天帝ルート
*
茶菓子があるということは、茶を出せということじゃねぇか。
玄関先で手渡された某老舗洋菓子店一日20本限定ロールケーキを箱から取り出して、忌々しいため息をつく。
これだからセレブ階級層は嫌なんだよ。施されるのが当たり前と思ってやがる。そもそもこっちから招いたわけでもないのに何だよそのオキャクサマ気取りは。茶が飲みたいなら自分で淹れろ。湯の沸かし方すらこのお坊ちゃんが知ってるとは思えないけどな。
「黛さん」
「ぅわっ」
イライラとやかんを火にかけたところで、ぼんやりと横に赤司が立っていてビビる。
こんなひなびたワンルームの狭い廊下兼台所に赤司征十郎という光景は、ミスマッチすぎて笑えない。なんだよ、と眉をひそめると、「お茶なら俺が」と言い出したので目を剥いた。
「なんでだよ。いいから座ってろ」
「しかし、こちらが勝手に押しかけたんですから」
わかってんじゃねーか。とはいえ実際にこのお坊ちゃんが台所に立っている現実を目にすると、冗談でもお茶汲みなんかさせられないと実感してしまう。
「できないことしなくていい。座ってろ」
「お茶を淹れるのがですか? …できますよ」
心なしかご機嫌を損ねたようにムッとされた。
なんだよそのプライド。帝王が茶淹れられなかったところで誰も笑わねぇよ。そもそも客は茶を淹れねぇの。気遣ってるつもりなんだろうけど、その気の遣い方自体がズレてんだよ。
「どっちにしろ人んちの台所で勝手がわかるわけないだろ。余計な手間増やすな。座ってろ」
「………」
睨むな。
「コーヒーでいいか」
「……はい」
あしらうと、不承不承部屋に戻ってちょこんと正座している。
子どもみたいな奴だな。呆れたようにそう思って、いや子どもだったわとハッとした。
*
「……インスタントだぞ」
「ありがとうございます」
言外に文句は言うなと、テーブルにカップとケーキ皿を置くと、大人しく礼を言う。
じっとコーヒーを見つめているのは、庶民のコーヒーの香りが珍しいのか気に食わないのか。どうでもいいから無視して、テーブルを挟んで赤司の前に膝を立てて座った。
赤司はオレの1人用ソファではなくその手前、フローリングに直に座っている。
卵型クッションを半分へこませたような形の、もっちりソファだ。人をダメにするとまではいかないが、デカい男が全身預けても悠々受け止めてくれるのでそれなりに気に入っている。
客人だからと気を遣っているのだろうが、赤司がそのソファの前にいるからどっちにしろお前が邪魔でオレはソファを使えない。慣れない気遣いなんかするから、やっぱりズレてる。
「……で?」
コーヒーを啜りながら、オレから口火を切った。これは気遣いではない。さっさと面倒を片付けて一刻も早く平穏な休日前夜を取り戻すための、やむを得ない働きかけだ。
引退式以降わざわざ会うこともなく、三年がほとんど登校しなくなって以来、こいつとまともに顔を突き合わせるのは久しぶりだった。
オレと赤司の関係性は、バスケを通した利害の一致とでもいうべきものだが、コート外で続いていたもう一つの側面は、オレたち以外に誰も知らないだろう。
名家の御曹司と影の薄い一般人。交わるはずのないオレたちの共通項は、屋上という特殊空間一点に絞られる。
無人という長所を文字通り土足で踏みにじりオレの聖域に侵食してきた学校一多忙なはずの赤司サマは、あの日以来なぜかそのまま屋上に居着いてしまった。
オレのことを邪魔だと追い出すのかと思えばそういうわけでもなく、逆にオレがいなければ踵を返していたと聞き、何がそんなにお坊ちゃんのお気に召したのか謎のまま現在に至る。
あの場所で、オレたちはお互いに想定外としか言いようのない接触を繰り返していた。
どうでもいい世間話やラノベ談義をだらだらと続け、それ以外はほとんど会話もなくそれぞれ本を読んだり勉強したり。部活に関する話はほとんどしなかったのは、今思えばお互い非日常を求めていたのかもしれない。
赤司は、周囲に誇示する魔王オーラを納めている時は存外静かな奴で、正直そばにいても気に障らないのは意外だった。不本意ながらそこそこ波長が合ったということなのだろう。例え好きか嫌いかと問われれば、キッパリ後者に偏るとしても。
