の配置でも、ここがあの実験室であることぐらいは分かる。
しかしこれほどの至近距離、かつ窮屈な場所で金属に向かって発砲するとなると予測不能な銃弾の軌道変化―――いわゆる跳弾の可能性が一気に高くなる為、銃での破壊は避けることにした。
僕は身体を少し前進させ、ちょうど足が換気口の上にあるような体勢になり、足の爪先でコンコンと金属板を叩く。感触からして大した厚さではないが、その分多少の衝撃に耐え得るように柔軟に作られているようだ。
体をひねり、仰向けの体勢をとった。この体勢で金属板に当たるのは、爪先ではなく踵。
踵で外しやすそうな部分をコツコツと軽く叩く。一番衝撃が吸収されにくいであろう留め具近辺に狙いを定め、僕は深く息を吸った。
そして出来る限り加速を付け―――振り下ろされた踵が金属板を歪ませ、留め具を引き砕いた。
「(思ったより脆いな)」
想像以上にあっさりと壊れた換気口を見てそう思ったが、きっとこの軍用ブーツのお陰でもある。
靴底は柔軟だが決して脆くは無く、さらに踵と爪先がやけに硬く作られている。金属と同等の硬度を誇るであろう材質だ。しかも蹴り足への衝撃がかなり軽減されていることから、近接戦闘を行う場合を考慮して設計されたことが窺える。
・・・“何”と戦う事を考慮しているのかは、最早言うまでも無いのだが。
僕はそんなことを考えながら、もう一度踵を強く振り下ろした。
***
『目標地点』―――ようやくB-87実験室への到達を達成したことをレインに告げられた僕は、すぐさま呻く屍達に意識を向けた。
まず左。僕は自らゾンビの方向へ歩きながら照準を素早く動かし、続けざまに一番手前のゾンビの両足の膝を撃ち抜いた。
そして動きが止まったほんの一瞬を狙い、僕は青白い斑点が浮かんだ顔面を思いっ切り蹴り上げる。
鈍く不快な音が足の爪先から脳に伝わり、それが脊椎の砕け潰れた音だと分かる前に、僕は次の標的へと移った。
再び照準を合わせ、二発の弾丸を脳天に撃ち込む。
撃ち出された鉛は旋回して分厚い頭蓋を貫き、腐敗した脳漿を破裂させた。
白い壁と床に赤黒い液体が飛び散り、見慣れたグロテスクな景色が辺りに拡がる。
更に次の標的に移ろうとした瞬間、突然肩を乱暴に掴まれ、あっという間に床に押し倒された。
屍は歓喜が入り混じった様な呻き声をあげながら、腐敗を始めた牙で僕の肉を求めようとする。
しかし焦るのでも無く、恐怖するのでも無く。
僕はとっさの判断でその牙の並んだ口腔に、きつく握り締めた左手を捻じ込んだ。
鋭い歯が肌を刺し、強靭な顎の力が僕の左の拳をそのまま噛み潰そうとする。
「―――ッ」
だが、これで“的”が固定された。
みしりと骨が軋む音がする前に、僕は零距離でゾンビの眉間に弾丸を撃ち込んだ。
屍から力が抜け切る前に、その腹を強く蹴り飛ばす。
肌に引っ掛かった牙が無理矢理引き剥がされたために、僕の左手に数本の裂傷が刻まれた。
だが、受けるべき傷は最小限に抑えられたと言っていいだろう。
―――身体が、熱い。
左手の痛みを上回る熱が、身体の底から沸き上がる。
異常な程にくっきりとした視界が、確実に敵の輪郭を追い。
指にかかる引き金の重さが、動く屍達を貫き。
爆ぜる火薬の煙の香りが、その瞬間の余韻を残し。
空気に混ざる血の味が、撃ち抜いた肉を感じさせ。
耳に聞こえる自らの心臓の鼓動が、自分がまだ生存している事を教えてくれた。
五感で感じる全てが現実を越えた現実感。
・・・だが、意識がはっきりしていない。
脳が働いていない。何も考えていない。
呼吸をしているのかどうかが自分でも分からない。
頭の中がぐらぐらして、足元もおぼつかない。
一つだけ分かるのは、この身体がそれでも動く理由。
この身体は、今。
生き残る為だけに動いている。
「――――――!!!!!」
獣のような雄叫びが遠くの方に聞こえた。
それが自分の発した声だと気付くのには少し時間が必要だった。
***
薄暗い部屋の様子に重なって、サーモグラフが表示される。
如月が咆哮をあげた直後の戦闘は―――凄まじい、の一言に尽きた。
まずα型の水槽に当たる事を考慮していたのか、銃を使うにもほとんど距離を取らない。腕が届きそうな距離、もしくは零距離での発砲が目立ち、途中で弾薬が切れるとすぐさまハンドガンは銃器から鈍器へと変貌した。
