年上の男のひと
*
黛はテーブルに肘を突いてテレビを見ていて、赤司から表情は見えない。
勝手なセンチメンタルに浸っていたことに気付き、赤司は取り繕うように明るい声を出した。
「それで、なんだか今日はよくあの人と黛さんが重なって…不思議ですね、似てるところなんてひとつもないのに、同じ料理を気に入って同じようなセリフを言うんですから面白くて。もしかして俺の先輩になる人はみんな―――」
「うるせぇよ」
突然テレビの電源が落とされる。
「さっきからうるせぇんだよ黙れ」
黛が、低い声を投げ捨てた。赤司の猫のような瞳孔がゆるりと開く。
フローリングにリモコンが乱暴に放り投げられる。ガシャンと音がしたそれに目をやり、次に顔の見えないままの黛の右斜め後ろ後頭部に、赤司は目をやった。
じっと目の前の男を凝視しながら、一度聴覚にとらえたはずの言葉の内容を頭の中でリピートする。そしてそれが何か難解な比喩やよく知らないネットスラングなどではなく、文面通りの「ただの罵声」なのだと理解すると、赤司はゆっくりと腰を上げた。
ゴキゲン取りにコーヒーでも淹れ直してくるのかと思った黛のお気楽な思考回路は、次の瞬間「どわッ!」という間抜けな声と共に砕かれた。
テーブルが思いきり赤司側に引かれたのである。
「……ッてめ」
体重を預けて肘を付いていた黛は、当然そのまま床にべしゃりと横倒れた。即座に身を起こして赤司を睨み上げるが、当の本人は引いたテーブルの前に座り直し、何事もなかったようにお茶を啜っている。
「何しやがる!」
「腹が立ったので」
「は? こっちのセリフだろうが。聞いてもねぇのにクソつまんねぇ話延々としやがって迷惑なんだよ」
「ダラダラとテレビを見ていた分際で興味のない話くらい相槌打って聞き流す程度の度量もないんですか。年上が聞いて呆れますね」
「それこそこっちのセリフだわ。だったらお前がまず年下らしく振舞えよ」
「然るべき相手には俺だって礼儀を弁えます。黛さんに先輩としての威厳が皆無なのが問題なのではないですか?」
黛は苛立たしげに舌打ちした。赤司が冷たい目を向ける。
「……物には言い方というものがあります。いくら不快な思いをしたとしても、人に対して突然『うるさい』『黙れ』は余りにも無礼です。だから友達が少ないんですよ」
「だからお前にだけは言われたくねぇんだよ」
親でもコロスだの頭が高いぞだの言ってたのは誰だよ。友達の数に関しては不毛すぎる争いなのでやめておきたいが。
赤司は飲み干した湯呑みをゆっくりとテーブルに置き、はっきりと棘のある声で言った。
「……本当に、不思議なものですね。同じ先輩だというのに人徳からしてここまで違うなんて。しかも貴方の方がひとつ年上なのにこの有様です。虹村さんがいかに素晴らしい人だったか、比較対象のおかげでより鮮明にわかった気がします。その点に関しては感謝し―――」
黛のこめかみに青筋が浮いたのを見た。
と、思った次の瞬間には、テーブルを乗り越え胸ぐらを掴んできた黛に赤司は押し倒されていた。
動揺などするはずもない。この体勢を阻止しようと思えばいくらでも出来た。させてやっているのだ。赤司はどこまでも冷静に男を拒絶した。
「いい加減にしてください」
暴力でどうにかしようとしている時点で、赤司にとっては最大限の軽蔑に値するのだ。
「貴方は動物ですか? 気分を害したなら言葉で話し合わなければ何も解決しません。もう少し理性的になってください」
そう言って、付き合っていられないとばかりに肘で押しやり起き上がろうとする。
だが懲りもせず黛が手首を捕まえ強引に床に押し付けてきたので、苛立ちながら今度こそ振り解こうとした、が。
「ッ!」
獰猛な犬歯が見えたと思った次の瞬間には、あろうことか耳たぶ を噛まれて赤司は思わず全身を硬直させた。
……耳?
