天帝の傷痕
急須の蓋に軽く手を添え2,3度ゆるく回し、ゆっくりと湯呑に注がれるお茶。
トポポ、という音が心地いい。すぐに香ばしいかおりが立ちのぼって、自然と一息ついた。自分の湯呑と交互に茶を注ぐ赤司を見つめながら、こういった所作の一つ一つが上品で洗練されて見えるのは、育ちの違いなんだろうなとぼんやり思う。特別でもなんでもない普通の茶葉なのに、赤司が淹れるととてつもなく高級な味に感じられて、毎回得した気分になる。
どうぞ、と置かれた湯呑にどうも、と返すと、赤司は正座して、少し様子を伺うような表情をオレに向けた。
「……黛さん、もう学校には来ないんですか?」
「いや、来週は何回か行くけど。担任と話すことあるし」
「その時は連絡をくださいね」
そう言った赤司が少し必死なように見えたので、茶を飲みながら何気なく「寂しいのか?」と尋ねると、ぱちくり、と赤い目が瞬きした。
「寂しいというか…」
口に手を当てて少しばかり思案し、
「物足りない、と言ったほうがしっくりくる」
分析めいたそれに、オレは鼻で笑った。
「唯一の反抗的なしもべがいなくなって、屈服させがいがないってか」
「……それは否定しないな」
おや、と視線をあげるとそこには、見覚えのある尊大でたっぷりと余裕のある笑みがオレを見下ろしていた。
「イエスマンばかりではつまらないし発展性がないからね。事実お前のバスケに関する率直な意見は的を得たもので、虚栄も迎合もない視点と洞察力は僕の行動様式にぴたりと沿っていたし、なかなかに重宝したものだよ」
敬語じゃない。年上を年上とも思わないこの口調、まさにオレの元絶対君主サマ。懐かしさすら感じるほどだ。
お褒めの言葉だかなんだか知らないが、その言い分にオレは湯呑を置いて、はー、とため息をついた。
「だからってことあるごとにオレを取り立てるのはマジでやめろって思ってたわ」
「なぜだ?」
「あのなぁ。ただでさえいきなり1軍入って好奇の目に晒されてんのに、その上主将にやたらとお引き立てされてる奴なんざ、周りの連中にやっかむなって言う方が無理な話だろ」
すでに昔話だ。オレがはじめて1軍メンバーに合流したあの日のことは、忘れたくても忘れられない。
実際は好奇の目なんて単純なもんじゃなかった。なんたって我らが主将サマが直々に引き連れてきたのだ、こんな冴えない、2軍止まりの、一度部を辞めた、誰も覚えていないような影の薄い男を。怒っていいのか笑っていいのか、馬鹿にするとこなのかスルーすべきなのか、何が何やらわからないといったたくさんの目がギラギラと値踏みするようにオレを見ていた。
実際まだミスディレクションを習得していない段階のオレはただのショボいプレイヤーに過ぎなかったから、反感と懐疑の輪が広がるのも至極当然のことだった。
それでも、「秘密の特別レッスン」(と噂された実際はミスディレクションとパス回しの地獄の特訓)で毎日のように主将と2人きりの時間を共にするなんていう超ド級の特別待遇を受けていたオレは、誰がどう見ても『主将サマのお気に入り』でしかなかったわけで。
真相はともかく。
「千尋お前、いじめにでも遭っていたのか」
興味深げに瞳を瞬かせる赤司に軽く呆れる。他人事だと思いやがってこのやろう。そりゃ、ねたみやっかみなんて底辺の感覚、天帝サマには想像もつかない感情だろうけどな。
「別にまぁ、実害はなかったからどうでもいいっちゃいいんだけど」
ガビョウを仕込まれるとか体育館裏に呼び出されるとか、そういうわかりやすいのはなかった。ただ悪意混じりに注視されるのが鬱陶しかっただけで。
「千尋は温存要員だったからね。目の前で実力を示して見せるまで、部員の間で反発が起こることは予想していたが…いずれその時がくれば黙らせることができると確信していたから、あまり深く考えていなかったな」
