天帝の傷痕

くそが、と口汚く吐き捨てながら、アパートに向かう夜道を走っていた。
なんだって今日に限ってレジ金が合わないだの面倒な客が多いだので退勤時間が遅くなるんだ。こちとらただのバイトだし残業代もいらねぇから定時で上がらせろっつーんだよ。
しかも今日はやたらと寒い。京都の冬は澄んだ大気が全身を覆い、冷気が足元から這いよって身体の芯までカチカチに冷やす。仮にこんな中で身動きも取らずにじっとつっ立っていたら、氷像になっていてもおかしくないレベルだ。そう思うと、足は空回りするようにさらにスピードを上げた。

車道に面するマンションの入口に立っていた赤司が、すぐに気付いてパッとこちらを振り返った。
外灯に照らされた鮮やかな赤髪がふわりと揺れる。濃いキャメルのダッフルコートを着た赤司は、いつもよりもこもことしていてフォルムが丸い。
部屋の前で待っていると隣人や通り過ぎる人目にもつくし邪魔にもなるのでと言って、赤司はマンションの入り口から内側には入らない。ご立派なオートロック付きでもなし、せめて建物の中に入れば寒さもマシなのに、こんな外気に吹きさらしの場所で、赤司は必ずオレを待っている。
「お疲れ様です」
「悪い、待たせた」
「大丈夫ですよ」
涼しげな顔で大嘘つくな。現時刻、待ち合わせより1時間も遅いうえ約束の時間に遅れたことなんか一度もないくせに。
手の甲から指の関節で赤司の頬に触れると、ふ、と大きな目が見開かれた。
「……冷てぇぞ」
不機嫌に指摘する。待たせたのはオレだけど、元を辿れば今日オレの部屋に行きたいと連絡してきたのは赤司だ。
こんなんなるまで、なんだってオレなんかを健気に待つかな、こいつは。いつも思うことだが、こういう時は余計に理不尽な怒りがこみ上げる。
「……黛さん、手があったかいですね」
なのにオレの不満にはまるで頓着せず、赤司はオレを見上げ、目を細めて微笑んだ。それはこいつ特有の、あだっぽいとも言える笑みだ。言外に何かを含ませて、相手の心理をいたずらに突いてくる時の。
「もしかして全速力で走ってきたんですか」
あん? 心の中で舌打ちした。
うっすら微笑む蠱惑的な瞳に、苦虫を思い切り噛み潰して「悪いかよ」と言い返すと、
「いいえ」
赤司は嬉しそうに笑い、寒空に真っ白な息が浮かんで消えた。


      *


「おい、風呂」
浴室で湯を溜める準備をしてから部屋に戻ると、赤司はオレが脱ぎ捨てたダウンコートを拾って、ハンガーにかけているところだった。
驚いた目がこちらを見る。
「いえ、黛さんがお先にどうぞ」
「いいから」
すでにこいつ専用となりつつあるバスタオルとハンディタオル、それにパジャマがわりのパーカーとスウェットを用意しながら、有無を言わさず促す。
「でもお仕事でお疲れなのはそちらでしょう」
「んな体力削るほど大層な仕事してねぇよ。こういう遠慮はいらねぇの。入れ」
「黛さんより先には入れません。どうぞ」
「お前に風邪ひかせて実渕たちに恨まれろってのか?」
む、と柳眉を寄せて、赤司が不満げな顔をする。
「……風邪なんてひきませんし、仮にひいたとして黛さんのせいだなんて言いませんよ」
「ほらタオルと着替え。パンツ持ってけよ。ノーパンで出てきたらそれこそ風邪ひくぞ」
「…………」
ここ最近でわかったことだが、赤司は下品な冗談には氷よりも冷徹な軽蔑の眼差しを向けてくる。そのような低俗な話題で意図的にからかわれることに侮辱を感じるようだ。
まぁ、「ノーパン」ごときで下ネタ判定下すのもどんだけだって話だけどな。…ノーパンじゃなくてフルチンって言ったらどうなるんだろう。言わねぇけど。っていうか意味が通じない可能性もなきにしもあらずか。「ふるちんとはなんですか?」なんて幼気(いたいけ)な表情で聞かれたら、正直ちょっと興奮する。
「………はぁ」
目の前の無表情な男がそんな失礼なことを考えているとは露ほども知らない赤司は、押し付けられたものを渋々受け取ると、自分のカバンからいわゆる「お泊りセット」を取り出し、オレを牽制するように下から睨み上げた。
「これきりですからね」
以前からこいつは、絶対にオレより先に風呂には入らないと言ってきかなかった。一番風呂にこだわるとか昭和の時代でもあるまいし、家主のオレが言いっつってんのに相変わらず妙なところで律儀というか、お堅い。
浴室に向かった背中はわかりやすく機嫌を損ねていて、そういうところが何とも言えず愉快なのだった。


