アカシのカレシ(後編)

       *

…セミがうるさい。
黛は辺りを見回し、鬱陶し気に目を細めた。
まだ初夏だというのに緑生い茂るコートでは、生き急ぐセミたちが我先にと必死に人生を謳歌している。
それにしても、確かにオレは積極的にゲームには参加しねぇからな、と赤司に念を押したとはいえ、けっこう思った以上に放置されていて若干不満になってきた。
…仕方ないか。ここにいる誰も彼も一人残らずバスケバカだ。隅っこで霞んでいる影の存在など思い出す者もいないだろう。まぁ、このまま出番がなくてもそれはそれでかまわない。なんだか今日は、ゲーム以外の役割を黛千尋自分に見出している連中が多いようだし。
(軽い珍獣扱い…いや、そうじゃねぇか。…むしろ…)
黛が皮肉めいた笑みを浮かべた時、横並びのベンチに気配を感じて顔を上げた。
「…お疲れ様です」
表情筋が一瞬だけ引き攣った。黒子テツヤである。
本人もまさか声をかける前に気付かれるとはという驚きを滲ませつつ、ペコリと頭を下げ黛の隣に座った。
座るなよ。
黙っていても刺々しい空気を醸し出してしまう黛だが、黒子も動じる様子を見せず、水分補給をしながらぼうっとしている。やがて思い出したかのように黛の方を振り返った。
「試合、しないんですか」
黛は無視して手元の本に視線を固定した。
「高尾くんが、僕と黛さんと3人で組んで、光チームと対戦したい、って言ってました」
は?赤司・緑間・火神と戦えと?眩しすぎるわ。どんな無理ゲーだよ。
「純粋な実力なら敵いませんが、恐らくこのメンバーの中でも、お互い手の内は最も知り尽くしている相手と言っていいと思います。いわば頭脳戦の側面も強いゲームになるかと。僕も興味あります。やってみたいです」
勝手にどうぞ。
「赤司くんもやりたいと言ってました」
だろーな。
「でも黛さんは嫌がるだろうから、だったら黛さんの代役として虹村先輩にお願いしたいと」
ほんのわずか、無視しきれずに動きが止まる。
もちろん洞察力に定評のある黒子がそれを見逃すはずもない。くっそ、と黛は内心で思い切り舌打ちした。小賢しい黒子にもだが、何より己の軟弱なメンタルに対して腹が立つ。
これ以上無言を通すのも大人げない気になってきて、黛は苛ついたため息をつきつつも、パンと本を閉じた。
「脅しのつもりかよ」
「いえ。カマをかけてみただけです」
最悪か。死ね。
「ちょっと僕、驚いたんですけど」
黒子は、じっ、と黛を見つめた。
「いつの間に赤司くんを懐柔したんですか」
げふぉ!と黛が噎せた。げっふぉげふぉ咳き込んでいる相手を見ながら黒子は続ける。
「すみません、不躾で。ただ今日のお2人を見て、ウィンターカップの時とは、明らかに雰囲気が違ったものですから」
「……なんなんだよお前ら」
「はい?」
揃いも揃って…と黛がぼやく。黒子は首を傾げた。
「そういえば今日は千客万来のようですね」
「招かれざる過ぎんだよ」
「それは仕方ないです。よりによってあの赤司くんですから。興味も沸きます」
「興味本位とかゲスか」
「いえ、それは建前で。本当のところは、査察ですね」
うわ、と死んだ目が黒子を見る。見つめ返しながら、立ち入り調査ですと平然と補足する黒子である。
「僕たち赤司くんの友人ですから」
黛は、はぁっ、と巨大なため息を吐き出し片手で顔を覆った。来るんじゃなかった、と本気で後悔する黛を見ながら、さらに黒子は口を開く。
「すみません、実はそれも建前で」
「死ね」
「死にません。別に誰も、今さら黛さんを品定めしようなんて思ってないですよ。だって見ればわかりますし」
わかる?
「赤司くんの顔を見れば、わかります」
黒子はコートに目を向けた。片面は休憩中。片面では火神&紫原VS緑間&氷室なんていう異色の2on2が展開されている。死ぬほど連携取れなさそうだな、と2人の影は思った。
「さっき、火神くんですら言ってました。『なんか赤司のやつ、雰囲気変わったな』って。どう変わりましたかって聞いたら、『わかんねぇけど安産感がある』って。安定感のことですけど」
「大丈夫かお前の光」
「大丈夫です。僕もそう思います。今の赤司くんは、とても安定しているように僕には見えます」
黒子も、表情が動かないことに関しては黛と大して変わらない。落ち着いた口調で淡々と言葉を紡ぐ。
「……ずっと、僕の中での赤司くんのイメージは、『円錐の上に乗った豆腐』でした」
「………」
思わず頭の中でその図を思い描く。不安定極まりない。グラッグラじゃねぇか…と黛が遠い目で呟くと、黒子も頷き、むしろ貫通しますよね、と付け加えたので、思わずやめろよと突っ込んでしまう。
「最近思ったことではなくて、正直随分前からそう思っていました。とても不安定で、危うい人だなと。もちろん初めの印象は、同い年と思えない、落ち着いて、大人びて、威厳や貫禄すらある人だ、と驚いていましたけど」
黒子はずっと、コートの向こうにある何かを見つめているようだった。

