天帝ルート
*
天下の天帝サマが、親とケンカして、逃げて、「得体の知れない」男の部屋に転がり込んで。
挙句、泊めてくださいと媚びて、慣れない色仕掛けなんかして、撃沈して。
誰にも言えなかった弱音を、さらして。
……バカじぇねぇの?
バカだろ。
なんでそんな。
そんな顔を、オレに見せるんだよ。
オレなんかに。
苦手だと思ってた。もう二度と関わってはいけない気がしてた。だからさっさと縁を切りたくて、必死になって傷つけて、突き放したのに。
それなのに、お前はオレをまさか「いい人」とでも勘違いしたのか。
知りたくもなかった弱くて柔らかい内側を、無意識に、無防備に、隙だらけでさらけ出してくるから。
結局オレはお前から離れることができなかった。
あぁそうだよ。
オレの悪い予感は当たるんだ。
さっき、よくわからない焦燥に駆られて三次元の男を抱きしめてしまったことは忘れることにする。ついでになんか暑苦しいセリフを口走ってしまったことも、黒歴史の一端としてさっさと脳内処理しとこう。
赤司は今、オレのベッドで寝ている。「おかまいなくその辺の床で仮眠でも取りますから」と笑ったこいつにはさすがのオレもキレた。だから気の遣い方が外しまくってんだよお前は。庶民でもな、客人に布団貸すくらいのことはするっつーの、舐めやがって。
とは言うものの一人暮らしの家に余分な敷布団や毛布があるはずなく、仕方なく夏用布団やブランケットを引っ張り出して床に敷いてみたが、ぐっちゃぐちゃの猫の寝床みたいにしかならなかった。
いくらなんでもここに赤司を寝かせるわけにはいかないと、オレの中の出がらし部分が激しく警告音を鳴らした。植え付けられた下僕の心得は腐っても根深いようだ。もう諦めるしかない。
本気で焦って遠慮する赤司を、もうめんどくせぇと無理やり抱きあげて(重い)オレのベッドに転がした。
そこから降りたら今度こそ外に放り出す!と言い切ると、多大なる不満を飲み込みまくった不本意な表情をしながらも、赤司はようやく大人しく布団にもぐった。
それが10分前。
「……黛さん」
電気を消した暗闇。時折外を走る車の音しかしない静寂の中、赤司が幼い声でオレを呼ぶ。
「……黛さん、黛さん」
寝てるフリをしたって呼吸音でタヌキかどうかこいつにはバレているだろうけど、どこか甘えるような声音が可愛いと思ってしまい、何度か聞き流して返事を勿体ぶる。
「黛さん」
「……ん」
仰臥したまま返事をすると、ゴソと布団の中で赤司が体勢を変えてオレの方に身体を向けた気配がした。
「ご飯、おいしかったです」
その声はわずかにはしゃいでいるようで、お世辞には聞こえなかった。
オレらしくない見切り発車でこいつを泊めることになったが、実際なんの準備もしていないうえに外出ができない(狙撃されるか犯罪者扱いで捕まるから)となると、色々と問題も出てくる。
とりあえず、赤司の腹が減っている。
そして今現在オレの部屋にはろくな食材がない。
一晩くらい食べなくても何の問題もありませんよと笑うこいつの言い分もわかるが、腹の鳴る音すらコントロールするであろう赤司にどうしても何かを食べさせてやらなければと思ってしまったのは、ありもしない父性だったのか、やはりこれも染み付いた下僕根性だったのか。
生の食材が卵二個しかなかったので、ケチャップとコンソメとミックスベジタブルで無理やりチキンライス作って肉の入ってないオムライスと買い置きの漬け物を半ばヤケクソでテーブルに出してやったら、赤司は演技とは思えないほど目を輝かせた。
「ほんとに何度も言うけどな。お坊ちゃんの食べてるものとは次元が違うからな。絶…っっ! 対! 期待すんなよ」
保険に保険をかけておかないと、口に合わないのに無理やり食べたあとで吐かれたりしたらさすがに心のダメージがデカい。しかし赤司はとんでもない、と首を振って微笑んだ。
「オムライスですね。懐かしい。…大好きだったんです」
……懐かしい?
