年上の男のひと
つくづく人をたぶらかすやつだ。黛千尋はつまらない気持ちでそう思う。
見目麗しく品行方正なその後輩は、今日ものべつまくなしに周囲の人間を魅了してやまない。
バイト先のコンビニで、もう間もなく上がりの時間を迎える時計を気にかけていた黛千尋は、同じバイトの女性2人がなにやら小声で盛り上がっている会話の中に、スルーできない単語を聞いた気がして目を見張った。
―――ね、さっきからこっち見て…
―――誰かの知り合いじゃない?
―――超気になる。声かけてみようか
―――すごいきれいな赤髪の…
赤髪。
思わず顔を上げ自動ドアを凝視すると、ドアの外にチラリチラリ、見覚えのありすぎる赤色が見えて黛は絶句した。は? なんだ、なんでこんなとこいんだ、と混乱しているうちに赤い頭がひょこ、とガラスの向こうから店内を窺ったので、避けようもなく2人の視線はぶつかった。
ざぁ、と血の気が引く。浮き足立つ女性陣に「ちょっと悪い」と言い置いて、黛は自動ドアの外へと飛び出した。
*
「だからお前は…迂闊なことするんじゃねぇよ」
帰り道、肩を並べてマンションまでの道のりをだらりだらりと歩いていく。今日も相変わらず冷え込んで、キンとした冷たさが産毛まで凍らすようだ。短めに揃えられた髪から覗く赤司の耳が赤くなって寒そうで、今度自分好みのイヤーマフでも付けさせようと思いながら、黛はぼやいた。
「結局迷惑こうむるのはオレなんだから」
「コンビニのバイトは知り合いが店の外で待っているだけで怒られるんですか?」
「ちげーよ。お前はいるだけでやかましいんだよ。存在が」
予定が少し早めに切り上がったので、黛のバイト先に足を運んでみたのだという。赤司は気を効かせて隠れていたつもりなのだろう、その気遣いを否定するつもりはない。ただ、気の回し方が足りないのだ。本人が認識しているよりも圧倒的に。
強烈な光は、どれだけ上手く隠れたって隙間から漏れ出てしまうものだ。生まれてこのかた隠れんぼで見つけられたことのないオレが物陰に潜むのとはわけが違うんだよ。黛は内心で軽い自虐を披露する。
「……なにか、お邪魔をしてしまいましたか」
「別に邪魔ってんでもねぇけど」
気遣わしげに見上げてくる赤司に、黛はうんざりとした様子で白い息を吐き出した。
あのあと、黛は件の女子2人に捕まって散々だったのだ。
当の赤司が待っているからさっさと帰ろうとしているのに、裏のスタッフルームであれは誰だ知り合いなのか、後輩なのか、なんの用なのか、仲がいいのか、名前は、歳は、ていうか紹介して、今すぐ会わせろ、と吊るし上げられた。優秀な遺伝子を嗅ぎつける本能は性別問わず、もはや獣のそれである。ともかくこのまま赤司に接触はさせられないと、黛はメールで待ち合わせ場所を指定し、先に赤司をそこに向かわせ落ち合ったのだった。
「お前がモテんのは勝手にすりゃいいけど、オレの日常に食い込んでくんのやめろ」
赤司は「はぁ」と気のない返事を返す。
「別に俺は顔を見せて挨拶するくらいかまいませんよ。下手に隠そうとするから余計気にされるんじゃないんですか? 人間逃げられると追いかけたくなるものですし」
「それ完全に狩猟本能じゃねぇか。ますます恐ろしいわ」
「そう簡単に狩られると思われているなら心外ですが」
まさかそんなことは思っていないが、とにかくこの後輩に関する事柄に、自分という存在が介入するのが嫌なのだ。無関係なはずだったのに抗えない引力に否応なく巻き込まれ、最終的にはなぜか自分までもが当事者になっている。そういうのはもう散々なのだ。
「お前ちょっと会釈とかしたんだろ。あいつらかわいいカワイイうるっせぇ…どこがかわいんだよこんな目つきの悪いやつ」
「生きてるのに死んだ目つきの黛さんに言われたくありませんけど」
うるせぇ誰が腐った魚だ、と黛が被害妄想をブツブツ呟く一方、赤司は赤司でわずかに眉根を寄せながら、考え込むように口元に手を当てた。
「……しかし、該当はしたくないですね、確かに。誹謗ではなく称賛の形容なんだろうとわかってはいますが」