あいつがいるかもしれない、とわかっていながら屋上の扉を開き続けたオレの心情は、誰にも、オレ自身にもよくわからない。なぜ赤司がオレの姿を探して屋上の扉を開き続けたのかも、誰にもわからない。
そんな交流とすら呼べない曖昧な時間を一年弱共有してきたオレたちは、確かに、誰にも理解できない奇妙な関係性だった。
だが、―――冬は、終わった。まだ一月だが、オレたちの冬はもう、終わった。
WC決勝戦で、赤司は何かを終わらせた 。
それ以降赤司は、それ以前には決して見せなかった類の視線を、オレに向けるようになった。
遠慮と、憐憫。
妙に態度も変わった。口調も、表情も、呼び名も。突然オレを気遣うようになった遠慮がちな視線には仄かな怯えすら見え隠れし、それはおそらく罪悪感と同様のものだった。
何を考えているのかは大体わかった。だがオレにとってはこの上なく居心地が悪かった。人に、よりによってあの赤司征十郎に、ゴキゲンを伺われるような態度を取られるなど不快を超えて不気味でしかない。
あいつはオレを支配した絶対的王様であったはずだ。だからこそ意に反することは決して選択しないオレが、不満を垂れ流しながらもあいつに従ってこれたのだ。
なのにこんな殊勝な赤司を見ていると、イライラするような、もどかしいような、およそオレが苦手とする感情に襲われて、息がしづらかった。
面倒だ、と思った。
限界だな、とも。
もうこれ以上関わってはいけない。この辺が潮時だと思った。
今思えばまさにそれは、オレの中の『嫌な予感』ってやつだったんだろう。
引退式の日あいつが言った、「今はただの先輩と後輩だから」というもっともらしい理由も、建前くさいとオレは思った。それを差し引いたって、この突然の腰の低さは相当不自然だ。自責の念と後悔を滲ませてオレを見上げてくる赤司に、オレはもう会うこともないのだろうと心のどこかで見切りをつけながら、「悪くなかった」という本音だけを残して去った。
ああ本当に、悪くない終わり方だった。あとは受験に集中して卒業までの残り時間を平穏に過ごそう。この屋上エイリアンと関わり合うのもこれで最後。よく頑張ったよオレ、本当によくやった。おつかれさま黛千尋。
……そう思っていたのに。
おかしい。何かがおかしい。
なんでこいつ、今オレの部屋にいるんだ。
「……で?」
オレが問うと、赤司はコーヒーカップの取っ手を持ち、飲もうとして、なぜかやめた。
「……実は」
寒いのか、テーブルに戻したカップを両手で包むようにしている。やっぱりどうにも子どもにしか見えない。
「家を、出てきました」
「ぶッ」
コーヒーを吹き出したオレを猫のように瞳孔の開いた目が見つめる。
「な、…っげふ、なんだよ、それ」
「父と口論を」
そう言って俯き、自分のハンカチを差し出してくる。シワ染み一つないそれを汚す気にはなれなくて、無言で手の平を向け、そばにあるティッシュを掴んだ。
静寂が漂う。何か言えよと思ったが、赤司はカップを見つめて黙り込んでいる。
はぁとため息をつき、嫌々ながら口火を切る。
「……口論の内容は?」
「WCの結果について」
ピク、と自分の眉が跳ね上がったのがわかった。
わざわざ東京から京都 に出向き、顔を見た瞬間こいつの父親が発したのは、「情けない」の一言だったそうだ。
「その通りだと、父の言葉には賛同しました。あの人にとって赤司家の人間 が負けたという事象以外はそこにありません。あの人には俺を咎め詰る権利があり、俺はあの人の息子として、それに追随する義務があった」
「……」
「そんなことは別にかまいませんでした。むしろ俺にとって、その叱責は必要なものだった。ただ」
「……」
「少し、……欲が、出てしまった」
―――赤司の左の目が、鈍く光った気がした。
「あの日涙を流して喜ぶ誠凛と、涙を流して悔しがる洛山を見ながら、……俺が味わった形のない『何か』を、たった一人の肉親であるこの人に伝えることはできないだろうかと、…思ってしまった」
ああ、なるほど、やらかしたな。率直にそう思う。
