天帝のおくすり
*
空の急須を持って台所に立った赤司が、戻ってきて再びオレの対面に腰を下ろそうとしたのを、赤司、と手招きして引き止めた。
手を引っ張って、背を向けさせ、オレの脚の間に座らせると、「黛さん」と焦ったように振り返る。
無視して軽く腹に手を回す。居心地悪そうに何度も振り返りオレを咎めていた赤司だが、オレがまったく聞く気がないのを悟ると、やがて逃げるのをあきらめ、大人しくなった。
目の前の赤司の背筋はピンと伸びたままで、オレの方には一向に凭れてこない。緊張しているのが背中から伝わる。
自分から行くのは平気なくせに、相手から突然接触されるのは未だに戸惑いが強いらしい。まぁ猫だって自分の好きな時だけ寄ってくるけど、気の向かない時は触らせもしないしな。多分、顔が見えないのも苦手なんだと思う。正面からかまう時の方が明らかにリラックスしているから。
本気で逃げようと思えばオレに指一本触れさせないことも可能なくせに、緊張したまま耐えている。
赤司はこんな風に、他人の我儘をなんだかんだと許容する。常軌を逸したことでもなければ、理由も意味もわからなくても、深くは考えず、ひとまずやんわりと受け入れるところがある。
オレにだけじゃない。多分元々そういう性質だ。無慈悲な王様だ冷酷な帝王だという印象もあるが、それは立場上そのように振る舞うことを求められ、そうすることが最適だからそうしてきたのであって、長年続けてきた風格が染み付いてしまっただけなんじゃないか。この部屋にいる時の素の赤司を見ていると、そう思うことがたまにあった(まぁ意気揚々と王様をやってもいたので、当然統率者としての天性も兼ね備えてはいるのだろうが)。
その生来の優しさこそが「隙」なのだと、言っても多分伝わらないんだろう。
「……黛さん、本読まないんですか」
「小休憩」
「小休憩にこの体勢は必要ですか…」
ぶつぶつ文句を言っている精一杯の抵抗を無視し、後ろから首筋に顔を埋めてみる。体温。いい匂い。なんかよくわからんけど軽く勃起しそうで自分でも引いてる。
ふとした瞬間にいなくなっているんじゃないか。
そんな不安がいつまで経っても消えない。
お前はオレの陽炎だ。
だから捕まえて、何度も噛んで、その存在を確認してきた。白い肌に痕を残し、お前が確かにここにいるという証拠を刻み付けてきた。それくらいしないと、赤司という存在はオレにとって現実離れしすぎていたから。
眼下には赤司の肌が晒されている。
大きめのパーカーは襟ぐりを大きく開き、頚椎辺りの骨がすっきりと浮き出ていて、俯く襟足からうなじが綺麗に伸びている。
無防備なその場所に、見境なく歯形をつけたい衝動に駆られた。痛がる身体を抑えつけ、齧りつき、狂ったように肉を喰らう。逃げるなと脅し、どこにも行くなと縛りつけ、我がもの顔で「あの」赤司征十郎を支配する……。
自分の中にこんな獣じみた一面があったなんて知らなかった。
逃げるから追いかける。まさに狩猟本能。
……いよいよ末期だ。
オレはまごうことなきノーマルだが、赤司の表情、仕草を単純に美しく好みだと思っていたし、そう感じることにすでに違和感は抱かなくなっていた。それらの興味、好感が高じて触れたくなるのも、生き物としてごく自然なことだよなと思うようになっていた。誰だって魅力的なものは手に入れたいし、美味そうなものは食べたいだろ。そうだろ。
引っ掛かるのは性別だが、「まぁ、赤司だし」。赤司だし、そういうこともあるだろう。呪文ひとつで身元不明の欲情すら言い訳にできてありがたいものである。
見下ろす耳の後ろが、気のせいでなければ仄かに紅い。
また噛んでやろうか。
「噛まないでください」
抵抗がないのをいいことに悶々と妄想していたら、後ろに目でもあるみたいにガッツリ釘を刺されてやめた。
「………」
懲りず、うなじの産毛にそっと指を這わせる。捕まえた身体が微かに反応し、またオレは物思いに耽る。
