世界の終わりに
「なんて言葉をかけようか迷ってるんだ」
赤司がそう言うと、彼はまるで軽蔑したように眉をひそめた。
「くだらないな」
「なぜだ?お世話になった人じゃないか。意地を張るなよ」
「誰が世話になったものか。僕が世話をしてやったんだ」
「お互い様だろ」
赤司はそう言ってくつくつと笑う。キツく向けられる射殺さんばかりの視線もまったく意に介さない。多くの人間を竦み上がらせて来た王者の威圧も、赤司にとっては少し胸が疼く程度の、小さな心の棘に過ぎない。
「引退式が終われば、3年生と学校で会える機会はほとんどなくなるんだ。きちんと挨拶をしておかないと失礼だろう」
「あの男がそんなものを素直に聞くわけがない」
「どうかな。挨拶くらいはさせてくれると思うが」
「そもそも引退式にまともに出席すると思うのか?」
「…ああ、確かに」
赤司は、出席したとしても誰も知らないうちに姿を消している彼を想像して小さく笑った。
「やはりお前の方が、黛さんのことをよくわかっているね。『僕』」
ここは赤司のこころの世界だ。『赤司』だけが存在を許される場所。
あの日を境に、この部屋はずいぶんと居心地のいいものになってしまった。以前は何もない、光も陰もない、冷たい温度の、鍵のかかった孤独な檻だった。自分が何者かもわからなくなって、あるいは闇へと溶けていく奈落のような場所だった。
なぜ自分たちは今、こうして鍵の開かれた空間で、互いを認識し、互いを理解し、自分が誰なのかを思い出しているのか。
自分とは何者であるのか。勝利しようが、敗北しようが、その答えは死ぬまで変わるものではないことを思い知らせてくれた男がいる。
かの影を「よくわかっている」と指摘され、赤司はフンとわざとらしいまでに鼻白んだ。
「9カ月ものあいだ世話を焼いてやったんだ。当然だろう」
「お前が会いに行った方がいいんじゃないか?」
「馬鹿を言うな。僕はもう」
「あの人も俺よりまずお前に会いたいだろう」
「……」
自分と同じ顔が、色の違う左目が、キッと赤司を睨む。
「戯れ言をぬかすな」
「別にからかっているわけじゃない。わざわざ言及してくる人ではないだろうが、あの人はあの人なりに『お前』のことを気にかけていると思うよ」
「気にかける?ハ、物は言いようだ」
赤司は呆れたように首を傾げる。
「いちいち突っかかるな。何がそんなに気に入らないんだ?」
「うるさい。お前には関係ない」
「関係ないわけがないだろ」
自分を誰だと思ってるんだ。そう言うと、金色の瞳に影を差し、もう一人の赤司は俯いた。
「……僕はお前とは違う」
「違わないよ」
「知っているだろう。千尋は僕が嫌いなんだ。お前とは違う」
赤司はじっと、置き去りにしてきてしまった自分自身を見つめる。
高飛車で、傲慢で、全てが思い通りでなければ気が済まない。それなのに彼は自分が嫌いなのだ。赤司征十郎である自分に何よりも誇りをもって生きているのは本当なのに、それでも彼は、――――俺は、己自身を信じることが出来なかった。
己の存在に客観的価値を認める一方で、空っぽの自分が、愛されなかった自分が、嫌いで仕方なかった。惨めで、不安で、いつもひとりで藻掻いていた。やっと手にした信頼を失うことを畏れ、世界を敵に回してまでも傷付くことを回避しようとした。
滑稽な足掻きだ。
弱い弱い自分。
あんなに強がって。
バスケひとつ、手放せなかったくせに。
「……何も違わないよ。お前は俺だ。そして、俺はお前なんだから」
「千尋が僕のことを気にかけるなんてあり得ない」
「そうだとしても、俺たちはあの人に会わないまま終わることはできない」
「千尋は僕を嫌ってる。そうであれと命じたのは僕だ。千尋は二度と僕の顔など見たくないはずだ」
