天帝ルート
*
「…黛さん」
失礼しますと断り、しばらく自分の携帯を触っていた赤司が、ふいに名を呼んだ。…ていうかまた苗字呼びに戻ってやがる。どういうあれなんだこいつは。二重人格かなんかか? まぁそうだと言われても感想としてはさもありなん、だが。今さらその程度で驚くか。なんせオレにとってはエイリアンだし。
「このあとは、予定はないと仰ってましたよね」
「明日の朝飯のパン買うの忘れてたからコンビニだけ行こうと思ってる」
「……黛さん、すみません」
「は? てかお前はどうすんだ? 家どこか知らねぇけど終電とかチェックしとけよ」
「申し訳ありませんが、今夜は家から外に出ないで頂けませんか」
「………」
でかい猫目が真剣に見つめてくる。オレが言うのもなんだけど、こいつは冗談の言えるたちじゃない。
「……聞きたくないがどういう意味だ」
「父に、ばれました」
その言葉の意味を頭の中で前向きに咀嚼してみたが、純度100%嫌な予感しか出てこなかった。
「……ばれたって、お前…ここが?」
「はい」
「この場所が? オレんちが?」
「はい」
「……お前GPSでも付けてんの?」
「途中から尾行されているのは気付いていました。巻いたと思っていましたが少々甘かったようですね」
尾行つったかオイ。どこの現実世界に16の息子が家飛び出したくらいで尾行させる親父がいるかよ。
「……ちょっと待てよ。てことはまさか」
ハッとして恐る恐るカーテンの隙間から下を覗くと、明らかに怪しい黒塗りの車が電信柱脇に停車していてオレは死んだ。
「俺がこの部屋に入ってから、ずっと監視されています」
赤司が真顔で静かに頷く。
両手を床につけてうなだれるしかない。もう色々といい加減にしろ。オレを現実世界に帰してくれ。
「……もーお前なんなのマジで。てか家から出るなってなんだよ。出た途端狙撃でもされんのかよ」
「その危険性は低いと思いますが、居場所がわかっているのに接触してこなかったのは父なりに何か目論見があると見て間違いないでしょう。黛さんが家から出たら、捕まって尋問される可能性もないとは言い切れません」
「犯罪者かオレは!」
「すみません」
「つーか違うだろ! 捕捉されたからなんだっつんだよ! オレじゃなくてお前がさっさと出てけばいい話だろうが!」
「それが実は、そういうわけにもいかなくなって」
「は?」
「今さっき、『絶対に帰らない』と父にメールを送ってしまいました」
そう言ってコト、と、赤司は携帯をテーブルに置いた。
……お前……日本語しゃべれよ……。
*
なんでそんなこと言った。説明しろ。
正座で腕を組み本気でイライラと問い詰めると、心なしか赤司はしょんぼりとした雰囲気で口を開いた。
「……最初のメールで突然、『得体の知れない人間の家に上がり込むなさっさと帰って来い』と送られてきて」
「……得体は知れてるけどな」
「はい。学校の先輩であり部活動の仲間であることを説明しましたが、『誰であろうが所詮お前には不釣り合いだいいから帰ってこい』の一点張りで」
「……庶民で悪かったな」
「そんなことを言わないでくれと何度もやり取りをしましたが、頭の固い年寄りには話が通じず、最終的に『絶対に帰らない。死ね』と送って電源を落としました」
「だからなんでお前はそう極端に攻撃的なんだよ!!」
そうじゃない時はむしろ穏やかなくせに、聖母のようだと赤司教の連中に崇められているくせに、スイッチ切り替わると即デッドorアライブなのはどこのサバイバーなのこいつ。
「でも黛さんのことをそんな風に」
「いいから。本気でどうでもいいから。帰れ」
「……黛さん」
じっと、赤司が目と目で何かを伝えようとしてくる。染み付いた影の習性ゆえに悟ってしまった自分に舌打ちしながら、反射的に拒絶を口にしていた。
「いやだ」
「今晩」
「断る」
「泊めてくだ」
「人の話を聞け!」
テーブルをバンと叩くと、猫目が瞳孔を開いて固まった。
要するにこいつの親父は、ケンカして家を出た息子を部下に尾行させて居場所まで突き止めておいて、見つけたんならその場でさっさと捕獲すればいいものをその息子が得体の知れない人間の家にのこのこあがり込むのをまんじりともせず手をこまねいて見てたってことか。
アホだろ。バカだろ。呆れてものも言えねぇよ。
ここでさらにその『息子』が『得体の知れない人間』の家に無断外泊なんてことになったら、もう親父発狂するだろ。そんで明日の朝オレが冷たくなって発見される未来しか見えないだろが。
これ以上この頭おかしい金持ち親子に関わったら絶対ロクでもないことになる。ここまで、ちょっと今までとは違う後輩らしい赤司の側面に絆されて気まぐれで付き合ってやってたが、目が覚めた。ここが本当の潮時だ。お前の面倒ボランティアで見る義理はオレにはない。オレは自分が大事だし利のないことはしない主義なんだよ。何度も言わせんな。
「いい加減にしろ。てめぇの都合でオレを巻き込むな」
「だから申し訳ないと何度も」
「謝りゃなんでも思う通りにいくと思うなよお坊ちゃん。金持ちの道楽みたいなプチ家出に付き合ってやるほど庶民は暇じゃねぇんだよ」
ぐ、と赤司の眉が寄せられた。不快に思ったのか、傷ついたのか、あるいはその両方のような顔。
知ってる人間の中でダントツに強いその目ヂカラを、負ける気もなく睨み返す。
「……では、どうしろと言うんですか」
「だから帰れっつってんだろ。それ以外なんもねぇよ」
「だから帰れないと言ったでしょう」
「だからそれはお前の都合であってオレには全く関係ないんだよ!」
「だからお願いしてるんじゃないですか!」
どこがだよしてねぇよ!
