かぐや姫

たかだか数週間程度でもう、その空間はオレの目には別世界に見えた。
洛山高校のバスケ部専用第一体育館。外は雪が振りそうな冷え込みだが、館内はバスケ部員たちの熱気で全体的に温度が上がっており、制服だけでもそれほどの肌寒さは感じない。ギャラリーの端に身を隠し、気配を消して、オレはすでに懐かしさすら覚えるその光景を眺めている。
ボールの弾む音。スキール音。飛び交うかけ声、汗、激しい息遣い。疲労。忍耐。疲労。忍耐。疲労。
ほんの少し前まで、オレもこの輪の中にいた。青春よろしく必死になってボールを追いかけ、与えられたノルマをひたすらこなし、無心で身体を動かし続けた。今となってはよくもまぁ耐え切れたもんだと、驚きを越して呆れている。
あの地獄を耐え抜くオレを支えていたものは、青春や情熱なんて煌びやかなものでは決してなかった。

―――貴方は僕にとってジョーカーでもなんでもない。数ある手駒のうちのひとつに過ぎません
あの傲岸不遜な王様は、人を小馬鹿にした微笑を崩さぬままサラリとそう言った。
「僕の仕事は、僕にとってより使い勝手の良い駒を選別すること。それらを盤上に配置し、美しく完璧な譜面を作り上げることだけです。配置されたいなら、それ相応の結果を出してもらわなければ。差し手の指示通りに動けない駒など、駒箱に入っているだけでも邪魔で仕方がない」
あれは何度目の勧誘だったろうか。放課後、部活時間前の屋上で。
赤司の肩にかかっているだけの洛山ジャージが、どういう構造か知らないが風になびきながらも落ちることなく、肩ごしにぶわりと舞った。まるで魔王の翼のように。
「……わかりますか?黛さん」
怜悧な笑みが、ひた、とオレの瞳の奥を見据えた。
「捨てられかけていた貴方という駒を、僕が気まぐれで拾った。今この瞬間に僕が貴方から興味を失くせば、貴方は一瞬にしてゴミ溜めに落ちる」
何かを握り潰そうとするように禍々しく開かれた手のひらが、オレの目の前に誇示される。
「落ちた貴方を僕は見返らない。その時点で貴方は僕にとって無価値だからです。しかし燻り、熾されることのなかった火種は確実に貴方の内で肥大し、貴方を蝕み、貴方の心を腐敗させるでしょう。なぜなら貴方がバスケ部に戻らない理由は興味がないからではない。僕が気に入らないからだ・・・・・・・・・・・
赤司征十郎には相手の動きの未来が視える。
その本当の意味を知ったのはそれから何ヶ月か経ってからだったが、この時オレは確かにこいつの左目に、己の行動原理、隠している心の奥底まで見透かされるような畏怖を覚えていた。
「ゴミのように腐っていくのを待つ身ならば、僕の手の中にあるうちに自らを研磨し、みごと僕に必要とされる存在足り得てみればいい。どちらにしろ貴方はすでに充分憐れで無様じゃないですか。同じ足掻くのならば、ゴミ溜めの中でも僕の手の上でも同じことだ。足掻いてみればいい。そして結果を出せ。その暁にもしも貴方が僕の鼻を明かすことができたとすれば―――」
淫靡さすらまとった背筋の凍る笑みが悠然とオレを見下ろし、
「まさにその時こそ、貴方の求める『気持ちのいいバスケ』の真髄を味わうことが、できるのではないですか?」
憐れで無様な男のプライドに、抜けない刃を突き立てた。
相手の無意識に楔を穿ち、進路を断ち、退路を断つ。まさにそれはどうやっても逃げられない、緻密に練り上げられた盤面だった。
オレは知らず知らずのうちに笑っていた。この時オレは心の中ではじめて、赤司征十郎という存在に素直な敬意を抱いていた。なんというガキ。こんな奴がオレに声をかけるなんて。
「……お前の手の上なんて真っ平ごめんだ。オレはオレのフィールドでやる」
降参はする。だが服従するつもりはない。そう宣言すると、赤司はオレと同じ悦を含んだ微笑を口元に浮かべた。
「飼い主の手を噛む犬か。それも面白い」
「手ならいいけどな。いつかお前の喉元に・・・噛み付くかもしれねぇぜ」
赤司は瞳を眇め、満足げに言った。
「やれるものならやってみるといい」
そこにオレが見たのは、不吉の象徴たる悪魔の笑みだった。
赤司が手のひらを握る。グシャ、と、何かが潰される幻聴がした。
オレはあの時、あいつに握られたのだ。目に見えない何かを。限りなく魂の尾に近い何かを。