こいつは俺が育てたみたいに言うな。間違っちゃねぇけど。
「むしろ『その瞬間』のことを考えると柄にもなくわくわくしてね。冬が来るのが待ち遠しかった」
「だったらいっそのこと1軍昇格も冬まで温存しといてくれればよかったんだよ」
オレが5枠のうちの1枠を埋めて公式戦に出たのはWCが初だ。あくまで対決勝戦用の秘密兵器(自分で言いたくねぇな)として、事前データすら漏れないようレギュラー枠からは端から外されていたし、さっきも言ったが特訓は赤司とのマンツーマンだったオレは、要するに冬になるまで実力らしい実力の片鱗も披露できない状況だった。そりゃ何なんだこいつと、中傷混じりに妬まれて当然だ。
まぁミスディレクションが形になるのに冬までかかったって言い方もできるが、実際のところIH前後にはすでに無冠の3人ともパス連携の練習を始めていたので、まるで使い物にならなかったというほどではない。と思う。や、多分。
「それでは僕がつまらない。千尋が1軍にいないと、一緒にいられる時間が減っただろう?」
「だから、それ」
何が嬉しいのか得意げに言い切る赤司にうんざりする。
「実力の方もだけどよ…どっちかっつーとそっちじゃなくて。さっきも言ったけど、お前が無駄にオレを呼びつけるから、それでだよ」
「それで?」
「いや、部員からの風当たりが。嫉妬っつーか」
「……嫉妬?」
「いやだから。いわゆる、主将ひとりじめすんなみたいな…」
「……ひとりじめ」
阿呆のようにオウム返しする赤司は、ここまで言ってもいまいち理解が追いつかないようで今度こそ呆れる。遥か高みにおわす天帝サマには、下民の羨望や崇拝どころか、そこから生まれる憐れな独占欲なんて理解の端にも及ばないらしい。いや、理解はできても共感できないのか、どうでもいいのか。恐らく後者。
1軍に入ってきた経緯がすでに眉唾なのに、普段からもなんだかんだとこいつの隣に立っていた(立たされていた)オレは、羨む連中からすれば本当に不可解で、これ以上なくいけ好かない人物だったことだろう、と今さらながらに思う。
「千尋は僕をひとりじめしていたのか」
ものすごい発見をした、みたいに言うな。
「オレ主体にしてんじゃねぇ。お前のせいでそう見えてたってことだよ」
「それは逆に言えば、僕が千尋をひとりじめしていた、ということにもなるね」
す、と切れ長の瞳がきれいに細められ、思わず顔を歪めた。だから何が嬉しいんだよお前は…。
「お坊ちゃんの気まぐれに、拒否権のない一般市民を巻き込まないで頂きたかったですね」
「気まぐれじゃないと言ってるだろう。無意識ではあったようだけれど」
「タチわりぃ…」
「残念だな。もしもお前がいじめられていたなら、僕が身を呈して庇ってやったのに」
「やめろ。大惨事じゃねぇか」
ふふふ、と心底楽しそうに含み笑う赤司は、子どもじみていて毒気が抜かれる。
当時のオレには、『赤司ブランド』のエンブレムが付いていたようなものだ。マフィアの一味、ヤクザの仲間、赤司征十郎のお気に入り。つまり、手を出すとろくなことにならないぞというわかりやすい脅しの目印。
いじめだのなんだの、下手に手なんか出せるわけがない。
それでなくとも洛山の1軍とくれば、実力もプライドも一流揃い。「面白くない」と不平不満を顔に出すこと自体奴らには屈辱で、何よりそんな惨めさこそが赤司に見限られる所業だとよくわかっていただろう。だからオレはどれほどのやっかみの渦も、実質気にすることなくバスケに専念できた。
優越がなかったとは言わない。だけど、血反吐を吐きながらもオレがバスケを続けたのは、ちっぽけな自尊心を満たすためだけでは決してなかった。