ていうかなんでこいつ、オレが簡単にYESって言うと思ってたんだ。言わなかったからって何でちょっとムカついてんだ?
この、自分なら何でも許されるはずだと思ってるツラ全開なのが本気でカンに障る。まるでオレの方が頭おかしいみたいなその目はなんだよ。おかしいのはお前だろどう考えても。
人を出がらしになるまで利用するだけして。
今度は都合のいい避難場所かよ。
お前にとってオレはなんだ。見たくもねぇツラ晒して安心するだと?ただの掃き溜めじゃねーか。
しばらく本気の嫌悪を交えて睨み合った視線を、赤司が先に逸らした。
「……帰ったら」
小さく、かろうじて聞こえるような声で。
「帰ったら、俺は……」
「お前さ」
その被害者意識丸出しの態度に苛立ち、途中で冷たく遮った。
「それが人に物頼む態度かよ。そこまで『お願い』するんなら、媚びるくらいしてみろ」
「……っ」
「出来ねぇなら帰れ」
見開かれた目は、衝撃を滲ませてオレを凝視した。
屈辱だろ。そうだろうな。一度役立たずだと見限った格下の人間にこんなこと言われたら。プライドが傷ついたならさっさと出て行け。ここは庶民の小汚ねぇワンルームだ。お前の父親が言うように、お前には到底不釣合いな場所なんだよ。
丸く、丸く、猫のように開かれた瞳孔。
赤司は無表情の中に動揺を含ませて、テーブルの上でぎゅっと拳を握った。ひどく逡巡しているのが伝わる。
あぁ、ほらだからもう一度、あの時のようにオレを捨てて、さっさと出ていけばいいんだ。なんでオレはこんなにイラついてるんだ。お前といるとこんなことばかりなんだよ。バカみたいに感情揺り動かされて、みっともない顔晒して。もういい加減うんざりなんだよ。オレは平穏が好きなんだよ。こんな面倒くさい感情抱えたくないんだ。もうオレに関わるな。頼むから、頼むから、もう
そっとしておいてくれ。
ふいに赤司が、四つん這いでぺたりと床に手をついた。一瞬そのまま立ち上がって出て行くのかと思ったが、なぜかぺたぺたと手をついて、テーブルを回り込みオレの前まで来て視線を上げた。
……本物の猫みたいだな。赤い、誰にも触れることを許さない高貴な猫。
ほんのわずかに寄せられた眉。食いしばった口唇が開かれて、囁くように「黛さん」とオレを呼んだ。
上目遣いの大きな目が見たことのない不安で揺れていて、その不安が伝染するように、オレも硬直して息を止めた。
オレの開いた膝の間に赤司の身体がするりと入り込む。
「……おい」
牽制のつもりの声は、全く力が入らなかった。
赤司の手がオレの太ももに添えられて、その人形みたいに整った顔が徐々に近付いてくる。
視界が、赤司で、埋まる。
ちょっと待て
なんだこれは
ちょっと待て!
