天帝の傷痕

      *


コートを手に取り帰り支度をしている赤司の背中に、ちょっと待てと言って着込むのを制止した。
振り返る制服のシャツの襟元に、無遠慮に指先をねじ込む。ぴく、と赤司が片目を瞑る。きっちりと絞められたネクタイが侵入を拒むが、強引にシャツの布地を引っ張って鎖骨あたりまでを無理やり暴き、目当てのものを露出させた。
わずかな歯型と、いびつな楕円を描き、異様に紅黒くまだらに残る鬱血の痕。
なんだろな。自分がしたことのはずなのに、妙に冷めた気分になる。
「……黛さん」
見上げてくる赤司の全身をオレの影が覆っていて、非難の声はやや覇気がない。どうした、と他人事のように思ったが、多分本人も無意識に怯えているらしい。
「お前これ、痛い?」
痛々しい。どう贔屓目に見てもえぐい。思わず目を背けたくなるほど、付けた人間の卑しさが嫌でも伝わってくるような。
指の腹で強く撫でれば、痛いのかくすぐったいのか、赤司は居心地悪そうに身をよじった。
「……痛くは、ないです」
ふぅん、と目を細める。不可解そうな赤司の視線に、なんとなく胸がすくような思いがする。
こいつ、コレ隠す気あるんだろうか。こういう痕を他人が見た時、当事者にどんな印象を抱くかとか、そういうのわかってるんだろうか。そのへんの一般人じゃない、赤司サマだぞ。なぁお前、けっこうマズイって自覚ある?
つらつらと考えても、忠告してやる気はない。まぁいいや、と興味をなくし背を向けたが、中途半端に放り出された赤司の戸惑う視線は、ずっと背中に刺さり続けていた。


      *


玄関で靴を履き、赤司は「それでは」と振り返って自然に手を差し出す。握手ではない。ただ手を取って温度と感触を交わすだけの行為。オレもすでに手慣れた動作でその手を取る。
いつもいつも、この瞬間が、一番苦手だ。
気を張り詰めていないと、用途不明の『離したくない欲』が、オレの動かない表情筋の下からここぞとばかりに這い出ようとしやがるから。
離さないでどうする。ただでさえこんなクソ忙しいやつの貴重な時間奪ってんのに。血迷うのもたいがいにしろ。
「黛さん」
赤司がゆっくりと瞬きをしながらオレを見上げた。
それは明らかに謀りを巡らす時の。
相手を絡め取る時の視線そのもので。
「いつもいつも、この瞬間に、俺が何を考えているかわかりますか」
「……さぁ」
「離してほしくない、って思っているんですよ」
あ、と思う間に。
天帝の眼に射抜かれ、身体が硬直した。オレの五感と全神経が赤司だけに向けられ瞬時に世界から隔離された。
赤司が自分のコートの襟元に手を忍ばせ、首筋に指を当てる。オレが残した痕を自ら撫でる赤司の表情は、仄かな性的さを纏っている。危うい。触れればきっとただでは済まない。
繋いでいた手が一度離され、赤司はその手首を裏返して、オレの前に示して見せた。
「ここに」
段差のせいでいつもよりさらに視線が低いことを、もしかしてこれも計算済みかよと内心で恨む。
「同じ痕を、残してください」
上目遣いの効力がチート過ぎるから。
ちひろ、と真綿で首を絞めるように名を呼ばれれば、オレに逆らうすべはない。
悔しいが、ないのだ。


      ***


赤司のせいでお預けになっていた新刊のラノベを開く。 疲れたオレを受け止めてくれる1人用ソファは座り心地もよく、今日のバイトは夕方からで、オレはようやくフリーの時間を手に入れた。だと言うのにオレの目は羅列する文章の上を滑るだけで、内容はちっとも頭に入ってこない。帯には『ついに輝夜とサーシャ全面対決!!』と銘打たれていて、最近サーシャも悪くねぇなと思い始めていたオレにとっては待ってましたの展開のはずなのに。
まぁ、赤司だし。
ずっとその呪文が頭を巡っている。
自分の手首に目をやり、ついさっき思い切り噛み付いた青白い血管の浮く手首と重ねて、同じ箇所に指を這わせた。

オレ何やってんだという感情はわりとすぐに霧散した。恣意的な苛虐行為を許されて、本能的に悦ばない男はいない。薄皮の下の血管を引き千切ろうとせんばかりに、容赦なく噛んで吸い上げる傲慢さに、普通に興奮して一瞬我を失った。
「もういい」と言って逃げられる直前に目にした赤司の手首には紅く細かい斑点が広がり、すでに鬱血した痕がくっきりと残っていた。
一瞬見せた怯えた目に、今さらかよと思ったのは言うまでもない。

別に、深く囚われる必要はない。そう、赤司だし。
なぜ昨夜のオレはあいつの身体に噛み付いたのか。なぜオレはあいつの肌に痕を残して快感を覚えるのか。
考えたって仕方ない。赤司だから。
オレは受け入れ、あきらめ、ひとまず全てをなかったことにした。今はただ、この作り上げられたわざとらしい二次元世界を堪能しよう。それがオレの何より望んだ、平穏な日常だったはずだ。
後日、赤司の身体にいくつか残る不穏な痕に気付いた実渕玲央が、顔面蒼白でオレに相談を持ちかけてくるのだが。
……今のオレにはそんなこと、どうでもいいのだ。
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