かぐや姫

      ***


実渕と分かれ、駅に向かいかけた足を止めてスマホを取り出す。
今日の練習は終わっており、自主練もなし。だからこそオレはさっきまで実渕に捕まっていたわけだが、他の部員が貴重な放課後を満喫しているだろうこの時間、どこかに遊びに行くなど思いもつかず、ただ淡々と自らに課せられた業務をこなす小さな王様の姿が、ずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。
主将と生徒会長、名家を背負って立つ御曹司。赤司の日々の仕事量は膨大で、わずかばかり自由な時間ができたからといって、遊び呆けていられるような生半可な立場ではない。
『今どこ』
メッセージを送ると、駅前の小さな噴水の淵に腰かけ、行き交う雑踏にぼんやりと目をやった。ラノベを取り出す気にはならなかった。頭の中を整理したかったのかもしれない。
数十分後、返信がきた。
『学校です。』
その文面を目にしてから、オレは立ち上がった。


      *


「…ずっと、思ってたんだけど」
店を出て、今日はありがとう、じゃあここで、となった時、途中からはずっと神妙な顔をしていた実渕が、ぽつりと言った。
「征ちゃんは、相変わらず多忙なの。あんまり心配だったから、生徒会の方は他の役員にも仕事を分配するように白金監督に掛け合ってもらったりしたんだけど。本人も無理をしていたって自覚はあったみたいで、『なるべく皆に助けてもらうよ』って言ってくれたわ。それでもやっぱり、超多忙なのは変わらない」
「………」
「学校だけじゃない、おうちの方だってやらなきゃいけないことや任されていることがたくさんあるはずなのよ。それでいて部活での采配やプレイは完璧だし、当然のごとく成績は首位独走。それなのに」
実渕がますます表情を曇らせて、オレを見る。
「週に何度もおうちに帰らず外泊なんて、無理があると思わない?」

そんなことはオレもずっと思っていた。
最初に赤司がオレの家に来た日、あいつは父親とケンカをして家を出てきたと言った。しかし帰り際には気を持ち直していたし、「父のことはどうにかする」と自信をもって言っていたから、その後うちを頻繁に訪れるようになったのも、「どうにかした」のだろうと判断し、深く考えるのはやめていた。
オレが考えてもどうしようもなかったからだ。
あの恐ろしかった天帝が、オレの前で素を晒し、子どものように色々な表情を見せておずおずと懐いてくる。
家のことはどうした、大丈夫なのかと思わないわけもなかったが、オレの懸念を敏感に察知した赤司は、オレが口にする前にいつも視線でそれを制した。聞いて欲しくないのだと、その寂しげな笑顔の下で無言で訴えてきた。
そんな時、目線で察し合えてしまう目に見えない繋がりを、心底わずらわしく思った。オレが空気を読まずあいつの隠したがるものを無理やり暴いてしまえる人間だったら、こんな回り道を周回するようなまだるっこしい関係にはならなかったのだろうか。

「多忙な時間を割いて、無理をおしてまで作り上げた居場所に固執する理由って、なにかしら」
「……逃げたいんだろ」
わかりきっていた答えを呟くと、実渕も達観したように、そうよね、と呟いた。
「アナタ、さっき言ったわよね。あの子は今反抗期だって。どう考えても外泊を繰り返すような今の征ちゃんの素行を、征ちゃんの周りの大人が、何よりお父様が、許しているとは思えない。―――あの子きっと今、お父様とうまくいってないわ」
あぁ、知ってた。
オレという存在が、赤司征十郎を作り上げてきた存在にとって、ひどく目障りであろうことも。
実渕がともすれば爆発しそうなほどの不安を秘めた眼差しで、オレを見つめる。
「……ねぇ、黛さ」
「お前らがちゃんと見ててやれよ」
実渕を遮り、オレは踵を返した。
「オレは影だからな。光から離れるっていう選択は、したくてもできない。あいつがオレを必要とする限り、オレはあいつの望む通りにしかできないんだよ」
「……っちょっと」
抗議の声をかわすように、背中越しにヒラと手を振り、その場を離れた。
詭弁でもなんでも、だ。
あいつがオレに甘えてると言うなら、オレはあいつを甘やかす。あいつがオレを逃げ場所にすると言うなら、オレはあいつを受け入れる。
オレは赤司に逆らえない。あの時屋上で囚われたオレの魂は、未だにあいつが握っている。


