天帝の傷痕
まぁね、と瞳を伏せ、赤司がようやく湯呑に手を伸ばす。お前にはまだ早いんじゃねーのと思っていたら、やっぱり口をつけた瞬間ピク、と動きを止め、何事もなかったようにテーブルに戻した。ですよね猫舌サマ。
「主将としての権限を利用し一度辞めた部員を1軍に引き上げてきた以上、部にとって望み通りの成果をもたらすプレイヤーに成長させるまで、お前の世話を見るのは僕のれっきとした義務だった。それを『贔屓』と取られても致し方なかったとは思うよ」
「あれが贔屓だっつんなら欲しいやつに熨斗つけてくれてやっても良かったぜ」
思い出すだけで口の端が引き攣るほどだ。年下に、1年坊主に、オレよりも小さいお坊ちゃんに、つきっきりで延々と容赦のない特訓を受け、ぐうの音も出せないほど徹底的に鍛え抜かれた過酷な屈辱と忍耐の日々は、筆舌に尽くしがたい。
「ミスディレクションなんてわけのわからんスタイルを夏までに形にしろなんて、よくもまぁ無茶言いやがったもんだよな、お前」
「だけど千尋はきちんとやり遂げたね」
テーブルの上、赤司は左手で頬杖をつき、右の人差し指でオレの指先をトントンと叩く。睨み返すようにぶっきらぼうに口を開く。
「……お前のノールックパスが決まり始めた頃からな。正直、ハマったんだよ。最高に気持ちいいと思っちまった」
当初のオレを支えていたのは、紛れもなくプライドだ。
だが赤司とのコンビネーションを我が身で味わった時、プライドを凌駕するバスケプレイヤーとしての単純な、そして圧倒的な快感に、オレはどうしようもなく囚われた。
赤司が開いた手のひらをテーブルに置く。無防備なそれに誘われるまま、オレはなんとなくそこに自分の手を重ねた。
「ストイックなふりをして、お前のそういう貪欲なところが僕は好きだよ」
「ふりなんかしてねぇよ。自分に正直なだけだ」
言い返すと、ふふ、と満足そうに赤司は笑った。
「勝利を獲る以外の事柄に、この僕が食指を動かされるなどまずもって有り得ないことだったんだ。千尋は本当に、僕にとって異端分子だ。取り込んだつもりでも、気付けばいつも僕の手の内から外れて掴めないところにいる」
きゅ、と赤司の指がオレの手を下から掴む。
「そういえばそんなところも、テツヤに似ているね」
「……そりゃどうも」
光栄です、とでも言えばいいか? カケラたりとも嬉しくないが。
「―――本当に、物足りないよ」
テーブルに乗せた片腕に横顔を傾けて、赤司が寝そべったのでちょっと驚いた。こんなだらしないとも言える仕草の赤司ははじめて見るかもしれない。
「……お前やっぱそれ、寂しいんじゃねぇの」
本当につまらなそうに、愚痴にすら聞こえる声音の赤司が、上目遣いがちらりとオレを見る。握られた手を、くいくいと引かれた。
「……退屈なんだよ」
「だから寂しいんだろ」
「つまらない」
「寂しいって言え」
「言えば千尋は帰ってきてくれるのか」
思わず目を見開く。目が合うと、瞬時に赤司は自分の腕に顔をうずめた。
「なんでもない」
「……お前なぁ」
狭いテーブルだ。目の前の赤い髪をかき混ぜると、やめろと言うように頭が揺れる。
「オレに留年しろってか?」
「僕が本気を出せば可能だ」
「冗談に聞こえねぇからやめてくれ」
「冗談じゃない」
「赤司」
繋がった手を引っ張る。
「……ちひろ」
ぽつりと落ちた、さっきまでとは微妙にニュアンスの異なる声に、オレは一つ息をついた。
舌足らずとまでは言わないが、幼さと甘えを、口唇を噛み締めて我慢しているようなじれったさ。そんな声で名を呼ぶな。落ち着かなくて仕方ない。
「オレはバスケ部には帰れないし、留年もしてやれねぇけど」
ぽんぽん、と、頭を叩く。
「寂しい、って言えたら、ひとりじめくらいはさせてやるぞ」
こいつを放っておくと、多分本気で人を勝手に留年させるとか、卒業式を爆破するとか、恐ろしく突飛な行動に出る。
それは困るし。
こんな風に年上ぶって、こいつのプライドに訴えかけてでも本音を引きずり出してやらないと、こいつは多分。
多分、壊れる。
なんとなくだが、そんな風に思う。
掴まれた手を解く。もそもそと顔を上げた赤司に、ん、と両腕を軽く広げてみせる。無表情でやる仕草じゃないのか。よくわからん。知らねぇよ、こんなことしたことないから。
「……なんだそれは」
憮然としたまま、赤司が尋ねる。
「こういう時はひとまず抱きつけばいいと思う」
「そんなことで千尋をひとりじめできるのか」