ひそかに首を傾げるオレをよそに、赤司は行儀よく手を合わせて、嬉しそうに庶民オムライスを食べ始めたのだった。
「……そりゃ、お粗末サン」
天井を見上げて、小さく呟く。
「黛さんは料理できるんですね」
「はぁ? あんなもん料理に入らねーだろ」
「でもおいしかったです」
笑っている。その声だけで、まぁ作ってよかったかなという気分になっている自分もげんきんなものだ。
「……寒くないか」
「いえ。…このパジャマ、あったかいですね」
風呂上がりのこいつに安物のパーカーとスウェットを渡した時も、赤司は心なしか喜んでいた。
「ブレザーとズボンを脱げばシャツだけでも寝られますから」とまたも謎の気遣いを発揮するこのバカに、そんなラノベみたいな展開うっかりさせてたまるかと、自分のクローゼットを漁ってなるべく新品に近いものを引っ張り出し強引に押し付けた。
ちなみにパンツはたまたま買い置きのオレの新品をやったんだが、もしこれがなかったらお前どうするつもりだったんだよと意地悪で聞いてみたら、ふむと思案し、「適当な布さえあれば、縫い合わせて簡易の下着を作れますね」と言いやがった。如才ないというか、正直つまらん。
「少し、サイズが大きいので」
まぁ、ちょっとだけオレのがデカいからな。
「指先があったかいんですよ」
なんでこんなに嬉しそうなんだ。ふふ、と小さな笑い声。萌え袖をナチュラルに自慢してくるとは、こいつ…やりやがる。
「黛さん」
「……なに」
「ほら」
暗闇の中で首だけを動かすと、月明かりにほんのり照らされた赤司が横向けに寝そべり、件の萌え袖に埋もれた手首を俺に向けてプラプラと振っていた。
「……」
遠い目になる。どうしろってんだ。妙に楽しげな様子にまぁ可愛いやつだなと思わないでもないが、それにしたって反応に困る。
「……よかったな」
そう言って再び顔を仰向けて目を閉じると、暗闇の中、赤司は少し首を傾げたようだ。
「……黛さん」
「……」
「黛さん。…黛さん」
「うるせぇ」
「黛さん、ほら」
あーもう。根負けしてもう一度赤司に視線をやると、今度は少し真剣な瞳が、オレを見つめていた。
ベッドと床だと高低差がある。オレは空中に差し出されたままの赤司の指先を下から取った。まるで王子キャラみたいに。
言った通り、少し眺めの袖から、第二関節あたりの指先が覗いている。バスケをやっているわりにしなやかで、細く冷たい指先だった。
随分ゴキゲンだな。くすくす笑って、うれしそーに。
「そういえば、黛さん」
「ん」
「上手な媚び方とはどんなものですか?」
「……はぁ?」
思わず唸り声が出た。
「さっき失敗してからずっと考えていたんですが、どうにも頭の中でイメージが固まらなくて」
真剣か、こいつ。
「……知らねぇよ」
「媚びろと言ったのは貴方ですよ」
「強制した覚えはない」
「でも上手にできないと、次は泊まらせてもらえないじゃないですか」
………………次……だと………。
どこか必死な様子の赤司を見つめながら、一瞬意識が遠のきかける。
次があるのか。そうか…。
……あのな。考えないようにしてたけど、大事な一人息子が得体の知れない男の部屋に入ってって出てこないまま夜になり部屋の灯りが消えた様子を部下から逐一報告されてるであろうこいつの父親は一体今どんな状態なんだよ。キメラにでも変身してんじゃねぇのか。オレこのまま眠っちゃって大丈夫なの?夜中にアサシンが忍び込んで首掻っ切られたりしねぇ?
