かぐや姫

      *


「お疲れ」
水飲み場で顔を洗っていた赤司の背後から、タオルを頭にかぶせてやる。
あの部員どもの目に付く場所でこいつとあからさまに接触するのなんかオレは死んでもお断りなわけで、赤司がなぜわざわざ体育館から一番遠いこの水場まで足を運んだのか、お互い説明するまでもない。
俯いたままぷるぷると数回頭を振った赤司は、タオルを頬に当てながら顔を上げた。
「お疲れさまです、黛さん」
柔らかい笑顔。こいつの笑顔は確かに悪くないと正直に思う。こんな間近で見れるなら尚さら。
「今日来られるとは聞いていませんでしたが」
「言ってなかった」
「来る時は教えてくださいと言ったのに」
「会えたからいいだろ。担任職員室にいなかったからこっち先に顔出してみた」
「ありがとうございます」
小さな笑みが、ふふ、とこぼれる。
「なんだよ」
「いえ」
赤司の手が、前を開けているオレのコートに軽く触れた。
「制服、久しぶりだなと思って」
言われて「あぁ…」と自分を見下ろす。自分が着るとは思ってなかった中学時代は、なんか雰囲気的にお高くとまってんなあの制服、と斜にかまえて眺めていたものだが、3年間着続けた今となってはすっかり馴染んでしまった。ライトグレーのジャケットに濃い目のシャツと黒ネクタイ。洒脱で、それなりに気に入っている。
「上下スウェットしか見てなかったですからね、最近」
「うるせぇ」
「やっぱり似合いますね」
細められる瞳が、わずかに憂いを含む。
「……あと何回見れるかな」
言いながら、赤司の手がオレのゆるめていたネクタイを首元まできゅっと締めた。特に意味はない。天帝サマのお戯れだ。抵抗もせず、好きにさせる。
赤い前髪から垂れる雫を指先で拭う。首にかかるタオルで頭を拭いてやろうとした時、ふとTシャツから覗く白い首元が目に入り、オレは瞬間的に眉をひそめた。
「……お前、これ」
人差し指と中指の腹でなぞる、鎖骨と首筋の境目あたりに、人為的に残された「痣」。軽く爪を立てると赤司がピクリと片目を閉じる。
「隠せよ」
ほのかな紫色に変色したそれは毒々しく、白い肌には不釣り合いに生々しい。つけた張本人が言うなって話だが。
赤司はわずかに戸惑いつつ、オレを見上げた。
「別に、隠すほどのものでは」
「隠すほどのものだろ」
言いながら赤司の手首を掴んで裏返すと、薄い皮膚に浮き出る血管と共に、そこにも歪な赤い斑点が、僅かだがしつこく残っていた。
白い肌に、無防備な喉元に歯を突き立てる、獣じみた本能的な快感を思い出す。
あの時オレが噛み付いた相手はすでに飼い主ではなく、捕らえた無力な獲物だった。咄嗟にオレから距離をとった赤司の両目に浮かんでいた、捕食される側の怯えもまだ鮮やかに残る。つい先日のことだ。
「お前がこんなもん付けてるなんて、普通に考えてありえねぇだろ。どう見ても異常だから隠せ」
なんだろうこれは。胸くそ悪い。自分で感情が整理できないまま機嫌が急降下し、顔面を思い切り歪めてしまう。さっき、あの大勢の人間がいた体育館でもこんなものをあからさまに晒していたのかと思うと、歯噛みしたくなるほど不愉快だと思った。
「異常って…」
「異常。多少隠すかと思ってたけど丸出しとか神経疑う」
「……誰のせいですか」
「てめぇでねだっといて誰のせいもないだろ」
「ねだ…っ誤解を招く言い方をしないで下さい」
「事実だろうが」
お互いの表情にはっきりと不快感が現れる。
ここらでやめておけばよかった、と気付くのはいつだってあとになってからだ。多少気に障ろうが、あとの面倒を見越して見て見ぬフリをしておけばよかった。しかしこの時は、唐突に腹の底に沸いたドス黒い固まりがどうしても不快で、唐突に突っかかってこられた赤司もまた冷静沈着な主将らしくなく、あっさりと挑発に乗ったわけで。
両者一瞬で、臨戦態勢になった。
「先にしてきたのは黛さんじゃないですか。布団の上で相手の同意も得ずセクハラまがいな行為に及んだ挙句放置してふて寝したくせに。ならばと俺はそのやり方に則ったまでです」
「誤解を招く言い方すんな!」
「事実です」
「いいからさっさと隠せって」
「俺のせいじゃないのになぜ隠す必要があるんですか。後ろめたいのは黛さんだけでしょう。俺はどうでもいいです。気にしません」
そーいう問題じゃねーんだよ!
あまりのクソ可愛くなさに、不快指数が究極まで上昇する。オレの表情筋はたいがい死んでるが、内面はそれなりに表情豊かだ。赤司がそれに気付かないほど、上っ面の関係だとは思っていない。
眉間のしわが元に戻らなくなるんじゃないかと思うほど、眉根を絞って赤司を見下ろす。
頭は無駄にいいくせに危機意識だけ極端に欠けてるとか、欠陥品もいいとこだろ。