「さぁ。やってみればいいんじゃねぇの」
不可解そうに、それでもどことなくそわそわと、赤司はテーブルを避けてオレの前に膝をつき、不機嫌な表情を作ってオレを見下ろしてきた。
「ちひろ」
ぽすり、意外とあっさりオレの胸元に顔を埋めてきた。そっと肩に手を回すと、抱きしめた身体が不自然に強ばる。カチカチの猫を抱っこしてるみたいだな。おーヨシヨシと適当に宥めてあやす。
「寂しいって言ってみろ」
「さみしい」
間髪入れず返ってきて目を見開いた。まるでこちらを責めているように聞こえるくらい、切羽詰まった声。逆にそれくらい追い詰められなければ、こいつには口にできない言葉なんだろう。寂しいなんて、ごく普通の、当たり前の言葉なのに。
「さみしい」
「いきなり素直だな」
「さみしい」
連発する声が完全に食い気味で、思わず吹いた。
「さみしい」
「ああ」
「さみしい」
「そうだな」
背中に腕すら回してこない。震えそうなほどに身を固めて、抱きつくというよりはしがみついてくる。
「ちひろ」
他人の体温に身を預けることに慣れていなくて、力を抜くことすら上手くできない身体なのだと思った。
大した体格差があるわけでもないのに、ひどく頼りなくて、脆い。
「ちひろ」
「なに」
「卒業するな」
どうすればそれを回避してやれるのだろう。真剣に考えたって答えなんかあるわけない。わかっているのに、一瞬本気でその可能性を模索してしまう自分がいる。
「屋上に住んで」
「いやそれは無理」
頬を引きつらせながら背中を撫でると、わずかずつ赤司は身体の力を抜き、くたりとオレに寄りかかってきた。
「……さみしい」
「……実渕にも、根武谷にも、葉山にも、あと監督にも、他のメンバーでも、クラスメイトでも、誰でも」
ゆっくりゆっくりと、波打つ心を宥めるように。
「お前が頼りたいと思った相手なら、いくらでもこんな風にしていいから」
ふるふる、と腕の中で赤司が首を振る。
「ひとりでやろうとするな。オレなんかに固執しなくても、お前のことわかってくれるやつは大勢いる」
オレの代わりなんて、ほんとにいくらでもいるんだよ。お前が気付いてないだけで。
お前がオレを、黒子の代わりにしたように。
無理をするな、適当に仲間に頼れ、といくら言っても、こいつにとってその壁はオレが思う以上に強固なものなのだろう。だからこうやって、オレのような男のところにまで、弱音を晒しにわざわざ足を運ぶ。
最近わかってきた。赤司がオレに何を求めているのか。
洛山の内情、バスケ部の内情、そして赤司征十郎の内情を知っていて、かつ、もう残りわずかで自分とは無縁になる男。一応は年上だし、弱音を吐いても気にならないし、道具扱いまでしておいて今さら気を遣う相手でもない。
赤司にとってひどく都合のいいポジションにいるのが、黛千尋という人間なんだと思う。
それはそれで、別に構わない。オレにとっての不利益は、今のところ出ていない。
「ちょっとずつでいいから周りを見ろ。それでもまだお前の気まぐれが続くってんなら、会いにきていいから」
「……本当ですか」
「今だって許してんだろ」
「だって、大学が始まったら、貴方の世界は広がって、黛さんは俺のことなんか忘れる。俺だけが、屋上に取り残されて」
「そう思うんなら尚さら会いに来ればいいだろうが」
不確定な未来の話でいじけるなんて、こいつに似合わなすぎて呆れる。
「いつだってオレの都合なんかおかまいなしに好き勝手やるのが、赤司征十郎だったんじゃねぇのかよ」
猫のような瞳がカッと見開いてオレを見上げた。
「……そうでした」
そしてまたすぐに、ぎゅうと抱きついて顔をうずめた。
「赤司征十郎は、……そうでした」
じわりと嬉しさを噛みしめるように言うから、オレはわざとらしいため息をついて、赤司の頭にぽふりとあごを乗せた。
見下ろす背中にパーカーのフードがあって、それをなんとなくごそごそと赤司の頭にかぶせる。今度なに食わぬ顔してネコ耳パーカーでも仕込んでおこうかなとかどうでもいいことを思いつく。
「……また 忘れてたのかよ」
「……また 黛さんが思い出させてくれたじゃないですか」
「甘えんな」
オレがいなくなったら、今度は誰がお前を見つけてやるんだよ。これからはそんなに都合よく、オレはお前のそばにいてやれねぇんだぞ。
声に出したらオレの方が不安に負けそうだったから、黙って赤司を抱きしめる手に、力を込めた。