……耳をなぜ噛む?
これまでの人生でそんなことをされたことも、されることを想定したこともない。長らく人に触れられた記憶すら赤司にはない。
しかも痛い。人の耳を、噛む? なんなんだこの男。わけがわからない。本当に。
「黛さん」
肩を掴んで押し返すが、なんだか上手く力が入らない。
痛いし、気持ち悪い。
「やめてください、…っ離れろ」
混乱していたら調子に乗って繰り返し柔らかい骨を噛んでくる。気持ち悪い。いやだ、やめろ、
「黛さん!」
食むようにされ舌の生々しい感触と濡れた音を感じた途端、我に返り強く男を突き飛ばした。
心臓が変な鼓動を立てている。なんだこれは? 耳が濡れてる。気持ち悪い。
突き飛ばされた黛は、尻を突いたまましばらく濁った目を赤司に向け続けていた。心が読めない。エンペラーアイも上手く機能しない。この人がこんなに怒っているところは始めて見た。
やがて黛はのっそりと身を起こし、ベッドに背を預けた。
「――――――……はぁ~~~……」
距離を取って恐々とする赤司を無視し、立てた膝の間に顔を埋めて根深そうなため息を吐き出している。
その様子に、あ、と赤司は思った。
これは自己嫌悪に陥っている。「死にたい」とか思っているいつもの感じだ。間違いない。
いつもの彼だ。僅かながらホッとして、赤司もそろりと身体を起こした。
「……黛さん」
冷静になれ。冷静に。怒らせた。こちらも配慮に欠けていた。
「すみませんでした。一旦落ち着いてください」
「…………」
「俺も落ち着きます。……噛まないでください」
まだ警戒している。下手に刺激すると何をされるかわからない。怒って人の耳に噛み付く人間の頭の中なんて、赤司には到底理解が及ばない。
釘を刺された黛は、しばらく俯いたまま固まっていたが、はあっ、とまた一つ大きく息を吐いて天井を仰いだ。少しは冷静さを取り戻したように見えるその様子に、赤司は慎重に、しかし真摯に自分の気持ちを告げた。
「言いすぎました。謝ります」
そっと目を伏せる。
「比べたりしていないです。本当に」
誰を、何を、と言葉にしないのは、また黛が逆上するのを危惧してのことだ。
「嘘でも口にすべきではありませんでした。……申し訳ありませんでした」
反省し、うなだれているように見える赤司の様子を前髪の間からチラと見た黛は、ひどく苦々しい気持ちになった。
何やってんだ、オレは、という自己嫌悪が募る。
一方的に謝らせてフェアじゃない。というか、ここは自分が先に反省を示すべきだったんじゃねぇのか、「年上」として。後輩に頭を下げさせて、情けない。勝手にブチ切れて乱暴な真似をしたのはこっちなのに。頭が真っ白になって耳に噛み付いてしまった。なんで耳だ。嫌がる赤司からヤバいくらいのいい匂いがした……いや、謝れよ自分。何やってんだ。
こんな時ばかり素直な赤司が歯がゆくて仕方ない。くだらないケンカの時は簡単に頭を下げてなどやるものかという気の強さで挑んでくるくせに、本当に黛が機嫌を損ねた時、赤司はこうして自尊心など容易く捨てて、黛が離れて行く前に袖の端をそっと掴む。
そこに見え隠れするのは、怯えだ。この小さな王様がそうまでしても自分を必要としているのかと思い知らされるたび、黛は自惚れる自分を恥じ、そして抗いようのない優越感に頭を抱えてきたのだ。
そのくせ、他の「年上」に恋焦がれて見せる。
なんなんだよ。めちゃくちゃだろ。お前。
「…………」
黛は気力を掻き集め、もういい、となんとか気持ちを切り替えた。
気に食わないことは気に食わない。ついさっき駆られた衝動的な苛立ちは現在進行形で癪に障り続けている。
だが、自分が赤司に求められていることを自覚しているくせに、くだらない独占欲に煽られ激昂するなんて、まだ足りないもっと寄こせと言っているようなものだ。傲慢にもほどがある。赤司はオレのものでもなんでもないのに。
大人になれ、と黛は自身に念じた。年上。そうだ、オレは年上なんだから。
「――――赤司」
無表情で手のひらを差し出す。手っ取り早い謝罪のつもりだった。さっきの乱暴が尾を引いて赤司は一瞬尻込みしたが、そろりと距離を縮めて手を重ねてくる。