「――――っ」
赤司のまつ毛の数までわかる距離で、薄く開かれた口唇が、かすかな吐息を漏らした。
「………すみませ……」
そしてそのままズルズルと俯いて、オレの足に乗り上げた状態で動かなくなった。
赤司のつむじが見下ろしたすぐそこにあり、ふわふわとした赤い猫っ毛が口唇に触れる。
やがてオレは詰めた息を大きく吐き出した。同時に赤司も溜め込んだ息を吐き出したので、今の永遠みたいに長い数秒間に、お互いが息を止めていたのだと知る。
呼吸を再開した途端、今さらのように心臓が音を立ててバクバクと動き出した。
「……おい」
この状態で固まるなバカ。赤司はビクリと肩を跳ねさせてから、力が抜けたように床に膝をついた。
「……すみません」
「……何が」
はぁ、と改めて大きく深呼吸し、赤司は手で口元を覆った。白い指先がかすかに震えている。
「……できませんでした」
「……何が」
その指先から視線が外せず、オレは阿呆みたいに上の空で繰り返す。
心臓がざわざわする。その正体はわかっている。艶を含み誘うようだと勘違いしそうになる雄の本能。後輩であり、魔王であり、何より同性の男であるこいつに、オレは、いま。
赤司はようやく顔を上げ、どこか泣きそうな顔で笑った。
「媚びようかと、思ったんですが」
「――――ッ」
その瞬間、快感なのか不快感なのかわからない感覚が追い打ちのようにぞわりと背中を走り抜けた。
このプライドの高い天帝が。
オレのために、媚びただと?
「慣れないことはするものじゃない…すみません、よくわからなくて」
「………お前」
バカか、という言葉が、喉につかえて出てこない。
「……お前、媚びるために、…キス、するのかよ」
かろうじて絞り出した声を、動揺のあまり震わせないようにするので必死だ。
赤司は聞いたことのない言葉のように、きす、と繰り返した。
「あぁ、いえ、すみません、深く考えてはいなかったんですが。ただ、…貴方にああ言われて少し混乱しました…すみません」
「……深く考えずに、『色仕掛け』とか、頭おかしいんじゃねぇの、お前」
傷付けてやりたいと思った言葉は辿たどしく揺れた。
「違う」
色 だなんて、そんなつもりはない。表情が心外とばかりにオレを責める。
「違います」
「違わねぇだろ」
「違います、咄嗟にからだが動いただけ、で…」
しかし理性めいた言い訳はすぐに墓穴を掘り、とり繕えず赤司はあっという間に黙り込んだ。
ゆっくりと俯いていく。その耳の先が、気のせいでなければ微かに赤い。自分でも信じられないというような顔をしている。
オレも大概脳内が麻痺していてろくに思考がまとまらないが、この状況がおかしいことだけはわかる。
なんだこれ。クソ、思考が追いつかない。わけがわからないが、一つだけ確かなことがある。認めたくないが、オレは。間違いなくさっきオレは。
オレは赤司に欲情した。
嘘だろう。ありえないだろう。信じ難いと同時に、頭のどこかが冷めている自分はなんなんだろう。これは不可抗力で済まされる劣情なのか、それとも単純にオレがバグってるだけなのか、どうなんだ、頼む誰か教えてくれ。
今、オレの目の前で顔を赤らめて羞恥に耐えるように俯いているこいつが、かつてのオレの絶対君主だったなんてどう考えても思えない。記憶の中の気高き孤高の帝王と、目の前で隙だらけで震えてる16歳のガキが、どう頑張っても結びつかない。
こんな弱い生き物をどうにかしたって、こんなん誰もオレを責められないだろ。プライドとか下卑た愉悦とか都合のいい妄想が冷静に見えるであろうオレの脳内を音速で駆け回り、浅ましくゴクリと喉が鳴った。
ゾクゾク這い上がる嗜虐の欲に思考が赤く塗りつぶされる。
無意識に、手が伸びる。
手首を捕らえようとしたところで赤司が顔を上げ、オレは咄嗟に自分の手を握り締めた。
「……本当に、だめですね」
ふ、と苦しげな笑みを浮かべ額に手を当てて。
「今日は何をやっても、貴方を怒らせてしまうようだ」
その頬はもう赤らんではいなかったが、何かを堪えているように見えた。
「言われた通り帰ります」
決断は早く潔い。こんな時でも聞き分けのいいオレの元王様はすぐに立ち上がり、コートやマフラーを手早く身に付け最後に自分のカバンを持ち上げた。
淡々としてはいるが、引かれる後ろ髪を断ち切ろうとしているように見えるのは自意識過剰だろうか。
赤司が帰る準備をしている間、オレは少しも動けなかった。情けないことに感情が追いついていなかったのだ。
赤司が部屋を出ていき、玄関先で靴を履く。室内に取り残されただ黙ってそれを見ているオレを、かかとを整えた赤司がゆっくりと振り返った。
「……黛さん」
遠くから耳に届く、穏やかで、寂しい声。静かで、
「―――父は元々、俺の京都住まいには反対でした」
静かすぎて、胸が詰まりそうだ。
「京都 で、もし俺の勉学、素行に支障が出るようなことがあれば即連れ戻すという約束で、別宅住まいを許されました」
……まじか。あのよ、ずっと思ってたけど、お前の父親は大丈夫なのか。子離れ的な意味で。