前からそうだ。他人同士の関係性ならすぐ勘付くくせに、己に向けられる好意や秋波にはとことん無頓着。わざとやってんのか、格下に特別感情をもって接すること自体が想像の範疇にないのか、誰であれそういった感情に重きを置いていないのか知らねぇけど、とにかく無知とか天然とかいうには度を越してる。無防備なんて言えば多少聞こえはいいが、被害を被る側にしたらひたすら迷惑なだけだ。
……そもそもどう考えても問題アリのあの時の行為を、深追いせず曖昧に留めたまま議論したりするから、2人してイライラする羽目になるんだ。言及しなきゃよかった。スルーしときゃ平和だった。だがこの時はこいつの無菌室な考え方がやたらとカンに障って、激情を抑えきれなかった。
「お前がどうでもな、オレが嫌なんだよ。心底」
「心配しなくてもこの俺に猥褻な行為をしでかしたのが黛さんだなんて誰も思いませんよ。絶対に・・・
「んな心配してねぇよ!」
「じゃあなんですか。なかったことにしたいんですか。目に見える証拠を残しておきながら表面だけ取り繕って己の不祥事を揉み消せるとでも思ってるんですか。もっと己の行動に責任を持ったらどうですか?」
咄嗟に舌打ちする。
「いい加減にしろ。オレが見せんなって言ってんだよ。他のやつに」
赤司の肩を、首の痕ごと片方の手のひらで覆うようにガッと鷲掴む。大きく身体を揺らした赤司は、反抗的な目でオレを睨み上げてきた。
とかく人の視線を集めるやつだ。熱狂的な赤司信者なんかバスケ部のみならず校内中にいくらでも存在していて、そのどれもが純粋な思慕だけで心酔しているかというとそんなわけはない。
好意も悪意もひっくるめ、こいつは常に見られている。あらゆる欲望を伴った好奇の視線に晒されている。
この痕を見た人間が、何を噂し、何を夢想するのか。
想像するのは容易だ。だからこそ腹が立つ。残したのはオレなのに、誇示できないもどかしさがまたオレを苛立たせる。
「……だったらなぜこんなことをしたんですか」
赤司の言う通りだ。自分でもどうしたいのかわからない。
「知るかよ」
「俺との関係を邪推されるのが嫌ならそもそもこんな」
「知るかっつってんだろ」
瞬間的に激しい劣情が沸き上がった。これは身に覚えのあるあの欲望だ。こいつの肌を蹂躙し喰い尽くしたいという獣の本能。
水飲み場の石枠に座らせるように押し付け、首の痣と同じ場所に噛み付いた。
身をよじる赤司がオレの腕を掴むが、抵抗する気配はない。そもそもこの態勢になる前にこいつなら回避できたし、オレもそれと知りつつ優位に立ったつもりになってこんな真似をしている。
ぢゅっ、と品のない音を立てて口唇を離すと、赤い鬱血が古い痕の上に円を重ねるように烙印されていた。赤司が肘でぐいとオレを押し返し、唾液でぬるついた首筋を、嫌悪をこめて手のひらで覆う。
「……なんなんですか、貴方は。気に入らないことがあると人に噛み付くんですか?」
「そうかもな」
「……野蛮」
だったらなんでお前はそんな隙だらけなんだよ。
やめろ。もうこれ以上口に出すな。絶対面倒なことになるから。わかってるのに、大概2人とも頭に血が昇っていて、もういっそ後戻りの出来ないところまで暴いてしまえと思っているのが互いの目から伝わる。
『なんで』。一旦その疑問に手を付けてしまったら、恐らく答えはずるずると目の前に引きずり出されてしまう。だから無意識に避けてきたのに。
だったらなんで。
ただの先輩と後輩で。男同士で。
「だったら、なんで」
なんでお前は、オレに痕なんかつけさせてんだよ。
もうどうにでもなれと口を開いたその時、近くで土を踏みしめる音が聞こえ、オレと赤司はそちらを振り向き互いから素早く身を引いた。

「―――征ちゃん?」
林立する合歓の木の向こうから実渕が顔を覗かせた。はじめ赤司に視点を合わせ、一瞬置いてからオレに気付いてぎゃあと叫ぶ。
「黛さん!? なに、ちょっとびっくりした、なんなのもういやだ、えっ? なんなのどうしてここにいるの!?」
曲がりなりにもOBに対してどうなのかという反応だが、すでにこのやり取りも懐かしい。
「……たまたま学校に用事があって、顔を出してくれたんだよ。何か用かい?実渕」
「え? もしかしてさっき体育館にいたの? あらやだ全然気付かなかったわもう声かけてくれればいいのに相変わらず気が回らない朴念仁ね…あ、そうそう征ちゃん、休憩終わる前に監督が話があるって探してたわよ」
「わかった、行こう」
すました顔で赤司はオレの前を通り過ぎ、「黛さん、それでは」とまるで感情のこもってない言葉を捨て置いて、体育館へ戻っていった。
小さく舌打ちする。半端に昂ぶった感情を持て余しながら遠ざかる背中に目をやると、ふいに実渕がこちらを振り返り、一瞬剣呑とも言える眼差しを向け、すぐに視線を逸らして去っていった。
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