ピッ、とホイッスルが鳴り、ミニゲームが終わる。終始鋭い声で中の選手に叱責を繰り出し続けていた赤司は、5分間の休憩を告げるとボードを持ち、ペンを軽く口唇に当てて、今のゲームを分析、熟考し始めた。
こうして、完全な外野から主将しているあいつを眺めるのは始めてだなと気付く。
相も変わらず圧倒的強者のオーラは凄まじく、またその的確で無駄のない指示はこの男の有能さを如実に物語り、そこには一縷の隙も見当たらない。それはオレがプレイをしていた頃と何一つ変わっておらず、今も尚実力主義を貫くこの部において、紛れもなくこいつは主将たるべき存在なんだなと改めて実感する。
唯一変わったことがあるとすれば。
「征ちゃん」
副主将を務めている実渕が声をかけ、赤司が顔を上げた。
しばらく言葉を交わし合い、実渕が何事かを口にして演技がかったため息をつくと、赤司はそれを見上げ、わずかに口元を緩ませて笑った。
変わったことがあるとすれば、単純に『雰囲気』だろう。
極端な変化があったわけではない。が、少なくともオレの知っている主将・赤司征十郎は、あんな風においそれと笑顔を見せる人間ではなかった。笑ったとしてその内訳は脅しが9割、鼓舞が1割といったところで、人前であんな自然な笑みを浮かべて見せるようになるなんて、ここにいる部員たちの誰が想像したことだろう。
主将笑ってる。最近ほんと機嫌いい。いいな。うらやましい。オレも褒められたい。オレも。オレも。オレも褒められたい。オレもオレもオレもオレもオレもオレも。
休憩しているように見せかけて、横目でその光景を盗み見している部員たちのそこかしこからソワソワとそんな声が聞こえ、オレは遠くを見つめて鼻で笑った。
1年間弱、あいつの異常なカリスマ性に晒され続けたこの部は、劇的な敗北を経て不敗神話が崩れたにも関わらず、未だにその絶対的な威光から逃れられずにいるらしい。1年坊主を「サマ」と称え崇めたがる連中は後を絶たず、信者は増える一方。デカい男子高校生の群れが揃いも揃って乙女ゲーみたいなことしないで欲しい。目を覚ませ、あいつはただの生意気なクソガキだ。まぁ無駄に顔だけは整ってるし確かに邪気なしの笑顔とか普通に綺麗だししかもそれがそうそうお目にかかれないレアものってんならなんであれ沸き立つ気持ちもわからんでもないが。
オイお前ら。あいつこの前オレんちでわかめ喰えなくて涙目でキレてたぞ。
……とか暴露してやりたくなるな。ばらしたところでわかめ撲滅運動が興るだけな気もするけど。
ため息つきつつもう一度赤司の方に目をやると、次のチームに指示を出そうとしていたあいつが、なんの前触れもなく突然パッとこっちを振り返ったので思わず息をのんだ。
思い切り目が合い、赤司の両目がわずかに見開かれる。
…おいおい。自分で言うのもなんだけど、この人数の中に埋もれたオレを探すって普通無理だぞ。この場にいること自体知らせてない上、目いっぱいミスディレクションしてたオレになんで気付くんだよ。わかめか? わかめのせいか?
オレが苦い顔して「いいから気にすんな」と視線で返すと、赤司は一瞬間を置いてから自然に視線を逸らし、集まった部員に向けて指示を再開した。
くそ。絶対気付かせないつもりだったのに。
そっと踵を返し、赤司以外の誰にも気付かれないまま、体育館を出る。
なにげなく肩越しに振り返ると、またオレの方を見ていた赤司と目が合ったので、「あとでな」と無言で告げてその場をあとにした。
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