丁寧に、と意識しながら、黛はその手を握った。
「悪かった」
いつもの鷹揚さを取り戻した黛を、赤司はじっと見上げる。
「くだらねぇこと考えて勝手にキレてた。悪い」
「……くだらない?」
「そんなにそっちの『年上』がいいならそっち行けばいいだろって思ったんだよ」
赤司の目が丸くなる。
「そりゃ比べるまでもねぇよな。オレにリーダーシップなんざ小指の先ほどもないし…」
「いえ、ですから黛さんにそんなものは求めてないんです」
突如ダイレクトにディスられた黛が「ぐふ」と瀕死の声を上げたので、赤司は慌てて補足した。
「そうじゃなくて、黛さんが虹村さんだったら困るという話です」
「……は?」
「俺がいつ貴方にリーダーシップを求めましたか? それについて不満を述べましたか? 黛さんに、虹村さんと同じものを求めてなんかいない。逆も然りです。俺にとってお二人はまったく違う存在で、コンバートできるものでは決してありません」
「……それはそうだろうけど」
「同じ年上でも、先輩でも、それぞれ美点は違い、欠点も違います。好きなところも、俺が貴方がたに求めることも全然ちがいます。比べて考えたことなんて一度もありません」
「ほんとに」
「本当に」
必死に釈明する赤司に、ふーん、と自分の機嫌がわかりやすく立ち直るのを感じながら、黛は握った赤司の手をぷらぷらと振った。
「じゃあお前、オレには何を求めてんの」
問われてはじめて考えたというように、赤司は二、三度瞬きした。
「……なんでしょう。特にこうでなくては嫌だ、というものは思い浮かびませんが」
「どうでもいいのかよ」
「そういうわけでもなく…黛さんには、そうですね。今のままでいてほしいと思います。今の黛さんでいいです」
「適当か」
「今の黛さん『が』、いいです」
「……年上としての威厳も頼りがいもないって散々ボロクソ言ったよな」
「言ってないですよ」
「言ったよな?」
「言ったとしても、俺はそういう黛さんが好きなので。何も問題はないです」
にっこり。
そんな風に言い切られてしまっては言い返せる材料がない。初手で潰された。黛はつくづく胡乱な目つきで赤司を睨む。
そんな黛を受け流しながら、まぁでも、と赤司はしたり顔で目を閉じた。
「感情が制御できなくなると人に噛み付く癖だけは直して欲しいですね」
「は? ……癖じゃねぇよ」
「自発的積極行動だと? その方が問題ですが」
「お前じゃなきゃやらねぇよ」
強く押し付けてくるその言葉に、はは、と赤司は笑った。
「俺ならいいって話ではないです」
「お前ならいいだろ」
「よくないです」
まるで子どもの冗談に付き合うように、赤司は穏やかに笑いながら目を逸らす。
「お風呂沸かしますね」
なに笑ってやがると、力任せに引き寄せそうになるのを黛はなんとか堪えた。
捕まえたはずの赤司の手が自分の手から逃げていき、黛はベッドの淵に、ごつ、と頭をぶつけた。
***
多めに作りタッパーに残してあったチャーハンを電子レンジで温めている間、黛はぼんやりとキッチンに立っていた。
寝る前の夜食にどうしても我慢できなかった。もう夜中ですよとため息をついた赤司は、同じように「このチャーハンを美味いと言った年上の男」を思い出しているのだろうか。
その年上の男が、お前にこのチャーハンの作り方を聞かなかった理由がわかる。
わかるんだよな、と黛は低い天井を仰いだ。お前は無意識かもしれないが、たらしこまれたオレ達はどうすればいいんだよ。まったくホント、ふざけるな。
赤司は部屋で本を読んでいる。さっきまでの激情なんて何ごともなかったように、落ち着いて、綺麗な横顔を黛に向けている。
形のよい小さな耳が視界に入り、黛は長い長いため息を吐き出した。
部屋に戻って黙々とチャーハンを食べていると、ふと赤司がこちらを面白そうに見ている。
「なんだよ」
「美味しいですか」
嬉しそうに眺めてくるのが鬱陶しくて、無理やりスプーンを口に突っ込むと目を丸くしてからムッと眦を上げている。でもモグモグ食べているので餌付けみたいで少し楽しい。
なぁ赤司、お前はその男にも、求められれば家に行ってチャーハン作ってやったりする?