「……酷いことをした」
「そうだ。駒として所有し、利用し、使い捨て、なお辱めた」
「今さら謝ってもどうしようもない」
「僕たちに何が言える。選手としての尊厳を塗りつぶし蹂躙した。僕は千尋を」
握りしめたこぶしが震える。
「……傷付けた」
「……だけどあの人は、強かった。俺たちよりよほど」
「お前に千尋の何がわかる」
「あの人はとうに腹を括っていたんだろう。お前が屋上であの人を見つけた時からずっと」
バスケを辞めようとしていた自分が天帝と称される子どものような顔をした少年に拾われる―――まさにライトノベルさながらの劇的な出会い。
この垂らされた糸を掴んだが最後、間違いなく人生ごと振り回されることになる。あの自我の強い男が、腹を括り、ある種の諦めさえも持たなければ、その誘いに応じることなど出来なかっただろう。
一度従うと決めたのなら、どんな扱いをされようが、それが自分の選んだ道だ。成功も屈辱も、自己責任。誰のためでも、誰に命じられたわけでもない。
「黛千尋は黛千尋の意思でしか動かない」
そうだ。
それが赤司の目には何よりも新鮮に映った。
ずっと、他人の人生を生きてきた。父親の人生を。周囲の求める人生を。自分の人生を歩んではこなかった。誰かの理想を欲し、バスケさえもそのための手段でしかなくなっていた赤司征十郎が、自分で自分を容易に受け容れ思うままに生きる黛の在り様を知った時、それがどれほど不可解で、かつ興味深かったことか。
黛千尋は天才ではなかった。なのに黛千尋は赤司に何も求めなかった。赤司の功績も肩書きも一蹴し、凡人である己のためだけに部に戻り、強固な意志で努力を貫き、レギュラーの座を勝ち取った。
黛千尋は誰よりも影であったのに、あの時の赤司には誰よりも眩しく見えた。屋上に降りそそぐ春の陽射しよりもなお。
「お前はなぜあの時、あの人を傷付けてまでコートに残した?勝利のみを非情に求めるのであれば、他に確実な方法はいくらでもあっただろう。あの人を排除して、力のみをより強化させる布陣はいくらでも組めた。なぜお前はそうまでして、黛千尋を傷付けたかった んだ?」
「僕は」
ぼくは
赤司は喘ぐように口唇を震わせた。
ぼくは
期待に応えるなら認めてやろう
成果を出し続けろ
できなければお前はいらない存在だと、冷酷な判断を赤司は黛に突きつけ続けてきた。
もしも出来なかったとき、失敗したとき、敗北したときに
冷たい目で見捨てられ、疎まれ、蔑まれそれでもなお、この戦場に立ち続ける覚悟を持てと。
勝ち続けられなかったお前にはもうなんの価値もないけれど
洛山の名を背負うプライド程度はあるだろう
おこぼれをくれてやる
せめて立ち続けろ
赤司の名を背負うプライド程度はあるだろう
どんなに屈辱にまみれても、お前はそこから逃げられない
逃げられないんだ。僕はあの日からずっと地獄にいる
名門に生まれ、優秀でいることなんて何も苦ではなかった
ただ、僕は
僕たちはずっと
「―――――寂しかった」
向かい合う、2人の声が重なった。ようやく口に出来た、と赤司は思った。
弱い。寂しい。ひとりでは生きていけない。認めて欲しい。褒めて欲しい。愛して欲しい。
渇望して、渇望して、飢え続けて。
完璧であることは孤独だった。完璧でなければ自分は愛されない。どんなに頑張っても愛されない。抱きしめてはもらえない。
寂しくて、だから仲間が大切で、だから愛されることが怖くて、だから失いたくなくて、だから。
「お前は、……俺たちは、あの人を自分と同じ場所に堕としたかったんだ」
赤司は座り込む自分の前にひざまずき、両の頬を引き寄せ、額と額を、そっと合わせた。
絶対的な王者の椅子。
死ぬまで努力し勝ち続けることしか許されない恐怖。