言いたいことはわからんでもないが、現実ってのはそんな漫画みたいには行かないんじゃないのか。
「あの人にとっては無価値でも、どんなに害あるものでも。あの日の悔しさが俺にとってどれほど重要で価値のあるものだったのか、…ほんの、僅かでも」
「……親なんて子どもがそう簡単に懐柔できるもんじゃないだろ」
特にそんな、我が子の失敗を認めもせず許しもできないオヤジなら。
赤司は一瞬目を見開き、ひとつ瞬きをして、神妙に瞳を閉じた。
「……その通りだ。父は、全て切って捨てた。僕にとって価値あるものを、それは全て紛い物だと否定し、貶めた。まるでこちらの気が狂ったかのような言い草だった」
「……」
オレは、ため息をついた。
赤司らしくない。これまでのこいつなら、そんなわかりきっている結末に無謀に挑んだりしなかっただろうし、どうしたって断ち切ることのできない父親との関係も、もっと上手く立ち回れていたんだろう。
変えられた。誠凛 に。
無謀だと知っていても、悔しさを噛み締めてリベンジする、一つの気概のような強い意思をお前は知った。
そしてそれを携えて挑んだ先で、容赦なくへし折られたと。
当たり前だよバカ。そういうところが世間知らずで苦労知らずのお坊ちゃんだってんだ。世の中そんな、お前の都合通りいくようには出来ちゃいねぇんだよ。
「それで、キレて出てきたのか」
「試合以外であんなに大きな声を出したのは初めてでした」
「……まさかハサミ振り回してないだろうな」
「いえ、バスケットボールを本気で投げつけてきてしまいましたが」
思わず口を引き攣らせた。
「……ったく、ただのおっそい反抗期じゃねーか」
呆れながらそう漏らすと、赤司が目を見開く。
「そんなもん、もう何年か前に終わらせとけ。親の方も大概子離れできてないだけに見えるけどな」
「……反抗期、ですか。俺が」
「理解し合えない親と殴り合って口論なんざ、珍しいことじゃねぇよ」
大きな目が、本当に驚いてますます見開かれている。
「お前んちは…特殊なとこもあるんだろうけど、親子で大ゲンカして家飛び出すとか、めちゃくちゃ普通だから。お前の場合、今までの分もっと殺す気で反抗してもいいんじゃねぇの」
言ってから、あ、シャレにならねぇと思う。
「……そういうものですか」
「そういうものだ。今までがいい子チャン過ぎたんだろ」
「……そうかもしれません」
赤司は言って、少し俯いた。
こいつは、傷ついたのかもしれない。生まれて初めて全力でぶつかった肉親に全てを否定され、自分が悪いのか、どうすればいいのかわからずに混乱し、思わず狼狽したんだろう。
オレは無表情に赤司を見つめた。ここは多分テンプレ的に、慰めてやる場面なんだろうな。たった人生二年だけの頼れる先輩として、悩めるカワイイ後輩のために。頼れる先輩もカワイイ後輩も、あいにくどこにも見当たらないが。
「……お前だけじゃないし、お前が悪いんでもねぇよ。親にわかってもらいたいって欲が出るのは、子どもとして当然だろ」
らしくないとは思いながらも腕を伸ばし、慣れない手つきで赤い髪をくしゃりと撫でた。猫のような目がまん丸になって、戸惑ったように固まっている。新鮮で悪くない気分だ。いつでもそういう殊勝な態度でいればかわい…年相応なのにな。
「……ボールが父の顔面に当たったのを見てから家を出てきたので、鼻血でも出していないかと心配なのですが」
「あー…まぁ主将サマが人に向かってボール投げるってのは頂けねぇしな…アンクルブレイクでもかましてすっ転ばせてやればよかったんじゃねぇの」
オレは気持ちを切り替え、イタダキマス、と付け加えてケーキにフォークを刺した。どうぞ、と呟いてから、赤司はくすりと笑って口元に手を当てた。
「それは、いいですね。今度はそうします」
「……お前も喰えよ」
ケーキもコーヒーもぬるくなるだろ、と行儀悪くフォークで指し示すと、しばらく固まったあと、大きな猫目が少し困ったように逸らされた。
「……すみません」
「は? いや別に無理にとは」
「熱いのが少し……苦手で」
「……」
天帝サマが猫舌……。
「……もうそこそこ冷めてるから」
さっきから飲めなくて困ってたのかよ…なんだこの漂う残念感。
「はい、…あの」