求められれば、その男にも肌に噛み付くことを許すのか?
妙に近い距離のまま、赤司は黛の瞳を静かに見上げた。
黛のこの目が好きだなと思う。不透明で濁っているように見えて、本当は思慮深く、率直で。
偽りのない高潔さを孕む、湖水のような黛千尋の瞳。
心の中で、赤司は黛に語りかける。
ねぇ黛さん。料理を作ったり、肌を許すことなんて、本当は何の意味もないんですよ。
そんなことで『赤司征十郎』は何も変わらない。
「黛さん、やっぱり、作り方教えますね」
「なんで」
「俺がいなくなってもご自分で作れるように」
穏やかにそう言って、赤司は黛の湯飲みにお茶を注いだ。
黛は無言のまま残りのチャーハンを掻きこみ、「ごちそうさま」と、小さく呟いた。
黛はテーブルに肘を突いてテレビを見ていて、赤司から表情は見えない。
勝手なセンチメンタルに浸っていたことに気付き、赤司は取り繕うように明るい声を出した。
「それで、なんだか今日はよくあの人と黛さんが重なって…不思議ですね、似てるところなんてひとつもないのに、同じ料理を気に入って同じようなセリフを言うんですから面白くて。もしかして俺の先輩になる人はみんな―――」
「うるせぇよ」
突然テレビの電源が落とされる。
「さっきからうるせぇんだよ黙れ」
黛が、低い声を投げ捨てた。赤司の猫のような瞳孔がゆるりと開く。
フローリングにリモコンが乱暴に放り投げられる。ガシャンと音がしたそれに目をやり、次に顔の見えないままの黛の右斜め後ろ後頭部に、赤司は目をやった。
じっと目の前の男を凝視しながら、一度聴覚にとらえたはずの言葉の内容を頭の中でリピートする。そしてそれが何か難解な比喩やよく知らないネットスラングなどではなく、文面通りの「ただの罵声」なのだと理解すると、赤司はゆっくりと腰を上げた。
ゴキゲン取りにコーヒーでも淹れ直してくるのかと思った黛のお気楽な思考回路は、次の瞬間「どわッ!」という間抜けな声と共に砕かれた。
テーブルが思いきり赤司側に引かれたのである。
「……ッてめ」
体重を預けて肘を付いていた黛は、当然そのまま床にべしゃりと横倒れた。即座に身を起こして赤司を睨み上げるが、当の本人は引いたテーブルの前に座り直し、何事もなかったようにお茶を啜っている。
「何しやがる!」
「腹が立ったので」
「は? こっちのセリフだろうが。聞いてもねぇのにクソつまんねぇ話延々としやがって迷惑なんだよ」
「ダラダラとテレビを見ていた分際で興味のない話くらい相槌打って聞き流す程度の度量もないんですか。年上が聞いて呆れますね」
「それこそこっちのセリフだわ。だったらお前がまず年下らしく振舞えよ」
「然るべき相手には俺だって礼儀を弁えます。黛さんに先輩としての威厳が皆無なのが問題なのではないですか?」
黛は苛立たしげに舌打ちした。赤司が冷たい目を向ける。
「……物には言い方というものがあります。いくら不快な思いをしたとしても、人に対して突然『うるさい』『黙れ』は余りにも無礼です。だから友達が少ないんですよ」
「だからお前にだけは言われたくねぇんだよ」
親でもコロスだの頭が高いぞだの言ってたのは誰だよ。友達の数に関しては不毛すぎる争いなのでやめておきたいが。
赤司は飲み干した湯呑みをゆっくりとテーブルに置き、はっきりと棘のある声で言った。
