年上の男のひと

      ***


ノートパソコンで調べものとにらめっこしていた黛が集中力を切らせ、背伸びをしたあと気だるげに「腹減った」と呟いたので、赤司は呆れた。
「ろくに動いてもいないくせに」
「あーさっきのチャーハン喰いてぇな…」
テーブルの定位置に戻り生徒会の議事録をまとめていた赤司は、手を止めて苦笑した。そういえば先刻も美味かったと言っていたが、度重なる催促にこれは相当だなと思う。
「そんなに気に入ったんですか?」
テーブルに突っ伏した黛の頭がこくりと無言で肯定する。普段は身長差のせいでなかなか見えないつむじを赤司がシャーペンの先でえいと押すと、黛はやめろと不機嫌な顔を上げた。
「でしたら作り方を教えますよ、簡単ですし。その方が手っ取り早いでしょう」
「なんでだよ。お前が作るからいいんだろ」
非常識な奴だなと言わんばかりに顔をしかめられ、赤司はきょとんとする。まるで価値やありがたみが失われるといった口調だが、なぜそうなるのか。
それと同時にふいに懐かしい記憶が思い返され、思わず吹き出すように口元に手を当ててしまった。怪訝そうな顔に、すみませんと眉尻を下げて笑いを収める。
「本当に、なんだか今日は…妙に、懐かしいことばかりで」
首をかしげる黛に、赤司は微笑んだ。
「実はさっきの夕飯―――あのチャーハンは、黄瀬に教えてもらったんですよ」
「……きせ? あの黄瀬?」
黛は意外な名前に、さらに不可解な面持ちで問いかけた。赤司がはい、と目を細めて頷く。
「黄瀬に作り方を教えてもらって、俺が作ったんです。それを食べて、黛さんと同じようにとても気に入ってくれたのが、帰り道に少し話した虹村さんという先輩で……」




      ***


昔話である。
当時のキャプテン虹村修造主催「男子バスケ部交流会」、別名「調理室を借り切ってみんなでメシを喰う会」は、赤司が帝光中学2年の春に行われた。
あとで聞いたところによると、これは白金監督発案の気まぐれ面白企画だったらしい。「同じ釜の飯」効果で仲間意識をより高めることが目的…ということだが、つまり厳しい練習の合間の、貴重な息抜きを与えてくれたということだろう。
超強豪校といえど、内訳はただの中学生。調理実習は無条件で好きだし、教師もいなければ無法地帯だ。物を壊さない、食べ物を無駄にしないという規則だけを守ればあとはやりたい放題で、この時ばかりは皆大いにはしゃぎ騒いだ。

のちにキセキの世代と呼ばれる5人と黒子テツヤも、さぁどうする? と顔を突き合わせていた。
集められた食材を見て、よし!とフライパンを手に取ったのは意外にも黄瀬涼太だ。女性の多い家庭なのと、元々器用なのも相まって簡単なものなら朝飯前だと言う(ちなみにこの時桃井さつきの動きは青峰大輝が必死で封じ込んでいた)。
「じゃあ任せたわ」「きーちゃんファイト☆」「お手並み拝見といくのだよ」「黄瀬ちんお菓子も作って~」「ゆで卵なら負けません」とフリーダムすぎる連中にあやうく全仕事を押し付けられそうになった黄瀬だったが、赤司の協力も仰ぎなんとか全員に役割分担を指示して、サラダやスープなど幾つかの品数は順調に完成していった。
しかし。