失敗し、敗北し、見捨てられてもなお、
逃がしてはもらえない絶望を。
「同じ地獄を味わってほしかった。同じ地獄に来てほしかった。知って、共感して、共に傷付いて欲しかったんだ」
「千尋」
「俺たちは救ってほしかったんじゃない」
あの地獄で、共に死んでほしかったんだ。他の誰でもないあの男に。
「だけど千尋は死ななかった。引き摺り込んで、殺してやるつもりだったのに」
「あの人にとってはどうでもいいことだったんだ。失敗しようが、敗北しようが、誰に見捨てられようが、そんなこと」
黛は、あの時与えられた仕打ちに何を思ったのか。
確かに傷付けた。絶望と屈辱に瞳を揺らしていたのを知っている。
だけど彼は結局、最後まで赤司をよく見ていたのだ。それは影としての習性なのか、慈悲を乞うためか、無意識の執着だったのかは誰にもわからないけれど、その不屈さこそが赤司を変えるきっかけとなった。
彼はわかっていたのかもしれない。敗北に指が触れかけた日から、赤司の中の歯車が狂い始めていたことを。赤司が完璧などではないことを。
圧倒的な光でしかないはずの赤司が、なぜ影である自分を取り込もうとするのかを…。
「僕は完璧じゃない。僕は誰にも愛されない」
「あんな人は他にいない。あの人じゃなければ俺を呼び起こすことは決して出来なかった」
「僕は弱さだ。醜く無様な存在だ」
「謝りたいわけじゃない。許しを請うなんて身勝手な真似はしない。感謝ですら俺たちには不要だろう。せめて何かを伝えたい。でも、何も思い浮かばないんだ」
ただ、会いたい。顔を見たい。こんな感情をなんと呼べばいいのか赤司にはわからない。
「僕は千尋に見捨てられる。千尋に会えるのは俺だ 。僕じゃない」
「なぁ、よくわかるよ。お前の気持ちが」
そう言って赤司は瞳を細め、自分を強く抱きしめた。
「…黛さんに嫌われていると思うことがつらい。出来ることなら一からやり直したい。だけどあの人との出逢いも、共に過ごした日々も、俺たちにとっては大切な思い出だ。後悔なんてひとつもない」
「後悔などするものか。すべてに誇りをもってやってきた。僕は、赤司征十郎だ」
「そうだ。だから」
抱きしめたもう一人の自分から流れ込んでくる感情に、赤司は胸を引き絞られた。
彼は自分の弱さ。何よりもまず、俺が認め、受け入れ、愛してやるべき存在だった。
そして今ならわかる。彼は、自分の強さでもあったということを。
「だから最後に会いに行こう。お疲れさまでしたとひとこと、言えればもうそれでいい。お前もおいで、眠っていないで。伝えたいことがあるなら出てくればいい。あの人のことだから大して気にもしないだろう。黛さんは俺とお前を区別したりしないよ」
「逃げられる。拒絶される」
「そうかもしれない。だけどこれはけじめだ」
「千尋は僕をゆるさない」
「そうかもしれない。だけどお前は、俺たちは」
いやだ、と赤司は掠れる声で呟いた。
「――――千尋に会いたい」
器から溢れこぼれだしてしまった自分の言葉に、赤司はもう感情を抑えることが出来なかった。
「……そうだね」
「千尋に、…っ会いたい、ちひろ」
「会いたいよ」
「ちひろ…ッ」
腕の中の抱きしめた「自分」が泣いている。
自分たちは泣けるのだ。寂しければ、苦しければ、もう会えない、会いたい人がいれば、こうやって泣けばよかっただけなのだ。
こんな簡単なことに気付くのに、こんなに長い時間をかけてしまった。
「……ずっと、なぜお前は消えないのか不思議だった」
赤司の目にも小さな雫がぽつりと留まり、まばたきと共に視界を滲ませる。
『僕』が赤司征十郎の弱さであり、勝利し続けるための礎石であるなら、それを暴かれ敗北を知った瞬間に、内側に統合され、消滅していたっておかしくはなかった。