      ***


おおかた、生徒会室にでも残って何かしらの業務をしているんだろうと考えていた。しかしオレの足はこの3年間で身体に染み込んだ、最も馴染みある場所へ自然と向かっていた。
待っているだろう。もしくは待っていれば会いにくるだろう。その程度の適当な算段だけだ。仮に来なかったとしてもさほど問題はない。なぜなら約束を交わしたわけではないのだから。
この場所でオレたちが出逢うことに、約束なんか必要なかった。はじめからずっと。

狭い階段を昇り、屋上へと続く鉄製の扉をわずかに開いた瞬間、隙間から張り詰めた悲壮な声がオレの耳に飛び込んできた。
「―――黛さんは関係ない…!!」
ノブを握る手がビクついた。
出会い頭に自分の名前が聞こえたことにも驚いたが、何よりもその差し迫った赤司の声音に、胸に鈍い痛みが走った。
ノブに手をかけたまま階段で立ち止まる。赤司は電話で誰かと口論をしていた。会話の内容はよく聞こえず、怒鳴り合うような激しさはないが、淡々としたやり取りは血の通ったものではなく、冷たい泥のような、拭いがたい軋轢と確執を感じた。
『あの子きっと今、お父様とうまくいってないわ』
実渕の言葉が脳裏に浮かぶ。そうだろうな。うまくいってた試しがあるのかは知らねぇけど、今がこれまでで最悪の状態なんだろうってことだけはわかる。
最後、実渕がオレに何を言おうとしたのか。不安に駆られ、何を訴えようとしていたのか。オレは赤司にとって、どういう存在であるべきなのか。どうするのが、一番あいつにとって、あいつのために―――
扉の内側で様々な思考が交錯する。少し息苦しさを感じる。