トポポ、という音が心地いい。すぐに香ばしいかおりが立ちのぼって、自然と一息ついた。自分の湯呑と交互に茶を注ぐ赤司を見つめながら、こういった所作の一つ一つが上品で洗練されて見えるのは、育ちの違いなんだろうなとぼんやり思う。特別でもなんでもない普通の茶葉なのに、赤司が淹れるととてつもなく高級な味に感じられて、毎回得した気分になる。
どうぞ、と置かれた湯呑にどうも、と返すと、赤司は正座して、少し様子を伺うような表情をオレに向けた。
「……黛さん、もう学校には来ないんですか?」
「いや、来週は何回か行くけど。担任と話すことあるし」
「その時は連絡をくださいね」
そう言った赤司が少し必死なように見えたので、茶を飲みながら何気なく「寂しいのか?」と尋ねると、ぱちくり、と赤い目が瞬きした。
「寂しいというか…」
口に手を当てて少しばかり思案し、
「物足りない、と言ったほうがしっくりくる」
分析めいたそれに、オレは鼻で笑った。
「唯一の反抗的なしもべがいなくなって、屈服させがいがないってか」
「……それは否定しないな」
おや、と視線をあげるとそこには、見覚えのある尊大でたっぷりと余裕のある笑みがオレを見下ろしていた。
「イエスマンばかりではつまらないし発展性がないからね。事実お前のバスケに関する率直な意見は的を得たもので、虚栄も迎合もない視点と洞察力は僕の行動様式にぴたりと沿っていたし、なかなかに重宝したものだよ」
敬語じゃない。年上を年上とも思わないこの口調、まさにオレの元絶対君主サマ。懐かしさすら感じるほどだ。
お褒めの言葉だかなんだか知らないが、その言い分にオレは湯呑を置いて、はー、とため息をついた。
「だからってことあるごとにオレを取り立てるのはマジでやめろって思ってたわ」
「なぜだ?」
「あのなぁ。ただでさえいきなり1軍入って好奇の目に晒されてんのに、その上主将にやたらとお引き立てされてる奴なんざ、周りの連中にやっかむなって言う方が無理な話だろ」
すでに昔話だ。オレがはじめて1軍メンバーに合流したあの日のことは、忘れたくても忘れられない。
実際は好奇の目なんて単純なもんじゃなかった。なんたって我らが主将サマが直々に引き連れてきたのだ、こんな冴えない、2軍止まりの、一度部を辞めた、誰も覚えていないような影の薄い男を。怒っていいのか笑っていいのか、馬鹿にするとこなのかスルーすべきなのか、何が何やらわからないといったたくさんの目がギラギラと値踏みするようにオレを見ていた。
実際まだミスディレクションを習得していない段階のオレはただのショボいプレイヤーに過ぎなかったから、反感と懐疑の輪が広がるのも至極当然のことだった。
それでも、「秘密の特別レッスン」(と噂された実際はミスディレクションとパス回しの地獄の特訓)で毎日のように主将と2人きりの時間を共にするなんていう超ド級の特別待遇を受けていたオレは、誰がどう見ても『主将サマのお気に入り』でしかなかったわけで。
真相はともかく。
「千尋お前、いじめにでも遭っていたのか」
興味深げに瞳を瞬かせる赤司に軽く呆れる。他人事だと思いやがってこのやろう。そりゃ、ねたみやっかみなんて底辺の感覚、天帝サマには想像もつかない感情だろうけどな。
「別にまぁ、実害はなかったからどうでもいいっちゃいいんだけど」
ガビョウを仕込まれるとか体育館裏に呼び出されるとか、そういうわかりやすいのはなかった。ただ悪意混じりに注視されるのが鬱陶しかっただけで。
「千尋は温存要員だったからね。目の前で実力を示して見せるまで、部員の間で反発が起こることは予想していたが…いずれその時がくれば黙らせることができると確信していたから、あまり深く考えていなかったな」