なのになぜ、赤司の中にはまだ彼というこころが存在し続けているのか。
「俺には、わかった気がする」
本当に、自分たちは不器用で馬鹿だ。
「俺はお前が愛おしいよ」
お前が消えないでよかった。
***
こんなことを言えば貴方は怒るだろうか。どうでもいいと呆れるだろうか。
引退式が終わり、顔すら出さなかったあの人を、足の赴くままに探していた。
ふと見やった視線の先。探し人の背中を見つけた瞬間、赤司は気後れしたように立ち止まる。
見慣れた薄墨色の髪。本を読みながら少し猫背気味に、のんびりと進んでいく長い脚が刻む歩幅。
2人の間を冷たい風が吹きつけた。春はまだ遠く、あと少しで訪れる別れの式にも、校庭の桜が芽吹き彼の新たな門出を華々しく送り出してくれることはないだろう。
寂しい風。細かな埃がちらちらと舞う。
ああ、卒業しないでほしい。
しないでいいのに。卒業式なんてなくなってしまえばいいのに。俺たちとずっとバスケを続けてくれればいいのに…。
胸の奥から湧き出る子どもめいたわがままに自分で呆れ、一度首を振ってから赤司はしっかりと声を張り上げた。
「―――――黛さん」
こんなことを言えば貴方は怒るだろうか。どうでもいいと呆れるだろうか。
それとも―――笑ってくれるだろうか。
俺たちはこんなにも遠回りをして、ようやく大切なことを思い出せた。
俺たちはただこんなにも、バスケが好きだった。
消せはしない過去はある。背負い続けなくてはいけない罪もある。
それでも赤司征十郎にとってこの1年間は、
楽しかったのだと。
そう思ってはいけないだろうか。この気持ちはいけないものだろうか?今の赤司には何もわからない。
「なんだ。赤司か」
彼が振り向く。
きっとこれが最後だ。
赤司は深く息を吸い込んで、足を止めてくれたその人へ、勇気をもって歩み寄った。
赤司がそう言うと、彼はまるで軽蔑したように眉をひそめた。
「くだらないな」
「なぜだ?お世話になった人じゃないか。意地を張るなよ」
「誰が世話になったものか。僕が世話をしてやったんだ」
「お互い様だろ」
赤司はそう言ってくつくつと笑う。キツく向けられる射殺さんばかりの視線もまったく意に介さない。多くの人間を竦み上がらせて来た王者の威圧も、赤司にとっては少し胸が疼く程度の、小さな心の棘に過ぎない。
「引退式が終われば、3年生と学校で会える機会はほとんどなくなるんだ。きちんと挨拶をしておかないと失礼だろう」
「あの男がそんなものを素直に聞くわけがない」
「どうかな。挨拶くらいはさせてくれると思うが」
「そもそも引退式にまともに出席すると思うのか?」
「…ああ、確かに」
赤司は、出席したとしても誰も知らないうちに姿を消している彼を想像して小さく笑った。
「やはりお前の方が、黛さんのことをよくわかっているね。『僕』」
ここは赤司のこころの世界だ。『赤司』だけが存在を許される場所。
あの日を境に、この部屋はずいぶんと居心地のいいものになってしまった。以前は何もない、光も陰もない、冷たい温度の、鍵のかかった孤独な檻だった。自分が何者かもわからなくなって、あるいは闇へと溶けていく奈落のような場所だった。
なぜ自分たちは今、こうして鍵の開かれた空間で、互いを認識し、互いを理解し、自分が誰なのかを思い出しているのか。
自分とは何者であるのか。勝利しようが、敗北しようが、その答えは死ぬまで変わるものではないことを思い知らせてくれた男がいる。
かの影を「よくわかっている」と指摘され、赤司はフンとわざとらしいまでに鼻白んだ。
「9カ月ものあいだ世話を焼いてやったんだ。当然だろう」
「お前が会いに行った方がいいんじゃないか?」
「馬鹿を言うな。僕はもう」