如月はあの実験体の特徴を既に掴んでいるのだろう。急所に一撃を与え、怯んだ隙に頭部へ強烈な打撃を叩き込んで確実に活動を停止させていく。
しばらくすると白を基調としていたはずの実験室は鮮血で溢れ、その中に一人、如月が立っていた。
敵を全て排除して一気に緊張状態から抜けたのか、がくりと膝から崩れ落ちる。
特異な体質を利用しT-ウィルスで外部組織を回復させることは可能でも、血液の供給がされた訳ではない。
あれだけの多量の出血をして、更に冷水に浸かったことで体温も極端に下がり、その上休む事無く身体を動かし続けたのだ。体力はほとんど残っていない―――いや、随分前に使い切っていたのではないかとも考えられる。
如月は顔についた血飛沫を乱雑に拭い、左耳に手を当てた。
そしてやっと乱戦の最中にヘッドホンを落とした事に気が付いたらしく、緩慢な動きで辺りを見回す。
だがこの惨状の中を探す気にならなかったのか、如月は諦めるようにふらついた足取りで水槽に向かった。
水槽に手をつき、α型の姿を確認した後、その背面に回り込む。
ハンドガンのグリップで水槽が破られ、大きな破片が出ないように慎重にガラスが崩されていく。
人一人が通れる程度の大きさの穴が空き、如月がそこから水槽の中へと入る。
如月の手がα型の肩に触れたが、α型は何の反応も見せない。
それを確認して、私は待機していた研究員に合図を出した。
「システム起動します」
一人の研究員の声と共に他の研究員達が与えられた手順を完璧に実行し、モニタの中の数値は数千回に及んだシミュレーションの通りのものとなった。
誤差は限りなく零に近く、今から約3.7秒後、α型は兵器として最良の状態で目を醒ますことになるだろう。
「・・・さぁ、どうなる?」
起動したその瞬間、お前の眼前にいるのは。
激しい動悸、上昇した体温、荒い息遣い、体中に浴びた返り血、肌に絡み付いた硝煙の臭い。
お前を傷付ける能力のある個体だ。
最優先で処理するべき標的だ。
例外など不必要だ。
兵器に感情など許されない。
お前には備わっているはずだ。
敵の首を容易く圧し折る力が。
敵の頭蓋を砕いても傷付かない身体が。
敵の脳を貫く為の強靭な器官が。
生まれる前からそう教えられてきただろう。
命令だ。
殺せ。
『如月聖』を殺せ。
恐らくは作業用の通路なのだろう。どうやら非常用の照明は点検を疎かにされているらしく、しばらく目を凝らしてやっと伸ばした手の指先が見える程度の明度しか無い。
『その先の水路を横切れば、B-87実験室に直通している非常階段に出る』
「了解」
カルロスと別れ、僕が一人になった事を考慮してレインは敵が現れにくいであろうルートを選別した。
距離的に考えれば遠回りしてしまうのは確かだが、僕が死んだらそれで終わりなのだとレインは言う。
・・・確かに弾薬の量にも限りがあるし、傷口の出血は止まったが体力そのものが回復した訳じゃない。
急ぎたい気持ちもあったが今は素直にレインの指示に従い、水路を目指すことにした。
***
扉を開けると、そこには水路―――いや、水路と呼ぶには巨大過ぎるだろうか。
暗闇の奥で剛流がぶつかり合い、轟音を響かせ、僕の前を通り過ぎて、再び別の闇に呑まれていく。
照明の量は更に減り、僕が今立っている足元と向こう岸の足元に、蛍光灯の無機質な光が一つだけ見えた。
水路を横断する為の通路は一応用意されているが、通路の両側に手すりが設けられているだけ。階段の途中から水に浸っており、本来ここを通る時は水が流れていない状態の時だけなのだろう―――もっとも、今この状況でそれを期待する事も無いのだが。
「(よし)」
溜息をつくことも無く、僕は水路へ足を踏み入れた。
水深はおおよそ1m強、ちょうど僕の胸の高さ程度。
全身で受け止める水流は当然のように冷たく、激しい。それに加えて水から伝わる冷気が身体の芯を痛いほどに締めつけた。
だがそれはつまり、この水の中に「“何か”がいる」という可能性が限りなく0に近いという事なのだ。
ラクーンシティの一件で、水辺で良い思いをした覚えが全く無かった僕はそれだけに感謝しながら前へと進む。
「・・・っふう!」