「あの頃の僕たちは、毎日、毎日、短くない時間を一緒に過ごしていたので―――きっと普通だったら決してわかるはずのない、赤司くんの内面が透けて見えてしまうことが、あったのかもしれません。特に僕はちょうど観察力を高めようとしていた時期だったので、余計に…彼の、あのバスケセンスには心底憧れていましたし、何より謎の多い人だったので。知りたいとか、理解したいなとか、単純に思って彼を見てました」
しばし黙り込んだ黒子を、黛は無気力に眺めた。
草食的な外面に反して、変にどもったり逡巡したりしない。口に出す言葉に気後れや曖昧さはなく、頭の中できっちり順序立てながら整然と、毅然と話すやつだ。
そういやこいつも本を読むのが好きだと赤司が言ってたっけ。黛は、なんとなくそんなことを思い出した。
「…寂しい・・・んですよね。赤司くんの友人でいることは」
やがて言葉がまとまったのか、黒子はぽつりと、静かに言葉を落とした。
「どんなに距離が近付いたと思っても、気付くとまた同じだけ距離を取られてるんです。誰にでも絶対他人に踏み込ませない領域というものはありますけど、彼の場合は、心の一部とか奥底とかそういう話じゃなく、今彼が僕たちに見せているすべてが、きっとお芝居なんだろうなと、ふとした時に思わせてしまうようなものでした」
膝の間で、黒子は両手を組み合わせた。
「冷たさよりも、虚しさを覚えるような。相手に、寂しいと思わせる人だったんです。僕の知ってる赤司くんは」
親しくなればなるほど、彼の纏っている鋼鉄の鎧に気付かされて、明確な線引きを思い知らされる。自分だけではなく他の仲間たちも、多かれ少なかれ感じていたはずだ、と黒子は話す。
その気持ちを緑間は「腹が立ち、もどかしく、悔しい」と言ったのかもしれない。
「本当に強ければ鎧なんていりません。だから赤司くんを守る装甲の厚さはそのまま、本質の脆さを表しているんだろうと僕は思いました。強くて、隙なんてどこにもないように見えるのに、その実彼はわずかな衝撃で崩れ落ちてしまう。そうならないよう、だから人と距離を取るのだろうと。僕にとって赤司くんはずっと、限りなくグラグラなのに、決して崩れ落ちることのない、手の届かない、『完璧な円錐の上の豆腐』だったんです」