「ん」
「砂糖とミルクを頂けますか」
「……」
完全に遠い目になったオレは、無言で立ち上がった。
だから、残念すぎるっつーの…。
茶菓子があるということは、茶を出せということじゃねぇか。
玄関先で手渡された某老舗洋菓子店一日20本限定ロールケーキを箱から取り出して、忌々しいため息をつく。
これだからセレブ階級層は嫌なんだよ。施されるのが当たり前と思ってやがる。そもそもこっちから招いたわけでもないのに何だよそのオキャクサマ気取りは。茶が飲みたいなら自分で淹れろ。湯の沸かし方すらこのお坊ちゃんが知ってるとは思えないけどな。
「黛さん」
「ぅわっ」
イライラとやかんを火にかけたところで、ぼんやりと横に赤司が立っていてビビる。
こんなひなびたワンルームの狭い廊下兼台所に赤司征十郎という光景は、ミスマッチすぎて笑えない。なんだよ、と眉をひそめると、「お茶なら俺が」と言い出したので目を剥いた。
「なんでだよ。いいから座ってろ」
「しかし、こちらが勝手に押しかけたんですから」
わかってんじゃねーか。とはいえ実際にこのお坊ちゃんが台所に立っている現実を目にすると、冗談でもお茶汲みなんかさせられないと実感してしまう。
「できないことしなくていい。座ってろ」
「お茶を淹れるのがですか? …できますよ」
心なしかご機嫌を損ねたようにムッとされた。
なんだよそのプライド。帝王が茶淹れられなかったところで誰も笑わねぇよ。そもそも客は茶を淹れねぇの。気遣ってるつもりなんだろうけど、その気の遣い方自体がズレてんだよ。
「どっちにしろ人んちの台所で勝手がわかるわけないだろ。余計な手間増やすな。座ってろ」
「………」
睨むな。
「コーヒーでいいか」
「……はい」
あしらうと、不承不承部屋に戻ってちょこんと正座している。
子どもみたいな奴だな。呆れたようにそう思って、いや子どもだったわとハッとした。
*
「……インスタントだぞ」
「ありがとうございます」
言外に文句は言うなと、テーブルにカップとケーキ皿を置くと、大人しく礼を言う。
じっとコーヒーを見つめているのは、庶民のコーヒーの香りが珍しいのか気に食わないのか。どうでもいいから無視して、テーブルを挟んで赤司の前に膝を立てて座った。
赤司はオレの1人用ソファではなくその手前、フローリングに直に座っている。
卵型クッションを半分へこませたような形の、もっちりソファだ。人をダメにするとまではいかないが、デカい男が全身預けても悠々受け止めてくれるのでそれなりに気に入っている。
客人だからと気を遣っているのだろうが、赤司がそのソファの前にいるからどっちにしろお前が邪魔でオレはソファを使えない。慣れない気遣いなんかするから、やっぱりズレてる。
「……で?」
コーヒーを啜りながら、オレから口火を切った。これは気遣いではない。さっさと面倒を片付けて一刻も早く平穏な休日前夜を取り戻すための、やむを得ない働きかけだ。
引退式以降わざわざ会うこともなく、三年がほとんど登校しなくなって以来、こいつとまともに顔を突き合わせるのは久しぶりだった。
オレと赤司の関係性は、バスケを通した利害の一致とでもいうべきものだが、コート外で続いていたもう一つの側面は、オレたち以外に誰も知らないだろう。
名家の御曹司と影の薄い一般人。交わるはずのないオレたちの共通項は、屋上という特殊空間一点に絞られる。
無人という長所を文字通り土足で踏みにじりオレの聖域に侵食してきた学校一多忙なはずの赤司サマは、あの日以来なぜかそのまま屋上に居着いてしまった。
オレのことを邪魔だと追い出すのかと思えばそういうわけでもなく、逆にオレがいなければ踵を返していたと聞き、何がそんなにお坊ちゃんのお気に召したのか謎のまま現在に至る。
あの場所で、オレたちはお互いに想定外としか言いようのない接触を繰り返していた。
どうでもいい世間話やラノベ談義をだらだらと続け、それ以外はほとんど会話もなくそれぞれ本を読んだり勉強したり。部活に関する話はほとんどしなかったのは、今思えばお互い非日常を求めていたのかもしれない。