「なにが」
「『かわいい』って、女性に言われるのはどうなんでしょう。16歳の歴然たる男が」
思ってもみない答えが返ってきたのと、思っていた以上に真剣な目で見上げられたのとで、黛は鼻で笑ってやるタイミングを逃し真顔でそれを見つめ返した。
「……別にいいんじゃねぇの。女って何でもかんでもカーワーイーイーつって騒ぐだろ」
「女性が男に上げる歓声で最もポピュラーなものは『かっこいい』じゃないですか?」
別に熱望して生きてるわけではないが、確かに自分も「カッコイー」と言われればそれなりに嬉しいし、「カワイー」と言われても素直に喜べないな、と黛は思う。そこはわりと男の沽券に関わる本能的な部分なのかもしれない。
「その顔で無意識にお愛想振りまくから悪い。教師とか大人にウケいいんだよ。あと前から思ってたけど、お前年上キラーなとこあるからな」
先程のバイト仲間の2人も女子大生なので、充分射程圏内だ。
「年上きらー」
聞き慣れない単語を赤司が口の中で繰り返す。
「年上たらしこむってこと」
事もなげに示された解に、赤司はひとつ瞬きして黛を見上げた。
「実力あって、腰も低くて見栄えもするってんなら、そりゃ上からすれば重宝がられるわ。やっかみとかもあるだろうけどお前はそこらへんも如才なく…、…なんだよ」
まじまじと見つめられ鬱陶しげに赤司を見ると、猫のように美しく切れ上がった瞳が探るように黛をじいっと覗き込んでいる。
「おかしいな、と思って」
「は?」
「その理屈でいくと、今俺の目の前にいる人も、たらしこまれているはずなんですが」
「………」
黛の真顔がそれを見つめ返す。
生きてるのに死んでいるとまで評される表情の下でも実は人並みに感情の起伏があるのだが、他者にそれを見抜くのは至難の業だ。やがて、ふぅ、と疲れたようなため息をつきながらコートのポケットに手を突っ込んで、黛は肩を丸めた。
「……年下だからどうだとか、そういう理屈がオレに通用するわけねぇだろ。今さらオレがお前を腰の低いイイ子ちゃんだなんて思うかよ。クソ恐ろしい魔王のくせして」
「それは部活内における上下関係が逆転していたからでしょう。あの時の俺だって部活以外では先輩に敬意を払っていましたし、今だってそうです。黛さんは、年上の先輩ですよ」
「だからなんだよ」
「たらしこまれないんですか」
時々よくわからないことに執心する『年下の後輩』は、そう言って黛のコートの袖を控えめに掴んだ。
そもそも人間、「よーしたらしこまれるぞ~!」と思ってたらしこまれるわけじゃない。絆されたり惹かれたりしていることなど思いもよらぬまま、ふと気付けばすっかり篭絡され逃げ場を失っている。手練のたらしとはそういうもので、無意識であればなお最強である。
「うるせぇ」
黛はその最強の後輩のおでこを、手袋をはめた手のひらでぐいと押した。
「だから年下とか年上とか関係ねぇんだよ。どっちのお前もオレにとったらただのわかめ喰えないガキ。それ以上でもそれ以下でもない」
腑に落ちない表情で文句を言い返そうとした赤司の目の前に、黛は持っていたビニール袋を差し出した。視線で「やる」と促された赤司が受け取って中を見ると、白くて丸い物体が2つ入っていて、赤い瞳が見開かれる。
「残りもん。いらねぇなら両方もらう」
「……にくまん?」
「喰ったことねぇとか言うなよ。…いや、ありうるのかお前は」「いえ…食べたこと、あります」
お礼を言いながらひとつ取り出し、黛に手渡す。もうひとつを手に取って、まだ熱いそれを赤司は両手で包むように持った。
四角い紙の袋にすっぽりと挟まった肉まんは、底面に白い半透明の紙がくっついている。赤司はそれを見て、ふふ、と小さく笑った。
「これ、剥がすんですよね」
「は? 喰ったことあるんだろ」
「あります。はじめて食べた時、この紙も一緒に食べてしまったことを思い出して」
意外なところで萌えポイントを突かれた黛は、肉まんを食べようとした口を開いたまま数秒固まった。ドジっ子―――という単語が通りすぎ、いや違うこいつの場合はただのセレブ無知だ、と思い直す。