オレがそんな恐怖を忘れよう忘れようとしてるのにお前はなんだ。さっそく次のアポをさりげに取り付けようとしてるとか、さすが名家の息子は違うぜ。頼むからオレを巻き込むな。
「……はぁ」
考えるのも億劫になり、布団の中で身体ごと赤司の方を向いた。掴んだ手はそのまま。
大きな猫目が、暗闇の中でよく見える。
「……別にいらねぇよ。お前が媚びなんか身につけたら世界が滅ぶわ」
「どういう意味ですか」
こいつのスペックで媚びることとか覚えたら、老若男女ところかまわずたらしこんで全人類あっさり掌握しそうな気がする。
大体お前失敗したと思ってるけど、別に失敗してねぇから。じゃなかったらお前今そこで寝てないからな?
それに、そんなもんを意識的に習得して、今後誰彼かまわず行使するようになられても困る。いや困るっつーか。めんどくさいだろ。ほら。なんかオレのせいみたいだし。
だからもう、二度と使わねぇでいいんだよ。オレ以外には。
「それ以上チートになるなっつってんの」
意味が伝わりづらいのか、赤司は納得のいかない顔で黙り込んだ。
握った指先をしばらく意味もなくぶらぶらさせていると、
「……黛さん」
まるですがるように、赤司の指がオレの手をきゅっと握り返した。
薄闇で光る赤い瞳の中に、何を考えているのか自分でもわからないオレの顔が映っている。
「……もう寝ろ」
「黛さん」
お前、さっきから人の名前呼びすぎ。
「また、来てもいいですか」
……あーー。
暗闇の中で、ぼんやりと、ため息をついた。
しくった。わかってたのに、回避できなかった。
これは未来が変わる質問だ。ここで選ぶ選択肢によって迎えるエンディングが変わることをオレは知っている。
瞬きもせずに、視線を黙って交わし続ける。
答えないオレに、少し寂しげに目を細め、赤司はもう一度懇願するように囁いた。
「……卒業されても、会いにきていいですか?」
それは諦めを含んだ声音で、赤司はその願いが叶えられることはないと思っているらしい。
あぁ、そうだな。そのまま諦めてくれれば、確かにオレの人生は平穏を取り戻すだろうけど。
「――――勝手にしろ」
そう応えたのもまた、オレの本能で、本心だ。
猫のように赤く光る目がまたカッと見開かれて、オレは思わず笑った。
「安心したか? もう寝ろ」
「……黛さん」
「手、離すぞ」
頭より高い位置で上げ続けていた指先は、そろそろ血が下がって冷たくなってきていた。最後に赤司の指先を親指でするりと撫でてしまったのは、名残でも惜しんだんだろうか。本当に今日はらしくもない真似ばかりしていて、小っ恥ずかしいことこの上ない。
赤司はしばらく萌え袖の指先を所在なさげにしていたが、やがて手を布団の中に戻し、微笑んで、目を閉じた。
「……ありがとうございます」
「ん」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
先に赤司が目を閉じたのをいいことに、そのあともオレはなぜか、その幼さの残る綺麗な顔から、視線を逸らすことができなかった。
***
翌朝、夢ではなく赤司はちゃんとこの部屋にいて、オレはひとまずアサシンに殺られてはいなかった。
朝飯用のパンすら切らしていたので、今度こそ赤司に食わせてやるものが何もなくて頭を抱えたが、じゃあ今度こそ帰りますと、赤司はオレの甲斐性のなさを笑って流してくれた。
玄関先で、靴を履いている背中に声をかける。
「……次用がある時は、前もって連絡しろよ」
「そうすれば朝食にもありつけましたか」
「うるせぇぞ」
冗談です、と笑ってかわされ。
「またオムライス作って下さい」
「なんであんなもん気に入ってんのお前」
「うちでは食べられませんからね」
「学食の喰っとけよ」
「黛さんの手作りがいいんですよ」
はぁ。お坊ちゃんの考えることはわからんわ。
窓の外には相変わらず物騒な黒塗りの外車が止まっていて、赤司はそれに乗って帰るのだろう。父親には、進級のことも、オレのこと(不審者ではないという説得)も、ちゃんと言いくるめるし、文句は言わせない、何を言われても引かない覚悟ができたと赤司は言った。