しばらくして反対側の足場に辿り着き、服に吸い付いた水気を大雑把に払う。
何度か足が滑り、ひやりとした瞬間もあったが何とか無事に渡り切る事が出来た。
しかし、かなりの体力を消耗したのも事実。歩いただけとはいえ、激流に抵抗しながら身体中の筋肉を緊張させながら動く事は意外と身体に負荷がかかるものだ。
一度、深呼吸。
強張った全身の筋肉を緩ませ、また即座に力を込める。そうすることで適度に身体が脱力し、余分な緊張がほんの少しだけ解ける。
少しだけで良い。
今だけで良い。
だからあとちょっとだけ、僕の言う事を聞いてほしい。
僕には“今”、進まなくちゃいけない理由があるから。
***
僕の頭上と足元に延びる螺旋階段。その両端は闇に覆われていて、見通すことは出来なかった。
金属製の簡素な造りで、一段一段が高めに造られており、緊急時の移動以外は利用しないものだろう。
『そのまま87階まで移動、そこからはまた作業用の通路を利用して進んでもらう』
「今、何階ですか?」
『104階だ。20階弱ほど上ればいい』
「・・・了解」
肺の底から出そうになった溜息をぐっと呑み込み、背中に先程の水路の音を聞きながら、僕は最初の一段を飛ばし駆け上がる。
今この場所が104階で、20階弱“上る”と、87階。それはつまり、ここが地下施設だという事を意味していた。
いくらアンブレラが世界規模の企業といえ、これほど大きい施設を隠すことは不可能に近いだろう。それが軍事生物兵器の開発施設であるなら尚更だ。
ああ、じゃあ僕がいた部屋に窓が無かったのもそのせいなのか?
・・・いや、ここが地下施設じゃなかったとしても監禁している相手に外を見せるはずもないか。
脱走しようという考えを起こさなかった訳ではないが、いくら僕でもそれがどんなに無謀な事かは分かっている。
・・・それに、僕はここで働く事を曲がりなりにも承諾したんだし。
ひたすら機械的に階段を上り続けている間に、色んな事が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え。
それに気を取られている内に、あっさりと目的の階まで辿り着いてしまった。
「87階、到着しました」
『正面扉の脇に作業用通路に通じる扉がある。施錠はされていないはずだ』
「了解」
言われるままに辺りを見回すと、頑丈そうな電動式の二枚扉のすぐ横に目立たないように存在している扉があった。
ドアノブに手をかけると、確かに鍵がかかっていない。
―――この先だ。この先に、君が待っている。
心臓の鼓動がわずかに早くなったことに気が付いた。
「(・・・いつもこうなんだ)」
今まで不安と焦りに覆われていた気持ちが、今度は言い表せない他の感情に支配され始めた。
「(君の近くに行こうとすると、僕はいつも)」
苦しくて、痛むような。
それでいて、柔らかくて、くすぐったいような。
「(これを何て言ったらいいかは分からないけど)」
心で感じているだけじゃ、君に伝わらないから。
もっと、たくさん伝えたい事があるから。
“今”、行くよ。
***
「よっ・・・!と」
B-87実験室―――その天井に設置されていた換気口を蹴り開け、狭い隙間に身体を滑り込ませて室内へ降りる。
着地の足音は床を伝い、壁に跳ね返り、そこに“いる”全てに僕の存在を気付かせた。
左と、右と。
視界の端々に、“人間だったもの”が見えた。
爛れた喉を通過した空気は唸り声となって僕の耳に侵入する。
しかし、もうこの身体は震えない。
溜息をつくことも無く、銃弾の空箱を後ろに投げ捨ててハンドガンを構えた。
もうこの手は迷わない。
僕は銃の照準越しに、生ける屍達の姿を真っ直ぐに見つめる。
もうこの目は逸らさない。
実験室の中央にある気配―――水が抜かれた巨大な水槽の中。
平坦な声が告げた。
『目標地点だ』
***
「え?・・・換気口から?」
『そうだ』
数分前、作業用通路に足を踏み入れた直後にレインが言った。
目標の実験室へと入るのに扉ではなく、天井に取り付けられた換気口から入るように、と。
「了解。何か問題でも?」
『B-87実験室の扉は大型生物兵器搬送用の扉としても設計されている。その近辺が爆発物の設置場所であることも考慮し、あまり大きな動きはすべきではない』