赤司は、周囲に誇示する魔王オーラを納めている時は存外静かな奴で、正直そばにいても気に障らないのは意外だった。不本意ながらそこそこ波長が合ったということなのだろう。例え好きか嫌いかと問われれば、キッパリ後者に偏るとしても。
あいつがいるかもしれない、とわかっていながら屋上の扉を開き続けたオレの心情は、誰にも、オレ自身にもよくわからない。なぜ赤司がオレの姿を探して屋上の扉を開き続けたのかも、誰にもわからない。
そんな交流とすら呼べない曖昧な時間を一年弱共有してきたオレたちは、確かに、誰にも理解できない奇妙な関係性だった。
だが、―――冬は、終わった。まだ一月だが、オレたちの冬はもう、終わった。
WC決勝戦で、赤司は
それ以降赤司は、それ以前には決して見せなかった類の視線を、オレに向けるようになった。
遠慮と、憐憫。
妙に態度も変わった。口調も、表情も、呼び名も。突然オレを気遣うようになった遠慮がちな視線には仄かな怯えすら見え隠れし、それはおそらく罪悪感と同様のものだった。
何を考えているのかは大体わかった。だがオレにとってはこの上なく居心地が悪かった。人に、よりによってあの赤司征十郎に、ゴキゲンを伺われるような態度を取られるなど不快を超えて不気味でしかない。
あいつはオレを支配した絶対的王様であったはずだ。だからこそ意に反することは決して選択しないオレが、不満を垂れ流しながらもあいつに従ってこれたのだ。
なのにこんな殊勝な赤司を見ていると、イライラするような、もどかしいような、およそオレが苦手とする感情に襲われて、息がしづらかった。
面倒だ、と思った。
限界だな、とも。
もうこれ以上関わってはいけない。この辺が潮時だと思った。
今思えばまさにそれは、オレの中の『嫌な予感』ってやつだったんだろう。
引退式の日あいつが言った、「今はただの先輩と後輩だから」というもっともらしい理由も、建前くさいとオレは思った。それを差し引いたって、この突然の腰の低さは相当不自然だ。自責の念と後悔を滲ませてオレを見上げてくる赤司に、オレはもう会うこともないのだろうと心のどこかで見切りをつけながら、「悪くなかった」という本音だけを残して去った。
ああ本当に、悪くない終わり方だった。あとは受験に集中して卒業までの残り時間を平穏に過ごそう。この屋上エイリアンと関わり合うのもこれで最後。よく頑張ったよオレ、本当によくやった。おつかれさま黛千尋。
……そう思っていたのに。
おかしい。何かがおかしい。
なんでこいつ、今オレの部屋にいるんだ。
「……で?」
オレが問うと、赤司はコーヒーカップの取っ手を持ち、飲もうとして、なぜかやめた。
「……実は」
寒いのか、テーブルに戻したカップを両手で包むようにしている。やっぱりどうにも子どもにしか見えない。
「家を、出てきました」
「ぶッ」
コーヒーを吹き出したオレを猫のように瞳孔の開いた目が見つめる。
「な、…っげふ、なんだよ、それ」
「父と口論を」
そう言って俯き、自分のハンカチを差し出してくる。シワ染み一つないそれを汚す気にはなれなくて、無言で手の平を向け、そばにあるティッシュを掴んだ。
静寂が漂う。何か言えよと思ったが、赤司はカップを見つめて黙り込んでいる。
はぁとため息をつき、嫌々ながら口火を切る。
「……口論の内容は?」
「WCの結果について」
ピク、と自分の眉が跳ね上がったのがわかった。
わざわざ東京から
「その通りだと、父の言葉には賛同しました。あの人にとって
「……」
「そんなことは別にかまいませんでした。むしろ俺にとって、その叱責は必要なものだった。ただ」
「……」
「少し、……欲が、出てしまった」
―――赤司の左の目が、鈍く光った気がした。
「あの日涙を流して喜ぶ誠凛と、涙を流して悔しがる洛山を見ながら、……俺が味わった形のない『何か』を、たった一人の肉親であるこの人に伝えることはできないだろうかと、…思ってしまった」
ああ、なるほど、やらかしたな。率直にそう思う。
言いたいことはわからんでもないが、現実ってのはそんな漫画みたいには行かないんじゃないのか。
「あの人にとっては無価値でも、どんなに害あるものでも。あの日の悔しさが俺にとってどれほど重要で価値のあるものだったのか、…ほんの、僅かでも」