      *


夕飯用の野菜をザクザク切っていたら、風呂から上がった赤司が「黛さん、お先です」と声をかけてきた。
「あったまったか」
手元の包丁から目を離さずに確認する。
「はい。ありがとうございました」
とことこと近寄って、後ろから覗き込んでくる。
「今日はなんですか?」
「冷えたお前のために、ポトフ」
「……と見せかけた手抜き料理」
「そう」
軽いノリツッコミに応じたあといやいやと顔を上げ、
「文句言うなら喰うなよ」
「言ってません。頂きます」
笑った赤司のまだ濡れたままの頭に、首にかかっていたタオルを乗っけてぐしゃ、と掴んでやった。ほこほことぬくもっている赤司はいつもより肌の血色がよく、触ると気持ちよさそうな生き物になっている。思わずつるんとしたほっぺたを撫でて引っ張ると、くすぐったそうに片目を細めた。
「髪を乾かしたら続きをやりますので、黛さんもどうぞ入って下さい」
大方切り終えたところだったので、わかったと包丁を置く。
「どこまでやりましたか?」
「あとブロッコリーだけ」
「お肉は」
「ウィンナーと微妙に残ってるベーコンぶっこむ」
わかりましたいってらっしゃい、と言って赤司が髪を乾かしに部屋に戻ったので、オレも諸々用意して風呂に入る準備を始めた。

風呂から上がると、テーブルにはあらかた夕飯の用意がされていた。和風にしてみました、と味付けを任せた赤司から出されたポトフは醤油と出汁のきいた上品な味で、なにこれうまいと感動しつつ、サラダと味噌汁、菜っ葉の和え物、白米と納豆と一緒にもりもりかきこみ早々に完食した。余談だが多分オレと赤司は食の好みも似ている。
飯を喰ったら、大概そのあとは勉強したり本を読んだりお互い黙々と好きなことをして過ごす。
しばらく経った頃、勉強に飽きたオレが腕を伸ばしてあくびをすると、それを見た赤司も書き物をしていた手を止めて立ち上がった。
「お茶淹れますね」
最初にこの部屋にあげた時は、金持ちはヤカンすらろくに扱えないんじゃないかとハナからバカにしていたが、キッチンに置いてあるものを一通り把握したあとは、大概のことを赤司はスムーズにこなしてみせた。
とりわけこいつの淹れるお茶は美味い。あの時淹れられねぇくせに余計なことすんなと言ったことだけは今さら撤回する。なんぼでも淹れてくれて構わない。
魔法瓶と、急須。百均で揃えた湯呑。ピーラーに菜箸にキッチンペーパー。その他、赤司が来るようになってから台所に増えたものはたくさんある。
正直オレはそんな積極的に自炊しないし、1人の時はカップ麺で済ませることもしょっちゅうだ。だが赤司が来る時はなんとなく作るノリになっていて、2人で台所に立つたびに「あれが欲しいですね」「あれがあった方が便利だな」と足りないものが判明していき、お互い気付いた時に買ってくるうちにどんどんアイテムが増えた。
……なんかちょっと普通じゃないのはわかってるんだが、でも、何を示し合わせたわけでもなく、オレたちにとってはこれがごく普通の流れだったので。
まぁ、赤司だし、と唱えれば、大体心の中のオレは納得する。
まぁ、赤司だし。便利な呪文だ。
1/6ページ