天帝の傷痕
*
繋がった手が、ぶらぶらと暗闇の中で揺れている。
これももはやお約束になってしまった。ベッドの上から差し伸べられる赤司の手を、床で寝ているオレが下から握り、意味もなく揺りかごのように揺らして。他愛ない会話をしながら、眠る直前までそうしている。
ゆるめのパーカーは赤司には少し大きく、袖口から指先しか出ないのだと、どこか嬉しそうに告げてきたことを思い出す。こいつのツボがわからねぇと真顔で戸惑いつつ真顔で萌えたのは仕方あるまい。萌え袖は正義。
横向けた身体をベッドの端に寄せ、赤司もオレと同じように、繋がった手と手をじっと見つめていた。
「……黛さん」
「………」
わずかな月明かりの中で、赤司の白い輪郭だけがほのかに浮き上がっている。どこか現実味のない、造り物めいたきれいなきれいな面立ちが、オレをじっと見据えていて。
「黛さん」
身に染み付いた影の習性ゆえに、言わんとすることを察してしまう。
こいつの視線ほど考えてることがわかりやすい奴もいないと思うんだが、どうやらそう思うオレの方が特殊らしい。変人のせいで変人扱いされるなんて心外すぎるし、大体こいつの思考や要求がわかったところでオレの回避が成功したことも拒否が許可されたこともないのだから、バスケにおける利便性を差し引いたって、とことん無駄なスキルだ。
「黛さ」
「だめだ」
「今夜一緒に」
「断る」
「寝てもいいで」
「あーもう!」
声を張り上げると、赤い猫目がびっくりして瞳孔を開いた。
「だからお前は人の話を聞けって…」
「さみしいんです」
「幼児か」
「ひとりじめさせてくれるって言ったじゃないですか」
「今じゃねぇよ」
繋いだ手を離そうとすると、慌てたように握り返されため息が出る。
「こんな狭い布団で男2人一緒になんか寝られるか。大人しく寝ろ」
もっともらしいことを言いながら、オレも焦りを感じていた。
ここでほだされてはいけない。絶対にいけない。
「俺はかまいません」
「オレはかまう。寝ろ」
「離れたくないんです」
……なんか甘やかしすぎたか。妙に素直になりやがって扱いに困るんだが。
「お前が寝るまでは手握っててやるから」
「俺が寝たら離すんですか」
「……」
「じゃあ寝ません」
言うと思ったぜクソガキ。
「じゃあ起きてろ」
跳ね除けるようにして、無理やり赤司の手を離した。は、と息を飲む音がしたが気にせず突き放す。
「オレは寝る。おやすみ」
背を向け、頭まで布団をかぶった。まゆずみさん、とすがるような声が聞こえたが無視して目を瞑る。
こいつが自分で思ってるより何倍も拒絶に弱いことを、オレは知っている。
そんなこと知りたくもなかったのに。
最近よく、そんな歯噛みするような、虚しいような感情に襲われるのは、なんでだろうな。
赤司。お前は、自他ともに認める『選ばれし者』だろ。
ここにいるこのオレがどれくらい凡庸かなんて、その特性を見抜いて引き上げたお前こそが、世界で一番理解してるはずだろ。
お前が固執する意味がわからねぇんだよ。お前になんの得があるのかわからねぇんだよ。オレがお前を受け入れることは簡単でも、お前に逆のことはできないだろ。あらゆるものを抱えて、背負って、踏み潰して、高みへ高みへとのぼっていく光に、影以外としてのオレの存在なんか、邪魔でしかないだろ。
なぁ赤司、わかってるか?