「あの人も俺よりまずお前に会いたいだろう」
「……」
自分と同じ顔が、色の違う左目が、キッと赤司を睨む。
「戯れ言をぬかすな」
「別にからかっているわけじゃない。わざわざ言及してくる人ではないだろうが、あの人はあの人なりに『お前』のことを気にかけていると思うよ」
「気にかける?ハ、物は言いようだ」
赤司は呆れたように首を傾げる。
「いちいち突っかかるな。何がそんなに気に入らないんだ?」
「うるさい。お前には関係ない」
「関係ないわけがないだろ」
自分を誰だと思ってるんだ。そう言うと、金色の瞳に影を差し、もう一人の赤司は俯いた。
「……僕はお前とは違う」
「違わないよ」
「知っているだろう。千尋は僕が嫌いなんだ。お前とは違う」
赤司はじっと、置き去りにしてきてしまった自分自身を見つめる。
高飛車で、傲慢で、全てが思い通りでなければ気が済まない。それなのに彼は自分が嫌いなのだ。赤司征十郎である自分に何よりも誇りをもって生きているのは本当なのに、それでも彼は、――――俺は、己自身を信じることが出来なかった。
己の存在に客観的価値を認める一方で、空っぽの自分が、愛されなかった自分が、嫌いで仕方なかった。惨めで、不安で、いつもひとりで藻掻いていた。やっと手にした信頼を失うことを畏れ、世界を敵に回してまでも傷付くことを回避しようとした。
滑稽な足掻きだ。
弱い弱い自分。
あんなに強がって。
バスケひとつ、手放せなかったくせに。
「……何も違わないよ。お前は俺だ。そして、俺はお前なんだから」
「千尋が僕のことを気にかけるなんてあり得ない」
「そうだとしても、俺たちはあの人に会わないまま終わることはできない」
「千尋は僕を嫌ってる。そうであれと命じたのは僕だ。千尋は二度と僕の顔など見たくないはずだ」
「……酷いことをした」
「そうだ。駒として所有し、利用し、使い捨て、なお辱めた」
「今さら謝ってもどうしようもない」
「僕たちに何が言える。選手としての尊厳を塗りつぶし蹂躙した。僕は千尋を」
握りしめたこぶしが震える。
「……傷付けた」
「……だけどあの人は、強かった。俺たちよりよほど」
「お前に千尋の何がわかる」
「あの人はとうに腹を括っていたんだろう。お前が屋上であの人を見つけた時からずっと」
バスケを辞めようとしていた自分が天帝と称される子どものような顔をした少年に拾われる―――まさにライトノベルさながらの劇的な出会い。
この垂らされた糸を掴んだが最後、間違いなく人生ごと振り回されることになる。あの自我の強い男が、腹を括り、ある種の諦めさえも持たなければ、その誘いに応じることなど出来なかっただろう。
一度従うと決めたのなら、どんな扱いをされようが、それが自分の選んだ道だ。成功も屈辱も、自己責任。誰のためでも、誰に命じられたわけでもない。
「黛千尋は黛千尋の意思でしか動かない」
そうだ。
それが赤司の目には何よりも新鮮に映った。
ずっと、他人の人生を生きてきた。父親の人生を。周囲の求める人生を。自分の人生を歩んではこなかった。誰かの理想を欲し、バスケさえもそのための手段でしかなくなっていた赤司征十郎が、自分で自分を容易に受け容れ思うままに生きる黛の在り様を知った時、それがどれほど不可解で、かつ興味深かったことか。
黛千尋は天才ではなかった。なのに黛千尋は赤司に何も求めなかった。赤司の功績も肩書きも一蹴し、凡人である己のためだけに部に戻り、強固な意志で努力を貫き、レギュラーの座を勝ち取った。
黛千尋は誰よりも影であったのに、あの時の赤司には誰よりも眩しく見えた。屋上に降りそそぐ春の陽射しよりもなお。