「……喰うなよ」
「はい」
ぺりぺりと紙を剥いて、赤司は少し冷めている柔らかい皮部分を頬ばった。
中身の具部分はおそらくまだかなり熱い。肉まんの中身は冷めにくく、表面の温度からは想像できないほど熱いのであっさり舌を火傷するのだ。
こいつなんか一発KOに違いないと赤司の猫舌事情を甲斐甲斐しく気にかける黛が「中熱いからゆっくり喰え」と忠告すると、赤司は白い部分をもふもふしながらこくりと頷いた。
黛も自分の肉まんにかぶりつき、チラと赤司を見下ろす。赤司の口元はずっと緩んでいて、妙に機嫌が良いなと不思議に思う。そのまま2人、肉まんを食べながらマンションへと続く一本道を無言で歩いた。
こいつが鼻を赤くして肉まんを頬ばっている姿はちょっとイイ。やっぱり今度イヤーマフとミトンを買って付けさせよう、と黛が秘かに決意しているところへ、赤司がそっと呟くように口を開いた。
「……そうですね。おそらく間違っていないと思います」
どこからの話だよ。脳内で突っ込む。
赤司の脳内回路は天才ゆえなのか性格ゆえなのか、時々よくわからないところにいきなり飛んだり着地したり、しかも相手が追いついていないうちにひとりで思考を完結させていたりして、その突拍子のなさに関しては今の赤司ももう1人の赤司も大差はなかった。
黛の疑問を察した赤司が、「年上殺し、の話ですが」と自分から補足する。
「でも、多分逆です。俺が 、年上の方を好きなんだと思います」
さらりと告げられて、黛が思わず目を見開いた。
「はじめて一緒に肉まんを食べたのも、年上の人だったんです。だから、ちょうど思い出してしまって」
少しずつ食べ進み、顔をのぞかせた肉まんの中身はまだ手つかずだ。しばらく冷ますつもりなのだろう。赤司はそれを手にしたまま嬉しそうに瞳を細めた。
「帝光の――― 1つ年上の先輩だったんですが。虹村さんといって…俺の前に主将を務めていた方で。すごく頼もしくて面白くて、優しくて、強い、ひとでした」
ひとつひとつ、思い出を噛み締めるように、赤司は大切そうに言葉を紡ぐ。
黛は肉まんをかじりながら、へぇ、と相槌を打った。
「俺はずっとその人のもとで副主将をしていたので、他の部員よりは一緒に過ごす時間も多くて。俺は今よりもっと幼かったし、何も知らなかったから、虹村さんにしてみれば信じられないくらい世間知らずだったようで…あ、というか虹村さんの方がちょっとおかしかったといいますか、中学生なのに人生経験が豊富すぎるひとだったんですけど」
ようやく冷めた肉まんに小さくかじりつき、ゆっくりと咀嚼して飲み込んだあと、赤司は笑った。
「多分、俺が窮屈そうに見えたんでしょうね。先輩として、後輩の俺に気を遣ってくださったんだと思います。部活帰りの買い食いも、肉まんとか、ゴリゴリくんとか、なんでもない噂話とか、ちょっとした息抜きとか、少し悪いこととか…些細なことですけど、色々なことを教えてもらいました。戸惑いもありましたが、すごく新鮮で、楽しかった。今思えば、虹村さんは俺にとってはじめての、そして理想的な『先輩』で」
赤司は、記憶をたぐるように瞳を細め、微笑んだ。
「―――……憧れでした」
グシャ、と食べ終えた肉まんの包み紙を黛が握りつぶす。
「赤司」
「はい」
「今日、なに喰う」
話を遮られ、赤司は目を瞠った。興味のない話題に彼が乗ってこないのはいつものことだ。突然知りもしない人間のことを訥々と語られて、右耳から左耳だったのだろう。気にすることなく、赤司は夕飯か、と思案した。
「黛さんは?」
「なんでも」
「……では、作りたいものがあるんですけど」
見目麗しく品行方正なその後輩は、今日ものべつまくなしに周囲の人間を魅了してやまない。
バイト先のコンビニで、もう間もなく上がりの時間を迎える時計を気にかけていた黛千尋は、同じバイトの女性2人がなにやら小声で盛り上がっている会話の中に、スルーできない単語を聞いた気がして目を見張った。
―――ね、さっきからこっち見て…
―――誰かの知り合いじゃない?