不確定に広がる先の未来で、世界が広がるのはオレだけじゃない。
むしろお前だ。
敗北を知り、仲間を得たお前に、置いていかれるのは、オレの方だ。
そばにいてやりたくても、必要とされなくなるのは、オレなんだよ。
お前からの無条件に寄せられる純粋な好意があまりにも理解できないオレの、みじめな自己防衛本能が必死で否定する。
『お前はオレを必要となんかしてない』
「――――ヴッ」
唐突に背中に衝撃を受けて呻き声が出た。肩越しに振り返ると赤い頭がもぞもぞと蠢いていて、ものすごい脱力感に襲われる。
「……オイ」
「寝ぼけてるんです」
「寝言がでけぇよ」
「寒い」
自分だけ転がり落ちてきたのか。どうせなら毛布ごと落ちてこいアホ。寝返りをうって、身を縮こませる赤司の肩に布団と毛布をかけてやると、赤司の方からオレの胸に顔を寄せてきた。暗闇に慣れた視界の中、溶けるように安堵したその表情は、あどけなさと同時に、どこか、しどけない。
思わず舌打ちする。
「戻れよ」
「いやです」
「戻れ」
「いやです」
「怒るぞ」
「いやです」
オレが声音を荒げるたびに、反発するようにぐりぐりと顔を胸にうずめてきて、やりたいようにやらせている自分に何より嫌気がさす。
「……寒い」
ぐずるように尚も言い募る赤司の指先を布団の中で握ると、その驚くほどの冷たさに不用意に胸がさざめいた。
「赤司 」
呼んではいけないもののように、オレは密やかにその名を口にする。
当然のごとく見上げてきた視線が、焦点が合わないほど間近にある。
触れ合っているところから染みこみ、馴染む赤司の体温が、匂いが、がちゃがちゃと耳障りな音を立ててオレの中の平衡感覚を揺さぶり、気分の悪さに思わず顔を歪める。
突然がばりと身を起こし、赤司の顔の横に乱暴に両手をついた。
今のオレは人でも殺せそうなほど胸くその悪い顔をしているだろう。実際それくらい最悪な気分だ。言いようのない苛立ちを誤魔化す術が見つからず、乱れるパーカーの襟ぐりから大きく曝け出された赤司の首筋が目に入った瞬間、そこに力任せに噛み付いていた。
「……!」
驚きで跳ねた身体が、次には痛みでまた蠢く。ギリギリギリと執拗なほどに吸い付き歯を立てると、オレの服の裾を握り締めた赤司の手が、戦慄くように震えた。
「ま、ゅ」
傷を付けるつもりで一際強く歯を食い込ませる。憐れな非難の声は中途半端に途切れた。
目的なんかない、ただの憂さ晴らしだ。不満をぶつけたに過ぎないそれはオレの気が済むまで続く。口の中が痛くなるほど吸ったあとようやく口唇を離した時には、太い唾液が糸を引いて目の前の白い鎖骨をピチャリと汚した。
顔を上げ見下ろした赤司の顔には、怯えも、蔑みも、怒りすらもなく、闇に煌めく純粋めいた瞳だけが、ただじっと放心したようにオレを見上げている。
その空っぽの視線に惨めな心根はまたもチリ、とささくれ立った。
あー、もっと。
もっとばかみたいに痕付けまくってやりてぇな。
そしたらさすがにわかるんじゃねぇか。
なぁ、なんでお前そんな冷静なの。
普通じゃねぇぞ、こんなん。
「……黛さん」
精一杯の気遣いでもって、赤司がささやく。
頭にのぼっていた血が少しずつ下降してくる。狭く暗いオレの部屋。外から聞こえる微かな車の音。カーテン越しの薄暗い月明かり。ラノベの並んだラック。ぐちゃぐちゃの布団と毛布。ブランケットで作った枕。オレの下で何度も瞬きを繰り返している、お人形みたいに綺麗な顔。
――――なにやってんだ、オレ。
ひどい虚脱感に襲われ、オレは布団に身体を投げ出した。天井を見上げ、腕で視界を覆う。
「寝る」