「……本当に、不思議なものですね。同じ先輩だというのに人徳からしてここまで違うなんて。しかも貴方の方がひとつ年上なのにこの有様です。虹村さんがいかに素晴らしい人だったか、比較対象のおかげでより鮮明にわかった気がします。その点に関しては感謝し―――」
黛のこめかみに青筋が浮いたのを見た。
と、思った次の瞬間には、テーブルを乗り越え胸ぐらを掴んできた黛に赤司は押し倒されていた。
動揺などするはずもない。この体勢を阻止しようと思えばいくらでも出来た。させてやっているのだ。赤司はどこまでも冷静に男を拒絶した。
「いい加減にしてください」
暴力でどうにかしようとしている時点で、赤司にとっては最大限の軽蔑に値するのだ。
「貴方は動物ですか? 気分を害したなら言葉で話し合わなければ何も解決しません。もう少し理性的になってください」
そう言って、付き合っていられないとばかりに肘で押しやり起き上がろうとする。
だが懲りもせず黛が手首を捕まえ強引に床に押し付けてきたので、苛立ちながら今度こそ振り解こうとした、が。
「ッ!」
獰猛な犬歯が見えたと思った次の瞬間には、あろうことか
……耳?
……耳をなぜ噛む?
これまでの人生でそんなことをされたことも、されることを想定したこともない。長らく人に触れられた記憶すら赤司にはない。
しかも痛い。人の耳を、噛む? なんなんだこの男。わけがわからない。本当に。
「黛さん」
肩を掴んで押し返すが、なんだか上手く力が入らない。
痛いし、気持ち悪い。
「やめてください、…っ離れろ」
混乱していたら調子に乗って繰り返し柔らかい骨を噛んでくる。気持ち悪い。いやだ、やめろ、
「黛さん!」
食むようにされ舌の生々しい感触と濡れた音を感じた途端、我に返り強く男を突き飛ばした。
心臓が変な鼓動を立てている。なんだこれは? 耳が濡れてる。気持ち悪い。
突き飛ばされた黛は、尻を突いたまましばらく濁った目を赤司に向け続けていた。心が読めない。エンペラーアイも上手く機能しない。この人がこんなに怒っているところは始めて見た。
やがて黛はのっそりと身を起こし、ベッドに背を預けた。
「――――――……はぁ~~~……」
距離を取って恐々とする赤司を無視し、立てた膝の間に顔を埋めて根深そうなため息を吐き出している。
その様子に、あ、と赤司は思った。
これは自己嫌悪に陥っている。「死にたい」とか思っているいつもの感じだ。間違いない。
いつもの彼だ。僅かながらホッとして、赤司もそろりと身体を起こした。
「……黛さん」
冷静になれ。冷静に。怒らせた。こちらも配慮に欠けていた。
「すみませんでした。一旦落ち着いてください」
「…………」
「俺も落ち着きます。……噛まないでください」
まだ警戒している。下手に刺激すると何をされるかわからない。怒って人の耳に噛み付く人間の頭の中なんて、赤司には到底理解が及ばない。
釘を刺された黛は、しばらく俯いたまま固まっていたが、はあっ、とまた一つ大きく息を吐いて天井を仰いだ。少しは冷静さを取り戻したように見えるその様子に、赤司は慎重に、しかし真摯に自分の気持ちを告げた。
「言いすぎました。謝ります」
そっと目を伏せる。
「比べたりしていないです。本当に」
誰を、何を、と言葉にしないのは、また黛が逆上するのを危惧してのことだ。
「嘘でも口にすべきではありませんでした。……申し訳ありませんでした」
反省し、うなだれているように見える赤司の様子を前髪の間からチラと見た黛は、ひどく苦々しい気持ちになった。