「常勝を維持できなかったことを理由に、恐らく俺は、そのうち東京に連れ戻されます」
あぁ、なるほど。そういうことも、あるだろうな。
「そうすればいずれ、実渕にも、根武谷にも、葉山にも、黛さんにも、会えなくなる」
……かもな。
「それが、柄にもなく寂しくて」
眉を下げて微笑んだ表情に、心臓が傷んだ気がしてオレは無意識に拳を握り締めた。
「子どもみたいに駄々をこねてしまいました。ごめんなさい」
お前はまだ子どもだろうが、バカ。
謝りながら、そんな綺麗に笑ってんじゃねーよ。全然申し訳なさそうに見えないっつってんだろ。
てかそんなことあるなら最初に言えよ。なんでそんなめんどくさいことを、一人で。
抱えて。
じゃあお前は。
何のためにオレに会いにきたんだよ。
歯ぎしりしたくなるような焦燥が暴れ回り、浮かんだ言葉はどれも声にはならずに霧散する。
何も言わないオレを最後の拒絶だと受け取ったのか、赤司はさらに美しく笑ってみせた。
「くだらないことを話してしまいましたね。やはり俺は、貴方の前ではどうもおかしくなってしまうようだ」
「………」
「みっともない真似を晒してすみませんでした」
だから謝るなって言ってんだろ。
「今日のことは、どうか忘れてください」
そんなことできるか。
声が出せない。ヘタレすぎる自分に舌打ちする。待て。赤司、勝手にお前の中で終わらせんな。なんだってお前はそうクソめんどくさいんだよ。だから嫌いなんだ、関わりたくなんかなかった、関わりたくなんかなかったんだよ本当に!
それなのになんで。
なんで
もう会えないとか
ドアノブに手をかけ、振り返った赤司の諦観に満ちた笑顔があまりにも遠い。
その扉を開けたら、お前は―――
「ちょっと待て!!」
やっと出た声は自分でも引くほどデカかった。叫ぶというより怒鳴ったそれに、赤司はカッと瞳孔をかっぴろげて硬直した。これが脅してるんじゃなくて心底驚いてる時の表情なんだから、つくづくこいつは人間らしくない。
みっともねぇこと口走る前に実力行使に出ればいいんじゃねと(間違いなくテンパってる)、オレは玄関に走り、ドアノブを握る赤司の右手を掴み上げた。
わずかに開いていた扉を思いっきり閉め、鍵も普段かけないチェーンもガチャガチャとかけ直す。必死になってる自覚はあったが、もうよくわからん。くそっ。
「帰るな」
「……ぇ」
「お前がドナドナよろしくあの車に連れ去られてくのを黙って見てろってのか。鬼かよオレは」
「……彼らは誘拐犯ではなく父の差し向けた……」
「いいから黙れ。靴脱げ」
苛立たしげに手首を引っ張る。戸惑いながらもたもたと靴を脱いだ赤司を、オレはもう一度部屋の中に連れ戻した。
乱暴に放り込んで、仁王立ちで見下ろす。
「同情心ひくような真似して、それも計算のうちか」
「……っ」
ずっと驚き続けている瞳が、さらに見開かれる。
「無様だな。慰めたり励ましたりするとでも思ったか? しねぇよそんなこと。オレは別に聖人じゃねぇし」
いつかと同じ、オレたちにとって抜けない楔のような言葉の羅列を、そっくりそのまま刃にして。
「偉そうなこと言っといてこんなもんか。一度負けたくらいで、親父の言うなりに従うのがお前なのかよ。オレにはそうは思えないんだけどな。啖呵切ってボールぶつけて出てきたんだろ。今さら簡単に諦めてんじゃねぇよ」
「………」
「一度逆らったんなら、最後までみっともなく足掻け。それができねぇならもう二度とオレに迷惑かけんな。オレはお前の逃げ場所になんか、なる気はねぇんだよ」
「ちひろ」
呆然とした赤司の口から、オレの名がポツリと零れ落ちた。震える手で、オレのTシャツの裾をぎゅっと握る。
ちひろ、ちひろ、と囁くように繰り返し、俯いて、我慢して、崩れ落ちないようにと耐えている。
「……どこにも行きたくないんだ」
やっと漏れ出た懺悔のようなその一言を口にするために、こいつはどれだけ余計な荷物を捨てなければならなかったんだろう。
「じゃあどこにも行かなくていい」
あぁめんどくさい。何もかもめんどくさい。意味のない我慢をするこいつがウザくて、自分から赤司を抱きしめる。
「オレをふん縛ってでも、今夜はここにいろ」
「千尋」
「うるせぇよ」
「ごめんなさい」
「あーもー黙れ」
「千尋」
「黙れバカうるさい」
赤司の腕が、すがるようにオレの背中に回された。
泣いていない。こいつはそれでも、まだ泣けない。
そのことになぜか沸き立つ苛立ちは自分自身に対してで、赤司に対して募る感情は怒りではなく、わだかまるような虚しさだけだった。
「…黛さん」
失礼しますと断り、しばらく自分の携帯を触っていた赤司が、ふいに名を呼んだ。…ていうかまた苗字呼びに戻ってやがる。どういうあれなんだこいつは。二重人格かなんかか? まぁそうだと言われても感想としてはさもありなん、だが。今さらその程度で驚くか。なんせオレにとってはエイリアンだし。
「このあとは、予定はないと仰ってましたよね」
「明日の朝飯のパン買うの忘れてたからコンビニだけ行こうと思ってる」
「……黛さん、すみません」