「だから安心して下さい。このあと黛さんが外出しても、狙撃されるようなことはないですから」
「日本とは思えない会話だな……」
「……色々と話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「ん」
「お礼は改めて」
「おぅ」
靴を履き終え、身支度をし、荷物をもって立ち上がる赤司を、壁にもたれて腕を組み無言で眺める。
それでは、と振り返った赤司に、オレはおもむろに口を開いた。
「お前実渕たちに、これ以上面倒や迷惑はかけたくないって言ってたろ」
「……はい」
「そういう思い込みは、あいつらに失礼だからやめとけば」
猫目がひとつ、瞬きをする。
「お前、負けた自分にはもう価値がないと、心のどっかで思ってるだろ。だから好いてくれてる相手に嫌われるのが怖い。これ以上嫌われたくないから、そうやって決めつけて逃げてる」
オレは元々、お前になんらかの価値を見出してお前に従ってきたわけじゃない。責任を押し付けた覚えはないし、その代わりオレ自身も責任を負うつもりはない。オレはオレで好きにするし、お前が勝とうが負けようが、オレの中のお前の価値は変わらない。そういうスタンスでやってきた。
でも他の部員は、無冠の3人は、確かに赤司征十郎という絶対的皇帝のもたらす勝利に価値を見出し、期待して付き従ってきたんだろう。
だが、1年間を共に過ごし、あの激闘を経たあとでも尚ただそれだけの一方的な関係性でいようとする方が、逆に難しいんじゃないのか?
「お前はあいつらが打算と妥協だけで、最後までお前に付いてきてくれてたと思ってんのか?」
見開かれた赤色は、じっと黙ってオレを見返している。
「……まぁ、確かにお前はなんか微妙に性格変わったり、呼び名変わったりするし、意味わからんしとにかくめんどくせぇけど…あいつらだって十分めんどくさい連中なんだから、今さら大したことじゃ動揺しねぇだろ。たまには甘えてみれば」
「………」
驚き、しばらく言葉を探して逡巡していた赤司は、やがて降参とばかりに苦笑をこぼした。
「……ひどい、言い草ですね」
「変人には変人が集まるんだ」
「黛さん、墓穴です」
「オレは違う」
断じて違うぞ。反駁するオレを笑う赤司の年相応の笑顔が本当に楽しそうで、オレも何かに降参したような気分になり、少しだけ笑った。
「―――それでは、黛さん。ありがとうございました」
狭い玄関で、赤司が礼儀正しく腰を折る。顔を上げ、あの赤い瞳と真正面から視線がぶつかった時、耳鳴りのように周囲の音がシャットアウトされた気がした。
赤司の指先が、オレに差し伸べられる。深く考えることなくその手を取って、少し握った。
「……また」
「……ん」
握手でもなく、ただ触れ合うだけの感触と温度。
あぁ
離したくねぇな
ただぼんやりとそう思いつつ、赤司の指先がオレの手をすり抜けていくのを黙って見過ごして。
締まったドアを、壁に頭を預けたままで、ずーっと見つめていた。
……もしもあの時。
電話に出なければ。玄関のドアを開けなければ。部屋に入れなければ。追い出していれば。引き止めなければ。抱きしめなければ。
あの手を握ったりしなければ。
いや違う。選択肢をミスったのはそこじゃない。そもそも分岐点が多すぎてよくわからない。でももっと、致命的なとこでオレは間違いを犯していた気がする。
あの日の屋上。
そうだ。あの時オレたちが出逢わなければ―――
オレは手のひらを見つめた。ついさっきまでそこにあった赤司のぬくもりを、感触を壊さないよう、慎重に握り締める。
本当に、まったく。よく当たる悪い予感なんて、回避できないなら自慢にもならない。
根拠のない確信だった。
オレとあいつが出逢わないなんて無理だ。
回避不可。何度巡っても、遠回りしても、どうやったって交わらざるを得ない、絶対的な力。
そういうのをなんていうか、オレは知ってる。
強制ルートだ。
天下の天帝サマが、親とケンカして、逃げて、「得体の知れない」男の部屋に転がり込んで。
挙句、泊めてくださいと媚びて、慣れない色仕掛けなんかして、撃沈して。
誰にも言えなかった弱音を、さらして。
……バカじぇねぇの?