何やってんだ、オレは、という自己嫌悪が募る。
一方的に謝らせてフェアじゃない。というか、ここは自分が先に反省を示すべきだったんじゃねぇのか、「年上」として。後輩に頭を下げさせて、情けない。勝手にブチ切れて乱暴な真似をしたのはこっちなのに。頭が真っ白になって耳に噛み付いてしまった。なんで耳だ。嫌がる赤司からヤバいくらいのいい匂いがした……いや、謝れよ自分。何やってんだ。
こんな時ばかり素直な赤司が歯がゆくて仕方ない。くだらないケンカの時は簡単に頭を下げてなどやるものかという気の強さで挑んでくるくせに、本当に黛が機嫌を損ねた時、赤司はこうして自尊心など容易く捨てて、黛が離れて行く前に袖の端をそっと掴む。
そこに見え隠れするのは、怯えだ。この小さな王様がそうまでしても自分を必要としているのかと思い知らされるたび、黛は自惚れる自分を恥じ、そして抗いようのない優越感に頭を抱えてきたのだ。
そのくせ、他の「年上」に恋焦がれて見せる。
なんなんだよ。めちゃくちゃだろ。お前。
「…………」
黛は気力を掻き集め、もういい、となんとか気持ちを切り替えた。
気に食わないことは気に食わない。ついさっき駆られた衝動的な苛立ちは現在進行形で癪に障り続けている。
だが、自分が赤司に求められていることを自覚しているくせに、くだらない独占欲に煽られ激昂するなんて、まだ足りないもっと寄こせと言っているようなものだ。傲慢にもほどがある。赤司はオレのものでもなんでもないのに。
大人になれ、と黛は自身に念じた。年上。そうだ、オレは年上なんだから。
「――――赤司」
無表情で手のひらを差し出す。手っ取り早い謝罪のつもりだった。さっきの乱暴が尾を引いて赤司は一瞬尻込みしたが、そろりと距離を縮めて手を重ねてくる。
丁寧に、と意識しながら、黛はその手を握った。
「悪かった」
いつもの鷹揚さを取り戻した黛を、赤司はじっと見上げる。
「くだらねぇこと考えて勝手にキレてた。悪い」
「……くだらない?」
「そんなにそっちの『年上』がいいならそっち行けばいいだろって思ったんだよ」
赤司の目が丸くなる。
「そりゃ比べるまでもねぇよな。オレにリーダーシップなんざ小指の先ほどもないし…」
「いえ、ですから黛さんにそんなものは求めてないんです」
突如ダイレクトにディスられた黛が「ぐふ」と瀕死の声を上げたので、赤司は慌てて補足した。
「そうじゃなくて、黛さんが虹村さんだったら困るという話です」
「……は?」
「俺がいつ貴方にリーダーシップを求めましたか? それについて不満を述べましたか? 黛さんに、虹村さんと同じものを求めてなんかいない。逆も然りです。俺にとってお二人はまったく違う存在で、コンバートできるものでは決してありません」
「……それはそうだろうけど」
「同じ年上でも、先輩でも、それぞれ美点は違い、欠点も違います。好きなところも、俺が貴方がたに求めることも全然ちがいます。比べて考えたことなんて一度もありません」
「ほんとに」
「本当に」
必死に釈明する赤司に、ふーん、と自分の機嫌がわかりやすく立ち直るのを感じながら、黛は握った赤司の手をぷらぷらと振った。
「じゃあお前、オレには何を求めてんの」
問われてはじめて考えたというように、赤司は二、三度瞬きした。
「……なんでしょう。特にこうでなくては嫌だ、というものは思い浮かびませんが」
「どうでもいいのかよ」