「は? てかお前はどうすんだ? 家どこか知らねぇけど終電とかチェックしとけよ」
「申し訳ありませんが、今夜は家から外に出ないで頂けませんか」
「………」
でかい猫目が真剣に見つめてくる。オレが言うのもなんだけど、こいつは冗談の言えるたちじゃない。
「……聞きたくないがどういう意味だ」
「父に、ばれました」
その言葉の意味を頭の中で前向きに咀嚼してみたが、純度100%嫌な予感しか出てこなかった。
「……ばれたって、お前…ここが?」
「はい」
「この場所が? オレんちが?」
「はい」
「……お前GPSでも付けてんの?」
「途中から尾行されているのは気付いていました。巻いたと思っていましたが少々甘かったようですね」
尾行つったかオイ。どこの現実世界に16の息子が家飛び出したくらいで尾行させる親父がいるかよ。
「……ちょっと待てよ。てことはまさか」
ハッとして恐る恐るカーテンの隙間から下を覗くと、明らかに怪しい黒塗りの車が電信柱脇に停車していてオレは死んだ。
「俺がこの部屋に入ってから、ずっと監視されています」
赤司が真顔で静かに頷く。
両手を床につけてうなだれるしかない。もう色々といい加減にしろ。オレを現実世界に帰してくれ。
「……もーお前なんなのマジで。てか家から出るなってなんだよ。出た途端狙撃でもされんのかよ」
「その危険性は低いと思いますが、居場所がわかっているのに接触してこなかったのは父なりに何か目論見があると見て間違いないでしょう。黛さんが家から出たら、捕まって尋問される可能性もないとは言い切れません」
「犯罪者かオレは!」
「すみません」
「つーか違うだろ! 捕捉されたからなんだっつんだよ! オレじゃなくてお前がさっさと出てけばいい話だろうが!」
「それが実は、そういうわけにもいかなくなって」
「は?」
「今さっき、『絶対に帰らない』と父にメールを送ってしまいました」
そう言ってコト、と、赤司は携帯をテーブルに置いた。
……お前……日本語しゃべれよ……。
*
なんでそんなこと言った。説明しろ。
正座で腕を組み本気でイライラと問い詰めると、心なしか赤司はしょんぼりとした雰囲気で口を開いた。
「……最初のメールで突然、『得体の知れない人間の家に上がり込むなさっさと帰って来い』と送られてきて」
「……得体は知れてるけどな」
「はい。学校の先輩であり部活動の仲間であることを説明しましたが、『誰であろうが所詮お前には不釣り合いだいいから帰ってこい』の一点張りで」
「……庶民で悪かったな」
「そんなことを言わないでくれと何度もやり取りをしましたが、頭の固い年寄りには話が通じず、最終的に『絶対に帰らない。死ね』と送って電源を落としました」
「だからなんでお前はそう極端に攻撃的なんだよ!!」
そうじゃない時はむしろ穏やかなくせに、聖母のようだと赤司教の連中に崇められているくせに、スイッチ切り替わると即デッドorアライブなのはどこのサバイバーなのこいつ。
「でも黛さんのことをそんな風に」
「いいから。本気でどうでもいいから。帰れ」
「……黛さん」
じっと、赤司が目と目で何かを伝えようとしてくる。染み付いた影の習性ゆえに悟ってしまった自分に舌打ちしながら、反射的に拒絶を口にしていた。
「いやだ」
「今晩」
「断る」
「泊めてくだ」
「人の話を聞け!」
テーブルをバンと叩くと、猫目が瞳孔を開いて固まった。
要するにこいつの親父は、ケンカして家を出た息子を部下に尾行させて居場所まで突き止めておいて、見つけたんならその場でさっさと捕獲すればいいものをその息子が得体の知れない人間の家にのこのこあがり込むのをまんじりともせず手をこまねいて見てたってことか。
アホだろ。バカだろ。呆れてものも言えねぇよ。
ここでさらにその『息子』が『得体の知れない人間』の家に無断外泊なんてことになったら、もう親父発狂するだろ。そんで明日の朝オレが冷たくなって発見される未来しか見えないだろが。
これ以上この頭おかしい金持ち親子に関わったら絶対ロクでもないことになる。ここまで、ちょっと今までとは違う後輩らしい赤司の側面に絆されて気まぐれで付き合ってやってたが、目が覚めた。ここが本当の潮時だ。お前の面倒ボランティアで見る義理はオレにはない。オレは自分が大事だし利のないことはしない主義なんだよ。何度も言わせんな。
「いい加減にしろ。てめぇの都合でオレを巻き込むな」
「だから申し訳ないと何度も」
「謝りゃなんでも思う通りにいくと思うなよお坊ちゃん。金持ちの道楽みたいなプチ家出に付き合ってやるほど庶民は暇じゃねぇんだよ」
ぐ、と赤司の眉が寄せられた。不快に思ったのか、傷ついたのか、あるいはその両方のような顔。
知ってる人間の中でダントツに強いその目ヂカラを、負ける気もなく睨み返す。
「……では、どうしろと言うんですか」
「だから帰れっつってんだろ。それ以外なんもねぇよ」
「だから帰れないと言ったでしょう」
「だからそれはお前の都合であってオレには全く関係ないんだよ!」
「だからお願いしてるんじゃないですか!」
どこがだよしてねぇよ!