充分すぎるほどの時間を置いてから、扉を開けた。コンクリートの敷き詰められただだっ広い屋上に、制服を着た赤司が立っていた。
俯き、顔を片手で覆っている。
夕闇の気配がかすかに漂い始めた真冬の青空を背景にすれば、その姿は今にも消えてしまいそうなほど頼りなく見えた。
黙ってそばまで行き、俯く赤い猫っ毛を撫でると、赤司はのろのろとオレにしがみつき、胸元で、はぁ、と震える息を吐き出した。
背中に腕を回す。
いつからか赤司に対するこの行為に、大した違和感ももたなくなってしまった。口元に触れる髪の毛だとか、赤司の柔らかい匂いだとか、強張る肩や背中をさすると、次第に脱力していく身体だとか。
多分これは、必要なことだったんだ。そこにある行動理念に、オレ個人の感情は一切介入しない。『赤司が望むか望まないか』。それだけだ。
「……なぁ、赤司」
冷たい息を吐き出しながら、ぽつりと呼びかける。
「もしオレが、お前にとって―――」
「千尋」
背中に回された赤司の腕の拘束が、ぎゅうと強くなる。
「何も言うな」
「赤司」
「黙れ。お前は僕の影だ」
「影にだってしゃべる権利くらいあるだろ」
「ない」
「赤司、聞けよ」
「千尋!」
「オレがお前を」
最後まで言えなかったのは、赤司がオレを突き飛ばしたのと同時に視界が一瞬で回転したからだ。
アンクルブレイクですっ転び衝撃で瞑った目を開けると、触れれば切れそうなオーラをまとった赤司が、色の違う両の目をカッと見開いてオレを見下ろしていた。
「黙れと言った。頭が高いぞ千尋」
多分これが、こいつの意識し得る最大の威圧なんだろうなと思う。
が、はっきり言ってもうオレには通用しなくなっている。こいつのそれは猫の威嚇だ。毛をブワッブワに逆立ててフーフーいいながら後ずさりしてる猫だ。そう思えば「怯えていただけなんだよね」と非常に寛容な気持ちで接することができる。
まぁ実際、指を噛まれる程度では済まない凶暴な獣なので、文字通り足元を掬われるくらいのことは覚悟しなくてはならないが。
「……ってーな。尻打ったぞ」
「お前が余計なことを言うからだ」
「なんも言ってねぇだろ、まだ」
「千尋」
オレを呼ぶ声がいよいよ切羽詰る。他人にはわからない。きっと本人もわかってない。見開いた瞳と無表情の下から隠しきれずに滲み出る、必死なほどの焦燥と怯え。
そうだ。怯えているんだ。こいつがその名でオレを呼ぶ時は。
はいはい、とオレはため息をつき、「もう言わねーよ」と投げやりに吐き捨て、わざとらしく肩をすくめた。
するとさっきまで全開で誇示していた赤司の威圧感が急激にしぼんだ。ほんのわずか眉根を寄せた表情は心許なげだ。わかりやすく言えば「しょぼん」てやつで、怒らせたと思ったのか、呆れられ、もう放っておかれると思ったのか、青空をバックにした赤司が、悔しそうに目を眇め、物言いたげにオレを見下ろしてくる。
さっきまで殺すぞオーラ撒き散らしてたくせに、ちょっと不安を覚えた途端にこれだ。誰もが畏れる天帝サマなんてとんでもない。自分の感情のコントロールもままならない情緒不安定な子どもでしかない。
お前な、ほんと、出しすぎなんだよ。オレの前で。
オレは引き続き不機嫌を装って、「起こせよ」と舌打ちした。
赤司は嫌悪も露わにものすごい煽りでオレを見下ろしてきたが、芽生えた憂慮の方がわずかに勝ったらしい。奥歯を噛み締め、ぐっと表情を歪ませて、渋々オレに手を差し出してきた。
「……ッ!!」
まぁ当然、オレはその手を渾身の力で引っ張るわけで。
わかりやすい挑発のつもりだったが、気付かないほど動揺していたらしい。バランスを崩した赤司の身体を床に座り込んだ状態で両手でキャッチすると、捕まえられた赤司は即座に身を起こし、オレの肩をぐいぐいと押し返してきた。
「お前…! 離せっ」
「いてぇ足に乗んな」
オレの太ももに赤司の膝が思いっきり食い込んだ状態で暴れるものだから、手首を掴み引き寄せて、なんとか抑え込もうと必死だ。サバ折り状態で赤司の腰に回した腕を思い切り締め上げると、やめろころすとキレる赤司がオレの髪の毛を引っ張って抵抗する。
何やってんだコレ。しょぼいプロレスかよと内心で嫌気がさし始めた頃、珍しく少し息を乱した赤司が、ようやく暴れるのをやめて大人しくなった。
「……離せ…っ」
呻くような掠れ声に、抑止力なんかまったくない。
オレは小さく息を吐いた。
とりあえず乗っかられてると態勢がキツいから、よいしょと赤司の脇に手を入れて少し持ち上げ、オレの足の間に降ろす。お坊ちゃんを地べたに座らせることになるが、まぁ今回限りということでお許し願いたい。
身長差ゆえオレに見下ろされる形になった天帝サマは、されるがままなくせに遠慮なく不機嫌で、少しでも気に障ることがあれば噛み付くぞと言わんばかりだ。
面倒になったので、さっさと赤司の頭を抱き込み乱暴に胸に押し付けた。暴れるかと思ったが、赤司はむしろオレがこうするのを待っていたかのように(というかこうするのが遅いと怒っているかのように)、すぐさま自分からぎゅっと背中に腕を回してきた。
丸い後頭部は、柔らかい猫っ毛と相まって非常に撫で心地がいい。他にすることもなく、つむじに軽くあごを乗せて、ずっと、ずっと、とにかくずっと、延々と、赤司の頭を撫で続けた。
視線を上げると、筆で刷いたかのような薄い雲が、徐々に形を変えながら右から左へとゆっくり流れていく。

この場所は本当に閉鎖された空間で、高校生らしい学生の喧騒もないし、道路を走る車の音もほとんど届かない。冷え冷えとした狭い場所でこうやって空を仰げば、世界が自分たちのためだけに在るような、もしくは正反対に、オレたちだけが世界から屋上に切り離されたかのような錯覚に陥る。
……ラノベくさい? いや、これはガチだ。少々危ない話になるが、屋上から地上を見下ろしていると、わけもなく飛び降りたくなる気持ちがちょっとわかる。やってみても大丈夫なんじゃないか、もしかして地面に叩きつけられても死んだりしないんじゃないか、とかいう根拠無き自信に、なぜか心躍らされるのだ。
非現実。屋上は限りなく非現実に近い。現実世界と繋がっていながら、違う世界にも手が届く。
オレはあの時、この場所で、赤司征十郎という非現実でしかない存在に、うっかり手が届いてしまったんだ。