「え?」
素で慌てた様子にかまわずにごろりと背中を向け、身を丸めた。背後の気配はしばらく明らかに戸惑っていたようだが、やがてオレの身体に布団の半分がかけられた。
隣でごそごそと布団にもぐる音がして、「おやすみなさい」と従順な声が、暗闇に落ちた。
繋がった手が、ぶらぶらと暗闇の中で揺れている。
これももはやお約束になってしまった。ベッドの上から差し伸べられる赤司の手を、床で寝ているオレが下から握り、意味もなく揺りかごのように揺らして。他愛ない会話をしながら、眠る直前までそうしている。
ゆるめのパーカーは赤司には少し大きく、袖口から指先しか出ないのだと、どこか嬉しそうに告げてきたことを思い出す。こいつのツボがわからねぇと真顔で戸惑いつつ真顔で萌えたのは仕方あるまい。萌え袖は正義。
横向けた身体をベッドの端に寄せ、赤司もオレと同じように、繋がった手と手をじっと見つめていた。
「……黛さん」
「………」
わずかな月明かりの中で、赤司の白い輪郭だけがほのかに浮き上がっている。どこか現実味のない、造り物めいたきれいなきれいな面立ちが、オレをじっと見据えていて。
「黛さん」
身に染み付いた影の習性ゆえに、言わんとすることを察してしまう。
こいつの視線ほど考えてることがわかりやすい奴もいないと思うんだが、どうやらそう思うオレの方が特殊らしい。変人のせいで変人扱いされるなんて心外すぎるし、大体こいつの思考や要求がわかったところでオレの回避が成功したことも拒否が許可されたこともないのだから、バスケにおける利便性を差し引いたって、とことん無駄なスキルだ。
「黛さ」
「だめだ」
「今夜一緒に」
「断る」
「寝てもいいで」
「あーもう!」
声を張り上げると、赤い猫目がびっくりして瞳孔を開いた。
「だからお前は人の話を聞けって…」
「さみしいんです」
「幼児か」
「ひとりじめさせてくれるって言ったじゃないですか」
「今じゃねぇよ」
繋いだ手を離そうとすると、慌てたように握り返されため息が出る。
「こんな狭い布団で男2人一緒になんか寝られるか。大人しく寝ろ」
もっともらしいことを言いながら、オレも焦りを感じていた。
ここでほだされてはいけない。絶対にいけない。
「俺はかまいません」
「オレはかまう。寝ろ」
「離れたくないんです」
……なんか甘やかしすぎたか。妙に素直になりやがって扱いに困るんだが。
「お前が寝るまでは手握っててやるから」
「俺が寝たら離すんですか」
「……」
「じゃあ寝ません」
言うと思ったぜクソガキ。
「じゃあ起きてろ」
跳ね除けるようにして、無理やり赤司の手を離した。は、と息を飲む音がしたが気にせず突き放す。
「オレは寝る。おやすみ」
背を向け、頭まで布団をかぶった。まゆずみさん、とすがるような声が聞こえたが無視して目を瞑る。
こいつが自分で思ってるより何倍も拒絶に弱いことを、オレは知っている。
そんなこと知りたくもなかったのに。
最近よく、そんな歯噛みするような、虚しいような感情に襲われるのは、なんでだろうな。
赤司。お前は、自他ともに認める『選ばれし者』だろ。
ここにいるこのオレがどれくらい凡庸かなんて、その特性を見抜いて引き上げたお前こそが、世界で一番理解してるはずだろ。
お前が固執する意味がわからねぇんだよ。お前になんの得があるのかわからねぇんだよ。オレがお前を受け入れることは簡単でも、お前に逆のことはできないだろ。あらゆるものを抱えて、背負って、踏み潰して、高みへ高みへとのぼっていく光に、影以外としてのオレの存在なんか、邪魔でしかないだろ。
なぁ赤司、わかってるか?
