迷い込むのはイルカの女王

【候・補・捜・索】

 モヤモヤ、うにゃうにゃと、遠くで誰かの声が聞こえたような気がして。
 わたしは何だかズキズキする頭をおさえながら、ゆっくりとベッドからおきあがりました。
 ……わたしのお家には、こんなベッド、ないです。そもそもうちはお布団派です。じゃあ、ここはお家ではないのでしょう。
 何かお部屋全体が白くて、ちょっと薬っぽいにおいがして……
 んーっと、これは……そうです、学校の「ほけんしつ」とか、「びょーいん」がこんなかんじです。
 ……う? でも、なんでわたしそんな所にいるんでしょう? 学校で宿題が出て、お兄ちゃん達のところへこっそり行こうとして、それから……
「……えう」
 そうです、思い出しました。知り合った美羽お姉さんといっしょにお兄ちゃん達を探していたら、暗いお姉さん……他の人にはイルカさんに見えていたらしい人が襲ってきて、美羽お姉さん達の「秘密基地」に隠れたんでした。
 で、その後、秘密基地がなんとお月様にあったせいで、急に満月になった時とおんなじような事が起こって……そうです。魔力が勝手に出て行っちゃって、気持ち悪くなって、倒れちゃったんです。頭がいたいのは、たぶん倒れた時に床にぶつけたからだと思います。
 ……じゃあ、ここはほけんしつでしょうか。
 魔力が出て行っちゃったせいか、ぽやぽやする頭でそんな風におもっていると、ベッドの脇にかかっていたカーテンが、シャッと音を立ててあきました。
「ああ、目が覚めたか」
 あけたのは、賢吾お兄さんです。手にタオルを持っています。多分……わたしの頭に乗っけていてくれていたのでしょう。
「あう。ごめーわくをおかけしました」
「……今後は自分の体を過信しすぎるな。宇宙は何が起こるかわからない」
 はあ、と溜息をつきながら。だけどちょっと安心したみたいな声で言ってくれる賢吾お兄さんは、本気で心配してくれていたんだと思います。
 たぶん、「宇宙酔い」と言うのだと勘違いしているのだとは思いますが……魔力とかそんな事を言っても、たぶん分ってもらえないので、言わないでおきます。
「あの、ところで……サガークさんは?」
「>>&、>↓~○」
「あう、いたいです」
 それでなくても頭がいたいのに、賢吾お兄さんの後ろから飛び出してきたサガークさんは、やっぱり分らない言葉でそう言うと、スッコーンとわたしのおでこに向って体当たりをしてきました。
 一応、サガークさんも「てかげん」をしてくれているとは思いますが……サガークさんは硬いので、やっぱりとってもいたいです。
「あら、霧雨。起きたのね」
「あ、美羽お姉さ……ん……?」
「なぁに? どうかした?」
 わたしが言葉に詰まってしまったのが気になったのでしょうか。美羽お姉さんは不思議そうに首を傾げて、わたしに声をかけました。
「……なんでも、ないです。ちょっと頭がいたかっただけです」
「※、◆Ω☆↑∞∑○&○!?」
 ごまかすわたしの言葉を信じてくれたのか、美羽お姉さんはああ、と納得したみたいな顔をしましたし、サガークさんは自分のせいだとでも思ってくれたのか、ちょっと申し訳なさそうな顔でわたしの額をてしてしと軽く叩いてきました。
 たぶん、サガークさんにしてみれば、撫でているつもりなのかもしれません。でも、サガークさんには手がないので、どうしても「叩く」みたいになっちゃうんですけど。
 でも、本当は頭がいたくて言葉に詰まったわけじゃありません。