―――超気になる。声かけてみようか
―――すごいきれいな赤髪の…
赤髪。
思わず顔を上げ自動ドアを凝視すると、ドアの外にチラリチラリ、見覚えのありすぎる赤色が見えて黛は絶句した。は? なんだ、なんでこんなとこいんだ、と混乱しているうちに赤い頭がひょこ、とガラスの向こうから店内を窺ったので、避けようもなく2人の視線はぶつかった。
ざぁ、と血の気が引く。浮き足立つ女性陣に「ちょっと悪い」と言い置いて、黛は自動ドアの外へと飛び出した。
*
「だからお前は…迂闊なことするんじゃねぇよ」
帰り道、肩を並べてマンションまでの道のりをだらりだらりと歩いていく。今日も相変わらず冷え込んで、キンとした冷たさが産毛まで凍らすようだ。短めに揃えられた髪から覗く赤司の耳が赤くなって寒そうで、今度自分好みのイヤーマフでも付けさせようと思いながら、黛はぼやいた。
「結局迷惑こうむるのはオレなんだから」
「コンビニのバイトは知り合いが店の外で待っているだけで怒られるんですか?」
「ちげーよ。お前はいるだけでやかましいんだよ。存在が」
予定が少し早めに切り上がったので、黛のバイト先に足を運んでみたのだという。赤司は気を効かせて隠れていたつもりなのだろう、その気遣いを否定するつもりはない。ただ、気の回し方が足りないのだ。本人が認識しているよりも圧倒的に。
強烈な光は、どれだけ上手く隠れたって隙間から漏れ出てしまうものだ。生まれてこのかた隠れんぼで見つけられたことのないオレが物陰に潜むのとはわけが違うんだよ。黛は内心で軽い自虐を披露する。
「……なにか、お邪魔をしてしまいましたか」
「別に邪魔ってんでもねぇけど」
気遣わしげに見上げてくる赤司に、黛はうんざりとした様子で白い息を吐き出した。
あのあと、黛は件の女子2人に捕まって散々だったのだ。
当の赤司が待っているからさっさと帰ろうとしているのに、裏のスタッフルームであれは誰だ知り合いなのか、後輩なのか、なんの用なのか、仲がいいのか、名前は、歳は、ていうか紹介して、今すぐ会わせろ、と吊るし上げられた。優秀な遺伝子を嗅ぎつける本能は性別問わず、もはや獣のそれである。ともかくこのまま赤司に接触はさせられないと、黛はメールで待ち合わせ場所を指定し、先に赤司をそこに向かわせ落ち合ったのだった。
「お前がモテんのは勝手にすりゃいいけど、オレの日常に食い込んでくんのやめろ」
赤司は「はぁ」と気のない返事を返す。
「別に俺は顔を見せて挨拶するくらいかまいませんよ。下手に隠そうとするから余計気にされるんじゃないんですか? 人間逃げられると追いかけたくなるものですし」
「それ完全に狩猟本能じゃねぇか。ますます恐ろしいわ」
「そう簡単に狩られると思われているなら心外ですが」
まさかそんなことは思っていないが、とにかくこの後輩に関する事柄に、自分という存在が介入するのが嫌なのだ。無関係なはずだったのに抗えない引力に否応なく巻き込まれ、最終的にはなぜか自分までもが当事者になっている。そういうのはもう散々なのだ。
「お前ちょっと会釈とかしたんだろ。あいつらかわいいカワイイうるっせぇ…どこがかわいんだよこんな目つきの悪いやつ」
「生きてるのに死んだ目つきの黛さんに言われたくありませんけど」
うるせぇ誰が腐った魚だ、と黛が被害妄想をブツブツ呟く一方、赤司は赤司でわずかに眉根を寄せながら、考え込むように口元に手を当てた。
「……しかし、該当はしたくないですね、確かに。誹謗ではなく称賛の形容なんだろうとわかってはいますが」
「なにが」
「『かわいい』って、女性に言われるのはどうなんでしょう。16歳の歴然たる男が」
思ってもみない答えが返ってきたのと、思っていた以上に真剣な目で見上げられたのとで、黛は鼻で笑ってやるタイミングを逃し真顔でそれを見つめ返した。