バカだろ。
なんでそんな。
そんな顔を、オレに見せるんだよ。
オレなんかに。
苦手だと思ってた。もう二度と関わってはいけない気がしてた。だからさっさと縁を切りたくて、必死になって傷つけて、突き放したのに。
それなのに、お前はオレをまさか「いい人」とでも勘違いしたのか。
知りたくもなかった弱くて柔らかい内側を、無意識に、無防備に、隙だらけでさらけ出してくるから。
結局オレはお前から離れることができなかった。
あぁそうだよ。
オレの悪い予感は当たるんだ。
さっき、よくわからない焦燥に駆られて三次元の男を抱きしめてしまったことは忘れることにする。ついでになんか暑苦しいセリフを口走ってしまったことも、黒歴史の一端としてさっさと脳内処理しとこう。
赤司は今、オレのベッドで寝ている。「おかまいなくその辺の床で仮眠でも取りますから」と笑ったこいつにはさすがのオレもキレた。だから気の遣い方が外しまくってんだよお前は。庶民でもな、客人に布団貸すくらいのことはするっつーの、舐めやがって。
とは言うものの一人暮らしの家に余分な敷布団や毛布があるはずなく、仕方なく夏用布団やブランケットを引っ張り出して床に敷いてみたが、ぐっちゃぐちゃの猫の寝床みたいにしかならなかった。
いくらなんでもここに赤司を寝かせるわけにはいかないと、オレの中の出がらし部分が激しく警告音を鳴らした。植え付けられた下僕の心得は腐っても根深いようだ。もう諦めるしかない。
本気で焦って遠慮する赤司を、もうめんどくせぇと無理やり抱きあげて(重い)オレのベッドに転がした。
そこから降りたら今度こそ外に放り出す!と言い切ると、多大なる不満を飲み込みまくった不本意な表情をしながらも、赤司はようやく大人しく布団にもぐった。
それが10分前。
「……黛さん」
電気を消した暗闇。時折外を走る車の音しかしない静寂の中、赤司が幼い声でオレを呼ぶ。
「……黛さん、黛さん」
寝てるフリをしたって呼吸音でタヌキかどうかこいつにはバレているだろうけど、どこか甘えるような声音が可愛いと思ってしまい、何度か聞き流して返事を勿体ぶる。
「黛さん」
「……ん」
仰臥したまま返事をすると、ゴソと布団の中で赤司が体勢を変えてオレの方に身体を向けた気配がした。
「ご飯、おいしかったです」
その声はわずかにはしゃいでいるようで、お世辞には聞こえなかった。
オレらしくない見切り発車でこいつを泊めることになったが、実際なんの準備もしていないうえに外出ができない(狙撃されるか犯罪者扱いで捕まるから)となると、色々と問題も出てくる。
とりあえず、赤司の腹が減っている。
そして今現在オレの部屋にはろくな食材がない。
一晩くらい食べなくても何の問題もありませんよと笑うこいつの言い分もわかるが、腹の鳴る音すらコントロールするであろう赤司にどうしても何かを食べさせてやらなければと思ってしまったのは、ありもしない父性だったのか、やはりこれも染み付いた下僕根性だったのか。
生の食材が卵二個しかなかったので、ケチャップとコンソメとミックスベジタブルで無理やりチキンライス作って肉の入ってないオムライスと買い置きの漬け物を半ばヤケクソでテーブルに出してやったら、赤司は演技とは思えないほど目を輝かせた。
「ほんとに何度も言うけどな。お坊ちゃんの食べてるものとは次元が違うからな。絶…っっ! 対! 期待すんなよ」
保険に保険をかけておかないと、口に合わないのに無理やり食べたあとで吐かれたりしたらさすがに心のダメージがデカい。しかし赤司はとんでもない、と首を振って微笑んだ。
「オムライスですね。懐かしい。…大好きだったんです」
……懐かしい?