不確定に広がる先の未来で、世界が広がるのはオレだけじゃない。
むしろお前だ。
敗北を知り、仲間を得たお前に、置いていかれるのは、オレの方だ。
そばにいてやりたくても、必要とされなくなるのは、オレなんだよ。
お前からの無条件に寄せられる純粋な好意があまりにも理解できないオレの、みじめな自己防衛本能が必死で否定する。
『お前はオレを必要となんかしてない』
「――――ヴッ」
唐突に背中に衝撃を受けて呻き声が出た。肩越しに振り返ると赤い頭がもぞもぞと蠢いていて、ものすごい脱力感に襲われる。
「……オイ」
「寝ぼけてるんです」
「寝言がでけぇよ」
「寒い」
自分だけ転がり落ちてきたのか。どうせなら毛布ごと落ちてこいアホ。寝返りをうって、身を縮こませる赤司の肩に布団と毛布をかけてやると、赤司の方からオレの胸に顔を寄せてきた。暗闇に慣れた視界の中、溶けるように安堵したその表情は、あどけなさと同時に、どこか、しどけない。
思わず舌打ちする。
「戻れよ」
「いやです」
「戻れ」
「いやです」
「怒るぞ」
「いやです」
オレが声音を荒げるたびに、反発するようにぐりぐりと顔を胸にうずめてきて、やりたいようにやらせている自分に何より嫌気がさす。
「……寒い」
ぐずるように尚も言い募る赤司の指先を布団の中で握ると、その驚くほどの冷たさに不用意に胸がさざめいた。
「
呼んではいけないもののように、オレは密やかにその名を口にする。
当然のごとく見上げてきた視線が、焦点が合わないほど間近にある。
触れ合っているところから染みこみ、馴染む赤司の体温が、匂いが、がちゃがちゃと耳障りな音を立ててオレの中の平衡感覚を揺さぶり、気分の悪さに思わず顔を歪める。
突然がばりと身を起こし、赤司の顔の横に乱暴に両手をついた。
今のオレは人でも殺せそうなほど胸くその悪い顔をしているだろう。実際それくらい最悪な気分だ。言いようのない苛立ちを誤魔化す術が見つからず、乱れるパーカーの襟ぐりから大きく曝け出された赤司の首筋が目に入った瞬間、そこに力任せに噛み付いていた。
「……!」
驚きで跳ねた身体が、次には痛みでまた蠢く。ギリギリギリと執拗なほどに吸い付き歯を立てると、オレの服の裾を握り締めた赤司の手が、戦慄くように震えた。
「ま、ゅ」
傷を付けるつもりで一際強く歯を食い込ませる。憐れな非難の声は中途半端に途切れた。
目的なんかない、ただの憂さ晴らしだ。不満をぶつけたに過ぎないそれはオレの気が済むまで続く。口の中が痛くなるほど吸ったあとようやく口唇を離した時には、太い唾液が糸を引いて目の前の白い鎖骨をピチャリと汚した。
顔を上げ見下ろした赤司の顔には、怯えも、蔑みも、怒りすらもなく、闇に煌めく純粋めいた瞳だけが、ただじっと放心したようにオレを見上げている。
その空っぽの視線に惨めな心根はまたもチリ、とささくれ立った。
あー、もっと。
もっとばかみたいに痕付けまくってやりてぇな。
そしたらさすがにわかるんじゃねぇか。
なぁ、なんでお前そんな冷静なの。
普通じゃねぇぞ、こんなん。
「……黛さん」
精一杯の気遣いでもって、赤司がささやく。
頭にのぼっていた血が少しずつ下降してくる。狭く暗いオレの部屋。外から聞こえる微かな車の音。カーテン越しの薄暗い月明かり。ラノベの並んだラック。ぐちゃぐちゃの布団と毛布。ブランケットで作った枕。オレの下で何度も瞬きを繰り返している、お人形みたいに綺麗な顔。
――――なにやってんだ、オレ。
ひどい虚脱感に襲われ、オレは布団に身体を投げ出した。天井を見上げ、腕で視界を覆う。
「寝る」
「え?」
素で慌てた様子にかまわずにごろりと背中を向け、身を丸めた。背後の気配はしばらく明らかに戸惑っていたようだが、やがてオレの身体に布団の半分がかけられた。
隣でごそごそと布団にもぐる音がして、「おやすみなさい」と従順な声が、暗闇に落ちた。