ほんとに、なんで、こんな。
天井を仰いでため息をつく。
オレなんて全く、面倒見のいい奴とかじゃないのに。
ほんとに、まずい。……これ以上は、まじで。
「主将としての権限を利用し一度辞めた部員を1軍に引き上げてきた以上、部にとって望み通りの成果をもたらすプレイヤーに成長させるまで、お前の世話を見るのは僕のれっきとした義務だった。それを『贔屓』と取られても致し方なかったとは思うよ」
「あれが贔屓だっつんなら欲しいやつに熨斗つけてくれてやっても良かったぜ」
思い出すだけで口の端が引き攣るほどだ。年下に、1年坊主に、オレよりも小さいお坊ちゃんに、つきっきりで延々と容赦のない特訓を受け、ぐうの音も出せないほど徹底的に鍛え抜かれた過酷な屈辱と忍耐の日々は、筆舌に尽くしがたい。
「ミスディレクションなんてわけのわからんスタイルを夏までに形にしろなんて、よくもまぁ無茶言いやがったもんだよな、お前」
「だけど千尋はきちんとやり遂げたね」
テーブルの上、赤司は左手で頬杖をつき、右の人差し指でオレの指先をトントンと叩く。睨み返すようにぶっきらぼうに口を開く。
「……お前のノールックパスが決まり始めた頃からな。正直、ハマったんだよ。最高に気持ちいいと思っちまった」
当初のオレを支えていたのは、紛れもなくプライドだ。
だが赤司とのコンビネーションを我が身で味わった時、プライドを凌駕するバスケプレイヤーとしての単純な、そして圧倒的な快感に、オレはどうしようもなく囚われた。
赤司が開いた手のひらをテーブルに置く。無防備なそれに誘われるまま、オレはなんとなくそこに自分の手を重ねた。
「ストイックなふりをして、お前のそういう貪欲なところが僕は好きだよ」
「ふりなんかしてねぇよ。自分に正直なだけだ」
言い返すと、ふふ、と満足そうに赤司は笑った。
「勝利を獲る以外の事柄に、この僕が食指を動かされるなどまずもって有り得ないことだったんだ。千尋は本当に、僕にとって異端分子だ。取り込んだつもりでも、気付けばいつも僕の手の内から外れて掴めないところにいる」
きゅ、と赤司の指がオレの手を下から掴む。
「そういえばそんなところも、テツヤに似ているね」
「……そりゃどうも」
光栄です、とでも言えばいいか? カケラたりとも嬉しくないが。
「―――本当に、物足りないよ」
テーブルに乗せた片腕に横顔を傾けて、赤司が寝そべったのでちょっと驚いた。こんなだらしないとも言える仕草の赤司ははじめて見るかもしれない。
「……お前やっぱそれ、寂しいんじゃねぇの」
本当につまらなそうに、愚痴にすら聞こえる声音の赤司が、上目遣いがちらりとオレを見る。握られた手を、くいくいと引かれた。
「……退屈なんだよ」
「だから寂しいんだろ」
「つまらない」
「寂しいって言え」
「言えば千尋は帰ってきてくれるのか」
思わず目を見開く。目が合うと、瞬時に赤司は自分の腕に顔をうずめた。
「なんでもない」
「……お前なぁ」
狭いテーブルだ。目の前の赤い髪をかき混ぜると、やめろと言うように頭が揺れる。
「オレに留年しろってか?」
「僕が本気を出せば可能だ」
「冗談に聞こえねぇからやめてくれ」
「冗談じゃない」
「赤司」
繋がった手を引っ張る。
「……ちひろ」
ぽつりと落ちた、さっきまでとは微妙にニュアンスの異なる声に、オレは一つ息をついた。
舌足らずとまでは言わないが、幼さと甘えを、口唇を噛み締めて我慢しているようなじれったさ。そんな声で名を呼ぶな。落ち着かなくて仕方ない。
「オレはバスケ部には帰れないし、留年もしてやれねぇけど」
ぽんぽん、と、頭を叩く。
「寂しい、って言えたら、ひとりじめくらいはさせてやるぞ」
こいつを放っておくと、多分本気で人を勝手に留年させるとか、卒業式を爆破するとか、恐ろしく突飛な行動に出る。
それは困るし。
こんな風に年上ぶって、こいつのプライドに訴えかけてでも本音を引きずり出してやらないと、こいつは多分。
多分、壊れる。
なんとなくだが、そんな風に思う。
掴まれた手を解く。もそもそと顔を上げた赤司に、ん、と両腕を軽く広げてみせる。無表情でやる仕草じゃないのか。よくわからん。知らねぇよ、こんなことしたことないから。
「……なんだそれは」
憮然としたまま、赤司が尋ねる。
「こういう時はひとまず抱きつけばいいと思う」
「そんなことで千尋をひとりじめできるのか」
「さぁ。やってみればいいんじゃねぇの」