ひそかに首を傾げるオレをよそに、赤司は行儀よく手を合わせて、嬉しそうに庶民オムライスを食べ始めたのだった。
「……そりゃ、お粗末サン」
天井を見上げて、小さく呟く。
「黛さんは料理できるんですね」
「はぁ? あんなもん料理に入らねーだろ」
「でもおいしかったです」
笑っている。その声だけで、まぁ作ってよかったかなという気分になっている自分もげんきんなものだ。
「……寒くないか」
「いえ。…このパジャマ、あったかいですね」
風呂上がりのこいつに安物のパーカーとスウェットを渡した時も、赤司は心なしか喜んでいた。
「ブレザーとズボンを脱げばシャツだけでも寝られますから」とまたも謎の気遣いを発揮するこのバカに、そんなラノベみたいな展開うっかりさせてたまるかと、自分のクローゼットを漁ってなるべく新品に近いものを引っ張り出し強引に押し付けた。
ちなみにパンツはたまたま買い置きのオレの新品をやったんだが、もしこれがなかったらお前どうするつもりだったんだよと意地悪で聞いてみたら、ふむと思案し、「適当な布さえあれば、縫い合わせて簡易の下着を作れますね」と言いやがった。如才ないというか、正直つまらん。
「少し、サイズが大きいので」
まぁ、ちょっとだけオレのがデカいからな。
「指先があったかいんですよ」
なんでこんなに嬉しそうなんだ。ふふ、と小さな笑い声。萌え袖をナチュラルに自慢してくるとは、こいつ…やりやがる。
「黛さん」
「……なに」
「ほら」
暗闇の中で首だけを動かすと、月明かりにほんのり照らされた赤司が横向けに寝そべり、件の萌え袖に埋もれた手首を俺に向けてプラプラと振っていた。
「……」
遠い目になる。どうしろってんだ。妙に楽しげな様子にまぁ可愛いやつだなと思わないでもないが、それにしたって反応に困る。
「……よかったな」
そう言って再び顔を仰向けて目を閉じると、暗闇の中、赤司は少し首を傾げたようだ。
「……黛さん」
「……」
「黛さん。…黛さん」
「うるせぇ」
「黛さん、ほら」
あーもう。根負けしてもう一度赤司に視線をやると、今度は少し真剣な瞳が、オレを見つめていた。
ベッドと床だと高低差がある。オレは空中に差し出されたままの赤司の指先を下から取った。まるで王子キャラみたいに。
言った通り、少し眺めの袖から、第二関節あたりの指先が覗いている。バスケをやっているわりにしなやかで、細く冷たい指先だった。
随分ゴキゲンだな。くすくす笑って、うれしそーに。
「そういえば、黛さん」
「ん」
「上手な媚び方とはどんなものですか?」
「……はぁ?」
思わず唸り声が出た。
「さっき失敗してからずっと考えていたんですが、どうにも頭の中でイメージが固まらなくて」
真剣か、こいつ。
「……知らねぇよ」
「媚びろと言ったのは貴方ですよ」
「強制した覚えはない」
「でも上手にできないと、次は泊まらせてもらえないじゃないですか」
………………次……だと………。
どこか必死な様子の赤司を見つめながら、一瞬意識が遠のきかける。
次があるのか。そうか…。
……あのな。考えないようにしてたけど、大事な一人息子が得体の知れない男の部屋に入ってって出てこないまま夜になり部屋の灯りが消えた様子を部下から逐一報告されてるであろうこいつの父親は一体今どんな状態なんだよ。キメラにでも変身してんじゃねぇのか。オレこのまま眠っちゃって大丈夫なの?夜中にアサシンが忍び込んで首掻っ切られたりしねぇ?