ていうかなんでこいつ、オレが簡単にYESって言うと思ってたんだ。言わなかったからって何でちょっとムカついてんだ?
この、自分なら何でも許されるはずだと思ってるツラ全開なのが本気でカンに障る。まるでオレの方が頭おかしいみたいなその目はなんだよ。おかしいのはお前だろどう考えても。
人を出がらしになるまで利用するだけして。
今度は都合のいい避難場所かよ。
お前にとってオレはなんだ。見たくもねぇツラ晒して安心するだと?ただの掃き溜めじゃねーか。
しばらく本気の嫌悪を交えて睨み合った視線を、赤司が先に逸らした。
「……帰ったら」
小さく、かろうじて聞こえるような声で。
「帰ったら、俺は……」
「お前さ」
その被害者意識丸出しの態度に苛立ち、途中で冷たく遮った。
「それが人に物頼む態度かよ。そこまで『お願い』するんなら、媚びるくらいしてみろ」
「……っ」
「出来ねぇなら帰れ」
見開かれた目は、衝撃を滲ませてオレを凝視した。
屈辱だろ。そうだろうな。一度役立たずだと見限った格下の人間にこんなこと言われたら。プライドが傷ついたならさっさと出て行け。ここは庶民の小汚ねぇワンルームだ。お前の父親が言うように、お前には到底不釣合いな場所なんだよ。
丸く、丸く、猫のように開かれた瞳孔。
赤司は無表情の中に動揺を含ませて、テーブルの上でぎゅっと拳を握った。ひどく逡巡しているのが伝わる。
あぁ、ほらだからもう一度、あの時のようにオレを捨てて、さっさと出ていけばいいんだ。なんでオレはこんなにイラついてるんだ。お前といるとこんなことばかりなんだよ。バカみたいに感情揺り動かされて、みっともない顔晒して。もういい加減うんざりなんだよ。オレは平穏が好きなんだよ。こんな面倒くさい感情抱えたくないんだ。もうオレに関わるな。頼むから、頼むから、もう
そっとしておいてくれ。
ふいに赤司が、四つん這いでぺたりと床に手をついた。一瞬そのまま立ち上がって出て行くのかと思ったが、なぜかぺたぺたと手をついて、テーブルを回り込みオレの前まで来て視線を上げた。
……本物の猫みたいだな。赤い、誰にも触れることを許さない高貴な猫。
ほんのわずかに寄せられた眉。食いしばった口唇が開かれて、囁くように「黛さん」とオレを呼んだ。
上目遣いの大きな目が見たことのない不安で揺れていて、その不安が伝染するように、オレも硬直して息を止めた。
オレの開いた膝の間に赤司の身体がするりと入り込む。
「……おい」
牽制のつもりの声は、全く力が入らなかった。
赤司の手がオレの太ももに添えられて、その人形みたいに整った顔が徐々に近付いてくる。
視界が、赤司で、埋まる。
ちょっと待て
なんだこれは
ちょっと待て!