「……親なんて子どもがそう簡単に懐柔できるもんじゃないだろ」
特にそんな、我が子の失敗を認めもせず許しもできないオヤジなら。
赤司は一瞬目を見開き、ひとつ瞬きをして、神妙に瞳を閉じた。
「……その通りだ。父は、全て切って捨てた。僕にとって価値あるものを、それは全て紛い物だと否定し、貶めた。まるでこちらの気が狂ったかのような言い草だった」
「……」
オレは、ため息をついた。
赤司らしくない。これまでのこいつなら、そんなわかりきっている結末に無謀に挑んだりしなかっただろうし、どうしたって断ち切ることのできない父親との関係も、もっと上手く立ち回れていたんだろう。
変えられた。
無謀だと知っていても、悔しさを噛み締めてリベンジする、一つの気概のような強い意思をお前は知った。
そしてそれを携えて挑んだ先で、容赦なくへし折られたと。
当たり前だよバカ。そういうところが世間知らずで苦労知らずのお坊ちゃんだってんだ。世の中そんな、お前の都合通りいくようには出来ちゃいねぇんだよ。
「それで、キレて出てきたのか」
「試合以外であんなに大きな声を出したのは初めてでした」
「……まさかハサミ振り回してないだろうな」
「いえ、バスケットボールを本気で投げつけてきてしまいましたが」
思わず口を引き攣らせた。
「……ったく、ただのおっそい反抗期じゃねーか」
呆れながらそう漏らすと、赤司が目を見開く。
「そんなもん、もう何年か前に終わらせとけ。親の方も大概子離れできてないだけに見えるけどな」
「……反抗期、ですか。俺が」
「理解し合えない親と殴り合って口論なんざ、珍しいことじゃねぇよ」
大きな目が、本当に驚いてますます見開かれている。
「お前んちは…特殊なとこもあるんだろうけど、親子で大ゲンカして家飛び出すとか、めちゃくちゃ普通だから。お前の場合、今までの分もっと殺す気で反抗してもいいんじゃねぇの」
言ってから、あ、シャレにならねぇと思う。
「……そういうものですか」
「そういうものだ。今までがいい子チャン過ぎたんだろ」
「……そうかもしれません」
赤司は言って、少し俯いた。
こいつは、傷ついたのかもしれない。生まれて初めて全力でぶつかった肉親に全てを否定され、自分が悪いのか、どうすればいいのかわからずに混乱し、思わず狼狽したんだろう。
オレは無表情に赤司を見つめた。ここは多分テンプレ的に、慰めてやる場面なんだろうな。たった人生二年だけの頼れる先輩として、悩めるカワイイ後輩のために。頼れる先輩もカワイイ後輩も、あいにくどこにも見当たらないが。
「……お前だけじゃないし、お前が悪いんでもねぇよ。親にわかってもらいたいって欲が出るのは、子どもとして当然だろ」
らしくないとは思いながらも腕を伸ばし、慣れない手つきで赤い髪をくしゃりと撫でた。猫のような目がまん丸になって、戸惑ったように固まっている。新鮮で悪くない気分だ。いつでもそういう殊勝な態度でいればかわい…年相応なのにな。
「……ボールが父の顔面に当たったのを見てから家を出てきたので、鼻血でも出していないかと心配なのですが」
「あー…まぁ主将サマが人に向かってボール投げるってのは頂けねぇしな…アンクルブレイクでもかましてすっ転ばせてやればよかったんじゃねぇの」
オレは気持ちを切り替え、イタダキマス、と付け加えてケーキにフォークを刺した。どうぞ、と呟いてから、赤司はくすりと笑って口元に手を当てた。
「それは、いいですね。今度はそうします」
「……お前も喰えよ」
ケーキもコーヒーもぬるくなるだろ、と行儀悪くフォークで指し示すと、しばらく固まったあと、大きな猫目が少し困ったように逸らされた。
「……すみません」
「は? いや別に無理にとは」
「熱いのが少し……苦手で」
「……」
天帝サマが猫舌……。
「……もうそこそこ冷めてるから」
さっきから飲めなくて困ってたのかよ…なんだこの漂う残念感。
「はい、…あの」
「ん」
「砂糖とミルクを頂けますか」
「……」
完全に遠い目になったオレは、無言で立ち上がった。
だから、残念すぎるっつーの…。