「お前はなぜあの時、あの人を傷付けてまでコートに残した?勝利のみを非情に求めるのであれば、他に確実な方法はいくらでもあっただろう。あの人を排除して、力のみをより強化させる布陣はいくらでも組めた。なぜお前はそうまでして、黛千尋を
「僕は」
ぼくは
赤司は喘ぐように口唇を震わせた。
ぼくは
期待に応えるなら認めてやろう
成果を出し続けろ
できなければお前はいらない存在だと、冷酷な判断を赤司は黛に突きつけ続けてきた。
もしも出来なかったとき、失敗したとき、敗北したときに
冷たい目で見捨てられ、疎まれ、蔑まれそれでもなお、この戦場に立ち続ける覚悟を持てと。
勝ち続けられなかったお前にはもうなんの価値もないけれど
洛山の名を背負うプライド程度はあるだろう
おこぼれをくれてやる
せめて立ち続けろ
赤司の名を背負うプライド程度はあるだろう
どんなに屈辱にまみれても、お前はそこから逃げられない
逃げられないんだ。僕はあの日からずっと地獄にいる
名門に生まれ、優秀でいることなんて何も苦ではなかった
ただ、僕は
僕たちはずっと
「―――――寂しかった」
向かい合う、2人の声が重なった。ようやく口に出来た、と赤司は思った。
弱い。寂しい。ひとりでは生きていけない。認めて欲しい。褒めて欲しい。愛して欲しい。
渇望して、渇望して、飢え続けて。
完璧であることは孤独だった。完璧でなければ自分は愛されない。どんなに頑張っても愛されない。抱きしめてはもらえない。
寂しくて、だから仲間が大切で、だから愛されることが怖くて、だから失いたくなくて、だから。
「お前は、……俺たちは、あの人を自分と同じ場所に堕としたかったんだ」
赤司は座り込む自分の前にひざまずき、両の頬を引き寄せ、額と額を、そっと合わせた。
絶対的な王者の椅子。
死ぬまで努力し勝ち続けることしか許されない恐怖。
失敗し、敗北し、見捨てられてもなお、
逃がしてはもらえない絶望を。
「同じ地獄を味わってほしかった。同じ地獄に来てほしかった。知って、共感して、共に傷付いて欲しかったんだ」
「千尋」
「俺たちは救ってほしかったんじゃない」
あの地獄で、共に死んでほしかったんだ。他の誰でもないあの男に。
「だけど千尋は死ななかった。引き摺り込んで、殺してやるつもりだったのに」
「あの人にとってはどうでもいいことだったんだ。失敗しようが、敗北しようが、誰に見捨てられようが、そんなこと」
黛は、あの時与えられた仕打ちに何を思ったのか。
確かに傷付けた。絶望と屈辱に瞳を揺らしていたのを知っている。
だけど彼は結局、最後まで赤司をよく見ていたのだ。それは影としての習性なのか、慈悲を乞うためか、無意識の執着だったのかは誰にもわからないけれど、その不屈さこそが赤司を変えるきっかけとなった。
彼はわかっていたのかもしれない。敗北に指が触れかけた日から、赤司の中の歯車が狂い始めていたことを。赤司が完璧などではないことを。
圧倒的な光でしかないはずの赤司が、なぜ影である自分を取り込もうとするのかを…。
「僕は完璧じゃない。僕は誰にも愛されない」
「あんな人は他にいない。あの人じゃなければ俺を呼び起こすことは決して出来なかった」
「僕は弱さだ。醜く無様な存在だ」
「謝りたいわけじゃない。許しを請うなんて身勝手な真似はしない。感謝ですら俺たちには不要だろう。せめて何かを伝えたい。でも、何も思い浮かばないんだ」
ただ、会いたい。顔を見たい。こんな感情をなんと呼べばいいのか赤司にはわからない。
「僕は千尋に見捨てられる。千尋に会えるのは
「なぁ、よくわかるよ。お前の気持ちが」
そう言って赤司は瞳を細め、自分を強く抱きしめた。
「…黛さんに嫌われていると思うことがつらい。出来ることなら一からやり直したい。だけどあの人との出逢いも、共に過ごした日々も、俺たちにとっては大切な思い出だ。後悔なんてひとつもない」