赤司にとっての、エロいこと、お上品に言えば性的接触や性的行為の類っていうのはどういうものなのか。
誰かと付き合っていたという話は聞かないが、ただでさえ人間くさくないものだから、自慰すら「したことはないよ」と澄まし顔で言われても納得してしまう機械的な無機質さがあるし、潔癖のきらいというか、ストイックを超えた妙な貞淑さというものも確かに感じる。
夢を見てるとかではなくて単純に俗っぽい印象がないのだ。オレですらそうなのだから、他の奴から見たこいつの偶像なんてさぞかし血肉が通っていないのだろう。
普通にエロ動画見て抜いたりすんのかな。なんか生理現象すら自力で管理してそうで全然想像つかねーな…いや、顔に似合わずやたらと野性的で男っぽい面もあるから、「健康のために自慰は毎日バリバリやってるよ」とか言い出しかねないとも思うが。
こいつでも、「好きな奴」のこと考えながらオナニーすんのかな。好きな奴。……女か。男か? 主将だったという中学時代の年上の男。赤司なら、「男性ですが好きでした」と天気の話のようにさらりと言いそうだ。
あの時頬を染めて想い出を語っていたその思慕は、どういう類の「好き」なんだろう。
首を触りすぎたのか、赤司が振り返らないまま身をよじって嫌がる。
こんな風に、肌に触れることは許す。口付けるのも、舐めるのも、痕を残すのも。なぁ、そんなことあるか? やっぱりおかしいよな? それは誰にでもそうなのか? オレ以外でも。その男にも?
だったらそれ以上 も、お前は誰にだって許すのか?
「っ」
パーカーの裾から手のひらを差し入れ直に腹を撫でてみる。
赤司が咄嗟にビクリと背筋を逸らした。オレの指は冷たく、赤司の腹は熱い。腹筋の窪みとさらさらの触り心地が気持ちいい。
「なんですか」
服の上から手を掴まれる。無視してもう一方の手を股の間に滑らせると、その手もガッと抑えながら赤司は心底不審な顔で振り返った。
「なんですか?」
激しく混乱している。完全に想定外という顔だ。隙を見せるなと言ったのに、やっぱり、なんにもわかってねぇんだな。
「まゆ、…ッ」
そのくせこの前オレがうっかり キスしかけた時、お前逃げたよな。隙だらけのくせに。なんにもわかってねぇくせに、危機回避の本能だけは一流の猫。
肩を竦み上がらせてこちらを凝視している赤司の顎を乱暴に掴み、目線を合わせたまま口唇を近付ける。
「!」
オレの意図に気付いた赤司は、寸前でオレを突き飛ばし腕の中から抜け出した。
床に手を突き少し身を低くしてこちらを睨んでいる様子は、まさに毛を逆立てて唸っているお猫様そのものだ。怖くはない。が、今下手に動くと本気でケガをさせられるなと思う。
オレのことを見たこともない獣を見るような目で見ている。悪い気はしない。
しばらく膠着状態だった。動かない赤司をオレも動かずに無表情で眺める。オレの真意を探り、状況を把握し、どうすればこのわけのわからない劣勢を覆せるか考えている顔だ。
オレが立ち上がろうと膝に手をやると、赤司はビクッと身を竦めた。別にもういい。嫌がらせによるただのストレス発散みたいなもんだった。本気でお前をどうこうしようなんて思ってないし、どうせそんな度胸もない。
「………ま、ゆずみさん」
「何でもねぇよ」
はー、とため息を吐きながら言い捨てるようにして風呂場に向かうと、背中越しに赤司の、「ごめんなさい」という消え入るような声が聞こえた。
なんに対しての謝罪なのか、知らないし、知りたくもないし、もう本当にどうでもいいと思った。
そろそろ限界なんだな、という自覚が生まれつつある。
疲れてる。さすがに。赤司に対して沸き起こるあらゆる感情にオレ自身が追い付いてない。それでも身体は欲望に正直に動くから、隙だらけの獲物に本能のままかぶりつこうとすると、相手はオレから逃げだして「踏み込むな」と威嚇してくるのだ。
もうわけわかんねぇな。
どうすればいいんだよ。
めんどくさい。
世のリア充ってこんなもんに常に振り回されてるのか? 嘘だろ? めんどくさい、オレがオレじゃなくなる。