「赤司っちお願い~! オレにはむり~! むりっス~!」
垂れ下がった黄色いしっぽと耳が見える。目の前で手のひらを合わされた赤司はため息をついた。
「なぜ俺が…もうみんなの分は作ったんだろう、あと一人前くらいさっさと」
「キャプテンに作るのなんかいやっスよ~! つーかむり! 絶対むり! だって口に合わなかったら絶対ちゃぶ台返しとかされるんスよ! そんなんされたらオレ泣くっスから!」
赤司に泣きつきながら黄瀬が指さした方向には、教卓の前、腕を組み王様のごとく玉座に君臨する虹村の姿。
お祭り騒ぎの中学男子の間でいつの間にか「出来た料理をキャプテンに献上するごっこ」が流行っていて、差し出された料理を王様ばりに味見しては、「まずい! やり直せ!」とか「うまい! 合格だ!」とか虹村もノリノリなのである。何をやってるんだあの人は、と赤司も若干呆れていたのだが。
「……虹村さんはそんなことしないよ。大体、黄瀬が作って口に合わないなら俺が作っても同じだろう」
「だいじょーぶっスよ! 赤司っちならどんだけクソまずくてもキャプテン絶対怒んないから!」
シャラッと煌く笑顔に無言になる。意味がわからない。
黄瀬を諭す面倒より作った方が早いと判断し、赤司はこの時生まれてはじめて、教えられるがままに料理を作った。
献立はチャーハン。ツナ缶とレタス、ウィンナー、卵、鶏ガラスープとマヨネーズ等々。シンプルだが万人受けする料理で、調理自体も簡単だった。黄瀬の教え方も上手かったのだろう、はじめてとは思えない手際の良さで赤司はあっという間にフライパンを操るコツを掴み、ご所望のチャーハンを作り虹村に差し出した。
虹村修造はとにかくよく食べ、しかもすぐに腹の減る人だった。体育館の壁際に赤司と2人並んで立っている時、淡白なツラ構えが怖すぎると恐れられていた彼が二言目に呟いていたのは「赤司、腹減った」という子どものような不満だった。
そのたびに「あと一時間半です」「あと30分です」「もう少しで終わります」と律儀に残り時間を告げ続けその威厳を陰ながら保たせていた赤司は、実によくできた後輩であり、副主将だったと言えるだろう。
 不味かったらちゃぶ台云々などと黄瀬は言うが、不味かろうが美味かろうが腹が減っていればなんだって食べる人だ。気に入らなくても、本気で怒られるということはない。多分。
 赤司が目の前に皿を置くと、虹村はおっ、と面白そうに目を瞠った。
「赤司か。お前料理とかできんのか?」
「いえ、始めてなんですが…」
赤司は複雑な笑みを浮かべる。
「味見はしましたが、お気に召さなかったら申し訳ありません」
黄瀬が赤司の背中にぴとりと貼り付く。全員が恐々と見守る中、スプーンに豪快に盛ったチャーハンを眉間に皺を寄せたままモグモグ食べ続けていた虹村は、半分ほど食べ終えたところで顔を上げ、力強い真顔を赤司に向けた。
その張り詰めた表情に全員が息を呑む。
「――――赤司」
「はい」
「お前週3でオレんち来てコレ作れ」
「はぁ」
背後で仲間がずっこけた。
「いやいやいや!! キャプテンどんだけ気に入ってんスか!!」
「赤司も『はぁ』じゃないのだよ!」
「作る気ですか赤司くん、週3で」
「てか週3でチャーハンて多くね?」
「峰ちんつっこむとこそこなの~?」
「赤司くんすご~い! 今度私にも教えて~!」
「やめろさつき!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ彼らの横で、実のところ本当に口に合わないと言われたらどうしよう、と危惧していた赤司は、思いのほか好感触だったことにこっそり胸を撫でおろしていた。
「てかずるいキャプテン! 赤司っちにそのチャーハン教えたのオレっスからね! 褒めるならオレのこと褒めて!」
「うるせーぞ5秒で水持って来い」
「ウッス!」
「……あの、虹村さん、そんなに気に入られたなら、作り方をお教えしましょうか」
差し出がましいだろうかと思いつつも、週3で通うより現実的ですしと提言してみる。
すると、部活以外の時は大体気だるげに下ろされている虹村のまぶたの奥の瞳が、心底不可解そうに「はぁ?」と言って赤司を見た。
「なんでだよ。お前が作るからいーんだろうが」
彼の少しとんがった特徴的な口唇が不満そうにそう言ったのをどういう意味だろうと考えながら、赤司はまた呆けたように、「はぁ」と返したのだった。


      ***


「―――とにかく手が早い人でした」
いわゆる不良とかヤンキーとかの枠は越えていた、と赤司は話す。
「不真面目な部員は問答無用で鉄拳制裁で。ヤキを入れる…というのでしょうか。バスケ部なのにカラテでノックアウトさせたりするので、さすがにそれは俺が止めていたんですが」
当時の紫原いわく、『若い頃に悪いことは一通りやり尽くし今は若者の更生に当たっているおっさん臭がする』とのことで、紫原の洞察力は鋭いな、と内容そっちのけで感心したものだ。
「でも無意味に力でねじ伏せていたわけではなく、きちんと筋の通った人だったんですよ。確かにカッとなりやすく冷静さを欠くこともありましたが、実力や人望に関しては非の打ち所がなかったし、部員みんながあの人のことを慕って、その背中を信じてついて行っていました。もちろん、俺も」
パチ、パチと忙しなくテレビのチャンネルが変わる。黛はへぇと生返事を返した。

無冠の五将がはっきりと頭角を現す以前、虹村修造も中学最強とまで謳われた、中学バスケ界期待の選手だった。しかし、中学3年生今年の全国最強は、と雑誌やメディアがお得意の順位付けに乗り出したまさにその頃、彼は主将を降り、表舞台から一歩退いたのだ。
まだ2年生であった赤司征十郎に全てを託して。
「あの時の俺は、素直にあの人の言葉を受け入れました。驚きも、不安もなかった。ただ目の前の景色が、突然がらんどうのように感じたことだけを覚えています」

『よろしく頼むぜ。―――赤司主将キャプテン
信頼も、責任も、自分という後輩もそこに残し、廊下の向こうへと去っていく背中から目を離せず、赤司は足元がふわふわするような、経験したことのない覚束なさを感じていた。
いつでも目の前にあった大きな背中。いつでも自分たちを守ってくれた、頼りがいのある背中。尊敬していた。ずっと、この人の片腕に恥じない存在であろうとしていた。どんなに手を伸ばしてももう届くことはなく、突然その場にひとりポツリと放り出された時、自分がどれほど浅はかなまでにこの人を慕っていたのか、赤司は思い知った。
今なら、あの時胸の底に沸いた感情の正体がわかる。
複雑なことじゃない。ただ単純に、「寂しい」と思っていたはずなのに。
虹村の事情、急速に成長する仲間たちの実力、『赤司征十郎』としての立場、いずれは背負わねばならない必然という義務。
様々な現実が当時の赤司を鎖のように縛りつけ、そんな瑣末な感情を認識することさえ許さなかった。父親の病気で手一杯なはずの虹村に、支えとなる言葉をただひとこと欲しいとさえ言えなかった。
だけど、だからこそ残ったわずかな感情が全てを物語っていた。赤司は、虹村のことを人として本当に、好きだったのだ。だから見送るしかできなかった。
「……恨みごとのようですが」
ぬるくなったお茶に口を付け、赤司は目を閉じて微笑んだ。
「恨みなんてひとかけらもなくて…今でも俺があの人に抱いているのは、純粋な傾募の念です。あんな先輩にはきっと二度と出会えない。中学の俺は虹村さんに出会えて、とても幸運だったのだと心から思います」
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