「――――っ」
赤司のまつ毛の数までわかる距離で、薄く開かれた口唇が、かすかな吐息を漏らした。
「………すみませ……」
そしてそのままズルズルと俯いて、オレの足に乗り上げた状態で動かなくなった。
赤司のつむじが見下ろしたすぐそこにあり、ふわふわとした赤い猫っ毛が口唇に触れる。
やがてオレは詰めた息を大きく吐き出した。同時に赤司も溜め込んだ息を吐き出したので、今の永遠みたいに長い数秒間に、お互いが息を止めていたのだと知る。
呼吸を再開した途端、今さらのように心臓が音を立ててバクバクと動き出した。
「……おい」
この状態で固まるなバカ。赤司はビクリと肩を跳ねさせてから、力が抜けたように床に膝をついた。
「……すみません」
「……何が」
はぁ、と改めて大きく深呼吸し、赤司は手で口元を覆った。白い指先がかすかに震えている。
「……できませんでした」
「……何が」
その指先から視線が外せず、オレは阿呆みたいに上の空で繰り返す。
心臓がざわざわする。その正体はわかっている。艶を含み誘うようだと勘違いしそうになる雄の本能。後輩であり、魔王であり、何より同性の男であるこいつに、オレは、いま。
赤司はようやく顔を上げ、どこか泣きそうな顔で笑った。
「媚びようかと、思ったんですが」
「――――ッ」
その瞬間、快感なのか不快感なのかわからない感覚が追い打ちのようにぞわりと背中を走り抜けた。
このプライドの高い天帝が。
オレのために、媚びただと?
「慣れないことはするものじゃない…すみません、よくわからなくて」
「………お前」
バカか、という言葉が、喉につかえて出てこない。
「……お前、媚びるために、…キス、するのかよ」
かろうじて絞り出した声を、動揺のあまり震わせないようにするので必死だ。
赤司は聞いたことのない言葉のように、きす、と繰り返した。
「あぁ、いえ、すみません、深く考えてはいなかったんですが。ただ、…貴方にああ言われて少し混乱しました…すみません」
「……深く考えずに、『色仕掛け』とか、頭おかしいんじゃねぇの、お前」
傷付けてやりたいと思った言葉は辿たどしく揺れた。
「違う」
「違います」
「違わねぇだろ」
「違います、咄嗟にからだが動いただけ、で…」
しかし理性めいた言い訳はすぐに墓穴を掘り、とり繕えず赤司はあっという間に黙り込んだ。
ゆっくりと俯いていく。その耳の先が、気のせいでなければ微かに赤い。自分でも信じられないというような顔をしている。
オレも大概脳内が麻痺していてろくに思考がまとまらないが、この状況がおかしいことだけはわかる。
なんだこれ。クソ、思考が追いつかない。わけがわからないが、一つだけ確かなことがある。認めたくないが、オレは。間違いなくさっきオレは。
オレは赤司に欲情した。
嘘だろう。ありえないだろう。信じ難いと同時に、頭のどこかが冷めている自分はなんなんだろう。これは不可抗力で済まされる劣情なのか、それとも単純にオレがバグってるだけなのか、どうなんだ、頼む誰か教えてくれ。
今、オレの目の前で顔を赤らめて羞恥に耐えるように俯いているこいつが、かつてのオレの絶対君主だったなんてどう考えても思えない。記憶の中の気高き孤高の帝王と、目の前で隙だらけで震えてる16歳のガキが、どう頑張っても結びつかない。
こんな弱い生き物をどうにかしたって、こんなん誰もオレを責められないだろ。プライドとか下卑た愉悦とか都合のいい妄想が冷静に見えるであろうオレの脳内を音速で駆け回り、浅ましくゴクリと喉が鳴った。
ゾクゾク這い上がる嗜虐の欲に思考が赤く塗りつぶされる。
無意識に、手が伸びる。
手首を捕らえようとしたところで赤司が顔を上げ、オレは咄嗟に自分の手を握り締めた。
「……本当に、だめですね」
ふ、と苦しげな笑みを浮かべ額に手を当てて。
「今日は何をやっても、貴方を怒らせてしまうようだ」
その頬はもう赤らんではいなかったが、何かを堪えているように見えた。
「言われた通り帰ります」
決断は早く潔い。こんな時でも聞き分けのいいオレの元王様はすぐに立ち上がり、コートやマフラーを手早く身に付け最後に自分のカバンを持ち上げた。
淡々としてはいるが、引かれる後ろ髪を断ち切ろうとしているように見えるのは自意識過剰だろうか。
赤司が帰る準備をしている間、オレは少しも動けなかった。情けないことに感情が追いついていなかったのだ。
赤司が部屋を出ていき、玄関先で靴を履く。室内に取り残されただ黙ってそれを見ているオレを、かかとを整えた赤司がゆっくりと振り返った。
「……黛さん」
遠くから耳に届く、穏やかで、寂しい声。静かで、
「―――父は元々、俺の京都住まいには反対でした」