めんどくさい。
こんな感情、知りたくなかった。
空の急須を持って台所に立った赤司が、戻ってきて再びオレの対面に腰を下ろそうとしたのを、赤司、と手招きして引き止めた。
手を引っ張って、背を向けさせ、オレの脚の間に座らせると、「黛さん」と焦ったように振り返る。
無視して軽く腹に手を回す。居心地悪そうに何度も振り返りオレを咎めていた赤司だが、オレがまったく聞く気がないのを悟ると、やがて逃げるのをあきらめ、大人しくなった。
目の前の赤司の背筋はピンと伸びたままで、オレの方には一向に凭れてこない。緊張しているのが背中から伝わる。
自分から行くのは平気なくせに、相手から突然接触されるのは未だに戸惑いが強いらしい。まぁ猫だって自分の好きな時だけ寄ってくるけど、気の向かない時は触らせもしないしな。多分、顔が見えないのも苦手なんだと思う。正面からかまう時の方が明らかにリラックスしているから。
本気で逃げようと思えばオレに指一本触れさせないことも可能なくせに、緊張したまま耐えている。
赤司はこんな風に、他人の我儘をなんだかんだと許容する。常軌を逸したことでもなければ、理由も意味もわからなくても、深くは考えず、ひとまずやんわりと受け入れるところがある。
オレにだけじゃない。多分元々そういう性質だ。無慈悲な王様だ冷酷な帝王だという印象もあるが、それは立場上そのように振る舞うことを求められ、そうすることが最適だからそうしてきたのであって、長年続けてきた風格が染み付いてしまっただけなんじゃないか。この部屋にいる時の素の赤司を見ていると、そう思うことがたまにあった(まぁ意気揚々と王様をやってもいたので、当然統率者としての天性も兼ね備えてはいるのだろうが)。
その生来の優しさこそが「隙」なのだと、言っても多分伝わらないんだろう。
「……黛さん、本読まないんですか」
「小休憩」
「小休憩にこの体勢は必要ですか…」
ぶつぶつ文句を言っている精一杯の抵抗を無視し、後ろから首筋に顔を埋めてみる。体温。いい匂い。なんかよくわからんけど軽く勃起しそうで自分でも引いてる。
ふとした瞬間にいなくなっているんじゃないか。
そんな不安がいつまで経っても消えない。
お前はオレの陽炎だ。
だから捕まえて、何度も噛んで、その存在を確認してきた。白い肌に痕を残し、お前が確かにここにいるという証拠を刻み付けてきた。それくらいしないと、赤司という存在はオレにとって現実離れしすぎていたから。
眼下には赤司の肌が晒されている。
大きめのパーカーは襟ぐりを大きく開き、頚椎辺りの骨がすっきりと浮き出ていて、俯く襟足からうなじが綺麗に伸びている。
無防備なその場所に、見境なく歯形をつけたい衝動に駆られた。痛がる身体を抑えつけ、齧りつき、狂ったように肉を喰らう。逃げるなと脅し、どこにも行くなと縛りつけ、我がもの顔で「あの」赤司征十郎を支配する……。
自分の中にこんな獣じみた一面があったなんて知らなかった。
逃げるから追いかける。まさに狩猟本能。
……いよいよ末期だ。
オレはまごうことなきノーマルだが、赤司の表情、仕草を単純に美しく好みだと思っていたし、そう感じることにすでに違和感は抱かなくなっていた。それらの興味、好感が高じて触れたくなるのも、生き物としてごく自然なことだよなと思うようになっていた。誰だって魅力的なものは手に入れたいし、美味そうなものは食べたいだろ。そうだろ。
引っ掛かるのは性別だが、「まぁ、赤司だし」。赤司だし、そういうこともあるだろう。呪文ひとつで身元不明の欲情すら言い訳にできてありがたいものである。
見下ろす耳の後ろが、気のせいでなければ仄かに紅い。
また噛んでやろうか。
「噛まないでください」
抵抗がないのをいいことに悶々と妄想していたら、後ろに目でもあるみたいにガッツリ釘を刺されてやめた。
「………」
懲りず、うなじの産毛にそっと指を這わせる。捕まえた身体が微かに反応し、またオレは物思いに耽る。