 ……美羽お姉さんから、キラキラの気配が見えなくなっていたから、言葉に詰まったんです。
 たぶん、魔力が出て行っちゃったせいで「普段の姿を見る力」もちょっとお休みしてしまったのでしょう。たまにこういうことが起こります。
 こうなると、元に戻るのにどれだけ時間がかかるか分りません。すぐに治る時もありますし、なかなか治んない時もあります。
 でも、あってもなくても困んないので、別に良いです。
 そんな風に思いながら、わたしはベッドからおりました。
 ちょっとくらくらしますけど、歩けます。うん、だいじょうぶ。
 何回かその場でジャンプしてバランスが取れるかを確かめていると、賢吾お兄さんがいきなりわたしの目の前に何枚かの写真を見せてくれました。
 ……写っているのはみんな女の人です。
「う?」
「目を覚ましたばかりで悪いが、この中に君が見た女はいるか?」
 隠し撮り、と言うのでしょうか。写真に写るお姉さん達は、みんな別の方を向いていてカメラに気付いていません。
 下の方から撮っているのは、カメラが下の方にあるからなのでしょうか。あるいは……わたしの目線で見た場合を考えて撮ってくれたのでしょうか。
 人のお顔は、見る角度によって変わると、前にモノおじちゃんが言ってました。
「ガキから見た相手が『背が高い人物』に思えても、大人からすれば平均身長なんて事はザラにある。同じように、相手を見上げるように見た場合と真っ直ぐに見た場合では、光に加減で全く異なって見える物だ。つまり、ガキの証言はガキ目線で見た時のみ有効と言う訳だ。分ったか、愚弟に愚妹」
 とか何とか。
 何か難しくってよく分りませんが、とにかく大人と子供では見え方がちがうってことだそうです。
「……うー、んー…………あ」
「居たか?」
「このお姉さんかもです。……たぶん」
 いくつかある写真の中で、ちょっと似てるなあと思ったお姉さんを指します。
 写真の中では笑っているので、ちょっと自信ありませんが……このお姉さんは、美羽お姉さんといっしょに歩いていた時、プールから睨んでたお姉さんにちょっと似ているように見えます。
 ……うーん、でもイルカさんだった時のお姉さんとは、ちょっと違うかもしれないし、それにこのお姉さんを見た時は、イルカさんよりもサメさんに近かったような……
「おっとぉ。これは水球部二年、織笛邑久っすねー。学園のキングである大文字センパイの大ファンなんで、いつも横にいた風城センパイに妬みを抱いている可能性は、大です」
「でも……大文字先輩って、風城先輩の事、好きですよね」
「それが恋愛かどうかはさて置いて、ね」
 ジェイクお兄さんとユウキお姉さんもほけんしつにいたみたいです。わたしが選んだ写真を覗きながら、そんな事を言っています。
 うぅ、よくわかんないですけど……キングが好きだから、一緒にいるクイーンが嫌いってことでしょうか?
 そう思いながら、別の写真ももう一回見てみます。
 うーん、イルカさんのお姉さん、イルカさんのお姉さん……
 ぺらぺらめくっていくと、カフェテリアで会った京お姉さんとか、全然知らないお姉さんとか、イルカさんによく似たお姉さんとかが見つかります。
 うーん、イルカさんのお姉さん、イルカさんのお姉さん、イルカさんの……
「……あう?」
 どうも、頭がいたくてまだちょっとぽやぽやしていたみたいです。イルカさんによく似たお姉さんの写真、今、ありましたよね?