「……別にいいんじゃねぇの。女って何でもかんでもカーワーイーイーつって騒ぐだろ」
「女性が男に上げる歓声で最もポピュラーなものは『かっこいい』じゃないですか?」
別に熱望して生きてるわけではないが、確かに自分も「カッコイー」と言われればそれなりに嬉しいし、「カワイー」と言われても素直に喜べないな、と黛は思う。そこはわりと男の沽券に関わる本能的な部分なのかもしれない。
「その顔で無意識にお愛想振りまくから悪い。教師とか大人にウケいいんだよ。あと前から思ってたけど、お前年上キラーなとこあるからな」
先程のバイト仲間の2人も女子大生なので、充分射程圏内だ。
「年上きらー」
聞き慣れない単語を赤司が口の中で繰り返す。
「年上たらしこむってこと」
事もなげに示された解に、赤司はひとつ瞬きして黛を見上げた。
「実力あって、腰も低くて見栄えもするってんなら、そりゃ上からすれば重宝がられるわ。やっかみとかもあるだろうけどお前はそこらへんも如才なく…、…なんだよ」
まじまじと見つめられ鬱陶しげに赤司を見ると、猫のように美しく切れ上がった瞳が探るように黛をじいっと覗き込んでいる。
「おかしいな、と思って」
「は?」
「その理屈でいくと、今俺の目の前にいる人も、たらしこまれているはずなんですが」
「………」
黛の真顔がそれを見つめ返す。
生きてるのに死んでいるとまで評される表情の下でも実は人並みに感情の起伏があるのだが、他者にそれを見抜くのは至難の業だ。やがて、ふぅ、と疲れたようなため息をつきながらコートのポケットに手を突っ込んで、黛は肩を丸めた。
「……年下だからどうだとか、そういう理屈がオレに通用するわけねぇだろ。今さらオレがお前を腰の低いイイ子ちゃんだなんて思うかよ。クソ恐ろしい魔王のくせして」
「それは部活内における上下関係が逆転していたからでしょう。あの時の俺だって部活以外では先輩に敬意を払っていましたし、今だってそうです。黛さんは、年上の先輩ですよ」
「だからなんだよ」
「たらしこまれないんですか」
時々よくわからないことに執心する『年下の後輩』は、そう言って黛のコートの袖を控えめに掴んだ。
そもそも人間、「よーしたらしこまれるぞ~!」と思ってたらしこまれるわけじゃない。絆されたり惹かれたりしていることなど思いもよらぬまま、ふと気付けばすっかり篭絡され逃げ場を失っている。手練のたらしとはそういうもので、無意識であればなお最強である。
「うるせぇ」
黛はその最強の後輩のおでこを、手袋をはめた手のひらでぐいと押した。
「だから年下とか年上とか関係ねぇんだよ。どっちのお前もオレにとったらただのわかめ喰えないガキ。それ以上でもそれ以下でもない」
腑に落ちない表情で文句を言い返そうとした赤司の目の前に、黛は持っていたビニール袋を差し出した。視線で「やる」と促された赤司が受け取って中を見ると、白くて丸い物体が2つ入っていて、赤い瞳が見開かれる。
「残りもん。いらねぇなら両方もらう」
「……にくまん?」
「喰ったことねぇとか言うなよ。…いや、ありうるのかお前は」「いえ…食べたこと、あります」
お礼を言いながらひとつ取り出し、黛に手渡す。もうひとつを手に取って、まだ熱いそれを赤司は両手で包むように持った。
四角い紙の袋にすっぽりと挟まった肉まんは、底面に白い半透明の紙がくっついている。赤司はそれを見て、ふふ、と小さく笑った。
「これ、剥がすんですよね」
「は? 喰ったことあるんだろ」
「あります。はじめて食べた時、この紙も一緒に食べてしまったことを思い出して」
意外なところで萌えポイントを突かれた黛は、肉まんを食べようとした口を開いたまま数秒固まった。ドジっ子―――という単語が通りすぎ、いや違うこいつの場合はただのセレブ無知だ、と思い直す。
