天帝のおくすり

      *


夕飯を食べ終え、赤司の淹れたお茶を飲んでいる。
「そもそもお前さ」
 スマホをいじりながら声をかける。
「家でいくらでも喰えるだろ、美味い豆腐くらい」
オレの無様なミスのせいでバタバタしたが、タネは充分な量が残っていたので夕飯は無事に完成した。赤司に任せた豆腐ハンバーグはふっくらと蒸し焼き上げられ、肉を求めていたオレの口内と脳内を満足させてくれるボリュームでもって、さらに春菊の添えられた和風おろしソースも絶品で、つまるところ大変美味であった。
が、よく考えたらオレの家で駄々こねなくても、こいつなら家に帰ればいつだって美味い豆腐なり肉なりが腹いっぱい喰えるだろうに、と思うわけで。
単純な疑問と共に「喰いたい言ったら出してくれんだろ。コック長とかが」と指摘すると、不思議そうにしていた赤司が、あぁ、と得心した。どうでもいいがコック長という響きが非日常すぎて笑える。
「いえ、食事の品書きは家の者に任せているので。食べたい時は個人的に購入して勝手に食べています。食卓で湯どうふメインなんて、前に出されたのはいつだったか思い出せないくらいですよ」
あっさりと返され、今度はこっちが目を見張った。
「まじか」
「はい」
「好物喰えねぇの? お前が?」
「栄養管理を最優先にされているので」
菩薩ばりの悟った笑みに軽く引く。好物より栄養管理…? 軍隊じゃあるまいし。
「でもお前が喰いたいって言えば出してくれるだろ。それこそ最高級のなんかこう…すげぇ豆腐を」
「まぁ、そうかもしれませんが、言ったことがないので」
「……なんで」
「俺がわがままを言えば、彼らが組み立てた献立は向こう一週間大幅な変更を余儀なくされるでしょう。好物を食べたいと言えど現在出されている食事に不満があるわけではないので、彼らに迷惑をかけるつもりはありません」
はぁ? と罵りが口をつく代わりに半目になった。
「あとは、まぁ、父に余計な告げ口をされても面倒なので」
にこり、と音がしそうな無機質な笑顔に、頭の中を小劇場が音速で通り過ぎる。
―――旦那さま大変ですおぼっちゃまがお夕食に湯豆腐をお召しになりたいと…! なんだとあんな腹に溜まらないものを成長期の男児が食すなど許さんぞ畑の肉より本物の肉を食べさせろすでに手配は済ませてあるそちらなら近江牛が最も新鮮に手に入るはずだ征十郎には私から強く言っておく―――
……だめだ、頭の中の金持ち像が貧困すぎてリアリティある想像ができない。ものすごくバカバカしいが、これが正解だったらどうしよう。
なんで好物を親に言うのが告げ口になるんだ。理解力が追いつかなさすぎて、もはや呆れしか湧いてこない。
「家の中であれ食べたいこれ食べたいっていうのがそんなにワガママかよ…」
手のかからない子で通ってきたオレだって、喰いたいものがある時は親にリクエストしてたぞ。
「わがままですよ。赤司征十郎おれが言うには」
言えば驚かれるでしょうね、と言う声は、あり得ないことを大前提としていて妙に愉快そうだ。
「そのへんは、もう一人・・・・も認識を同じくしていたようですし」
「……あいつなら『豆腐百丁用意しろ、できなければクビだ』とか言ってそうなんだけどな」
ふふ、と赤司は笑った。
あれだけ我が物顔で人の上に立っていた帝王が、文句も言わず、出されるものは黙って食べ、自分ちで好物を隠れるようにひとりで食べてたとか、イメージが違いすぎる。
「お前がいい子ちゃんすぎて気持ち悪ぃ」
「ええ。黛さんが驚くほどの優等生なんですよ、実は」
「ヘー」
史上最大の棒読みが出た。
楽しそうに笑いながら湯呑みを左手にとった赤司が、ふと何かを躊躇したようにパッと手を離した。
指先がどこか神経質に擦り合わされているのを、視界の端に見る。
赤司はしばらく焦点の会わない視線を遠くにやって、ひとりでなにごとかを思案していた。
やがてゆっくりとひとつ瞬きした猫のような瞳が、薄目を開いた。左の目がかすかに金色を帯びて光っている。
「……物心ついた頃から、わがままなんて数えるほどしか口にしていないな」
赤司はテーブルの上で指を組み合わせた。
「中学に入った時、車での送迎はやめてほしいと言ったのがひとつ」
わがままレベルがいきなり庶民のジョークの域でひそかに耳を疑う。
「高校は別邸から洛山に通うことを請願したのがひとつ」
「よくそれ許可出たよな」
「それはもう色々とあった。…あぁ、その時に雪丸を連れてくることも押し切ったね」
老齢だから移動に負担をかけさせるのは自分としてもためらいがあったんだが、と赤司はどこか寂しげに言う。どうしてもそばにいてやりたかったんだ、と。そばにいたかったのはお前だろと思うが。
生まれと同時にどこぞの高貴な御方から白馬を贈られるなんて、もはやこいつの存在そのものが異次元だ。たった今目の前で、安物のパーカースウェット着て、オレの部屋でオレの為に飯作ってオレの為に茶を淹れてるのが赤司征十郎であるという現実を、動かない表情筋の下でオレは未だに心底から疑問に思っている。
「……それから」
伏せていたまつ毛がゆっくりと持ち上がった。
「今こうして、千尋をひとりじめしていること」
印象的な瞳が、オレの姿をその透明な赤に閉じ込める。
「……そんなもんが、我が儘かよ」
「最後のわがままかな」
また瞳を閉じて、赤司は笑った。
「だから、いまのうちに食べておきたかったんだよ、湯どうふ。お前とふたりで、たくさん」
「………」
「わがままを言ってすまなかったね」
テーブルに置かれた左手に触れようとしたらさりげなく躱され、胸を焦がすような苛立ちに、オレは小さく舌打ちした。

最初から、赤司はこういう奴だった。オレの退路を絶って形だけの選択肢を与え、飼い殺すような真似ばかりする。最終的な決定権はこっちに与え、自らの感情からも責任からも巧みに言い逃れるのが、あまりに上手い奴だった。
あっちの赤司もこっちの赤司も、本質なんてやっぱり同じだ。欲しいものを欲しいと言えない。子どもじみた我儘ひとつ口にできず、失うことに怯えて逃げ続けているだけの、王様の皮をかぶった臆病な子ども。
オレを畏れ、オレを牽制しながらも、オレの前で無意識に急所を晒し続ける赤司が、本当は何を欲しがっているのか。
多分オレはもう、わかっている。
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