こいつは俺が育てたみたいに言うな。間違っちゃねぇけど。
「むしろ『その瞬間』のことを考えると柄にもなくわくわくしてね。冬が来るのが待ち遠しかった」
「だったらいっそのこと1軍昇格も冬まで温存しといてくれればよかったんだよ」
オレが5枠のうちの1枠を埋めて公式戦に出たのはWCが初だ。あくまで対決勝戦用の秘密兵器(自分で言いたくねぇな)として、事前データすら漏れないようレギュラー枠からは端から外されていたし、さっきも言ったが特訓は赤司とのマンツーマンだったオレは、要するに冬になるまで実力らしい実力の片鱗も披露できない状況だった。そりゃ何なんだこいつと、中傷混じりに妬まれて当然だ。
まぁミスディレクションが形になるのに冬までかかったって言い方もできるが、実際のところIH前後にはすでに無冠の3人ともパス連携の練習を始めていたので、まるで使い物にならなかったというほどではない。と思う。や、多分。
「それでは僕がつまらない。千尋が1軍にいないと、一緒にいられる時間が減っただろう?」
「だから、それ」
何が嬉しいのか得意げに言い切る赤司にうんざりする。
「実力の方もだけどよ…どっちかっつーとそっちじゃなくて。さっきも言ったけど、お前が無駄にオレを呼びつけるから、それでだよ」
「それで?」
「いや、部員からの風当たりが。嫉妬っつーか」
「……嫉妬?」
「いやだから。いわゆる、主将ひとりじめすんなみたいな…」
「……ひとりじめ」
阿呆のようにオウム返しする赤司は、ここまで言ってもいまいち理解が追いつかないようで今度こそ呆れる。遥か高みにおわす天帝サマには、下民の羨望や崇拝どころか、そこから生まれる憐れな独占欲なんて理解の端にも及ばないらしい。いや、理解はできても共感できないのか、どうでもいいのか。恐らく後者。
1軍に入ってきた経緯がすでに眉唾なのに、普段からもなんだかんだとこいつの隣に立っていた(立たされていた)オレは、羨む連中からすれば本当に不可解で、これ以上なくいけ好かない人物だったことだろう、と今さらながらに思う。
「千尋は僕をひとりじめしていたのか」
ものすごい発見をした、みたいに言うな。
「オレ主体にしてんじゃねぇ。お前のせいでそう見えてたってことだよ」
「それは逆に言えば、僕が千尋をひとりじめしていた、ということにもなるね」
す、と切れ長の瞳がきれいに細められ、思わず顔を歪めた。だから何が嬉しいんだよお前は…。
「お坊ちゃんの気まぐれに、拒否権のない一般市民を巻き込まないで頂きたかったですね」
「気まぐれじゃないと言ってるだろう。無意識ではあったようだけれど」
「タチわりぃ…」
「残念だな。もしもお前がいじめられていたなら、僕が身を呈して庇ってやったのに」
「やめろ。大惨事じゃねぇか」
ふふふ、と心底楽しそうに含み笑う赤司は、子どもじみていて毒気が抜かれる。
当時のオレには、『赤司ブランド』のエンブレムが付いていたようなものだ。マフィアの一味、ヤクザの仲間、赤司征十郎のお気に入り。つまり、手を出すとろくなことにならないぞというわかりやすい脅しの目印。
いじめだのなんだの、下手に手なんか出せるわけがない。
それでなくとも洛山の1軍とくれば、実力もプライドも一流揃い。「面白くない」と不平不満を顔に出すこと自体奴らには屈辱で、何よりそんな惨めさこそが赤司に見限られる所業だとよくわかっていただろう。だからオレはどれほどのやっかみの渦も、実質気にすることなくバスケに専念できた。
優越がなかったとは言わない。だけど、血反吐を吐きながらもオレがバスケを続けたのは、ちっぽけな自尊心を満たすためだけでは決してなかった。