言い得て妙すぎる絶妙な比喩に、黛は頬を引き攣らせるしかなかった。
本当に、赤司の周りにはおかしな奴が揃っていたらしい。緑間といい黄瀬といい、超人の周りには超人が、変人の周りには変人が引き寄せられるものなのだ。
さっき、緑間に対して思ったことを黒子に対してもチラリと思ってしまい、黛は内心でほぞを噛んだ。なんとなく脳内でスルーしていたが実は黄瀬にも思っていた。
(あの頃の赤司のそばにいたのがこいつらでよかった)
色々面倒があったらしいが、それも含めて、だ。深い意味はない。純粋にそう思う。
自分がいてやれなかった時間。まだ自分と出逢う前の赤司。円錐の上で揺れている不安定な赤司のこころ。
中学3年の、全中のあと。黒子が呟く。
「僕は、赤司くんを負かしたいと思った。それは強烈にわかりやすい指針でした。あの時の僕はその目標に縋ることで、潰れるのをなんとか堪えていた。個人的恨みと報復を腹の底に抱えながら、自身を正当化したいがために、キセキを、赤司くんを倒すと誓いました」
親友を傷付けた残酷な刃はそのまま黒子の胸に突き刺さり、その傷を癒えないように抱え続けなければ、立ち上がることさえできなかった。
「彼らを悪人にしなければ、僕はバスケを続けられなかった」 
ちらりと、黛は黒子を見る。ゆで卵みたいにデカい目だな、とぼんやり思う。ちっとも似ていないのに、彼を見ているとなんとなく赤司と重なる時があるのはなぜだろう。
「それが間違っていたとは思いません。でも傲慢だったとも思います。実際仕返しを念頭に置きながらするスポーツなんて、とてもやるせないものでした。誠凛の先輩方と、仲間たちとバスケを続けるうちに、そんな考えはいつの間にかなくなっていました。同時に、かつてキセキであった彼らもどんどん変わっていきました。コート上に、主役も悪役もありません。あるのは勝つか負けるかだけです」
その真理はとりもなおさず、帝光の、あの頃の赤司征十郎の、揺るぎない信念に限りなく似ていた。
「―――……僕は、赤司くんを負かしたいと思った。いつしかそれは報復のためではなくなっていた。中学の頃に感じたあの寂しさを、勝利・・することで覆せるのではないかと、多分僕は無意識に思い始めていたんです」

中学時代あの頃に後悔があるとすれば、それは自分が、『彼らの気持ちを知る』努力をしなかった、できなかったということです、と黒子は語った。
つらいのは自分ばかりだと、あの時の誰もが思っていた。幼かった彼らは、つらすぎる現実から目を背け、自分で自分の身を守ることだけで精いっぱいだった。
それはもう、仕方のないことだ。だけどそれに気付いた今だからこそできることはなんだろうと。

「それは、彼らを天才だと区別せず、特別扱いせず、彼らに追いつけるほど強くなって、対等な立場で戦えることだ。エゴでもいい。僕は、彼らに、赤司くんに、ただ僕と、誠凛と、対等な立場で、同じ目線で、バスケをしてほしかったんです」
黒子は真っ直ぐに前だけを見つめて言った。
「――――ただ僕は、赤司くんと仲直りしたかったんです」
「ふッ」
場の空気にそぐわない音が聞こえた気がして、黒子はじっとりと隣の男を見る。
「……笑う所じゃないですけど」
「子供の喧嘩になんつー壮大な叙事詩だよ…」
失礼な男を無視し、黒子はすぐにいつもの素の顔に戻った。
「赤司くんと対等な目線で戦うには、まず難攻不落である砦から、彼を地上に引きずり降ろさなければなりませんでした。だけど僕は、非力すぎた。武器を持たずに素手なんて、とても無理でした。手加減なんてできなかった。素手どころか、必死で、彼を、傷付けるつもりで、…殺すつもりで挑まなければ、赤司くんを変えることはできませんでした」
知ってる。黛は思い出す。緑間だってそうだった。あのWC、決勝戦、お前らがどれほどの覚悟をもってあいつと対峙したか、一番間近でオレは見ていた。
殺すつもりで。
ああそうだな。
そして、確かにあいつは一度死んだんだ。
「……僕はあの時、赤司くんの一部を壊したような気がしています」
「……」
「そうしなければ勝てなかったこともわかっています。だから、後悔しているわけじゃありません。ただ」
「……」
「今でも自分の無力さに腹が立つ時がありますね」
結果は結果だ。それとは別に、どうしようもないやりきれなさが胸を突く。友人を傷付けるのに自分が苦しくないわけがない。ましてそれが己の力不足のせいであったなら。己がもっと強くあれたならと、思わずにはいられないのだ。