静かすぎて、胸が詰まりそうだ。
「
……まじか。あのよ、ずっと思ってたけど、お前の父親は大丈夫なのか。子離れ的な意味で。
「常勝を維持できなかったことを理由に、恐らく俺は、そのうち東京に連れ戻されます」
あぁ、なるほど。そういうことも、あるだろうな。
「そうすればいずれ、実渕にも、根武谷にも、葉山にも、黛さんにも、会えなくなる」
……かもな。
「それが、柄にもなく寂しくて」
眉を下げて微笑んだ表情に、心臓が傷んだ気がしてオレは無意識に拳を握り締めた。
「子どもみたいに駄々をこねてしまいました。ごめんなさい」
お前はまだ子どもだろうが、バカ。
謝りながら、そんな綺麗に笑ってんじゃねーよ。全然申し訳なさそうに見えないっつってんだろ。
てかそんなことあるなら最初に言えよ。なんでそんなめんどくさいことを、一人で。
抱えて。
じゃあお前は。
何のためにオレに会いにきたんだよ。
歯ぎしりしたくなるような焦燥が暴れ回り、浮かんだ言葉はどれも声にはならずに霧散する。
何も言わないオレを最後の拒絶だと受け取ったのか、赤司はさらに美しく笑ってみせた。
「くだらないことを話してしまいましたね。やはり俺は、貴方の前ではどうもおかしくなってしまうようだ」
「………」
「みっともない真似を晒してすみませんでした」
だから謝るなって言ってんだろ。
「今日のことは、どうか忘れてください」
そんなことできるか。
声が出せない。ヘタレすぎる自分に舌打ちする。待て。赤司、勝手にお前の中で終わらせんな。なんだってお前はそうクソめんどくさいんだよ。だから嫌いなんだ、関わりたくなんかなかった、関わりたくなんかなかったんだよ本当に!
それなのになんで。
なんで
もう会えないとか
ドアノブに手をかけ、振り返った赤司の諦観に満ちた笑顔があまりにも遠い。
その扉を開けたら、お前は―――
「ちょっと待て!!」
やっと出た声は自分でも引くほどデカかった。叫ぶというより怒鳴ったそれに、赤司はカッと瞳孔をかっぴろげて硬直した。これが脅してるんじゃなくて心底驚いてる時の表情なんだから、つくづくこいつは人間らしくない。
みっともねぇこと口走る前に実力行使に出ればいいんじゃねと(間違いなくテンパってる)、オレは玄関に走り、ドアノブを握る赤司の右手を掴み上げた。
わずかに開いていた扉を思いっきり閉め、鍵も普段かけないチェーンもガチャガチャとかけ直す。必死になってる自覚はあったが、もうよくわからん。くそっ。
「帰るな」
「……ぇ」
「お前がドナドナよろしくあの車に連れ去られてくのを黙って見てろってのか。鬼かよオレは」
「……彼らは誘拐犯ではなく父の差し向けた……」
「いいから黙れ。靴脱げ」
苛立たしげに手首を引っ張る。戸惑いながらもたもたと靴を脱いだ赤司を、オレはもう一度部屋の中に連れ戻した。
乱暴に放り込んで、仁王立ちで見下ろす。
「同情心ひくような真似して、それも計算のうちか」
「……っ」
ずっと驚き続けている瞳が、さらに見開かれる。
「無様だな。慰めたり励ましたりするとでも思ったか? しねぇよそんなこと。オレは別に聖人じゃねぇし」
いつかと同じ、オレたちにとって抜けない楔のような言葉の羅列を、そっくりそのまま刃にして。
「偉そうなこと言っといてこんなもんか。一度負けたくらいで、親父の言うなりに従うのがお前なのかよ。オレにはそうは思えないんだけどな。啖呵切ってボールぶつけて出てきたんだろ。今さら簡単に諦めてんじゃねぇよ」
「………」
「一度逆らったんなら、最後までみっともなく足掻け。それができねぇならもう二度とオレに迷惑かけんな。オレはお前の逃げ場所になんか、なる気はねぇんだよ」
「ちひろ」
呆然とした赤司の口から、オレの名がポツリと零れ落ちた。震える手で、オレのTシャツの裾をぎゅっと握る。
ちひろ、ちひろ、と囁くように繰り返し、俯いて、我慢して、崩れ落ちないようにと耐えている。
「……どこにも行きたくないんだ」
やっと漏れ出た懺悔のようなその一言を口にするために、こいつはどれだけ余計な荷物を捨てなければならなかったんだろう。
「じゃあどこにも行かなくていい」
あぁめんどくさい。何もかもめんどくさい。意味のない我慢をするこいつがウザくて、自分から赤司を抱きしめる。
「オレをふん縛ってでも、今夜はここにいろ」
「千尋」
「うるせぇよ」
「ごめんなさい」
「あーもー黙れ」
「千尋」
「黙れバカうるさい」
赤司の腕が、すがるようにオレの背中に回された。
泣いていない。こいつはそれでも、まだ泣けない。
そのことになぜか沸き立つ苛立ちは自分自身に対してで、赤司に対して募る感情は怒りではなく、わだかまるような虚しさだけだった。