「えーと、つまり、大きなものを運んだりするから扉も大きく造ってあって、そんな大きい扉が開閉すると結構目立つし、何がきっかけで爆発するか分からないから、ここは回り道した方がいいだろう・・・と」
『そういう事だ』
ようやく僕もレインの言い回しに慣れてきたようだ。
『部屋に合わせて換気口もその分大きめに造られている。君なら何とか入れるだろう』
「換気口はどこに?」
『部屋の外部周辺に露出した部分があるはずだ。探してみろ』
そう言われて僕はぐるりと頭上を見回す。
「あ」
壁―――手を伸ばして思い切りジャンプすれば届く程度の高さに、格子状の金属板が張られた換気口がひっそりと隠れているのが分かった。
僕はレインの許可を受け、換気口の四隅の留め具を撃ち抜く。留め具から解放された金属板はガランと音を立てて僕の足元に落ちた。
壁から四角く切り取ったような暗い穴が、音の反響からしてかなり奥まで続いている。
僕はハンドガンを収め、換気口の真下で強めに床を蹴った。
何とか換気口のふちに両手がかかり、そのまま腕力で自らの体を持ち上げて換気口の中へと滑らせる。相当窮屈だが、腹ばいの態勢なら移動に問題は無かった。
しかし換気口の中は完全な闇―――まぁ、それも当然だろう。通常、こんな所を好んで通る人間がいるわけがない。
僕は完全な闇に塞がれた視界に少し気後れしながら前へ進んだ。
「!」
しかしその不安は思ったよりも早く収まった。ひたすらに直進を続けていたら、実験室内から漏れ出ている淡い光がすぐさま進行方向に現れたのだ。僕は少しだけ速度を上げてそれに向かった。
「(ここか)」
眼下に先程と同じ様に格子状の金属の板がはめ込まれており、隙間から薄っすらと光が漏れている。
中の詳細な様子を確認出来る程ではないが、一度行ったことのある場所だ。ぼんやりとした物の配置でも、ここがあの実験室であることぐらいは分かる。
しかしこれほどの至近距離、かつ窮屈な場所で金属に向かって発砲するとなると予測不能な銃弾の軌道変化―――いわゆる跳弾の可能性が一気に高くなる為、銃での破壊は避けることにした。
僕は身体を少し前進させ、ちょうど足が換気口の上にあるような体勢になり、足の爪先でコンコンと金属板を叩く。感触からして大した厚さではないが、その分多少の衝撃に耐え得るように柔軟に作られているようだ。
体をひねり、仰向けの体勢をとった。この体勢で金属板に当たるのは、爪先ではなく踵。
踵で外しやすそうな部分をコツコツと軽く叩く。一番衝撃が吸収されにくいであろう留め具近辺に狙いを定め、僕は深く息を吸った。
そして出来る限り加速を付け―――振り下ろされた踵が金属板を歪ませ、留め具を引き砕いた。
「(思ったより脆いな)」
想像以上にあっさりと壊れた換気口を見てそう思ったが、きっとこの軍用ブーツのお陰でもある。
靴底は柔軟だが決して脆くは無く、さらに踵と爪先がやけに硬く作られている。金属と同等の硬度を誇るであろう材質だ。しかも蹴り足への衝撃がかなり軽減されていることから、近接戦闘を行う場合を考慮して設計されたことが窺える。
・・・“何”と戦う事を考慮しているのかは、最早言うまでも無いのだが。
僕はそんなことを考えながら、もう一度踵を強く振り下ろした。
***
『目標地点』―――ようやくB-87実験室への到達を達成したことをレインに告げられた僕は、すぐさま呻く屍達に意識を向けた。
まず左。僕は自らゾンビの方向へ歩きながら照準を素早く動かし、続けざまに一番手前のゾンビの両足の膝を撃ち抜いた。
そして動きが止まったほんの一瞬を狙い、僕は青白い斑点が浮かんだ顔面を思いっ切り蹴り上げる。
鈍く不快な音が足の爪先から脳に伝わり、それが脊椎の砕け潰れた音だと分かる前に、僕は次の標的へと移った。
再び照準を合わせ、二発の弾丸を脳天に撃ち込む。
撃ち出された鉛は旋回して分厚い頭蓋を貫き、腐敗した脳漿を破裂させた。
白い壁と床に赤黒い液体が飛び散り、見慣れたグロテスクな景色が辺りに拡がる。
更に次の標的に移ろうとした瞬間、突然肩を乱暴に掴まれ、あっという間に床に押し倒された。
屍は歓喜が入り混じった様な呻き声をあげながら、腐敗を始めた牙で僕の肉を求めようとする。