不可解そうに、それでもどことなくそわそわと、赤司はテーブルを避けてオレの前に膝をつき、不機嫌な表情を作ってオレを見下ろしてきた。
「ちひろ」
ぽすり、意外とあっさりオレの胸元に顔を埋めてきた。そっと肩に手を回すと、抱きしめた身体が不自然に強ばる。カチカチの猫を抱っこしてるみたいだな。おーヨシヨシと適当に宥めてあやす。
「寂しいって言ってみろ」
「さみしい」
間髪入れず返ってきて目を見開いた。まるでこちらを責めているように聞こえるくらい、切羽詰まった声。逆にそれくらい追い詰められなければ、こいつには口にできない言葉なんだろう。寂しいなんて、ごく普通の、当たり前の言葉なのに。
「さみしい」
「いきなり素直だな」
「さみしい」
連発する声が完全に食い気味で、思わず吹いた。
「さみしい」
「ああ」
「さみしい」
「そうだな」
背中に腕すら回してこない。震えそうなほどに身を固めて、抱きつくというよりはしがみついてくる。
「ちひろ」
他人の体温に身を預けることに慣れていなくて、力を抜くことすら上手くできない身体なのだと思った。
大した体格差があるわけでもないのに、ひどく頼りなくて、脆い。
「ちひろ」
「なに」
「卒業するな」
どうすればそれを回避してやれるのだろう。真剣に考えたって答えなんかあるわけない。わかっているのに、一瞬本気でその可能性を模索してしまう自分がいる。
「屋上に住んで」
「いやそれは無理」
頬を引きつらせながら背中を撫でると、わずかずつ赤司は身体の力を抜き、くたりとオレに寄りかかってきた。
「……さみしい」
「……実渕にも、根武谷にも、葉山にも、あと監督にも、他のメンバーでも、クラスメイトでも、誰でも」
ゆっくりゆっくりと、波打つ心を宥めるように。
「お前が頼りたいと思った相手なら、いくらでもこんな風にしていいから」
ふるふる、と腕の中で赤司が首を振る。
「ひとりでやろうとするな。オレなんかに固執しなくても、お前のことわかってくれるやつは大勢いる」
オレの代わりなんて、ほんとにいくらでもいるんだよ。お前が気付いてないだけで。
お前がオレを、黒子の代わりにしたように。
無理をするな、適当に仲間に頼れ、といくら言っても、こいつにとってその壁はオレが思う以上に強固なものなのだろう。だからこうやって、オレのような男のところにまで、弱音を晒しにわざわざ足を運ぶ。
最近わかってきた。赤司がオレに何を求めているのか。
洛山の内情、バスケ部の内情、そして赤司征十郎の内情を知っていて、かつ、もう残りわずかで自分とは無縁になる男。一応は年上だし、弱音を吐いても気にならないし、道具扱いまでしておいて今さら気を遣う相手でもない。
赤司にとってひどく都合のいいポジションにいるのが、黛千尋という人間なんだと思う。
それはそれで、別に構わない。オレにとっての不利益は、今のところ出ていない。
「ちょっとずつでいいから周りを見ろ。それでもまだお前の気まぐれが続くってんなら、会いにきていいから」
「……本当ですか」
「今だって許してんだろ」
「だって、大学が始まったら、貴方の世界は広がって、黛さんは俺のことなんか忘れる。俺だけが、屋上に取り残されて」
「そう思うんなら尚さら会いに来ればいいだろうが」
不確定な未来の話でいじけるなんて、こいつに似合わなすぎて呆れる。
「いつだってオレの都合なんかおかまいなしに好き勝手やるのが、赤司征十郎だったんじゃねぇのかよ」
猫のような瞳がカッと見開いてオレを見上げた。
「……そうでした」
そしてまたすぐに、ぎゅうと抱きついて顔をうずめた。
「赤司征十郎は、……そうでした」
じわりと嬉しさを噛みしめるように言うから、オレはわざとらしいため息をついて、赤司の頭にぽふりとあごを乗せた。
見下ろす背中にパーカーのフードがあって、それをなんとなくごそごそと赤司の頭にかぶせる。今度なに食わぬ顔してネコ耳パーカーでも仕込んでおこうかなとかどうでもいいことを思いつく。
「……
「……
「甘えんな」
オレがいなくなったら、今度は誰がお前を見つけてやるんだよ。これからはそんなに都合よく、オレはお前のそばにいてやれねぇんだぞ。
声に出したらオレの方が不安に負けそうだったから、黙って赤司を抱きしめる手に、力を込めた。
ほんとに、なんで、こんな。
天井を仰いでため息をつく。
オレなんて全く、面倒見のいい奴とかじゃないのに。
ほんとに、まずい。……これ以上は、まじで。