年上の男のひと

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「お前はほんと、性格に難さえなければ一家に一台って感じだな」
「よくそんな失礼なことを面と向かって言えますね」
「お前以外に言うかよ。こう見えて空気読むのは得意なんだよ」
「……自分が空気みたいな存在感のくせに」
家に帰るまでなんとなく不機嫌なオーラをまとっているように思えた黛だが、夕飯後のこの通常営業っぷりに、赤司はため息を漏らした。
この俺に向かってよくも平然とそんな口がきけるものだと思う。それなのに怒りらしい怒りも沸かず、呆れて聞き流してしまうだけの自分にこそ心底呆れてしまう。
決して彼の暴言が心地よいとかもっと言って欲しいとかそういう趣味ではないが、この男の歯に衣着せなさすぎる物言いを、ある意味で清々しく、好ましく感じてきたのは事実だ。
これまでの人生において、目上年上に関わらず、相手から畏怖され、顔色を窺われ、あるいは距離を置かれることが度々あった。人の上に立つことを定められた身ならそれもやむを得ないのだろうと思って生きてきた赤司だが、ここまで明け透けに気を遣われないというのも極めて珍しいことだった。
媚びは売らない。かといって中傷するわけでもない。素のままで自分に接してくれる黛が嬉しくて、どうしても怒れない。
それに、「素のまま」と言うなら自分だってそうだ。この部屋に来始めの頃こそ借りてきた猫のように大人しかったという自負のある赤司だが(黛がどう思っているかは知らないが)、今やそんなもの屋上の隅にでも置き忘れてきてしまった。自分だって、この部屋ではろくな気も遣わず傍若無人に振る舞い、彼にキレられても平然と知らん顔をしている。横暴だ無神経だとお互いに睨み合っても、次の瞬間には違う話題に気が削がれ、数刻前のことなどどうでもよくなっている。
こっちだって同じくらい、いや、もしかしたら彼以上に我儘放題だ。そしてそんな自分が清々しく、好ましい。
だから黛のそばはこんなに心地がいい。迷惑だとは知りつつも、自分がこんなに彼の許へと通ってしまう理由を、赤司はとうに理解していた。
ただの友人だとは思わない。ただの先輩だとも今さら思えない。好きか嫌いかで言えば最初から好きだ。それはもうひとりの自分も同じ。「気に入った」ということは他の人間と比べて特別ということで、屋上で彼を見つけた時からその認識については変わっていない。
家族でもなく、ましてや恋人なんかじゃ決してない。だけど、そばにいたい。許される限り一緒にいたいと思っている。これだけの一方的な好意を押し付けても、彼はどうでもいいような顔で黙って受け容れ、眠るまで手を握っていてくれる。
こんな関係をなんというのだろう。

「あー美味かった。あの冷蔵庫の中身でよくあんなもん作れるな」
夕飯のあと満足そうに腹を叩いている黛に、赤司は小首を傾げた。
「特別なものは使ってませんよ。鶏がらスープと、あとマヨネーズと…」
「あぁマヨか。それは美味いわ」
「黛さん、ツナ缶も好きですしね」
「よくご存知で」
ふ、と笑いながら赤司は立ち上がる。
本当に、不思議なものだ。
この部屋で過ごした時間は、統計にすればほんのわずかなはずなのに、あっという間にこんなところまで来てしまった、という感じがする。何がきっかけだったのだろう、それとも理由なんてなかったのだろうか? そうなるために頭を使った覚えは少なくとも赤司にはない。息をするみたいに自然に、彼との距離はほとんど始めからこうだった。たった数ヶ月、週に何度かの交流で、人と人というものはこんなに簡単に警戒心なく、しかも濃密に、パーソナルスペースを共有できるものだったろうか。赤司の知識と経験によれば、そんなはずはないのだが。
不思議だなと思い、同時に嬉しいな、とも素直に思う。
「オレ、コーヒー」
「……はい」
台所でお湯を沸かしているところに彼の声が耳に入ってきて、赤司はぼんやりとしたままシンク横の食器棚を開き、インスタントコーヒーの瓶を手に取った。
勝手知ったるとはこのことだ。今や自分はこの家にある調味料の残量も、油の捨て方も、バスタオルの枚数も、枕の柔らかさも知っている。
……だけど、もしかすると。
それは特別なことではなくて、彼にとったら「よくあること」なのだろうか? 最近とみにそう考えることがある。
特別感や優越感を覚えているのは自分だけで、もしかしたら黛千尋は案外こんな風にあっさりと、他人と空間を共有できるたちなのかもしれない。今自分がここにいるのは言ってみれば単なる偶然で、もしも自分のように図々しくこの部屋に押しかけてくる人間が他にもいれば、彼はその人物にも同じだけ許し、求められれば手を握ったのかもしれない。
自意識が強そうでいて、案外主体性をあっさり捨てて拘らないところもある。あり得なくはない。黛という男を冷静に分析しつつ、赤司は自分用の番茶とコーヒーを淹れて室内に戻った。

