天帝のおくすり

      ***


 確かにけっこう最低なセクハラしたのは認める。わざといじめて脅かすような真似はした。認める。
だが、ここまでいきなりあからさまに拒絶するのはどうなんだよ。オレが言うのもなんだが今さらすぎるだろ。
電気を消した暗闇の中、床に敷いた布団に寝転がって、ベッドの上から少しはみ出している赤司の手をいつものように握ってやった。しかしその途端、
「ん、ッ…」
 妙に気だるい吐息を漏らされて瞬時に意識が遠のいた。赤司サマの聞いてはいけない声を聞いてしまった。ドッと変な汗が出る。オイやめろ。お前そんな声出んのな。やめろ。
どうしたと聞くと慌てて手を離そうとする。握る手に力を入れると、ベッドの上で赤司は完全に焦った様子で身を起こした。
「離してください」
「いつもこうしてんだろ。なに、今日はお手手繋いで寝てやんなくていいのかよ」
「いいです」
「は?」
イラッとして、オレも肘をついて上半身を起こした。いつもガキみてぇにおねだりしてくるの誰だよ。いきなりバッサリ切りやがって。ホント気が向いた時だけ暖取りに来る猫だなお前。
「今日は疲れたので早めに休みます。おやすみなさ」
「何ビビってんだよ」
「びびってないです。すみません、手を」
ギリ、と音がしそうなほどに手のひらを強く握ると、赤司はまた息を詰めて呻いた。
今さら身の危険を感じてるのか? 身勝手というかはた迷惑すぎるんだよ。こいつの中でオレが、ここにきて一方的に性欲大魔神みたいな扱いになってるのかと思うと非常にカンに障った。隙見せんなって言ったよなオレ。人の言うこと無視して距離感ガバガバで近付いてきたのはお前のくせに。
「黛さん、痛いので」
「あのな、いい加減ここらでハッキリさせとくけどな」
「痛いから手を」
「そもそもお前が」
「離してください!」
空いた方の手で枕を顔面に投げつけられ手を離した。
ぼとりと落ちた枕の視線の先で、赤司は手のひらをかばうように手首を握り、壁に貼り付いてオレから距離を取っている。
そこまでか、と苛立ちを越えて泣きたくなってきた。そんな汚物に触られたみたいな反応するなよ。普通につらいだろ。
しかもなんだよ痛い痛いって、骨粉砕するほどの握力はねぇよお前じゃあるまいし。
痛いってそんな…………痛い?
 ここではじめて、オレは違和感に気付いた。
オレのことが嫌ならそう言うだろう。二度と触れるなとこいつならハッキリ言うはずだ。痛いってなんだ? 痛いから離せって、なんでそんな見え透いた――――
「……!」
思い至った瞬間ベッドに乗り上げ赤司の手首を掴んでいた。お前、と掠れた声が漏れると、赤司は今度こそ本当に恐怖に戦慄く目でオレを見上げた。
赤司の強張る手のひらを無理やり開かせると、月明かりでもわかるくらい、そこには赤く腫れた火傷の痕があった。


      ***


ただの一言もしゃべらなかったのは、言葉も出ないほどショックだったからではない。
赤司に圧力を与えるためだ。
揃って布団に座り、遅すぎる手当を施した。手当といっても大したことはできず、今のところ洗面器持ってきて氷水に浸けて、20分近くの間、ひたすら無言で向かい合っているだけだ。

あの時、フライパンの底面を手のひらで受け止めたのだろう。手のひら全体が広範囲で赤らんでいる。幸い水ぶくれにはなっていなかったが、オレが腕に負った小せぇ痕すらすぐに冷やしてもヒリヒリと神経質な痛みを伴っている。風呂ではかなり沁みた。これだけ腫れていれば少し皮膚を動かすだけでもかなり痛いはずだ。即座に冷やしていればこれほどひどくはならなかっただろうに、こいつはこの手のまま、料理をし、茶を汲み、布団を敷いて、明日になればオレに何も言わずに帰るつもりだったのだ。鋼のような忍耐力で、痛みを隠して。