赤司にとっての、エロいこと、お上品に言えば性的接触や性的行為の類っていうのはどういうものなのか。
誰かと付き合っていたという話は聞かないが、ただでさえ人間くさくないものだから、自慰すら「したことはないよ」と澄まし顔で言われても納得してしまう機械的な無機質さがあるし、潔癖のきらいというか、ストイックを超えた妙な貞淑さというものも確かに感じる。
夢を見てるとかではなくて単純に俗っぽい印象がないのだ。オレですらそうなのだから、他の奴から見たこいつの偶像なんてさぞかし血肉が通っていないのだろう。
普通にエロ動画見て抜いたりすんのかな。なんか生理現象すら自力で管理してそうで全然想像つかねーな…いや、顔に似合わずやたらと野性的で男っぽい面もあるから、「健康のために自慰は毎日バリバリやってるよ」とか言い出しかねないとも思うが。
こいつでも、「好きな奴」のこと考えながらオナニーすんのかな。好きな奴。……女か。男か? 主将だったという中学時代の年上の男。赤司なら、「男性ですが好きでした」と天気の話のようにさらりと言いそうだ。
あの時頬を染めて想い出を語っていたその思慕は、どういう類の「好き」なんだろう。
首を触りすぎたのか、赤司が振り返らないまま身をよじって嫌がる。
こんな風に、肌に触れることは許す。口付けるのも、舐めるのも、痕を残すのも。なぁ、そんなことあるか? やっぱりおかしいよな? それは誰にでもそうなのか? オレ以外でも。その男にも?
だったら
「っ」
パーカーの裾から手のひらを差し入れ直に腹を撫でてみる。
赤司が咄嗟にビクリと背筋を逸らした。オレの指は冷たく、赤司の腹は熱い。腹筋の窪みとさらさらの触り心地が気持ちいい。
「なんですか」
服の上から手を掴まれる。無視してもう一方の手を股の間に滑らせると、その手もガッと抑えながら赤司は心底不審な顔で振り返った。
「なんですか?」
激しく混乱している。完全に想定外という顔だ。隙を見せるなと言ったのに、やっぱり、なんにもわかってねぇんだな。
「まゆ、…ッ」
そのくせこの前オレが
肩を竦み上がらせてこちらを凝視している赤司の顎を乱暴に掴み、目線を合わせたまま口唇を近付ける。
「!」
オレの意図に気付いた赤司は、寸前でオレを突き飛ばし腕の中から抜け出した。
床に手を突き少し身を低くしてこちらを睨んでいる様子は、まさに毛を逆立てて唸っているお猫様そのものだ。怖くはない。が、今下手に動くと本気でケガをさせられるなと思う。
オレのことを見たこともない獣を見るような目で見ている。悪い気はしない。
しばらく膠着状態だった。動かない赤司をオレも動かずに無表情で眺める。オレの真意を探り、状況を把握し、どうすればこのわけのわからない劣勢を覆せるか考えている顔だ。
オレが立ち上がろうと膝に手をやると、赤司はビクッと身を竦めた。別にもういい。嫌がらせによるただのストレス発散みたいなもんだった。本気でお前をどうこうしようなんて思ってないし、どうせそんな度胸もない。
「………ま、ゆずみさん」
「何でもねぇよ」
はー、とため息を吐きながら言い捨てるようにして風呂場に向かうと、背中越しに赤司の、「ごめんなさい」という消え入るような声が聞こえた。
なんに対しての謝罪なのか、知らないし、知りたくもないし、もう本当にどうでもいいと思った。
そろそろ限界なんだな、という自覚が生まれつつある。
疲れてる。さすがに。赤司に対して沸き起こるあらゆる感情にオレ自身が追い付いてない。それでも身体は欲望に正直に動くから、隙だらけの獲物に本能のままかぶりつこうとすると、相手はオレから逃げだして「踏み込むな」と威嚇してくるのだ。
もうわけわかんねぇな。
どうすればいいんだよ。
めんどくさい。
世のリア充ってこんなもんに常に振り回されてるのか? 嘘だろ? めんどくさい、オレがオレじゃなくなる。
めんどくさい。
こんな感情、知りたくなかった。