「どうぞ」
「どうも」
テーブルにカップと湯呑みを置く。朝は濃い目のブラック、夜なら薄目の砂糖なしミルクのみ。そんなことまで知っているのに。
ベッドを背に小さなテーブルを挟んで座る。そこが2人の定位置だ。正面にテレビとデスク。普段あまりテレビをつけない黛だが、今日は頬杖ついてニュースを見ている。
腰を下ろした赤司は、彼の気の抜けた横顔をじっと見つめた。
「黛さん」
テレビから目線をそらさないまま、黛は器用にカップを手に取り口をつける。
「そちらに行ってもいいですか」
「どうぞ」
「どうも」
いそいそと膝をにじり寄せ、赤司は黛に肩を寄せた。

いつからか自分たちは、これといった理由を表明することもなく、時折こうして触れ合うようになっていた。
ただ指先を意味もなく絡ませて遊んだり、今みたいに背中や肩を預けてぼんやりしたり、もぞもぞと抱きついてふぅ、とため息をついたりするような、なまぬるいぬくもりに身を浸して満足している。
なんとなく、だ。本当になんとなく、「したいから」している。お互い異論はなく、要求されれば黙って相手のしたいようにさせている。そうすることによって確実に得られるものは、深い安堵と、微かな飢え。
赤司は膝を抱え、肩ごしに黛の体温を感じながら、こんなのは果たして本当に普通のことなんだろうか? と自問した。
自分にとっては「普通ではない」これらも、黛千尋にとっては「普通のこと」で、やっぱり彼は誰にでもこうやって、簡単にぬくもりを与える人なのではないだろうか。
「……黛さん」
「ん」
「いま、無性に貴方を殴りたいです」
「……チャンネル変えたいならそう言えよ」
呆れたように振り返られて、ちがいます、と赤司は黛の肩を拳で叩いた。
「黛さんにスケコマシの可能性を見出して呆れと怒りが綯い交ぜになってるところなんです」
「お前は過程すっとばして結論だけを唐突に口に出すクセ治そうな」
「……黛さんは」
誰にでもこんな風に優しくするんですか
寸前で、赤司は言葉を飲み込んだ。聞いてどうする。仮にそうだとしても、自分に咎める権利なんかない。無駄な問いだし、何より正直に言って屈辱だ。なぜこの自分が、そんな。
「なんだよ」
ぐ、と肩で肩を押され、鬱陶しそうにそれを押し返す。「なんでもないです」と意地を張るように口を閉ざすと、もたれていた身体が突然向きを変えたので、少しだけバランスを崩した赤司は床に手を突き、彼を睨み上げた。
―――目が合う。
黛が微かに口端を釣り上げた気がしてムッとする。
そうだ。大体にして、視線の奥を覗き見ればおおよその思考が伝わってしまうというのも、よく考えればずいぶん無礼なことなのだ。
何も言わなくたって通ずる。人から見れば時に超能力かとみまごうほど、視線だけで足りることなら数え切れないほどあった。
確かにコート上、的確にボールを回す上で、視線の会話は必要不可欠なスキルとしてまず最初に訓練したことだったが、この男は1,2回の応酬で大体の意思疎通をこなしてみせ、それに関しては申し分なしと言える素質を持っていた。
しかし日常生活においてまでそのスキルが発揮されるとなれば、それは時にプライバシーの侵害になるのではないか? 知られたくないから黙ったのに、なんとなくで見抜かれてしまうなんて一方的だし失礼だ。難癖だとはわかりつつ、恨みがましく思わずにはいられない。
ポンと黛の手のひらが頭に乗せられ、軽く頭を振って拒絶した。しかし気にする素振りもなく彼の手は乱雑に髪を撫で続け、赤司は次第に抱えた膝の間に顔を埋めた。
「―――前から聞こうと思ってたんだけど」
赤い猫毛を指に絡めながら、黛がぼんやりと尋ねる。
「お前って、誰んちにでもこうやって上がり込んだりすんの」
「……そんなわけないだろう」
ふぅん、と適当な相槌。
「じゃあそれでいいだろ」
「……なにがだ」
「そうじゃなけりゃオレだって今、お前とこうしてねぇんだから」
黛は小動物を愛でるみたいに赤司の頭を撫で続ける。
 赤司は俯いたまま、眉間にしわを寄せた。ふん、と思う。何様だ。千尋のくせに。
人を誰だと思っている。お前ごときにこの僕が御せると勘違いするなよ。適当に宥めて頭を撫でて、何でも雑に扱ってくる。腹が立つ、生意気だ。本当にふてぶてしく、分不相応な男。これまでは甘やかしもしてきたが、一度はっきり言ってやった方がいいのではないのか?
どう立場が変わろうと、僕は赤司征十郎で、お前は僕が見つけた影なんだぞ。今までも、これからもずっとだ。
「……先輩ぶるな」
赤司がぼそりと文句を言うと、黛は口元をゆるませた。
「何度も言うけど、お前をただの年下の後輩だなんて思ったことねぇよ」
「じゃあなんだ」
「お前はオレの王様だよ。今までもこれからも、ずーっとな」
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