「そういうわけでもなく…黛さんには、そうですね。今のままでいてほしいと思います。今の黛さんでいいです」
「適当か」
「今の黛さん『が』、いいです」
「……年上としての威厳も頼りがいもないって散々ボロクソ言ったよな」
「言ってないですよ」
「言ったよな?」
「言ったとしても、俺はそういう黛さんが好きなので。何も問題はないです」
にっこり。
そんな風に言い切られてしまっては言い返せる材料がない。初手で潰された。黛はつくづく胡乱な目つきで赤司を睨む。
そんな黛を受け流しながら、まぁでも、と赤司はしたり顔で目を閉じた。
「感情が制御できなくなると人に噛み付く癖だけは直して欲しいですね」
「は? ……癖じゃねぇよ」
「自発的積極行動だと? その方が問題ですが」
「お前じゃなきゃやらねぇよ」
強く押し付けてくるその言葉に、はは、と赤司は笑った。
「俺ならいいって話ではないです」
「お前ならいいだろ」
「よくないです」
まるで子どもの冗談に付き合うように、赤司は穏やかに笑いながら目を逸らす。
「お風呂沸かしますね」
なに笑ってやがると、力任せに引き寄せそうになるのを黛はなんとか堪えた。
捕まえたはずの赤司の手が自分の手から逃げていき、黛はベッドの淵に、ごつ、と頭をぶつけた。
***
多めに作りタッパーに残してあったチャーハンを電子レンジで温めている間、黛はぼんやりとキッチンに立っていた。
寝る前の夜食にどうしても我慢できなかった。もう夜中ですよとため息をついた赤司は、同じように「このチャーハンを美味いと言った年上の男」を思い出しているのだろうか。
その年上の男が、お前にこのチャーハンの作り方を聞かなかった理由がわかる。
わかるんだよな、と黛は低い天井を仰いだ。お前は無意識かもしれないが、たらしこまれたオレ達はどうすればいいんだよ。まったくホント、ふざけるな。
赤司は部屋で本を読んでいる。さっきまでの激情なんて何ごともなかったように、落ち着いて、綺麗な横顔を黛に向けている。
形のよい小さな耳が視界に入り、黛は長い長いため息を吐き出した。
部屋に戻って黙々とチャーハンを食べていると、ふと赤司がこちらを面白そうに見ている。
「なんだよ」
「美味しいですか」
嬉しそうに眺めてくるのが鬱陶しくて、無理やりスプーンを口に突っ込むと目を丸くしてからムッと眦を上げている。でもモグモグ食べているので餌付けみたいで少し楽しい。
なぁ赤司、お前はその男にも、求められれば家に行ってチャーハン作ってやったりする?
求められれば、その男にも肌に噛み付くことを許すのか?
妙に近い距離のまま、赤司は黛の瞳を静かに見上げた。
黛のこの目が好きだなと思う。不透明で濁っているように見えて、本当は思慮深く、率直で。
偽りのない高潔さを孕む、湖水のような黛千尋の瞳。
心の中で、赤司は黛に語りかける。
ねぇ黛さん。料理を作ったり、肌を許すことなんて、本当は何の意味もないんですよ。
そんなことで『赤司征十郎』は何も変わらない。
「黛さん、やっぱり、作り方教えますね」
「なんで」
「俺がいなくなってもご自分で作れるように」
穏やかにそう言って、赤司は黛の湯飲みにお茶を注いだ。
黛は無言のまま残りのチャーハンを掻きこみ、「ごちそうさま」と、小さく呟いた。
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