 もう一回写真をめくり直して、わたしはさっき「イルカさんによく似ている」と思ったお姉さんの写真を見つけると、それをじぃっと見つめなおします。
 さっきの写真の……「プールで睨んできたお姉さん」に、ちょっと似てます。でも、さっきのお姉さんとはちょっと違って……こっちのお姉さんの方が、何だかイルカさんによく似ているような気がします。
 どこが、って言うのは、良く分らないんですが。
「あのあのっ! こっちのお姉さんも、何かイルカさんに似てる気がするんです……けど……」
 そう言って、わたしは似てると思ったお姉さんの写真を賢吾お兄さんに差し出します。
 さっきと違うお姉さんの写真を差し出したせいでしょうか。賢吾お兄さんは怒ってるようにも困っているようにも見える顔で、その写真とわたしを交互に見ます。
 ですが、賢吾お兄さんの肩越しに写真を見たジェイクお兄さんの方は、ああ、と何かを納得したみたいな声をあげました。
「こっちは水泳部三年の繰糸愛。苗字違うけど正真正銘、織笛の姉ですから、似ていてもおかしくないっす」
「ああ、彼女なら知ってるわ。去年のクイーンフェスで、優勝を争った間だもの。ま、結局私には負けた訳だけど」
「それなら当然、風城先輩を妬んでいてもおかしくないですよね」
 何だかよく分りませんが、選んだ写真のお姉さん達は、あまり美羽お姉さんを良く思っていない……って言う風に思われてるみたいです。
 本当によく思っていないのかはともかく、どっちかがイルカさんだと思うんですが……
「写真だと自信ないです。……でも、会えばたぶん分ります」
 くい、と美羽お姉さんの制服の裾を引っ張りながらそう言うと、美羽お姉さんと賢吾お兄さんはちょっとだけ困ったような顔をしました。
 ……お手伝いするつもりで言ったのに、どうして困った顔をするんでしょうか。はっ! ひょっとしてわたしはオジャマ虫なのでしょうか!?
「手伝ってくれるのはありがたいけど……これは遊びじゃないのよ、霧雨」
「直接会うとなると、危険が大きすぎる。俺達では、君に怪我を負わせない自信はない。そもそも、君は家族を探しに来たんだろう? 俺達と付き合うのは、君にとって時間の無駄だ」
 危ないから来るなってことだと思います。美羽お姉さん達の横では、ジェイクお兄さんもユウキお姉さんもうんうんと首を縦に振って頷いています。
 ……でも、気になるじゃないですか。イルカさんがどうして美羽お姉さんを嫌っているのかとか、「ぞでぃあーつ」ってなんなのかとか。それに……
「『この世に無駄な時間なんてねぇっ!』……って、お兄ちゃんが言ってました」
 ええ、テトテトに追いつめられて、パソコンの前で唸っている時に、ですが。でも結局そのあとテトテトに
「人生にとって無駄ではなくても、仕事にとっては無駄なんですよぉ、かんらかんらかんらっ!」
 って、こわーい顔で言われてますけど。
「それにわたし、置いてかれても勝手に付いていきます。……サガークさんの道案内付きで」
「×●>≒☆!」
「うわっ、何か霧雨ちゃんの笑顔が眩しいっ!」
 ちょっと迷惑そうに喚くサガークさんを無視して、最後ににっこり笑ってそう言うと、ユウキお姉さんは本当に眩しそうに腕で顔をガードしながら、わたしから顔を背けちゃいました。
 ジェイクお兄さんは苦笑いをしていますし、賢吾お兄さんは頭がいたいのか溜息を吐きながら頭を押さえています。美羽お姉さんにいたっては、今にも怒鳴りそうに見えますが……それでもやっぱり諦めてくれたのでしょうか。何だか深い溜息をはきだすと、腰に手を当ててわたしに言いました。
「なら、私と約束なさい。怖いと思ったり、怪我をしそうになったらすぐに逃げる事……良いわね?」
「……はい」
 美羽お姉さんとのお約束に頷くと、ようやくちょっと笑ってくれて……そして、写真のお姉さん達の所に行くことになりました。
 …………とと、そう言えば。
「弦太朗お兄さんはどうしたんですか?」