ごそ、と赤司が腕の中で身じろぐ。考えごとをしていたらいつの間にか頭を撫でる手が止まっていたらしい。こちらを伺うような赤司の様子は先程より落ち着いていて、抱き込んだまま眼下の耳たぶを軽く摘まんだ。
「めっちゃ冷えてる」
大きな目がぱちりと瞬きする。
「……そうですね。寒いです」
言葉とは裏腹に、赤司はどことなく嬉しそうに言った。
「だったらもう帰るぞ」
「いやですよ」
立ち上がろうと浮かしかけた身体を阻止され、赤司はまたオレの胸に顔を押し付けてきた。
「黛さんのせいなんですから、黛さんが温めるべきです」
「オレのせいってのもわかんねぇし、べきってのもわかんねぇよ」
ふふ、とくぐもった声で笑う。
オレは顔をしかめて、ため息をついた。
「……今日、オレんち来るか?」
それは多分、オレから言ってはいけない言葉だったのだろう。はじめて自分から赤司を誘った。今この瞬間、抑え込んでいた何かが自分の内側で解放されてしまった気がした。
赤司は一瞬間を置いてから、静かに首を横に振った。
「今日は、どうしても、無理なんです。だから。お願いします」
制服の下に着込んだオレのカーディガンの匂いを嗅ぐように、赤司は一度、大きく深呼吸した。
「……もう少しだけ……このまま」

だから言っただろ、実渕。オレには無理なんだって。
お前の言うとおり、オレは懐いた猫を手放すのが怖くて、ぐずぐずに甘やかすしか能のないただのヘタレなんだよ。
こいつのためを思ってだとか、心を鬼にしてだとか、わかってないわけじゃない。わかってる上でやらない方を選んでる。
こいつを突き放すことはオレには出来ないし、出来ないのは赤司のためじゃなく、全部自分のためなんだ。

コートを脱ぎ、赤司の肩にかけてやる。ますますぎゅうぎゅうと抱きついてきたので、こっちの方がラクだろうと思い、赤司の身体を支えながら、床に寝転がった。
制服の背中に直で伝わるコンクリートがじんわり冷たい。というか寒い。しまった、これは冷える。なるべく赤司の身体を地につけないよう、腹の上に乗せて腕を回して固定すると、くすくすと笑う身体が小さく縮こまった。
「……昼間はあんなに怒っていたくせに」
「あー…そうだっけ。忘れた」
「重くないんですか」
「重い」
聞いておきながら退くつもりなんてない赤司は、オレのうんざりした答えを聞いて、さらに楽しそうに笑った。

「―――……黛さん」
静寂の中、仰向けに寝転がり、遮るもののない空を見上げると、本当にここがどこだかわからなくなってくる。
「どうか、何も、言わないでください」
真冬の屋上。現実からの逃避。
「絶対に、貴方に迷惑はかけませんから」
異世界へと繋がる空間。空から降ってきた異星人。
「どうかあと少しだけ」
ハイスペック超人として地球に舞い降り、散々周囲を振り回した挙句、期限付きで元いた世界へと還っていったのは、なんのキャラだったっけ。
「……卒業まで、そっとしておいてください」


夕闇に染まりつつある寒空に、白い息が浮かんで消えた。青白く儚い光を放つ歪な月が東の空に姿を見せ始めて、オレは腕の中の身体をいっそう強く抱きしめる。
この閉じられた空間で身を寄せ合うオレたちを、違う世界の誰かが上から見下ろしていたりするんだろうか。だったら本当に、ここから非現実への扉を開けて、2人して違う世界へ逃げ出してしまえたらいいのにな。
あぁ、だけど赤司はあっちの世界のエイリアンなんだから、いずれ元の世界に還さなければいけないという道理も、また仕方のないことなのではないか、と。
ヘタレなオレは月を見上げ、憂鬱になるのだった
5/5ページ