「……喰うなよ」
「はい」
ぺりぺりと紙を剥いて、赤司は少し冷めている柔らかい皮部分を頬ばった。
中身の具部分はおそらくまだかなり熱い。肉まんの中身は冷めにくく、表面の温度からは想像できないほど熱いのであっさり舌を火傷するのだ。
こいつなんか一発KOに違いないと赤司の猫舌事情を甲斐甲斐しく気にかける黛が「中熱いからゆっくり喰え」と忠告すると、赤司は白い部分をもふもふしながらこくりと頷いた。
黛も自分の肉まんにかぶりつき、チラと赤司を見下ろす。赤司の口元はずっと緩んでいて、妙に機嫌が良いなと不思議に思う。そのまま2人、肉まんを食べながらマンションへと続く一本道を無言で歩いた。
こいつが鼻を赤くして肉まんを頬ばっている姿はちょっとイイ。やっぱり今度イヤーマフとミトンを買って付けさせよう、と黛が秘かに決意しているところへ、赤司がそっと呟くように口を開いた。
「……そうですね。おそらく間違っていないと思います」
どこからの話だよ。脳内で突っ込む。
赤司の脳内回路は天才ゆえなのか性格ゆえなのか、時々よくわからないところにいきなり飛んだり着地したり、しかも相手が追いついていないうちにひとりで思考を完結させていたりして、その突拍子のなさに関しては今の赤司ももう1人の赤司も大差はなかった。
黛の疑問を察した赤司が、「年上殺し、の話ですが」と自分から補足する。
「でも、多分逆です。
さらりと告げられて、黛が思わず目を見開いた。
「はじめて一緒に肉まんを食べたのも、年上の人だったんです。だから、ちょうど思い出してしまって」
少しずつ食べ進み、顔をのぞかせた肉まんの中身はまだ手つかずだ。しばらく冷ますつもりなのだろう。赤司はそれを手にしたまま嬉しそうに瞳を細めた。
「帝光の――― 1つ年上の先輩だったんですが。虹村さんといって…俺の前に主将を務めていた方で。すごく頼もしくて面白くて、優しくて、強い、ひとでした」
ひとつひとつ、思い出を噛み締めるように、赤司は大切そうに言葉を紡ぐ。
黛は肉まんをかじりながら、へぇ、と相槌を打った。
「俺はずっとその人のもとで副主将をしていたので、他の部員よりは一緒に過ごす時間も多くて。俺は今よりもっと幼かったし、何も知らなかったから、虹村さんにしてみれば信じられないくらい世間知らずだったようで…あ、というか虹村さんの方がちょっとおかしかったといいますか、中学生なのに人生経験が豊富すぎるひとだったんですけど」
ようやく冷めた肉まんに小さくかじりつき、ゆっくりと咀嚼して飲み込んだあと、赤司は笑った。
「多分、俺が窮屈そうに見えたんでしょうね。先輩として、後輩の俺に気を遣ってくださったんだと思います。部活帰りの買い食いも、肉まんとか、ゴリゴリくんとか、なんでもない噂話とか、ちょっとした息抜きとか、少し悪いこととか…些細なことですけど、色々なことを教えてもらいました。戸惑いもありましたが、すごく新鮮で、楽しかった。今思えば、虹村さんは俺にとってはじめての、そして理想的な『先輩』で」
赤司は、記憶をたぐるように瞳を細め、微笑んだ。
「―――……憧れでした」
グシャ、と食べ終えた肉まんの包み紙を黛が握りつぶす。
「赤司」
「はい」
「今日、なに喰う」
話を遮られ、赤司は目を瞠った。興味のない話題に彼が乗ってこないのはいつものことだ。突然知りもしない人間のことを訥々と語られて、右耳から左耳だったのだろう。気にすることなく、赤司は夕飯か、と思案した。
「黛さんは?」
「なんでも」
「……では、作りたいものがあるんですけど」
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