パシャンと水面が揺れ、赤司がそろりとオレを見る。氷点下の視線で見返すと、赤司はわずかに怯んだものの、視線を合わせたまま口を開いた。
「あとは自分で冷やしておきますから、黛さんは寝てください」
オレは表情筋一つ動かさず返事もしない。
「……すみません。もう、夜も遅いですし。ちゃんと、このまま、冷やしますから」
思わずはっきりと舌打ちした。
寝てください? 夜も遅い? なんだそれクッソむかつく。なんだその意味のねぇ気遣い。バカじゃねぇの。そんなことに気遣える神経あるなら最初っから言っとけよ。
バカじゃねぇの。
「……あの」
相変わらずオレの能面ヅラは変わらない。だが、その下から滲み出る不機嫌さは伝わるんだろう。赤司は落ち着かず、揺らめかせた視線を、また氷水に落とした。
「…………すみませんでした」
チャプン、声が水に跳ねる。やっと言いやがった。つまり自分の非を認めやがった。
なのに余計に苛立ちが増す。別に謝らせたかったわけじゃない。そんな何の改悛の念も感じられない、ただ「言っただけ」の謝罪なんかどうでもいい。
腹が立つ。胸が重い。ギリ、と奥歯を噛んでも足りない。
「……何がだよ」
本当なら、どこまでも喋らずに朝まで黙り続けてやった方がこいつには効くのだろうが。
「なにが、とは」
「何がスミマセンだよ。何に対する謝罪なんだって聞いてんの」
「黛さんを怒らせてしまったので」
「だからオレが何に怒ったかわかって言ってんのかよ」
語尾がほとんど怒鳴るようだった。自分でも感情のコントロールが難しい。オレは今、自覚してる以上に腹が立っている。
「だから、黛さんの手間を増やして」
「違う。お前いい加減にしろ」
冷水に浸かった左手首を捕まえて、いっそ折ってやろうかと思いながら強く握りしめた。
「お前にケガさせたオレが、何も知らずに偉そうな顔してればいいと思ったのか。慈悲深いお前に笑って見逃されてれば喜ぶだろうと思ったのか。なじれとは言わねぇよ。謝らせろよ。手当てくらいさせろ。こんな風に隠されて、気付きもせずにお前の自己満に付き合わされたんだよ。今オレがどんだけ惨めかお前にわかるか」
迸るようだ。
理論建てて話せない。全部激情だ。
「お前の手だぞ。お前の手に、オレのせいで」
自分の言葉にふいに肝が冷え、畏れで声が出なくなった。そんなオレを見て、赤司はようやく何かに気付いたように身を乗り出した。
「利き手ではないです、痛みだってそんな―――バスケに影響は」
オレは額に手を当てて大きく息を吐き出した。赤司も黙り込み、ごめんなさいと消え入りそうな声で謝っている。
もし火傷した箇所が手でなくても、オレは同じだけ腹を立てただろう。だが、「赤司の手」。それは神の手に等しい。オレたち洛山部員が、崇め、信じ、守ってきたもの。
バスケと離れたところにいる赤司は、オレにとってもはや生意気な後輩、ワガママな猫でしかない。しかしコートの上でボールを操り采配を奮うバスケットプレイヤーの赤司征十郎は、未だに、おそらく永遠に、オレの中では穢すことのできない神なのだ。
それを危うく壊しかけた。その恐怖と自責の念に、オレは自分でも驚くほど打ちのめされていた。

「――――悪い」
赤司の手を離し、立てた膝に顔を伏せる。
鈍すぎる自分に嫌気が刺す。反吐が出そうだ。
「すぐ気付けただろうに。てめぇのことばっかで。さっさと冷やしときゃよかった」
「いえ、俺が自分ですればよかったんです。貴方に知られたくないと隠し、処置を億劫がったのは俺です。本当にごめんなさい」
ごめんなさい。赤司は繰り返し、うなだれるオレの手に、火傷をしていない右手で触れた。
「……適当に謝りやがって」
「ごめんなさい」
「……もしオレが、何も知らずにお前を帰して。…後日実渕あたりにそれ知らされたとしたら、どんな気持ちになると思う」
「……ごめんなさい」
「……オレが同じことしたらお前どんな思いしたよ」
「……ごめんなさい」
「……あ~…くそ」
もう、いい。これ以上言ってもただの憂さ晴らしでしかない。こいつにはもう伝わっている。
「本当に軽度です。一週間ほど気をつけていれば、すぐに治ります。言わずにおいて、すみませんでした」
「……ボール触んなよ」
「気をつけます」
「痛みに強いとか、苦痛は慣れてるとか、そんなん理由になんねぇから。我慢する必要のないとこで我慢すんな。無駄だし、迷惑」
「はい、もうしません」
顔を上げると、不安に苛まれたような、それをじっと押し隠しているような、辛抱強く耐えることが染み付いてしまった優等生の表情が、口唇を結んでオレを見ていた。
こんな嫌な思い二度としたくない。それでも、利き手じゃなくてよかったとか、軽度で済んでよかったとか改めて思うと、どっと溢れ出す安堵で気が抜ける。
ほとんど溶けかけた氷水に手を入れ、赤司の手を取り出した。
ポタポタと雫がオレのスウェットに落ち、文字通り腫れものに触れるようにゆっくりと手のひらを返すと、赤みの残る内側が痛そうで胸が潰れそうになる。
チロ、と舐めると、赤司は身を強張らせた。
「応急処置にすらなってねぇな」
今さら何やってんだ。やっぱり自己嫌悪に苛まれ、がっくりと肩を落として頭を抱える。
だけど赤司は一瞬泣きそうな顔をしてから、微笑み、そっと首を振った。
「いいえ。どんな薬より、効きますよ」
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