オレがそんな恐怖を忘れよう忘れようとしてるのにお前はなんだ。さっそく次のアポをさりげに取り付けようとしてるとか、さすが名家の息子は違うぜ。頼むからオレを巻き込むな。
「……はぁ」
考えるのも億劫になり、布団の中で身体ごと赤司の方を向いた。掴んだ手はそのまま。
大きな猫目が、暗闇の中でよく見える。
「……別にいらねぇよ。お前が媚びなんか身につけたら世界が滅ぶわ」
「どういう意味ですか」
こいつのスペックで媚びることとか覚えたら、老若男女ところかまわずたらしこんで全人類あっさり掌握しそうな気がする。
大体お前失敗したと思ってるけど、別に失敗してねぇから。じゃなかったらお前今そこで寝てないからな?
それに、そんなもんを意識的に習得して、今後誰彼かまわず行使するようになられても困る。いや困るっつーか。めんどくさいだろ。ほら。なんかオレのせいみたいだし。
だからもう、二度と使わねぇでいいんだよ。オレ以外には。
「それ以上チートになるなっつってんの」
意味が伝わりづらいのか、赤司は納得のいかない顔で黙り込んだ。
握った指先をしばらく意味もなくぶらぶらさせていると、
「……黛さん」
まるですがるように、赤司の指がオレの手をきゅっと握り返した。
薄闇で光る赤い瞳の中に、何を考えているのか自分でもわからないオレの顔が映っている。
「……もう寝ろ」
「黛さん」
お前、さっきから人の名前呼びすぎ。
「また、来てもいいですか」
……あーー。
暗闇の中で、ぼんやりと、ため息をついた。
しくった。わかってたのに、回避できなかった。
これは未来が変わる質問だ。ここで選ぶ選択肢によって迎えるエンディングが変わることをオレは知っている。
瞬きもせずに、視線を黙って交わし続ける。
答えないオレに、少し寂しげに目を細め、赤司はもう一度懇願するように囁いた。
「……卒業されても、会いにきていいですか?」
それは諦めを含んだ声音で、赤司はその願いが叶えられることはないと思っているらしい。
あぁ、そうだな。そのまま諦めてくれれば、確かにオレの人生は平穏を取り戻すだろうけど。
「――――勝手にしろ」
そう応えたのもまた、オレの本能で、本心だ。
猫のように赤く光る目がまたカッと見開かれて、オレは思わず笑った。
「安心したか? もう寝ろ」
「……黛さん」
「手、離すぞ」
頭より高い位置で上げ続けていた指先は、そろそろ血が下がって冷たくなってきていた。最後に赤司の指先を親指でするりと撫でてしまったのは、名残でも惜しんだんだろうか。本当に今日はらしくもない真似ばかりしていて、小っ恥ずかしいことこの上ない。
赤司はしばらく萌え袖の指先を所在なさげにしていたが、やがて手を布団の中に戻し、微笑んで、目を閉じた。
「……ありがとうございます」
「ん」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
先に赤司が目を閉じたのをいいことに、そのあともオレはなぜか、その幼さの残る綺麗な顔から、視線を逸らすことができなかった。
***
翌朝、夢ではなく赤司はちゃんとこの部屋にいて、オレはひとまずアサシンに殺られてはいなかった。
朝飯用のパンすら切らしていたので、今度こそ赤司に食わせてやるものが何もなくて頭を抱えたが、じゃあ今度こそ帰りますと、赤司はオレの甲斐性のなさを笑って流してくれた。
玄関先で、靴を履いている背中に声をかける。
「……次用がある時は、前もって連絡しろよ」
「そうすれば朝食にもありつけましたか」
「うるせぇぞ」
冗談です、と笑ってかわされ。
「またオムライス作って下さい」
「なんであんなもん気に入ってんのお前」
「うちでは食べられませんからね」
「学食の喰っとけよ」
「黛さんの手作りがいいんですよ」
はぁ。お坊ちゃんの考えることはわからんわ。
窓の外には相変わらず物騒な黒塗りの外車が止まっていて、赤司はそれに乗って帰るのだろう。父親には、進級のことも、オレのこと(不審者ではないという説得)も、ちゃんと言いくるめるし、文句は言わせない、何を言われても引かない覚悟ができたと赤司は言った。