しかし焦るのでも無く、恐怖するのでも無く。
僕はとっさの判断でその牙の並んだ口腔に、きつく握り締めた左手を捻じ込んだ。
鋭い歯が肌を刺し、強靭な顎の力が僕の左の拳をそのまま噛み潰そうとする。
「―――ッ」
だが、これで“的”が固定された。
みしりと骨が軋む音がする前に、僕は零距離でゾンビの眉間に弾丸を撃ち込んだ。
屍から力が抜け切る前に、その腹を強く蹴り飛ばす。
肌に引っ掛かった牙が無理矢理引き剥がされたために、僕の左手に数本の裂傷が刻まれた。
だが、受けるべき傷は最小限に抑えられたと言っていいだろう。
―――身体が、熱い。
左手の痛みを上回る熱が、身体の底から沸き上がる。
異常な程にくっきりとした視界が、確実に敵の輪郭を追い。
指にかかる引き金の重さが、動く屍達を貫き。
爆ぜる火薬の煙の香りが、その瞬間の余韻を残し。
空気に混ざる血の味が、撃ち抜いた肉を感じさせ。
耳に聞こえる自らの心臓の鼓動が、自分がまだ生存している事を教えてくれた。
五感で感じる全てが現実を越えた現実感。
・・・だが、意識がはっきりしていない。
脳が働いていない。何も考えていない。
呼吸をしているのかどうかが自分でも分からない。
頭の中がぐらぐらして、足元もおぼつかない。
一つだけ分かるのは、この身体がそれでも動く理由。
この身体は、今。
生き残る為だけに動いている。
「――――――!!!!!」
獣のような雄叫びが遠くの方に聞こえた。
それが自分の発した声だと気付くのには少し時間が必要だった。
***
薄暗い部屋の様子に重なって、サーモグラフが表示される。
如月が咆哮をあげた直後の戦闘は―――凄まじい、の一言に尽きた。
まずα型の水槽に当たる事を考慮していたのか、銃を使うにもほとんど距離を取らない。腕が届きそうな距離、もしくは零距離での発砲が目立ち、途中で弾薬が切れるとすぐさまハンドガンは銃器から鈍器へと変貌した。
如月はあの実験体の特徴を既に掴んでいるのだろう。急所に一撃を与え、怯んだ隙に頭部へ強烈な打撃を叩き込んで確実に活動を停止させていく。
しばらくすると白を基調としていたはずの実験室は鮮血で溢れ、その中に一人、如月が立っていた。
敵を全て排除して一気に緊張状態から抜けたのか、がくりと膝から崩れ落ちる。
特異な体質を利用しT-ウィルスで外部組織を回復させることは可能でも、血液の供給がされた訳ではない。
あれだけの多量の出血をして、更に冷水に浸かったことで体温も極端に下がり、その上休む事無く身体を動かし続けたのだ。体力はほとんど残っていない―――いや、随分前に使い切っていたのではないかとも考えられる。
如月は顔についた血飛沫を乱雑に拭い、左耳に手を当てた。
そしてやっと乱戦の最中にヘッドホンを落とした事に気が付いたらしく、緩慢な動きで辺りを見回す。
だがこの惨状の中を探す気にならなかったのか、如月は諦めるようにふらついた足取りで水槽に向かった。
水槽に手をつき、α型の姿を確認した後、その背面に回り込む。
ハンドガンのグリップで水槽が破られ、大きな破片が出ないように慎重にガラスが崩されていく。
人一人が通れる程度の大きさの穴が空き、如月がそこから水槽の中へと入る。
如月の手がα型の肩に触れたが、α型は何の反応も見せない。
それを確認して、私は待機していた研究員に合図を出した。
「システム起動します」
一人の研究員の声と共に他の研究員達が与えられた手順を完璧に実行し、モニタの中の数値は数千回に及んだシミュレーションの通りのものとなった。
誤差は限りなく零に近く、今から約3.7秒後、α型は兵器として最良の状態で目を醒ますことになるだろう。
「・・・さぁ、どうなる?」
起動したその瞬間、お前の眼前にいるのは。
激しい動悸、上昇した体温、荒い息遣い、体中に浴びた返り血、肌に絡み付いた硝煙の臭い。
お前を傷付ける能力のある個体だ。
最優先で処理するべき標的だ。
例外など不必要だ。
兵器に感情など許されない。
お前には備わっているはずだ。
敵の首を容易く圧し折る力が。
敵の頭蓋を砕いても傷付かない身体が。
敵の脳を貫く為の強靭な器官が。
生まれる前からそう教えられてきただろう。
命令だ。
殺せ。
『如月聖』を殺せ。