「後悔などするものか。すべてに誇りをもってやってきた。僕は、赤司征十郎だ」
「そうだ。だから」
抱きしめたもう一人の自分から流れ込んでくる感情に、赤司は胸を引き絞られた。
彼は自分の弱さ。何よりもまず、俺が認め、受け入れ、愛してやるべき存在だった。
そして今ならわかる。彼は、自分の強さでもあったということを。
「だから最後に会いに行こう。お疲れさまでしたとひとこと、言えればもうそれでいい。お前もおいで、眠っていないで。伝えたいことがあるなら出てくればいい。あの人のことだから大して気にもしないだろう。黛さんは俺とお前を区別したりしないよ」
「逃げられる。拒絶される」
「そうかもしれない。だけどこれはけじめだ」
「千尋は僕をゆるさない」
「そうかもしれない。だけどお前は、俺たちは」
いやだ、と赤司は掠れる声で呟いた。
「――――千尋に会いたい」
器から溢れこぼれだしてしまった自分の言葉に、赤司はもう感情を抑えることが出来なかった。
「……そうだね」
「千尋に、…っ会いたい、ちひろ」
「会いたいよ」
「ちひろ…ッ」
腕の中の抱きしめた「自分」が泣いている。
自分たちは泣けるのだ。寂しければ、苦しければ、もう会えない、会いたい人がいれば、こうやって泣けばよかっただけなのだ。
こんな簡単なことに気付くのに、こんなに長い時間をかけてしまった。
「……ずっと、なぜお前は消えないのか不思議だった」
赤司の目にも小さな雫がぽつりと留まり、まばたきと共に視界を滲ませる。
『僕』が赤司征十郎の弱さであり、勝利し続けるための礎石であるなら、それを暴かれ敗北を知った瞬間に、内側に統合され、消滅していたっておかしくはなかった。
なのになぜ、赤司の中にはまだ彼というこころが存在し続けているのか。
「俺には、わかった気がする」
本当に、自分たちは不器用で馬鹿だ。
「俺はお前が愛おしいよ」
お前が消えないでよかった。
***
こんなことを言えば貴方は怒るだろうか。どうでもいいと呆れるだろうか。
引退式が終わり、顔すら出さなかったあの人を、足の赴くままに探していた。
ふと見やった視線の先。探し人の背中を見つけた瞬間、赤司は気後れしたように立ち止まる。
見慣れた薄墨色の髪。本を読みながら少し猫背気味に、のんびりと進んでいく長い脚が刻む歩幅。
2人の間を冷たい風が吹きつけた。春はまだ遠く、あと少しで訪れる別れの式にも、校庭の桜が芽吹き彼の新たな門出を華々しく送り出してくれることはないだろう。
寂しい風。細かな埃がちらちらと舞う。
ああ、卒業しないでほしい。
しないでいいのに。卒業式なんてなくなってしまえばいいのに。俺たちとずっとバスケを続けてくれればいいのに…。
胸の奥から湧き出る子どもめいたわがままに自分で呆れ、一度首を振ってから赤司はしっかりと声を張り上げた。
「―――――黛さん」
こんなことを言えば貴方は怒るだろうか。どうでもいいと呆れるだろうか。
それとも―――笑ってくれるだろうか。
俺たちはこんなにも遠回りをして、ようやく大切なことを思い出せた。
俺たちはただこんなにも、バスケが好きだった。
消せはしない過去はある。背負い続けなくてはいけない罪もある。
それでも赤司征十郎にとってこの1年間は、
楽しかったのだと。
そう思ってはいけないだろうか。この気持ちはいけないものだろうか?今の赤司には何もわからない。
「なんだ。赤司か」
彼が振り向く。
きっとこれが最後だ。
赤司は深く息を吸い込んで、足を止めてくれたその人へ、勇気をもって歩み寄った。
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