「だから安心して下さい。このあと黛さんが外出しても、狙撃されるようなことはないですから」
「日本とは思えない会話だな……」
「……色々と話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「ん」
「お礼は改めて」
「おぅ」
靴を履き終え、身支度をし、荷物をもって立ち上がる赤司を、壁にもたれて腕を組み無言で眺める。
それでは、と振り返った赤司に、オレはおもむろに口を開いた。
「お前実渕たちに、これ以上面倒や迷惑はかけたくないって言ってたろ」
「……はい」
「そういう思い込みは、あいつらに失礼だからやめとけば」
猫目がひとつ、瞬きをする。
「お前、負けた自分にはもう価値がないと、心のどっかで思ってるだろ。だから好いてくれてる相手に嫌われるのが怖い。これ以上嫌われたくないから、そうやって決めつけて逃げてる」
オレは元々、お前になんらかの価値を見出してお前に従ってきたわけじゃない。責任を押し付けた覚えはないし、その代わりオレ自身も責任を負うつもりはない。オレはオレで好きにするし、お前が勝とうが負けようが、オレの中のお前の価値は変わらない。そういうスタンスでやってきた。
でも他の部員は、無冠の3人は、確かに赤司征十郎という絶対的皇帝のもたらす勝利に価値を見出し、期待して付き従ってきたんだろう。
だが、1年間を共に過ごし、あの激闘を経たあとでも尚ただそれだけの一方的な関係性でいようとする方が、逆に難しいんじゃないのか?
「お前はあいつらが打算と妥協だけで、最後までお前に付いてきてくれてたと思ってんのか?」
見開かれた赤色は、じっと黙ってオレを見返している。
「……まぁ、確かにお前はなんか微妙に性格変わったり、呼び名変わったりするし、意味わからんしとにかくめんどくせぇけど…あいつらだって十分めんどくさい連中なんだから、今さら大したことじゃ動揺しねぇだろ。たまには甘えてみれば」
「………」
驚き、しばらく言葉を探して逡巡していた赤司は、やがて降参とばかりに苦笑をこぼした。
「……ひどい、言い草ですね」
「変人には変人が集まるんだ」
「黛さん、墓穴です」
「オレは違う」
断じて違うぞ。反駁するオレを笑う赤司の年相応の笑顔が本当に楽しそうで、オレも何かに降参したような気分になり、少しだけ笑った。
「―――それでは、黛さん。ありがとうございました」
狭い玄関で、赤司が礼儀正しく腰を折る。顔を上げ、あの赤い瞳と真正面から視線がぶつかった時、耳鳴りのように周囲の音がシャットアウトされた気がした。
赤司の指先が、オレに差し伸べられる。深く考えることなくその手を取って、少し握った。
「……また」
「……ん」
握手でもなく、ただ触れ合うだけの感触と温度。
あぁ
離したくねぇな
ただぼんやりとそう思いつつ、赤司の指先がオレの手をすり抜けていくのを黙って見過ごして。
締まったドアを、壁に頭を預けたままで、ずーっと見つめていた。
……もしもあの時。
電話に出なければ。玄関のドアを開けなければ。部屋に入れなければ。追い出していれば。引き止めなければ。抱きしめなければ。
あの手を握ったりしなければ。
いや違う。選択肢をミスったのはそこじゃない。そもそも分岐点が多すぎてよくわからない。でももっと、致命的なとこでオレは間違いを犯していた気がする。
あの日の屋上。
そうだ。あの時オレたちが出逢わなければ―――
オレは手のひらを見つめた。ついさっきまでそこにあった赤司のぬくもりを、感触を壊さないよう、慎重に握り締める。
本当に、まったく。よく当たる悪い予感なんて、回避できないなら自慢にもならない。
根拠のない確信だった。
オレとあいつが出逢わないなんて無理だ。
回避不可。何度巡っても、遠回りしても、どうやったって交わらざるを得ない、絶対的な力。
そういうのをなんていうか、オレは知ってる。
強制ルートだ。
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