黒子は顔を上げ、隣でぼんやりとしている男を見た。
赤司征十郎が見出した、もうひとりの影。
自分たちはある種特殊な縁で繋がっている。本人たちの望むと望まないとに関わらず。
この人も不思議な人だな、と、自分を棚に上げて黒子は思う。理不尽なまでに敵視された初対面時はよほど赤司に心酔してるんだろうと思っただけだったが、決勝戦を最後まで終えた時にはその印象も大きく様変わりしていて、黒子なりに興味を抱いていた人物だった。
まさかあの赤司を骨抜きにするような怪人物だとは、夢にも思わなかったけれど…。
新型旧型。そんな風にドヤ顔されたっけ。黒子は無慈悲にも記憶を辿る。
未だに(恐らくは微妙な嫉妬とかそういう感情から)嫌われているのはわかっていたが、それでも一旦隣に座ってしまうと、あとは聞かれもしないことを延々と喋っている自分がいて、黒子自身驚いていた。
ろくに返事も返ってこないことが逆にいいのだろうか。しかしただの案山子に話しかけているにしては、感情を動かされていると思う。
存在感はないのに、妙な存在感のある人だ。矛盾したことを考えて。
ああ、そうか。
ふいに、黒子は点と点が繋がったような感覚を覚えた。
安定感か。

「……黛さんは、本当に卑怯でムカつきます」
「…は?」
「僕が命がけで特攻するしかなかった城攻めを、いわば無血開城してしまったようなものじゃないですか」
「妙な比喩ばっか駆使すんなよお前」
「でもすごいと思います。悔しいですけど、素直に、尊敬します」
「…たまたまだろ」
黛はつまらなそうに言ったが、たまたまで事を成せてしまう相手なら最初から自分だって苦労していない。
黒子が、誠凛が、円錐の上に乗った赤司に手を伸ばし、掴み、地面に落としたのだとすれば。
その手を取って、立ち上がらせて。
素っ気ない箱に入れて、安定した環境に置いて、居場所を作ってあげたのは。
簡単なことのようで、赤司相手に限ってそんなはずのないことは、黛と黒子の2人が誰より一番知っていた。
「―――黛さん、ありがとうございます」
脈絡のないそれに、もはや黛も驚かない。だからなんなんだよお前ら、揃いも揃って。
「今はもう、赤司くんを見ても…『寂しい』なんて思いません。そのことに対する感謝です」
「……そりゃどうも」

コートの端から「黛さん!黒子!」と呼ぶ声に、2人は顔を上げた。
全員がわらわらと何やらクーラーボックスの周りに集まっていて、赤司がこちらに向かって手招きをしている。
「冷たいデザートがありますのでどうぞ」
はい、と返事をして立ち上がった黒子と逆に、黛は、げ、と顔を歪ませた。
「行かないんですか」
「あいつ絶対そのままの流れで強引に3on3させる気だろ…お前が持って来い。もしくは赤司に持ってこさせろ」
「パシリですか。嫌です。行かないと喰いっぱぐれますよ。紫原くんがいるんですから」
「デザートなんてオレは別に…」
ごねる黛に、どこか楽し気な赤司の声が重なる。
「黛さん!紫原に貴方の分もあげていいですか?梅ゼリー」
「はぁ?」
黛がいきなりベンチから立ち上がったので黒子はぎょっとした。
「っざけんな人の好物……オイ赤司!」
舌打ちしながら先に行ってしまった黛と嬉しそうな赤司の姿に、黒子は思わず食べる前から呟いてしまうのだった。
「……ごちそうさまです」
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