「ゲンちゃんは、大文字先輩や友子ちゃん……ああ、他の部活仲間なんだけど、その二人と一緒に別方面でスイッチャーを探してる」
 ふむふむ。わたしが寝てる間に、弦太朗お兄さんはまだ会っていない人達とイルカさんを探していると。
 納得して頷いていると、さっき美羽お姉さんといっしょに来たプールの近くに来ていました。
 ……やっぱり大きいです。良いなぁ、冬でも入れるのは羨ましいなぁ。
 あ、プールサイドに弦太朗お兄さんがいます。横には赤いジャケットを着た大きめのお兄さんがいますし、後ろの方には黒いリボンをつけたお姉さんもいます。
 多分あの人達が、「大文字先輩」と「友子ちゃん」なんでしょう。
 なんか、誰かとお話してるみたいですけど……うー、遠くてよく見えません。
 ぺったりとガラスに張り付いて見ていたその時。いきなり、わたしはひょいっと後ろから誰かに抱えられてしまいました。
「ひゃああっ!?」
「あまりガラスに張り付かない方が良い。しかし……軽いねぇ。きちんと食事はしているのかな?」
 いきなりのことにビックリして声を上げてしまいます。そしてわたしを抱えた男の人はそう言うと、ガラスから少し離れた場所でわたしを下ろしました。
 お兄ちゃんよりは少し年上さんでしょうか。優しそうに見えますけど……でも、なんでしょう。ちょっと変な感じがします。
 いや、それよりも誰でしょう、このお兄さん。学校の先生でしょうか?
「校長先生!」
「こんにちは。この子は……迷子かな?」
 お兄さん……この学校の校長先生は、わたしを見ながらそう言うと、にっこり笑って目線をわたしに合わせるようにしゃがんで、軽く頭を撫でてくれました。
 ……でも、やっぱり撫でられると、なんだかゾワゾワします。
 怖いのとはちょっと違いますけど、あんまりさわって欲しくないです。
「重いねぇ。こんな小さな子を案内する君達の責任は今、ひどく重い。その重さを、君達は支えられるかな?」
 わたしの頭から手を離して、校長先生はゆっくりと立ち上がると、今度は美羽お姉さん達を見つめてそう言いました。
 ……質問しているみたいですけど、なんとなく、ちがう気がします。校長先生は質問しているんじゃなくて……きっと、「お前達に案内は無理だ」って言ってるんだと思います。少なくとも、わたしにはそう聞こえます。
 でも、大人のひとに案内されてしまうと、どうしてもナイショにはなりません。
 きゅうっと美羽お姉さんの服の裾を掴むと、美羽お姉さんにもわたしの意志が伝わったのか、真っ直ぐに……それこそクイーンの称号に相応しい、「凛とした姿勢」という感じで校長先生の目を見つめ返すと、キッパリを言い切ってくれました。
「だからと言って、見捨てる事は出来ませんから」
 ビショップさんがいつも言っている、「クイーンとしての気品」というのを、美羽お姉さんは持っています。成程、こういうことですね。見習わなきゃいけないと思います。
 さっきまで全く見えなかったキラキラも、ちょっとだけ……薄くではありますが、見え始めていますし。
 どうやらお休みしていた力が、ちょっと戻ってきたみたいです。
 お姉さんの言葉と、力が戻ってきたことの両方にほっとしていると、校長先生はすぅっと手首を返しながら、こっちに指を向けて……
「……成程。私は君達の自主性を重んじている。だが、困った事があったら、教員室に来ると良い。……星の導きのままに」
 それだけ言うと、校長先生はすたすたとどこかへ歩いていってしまいました。
 でも、なんででしょうか。小さくなっていくなっていく「校長先生」の格好が、どんどんヒトじゃなくて、変な……マントをつけた、触角の長い怪人さんになって見えるのは。
 ……あう。まさか。
 校長先生は、本当はあの格好の怪人さんってことなのでしょうか? だったら撫でられた時のぞわっとした感じとか、すごく納得です。
 でも、美羽お姉さん達は知らないんですよね? だったら言わない方が良いでしょうか。
「どうしたの、霧雨?」
「……なんでも、ないです」
 そうです、イルカさんでもないし。今はあの……なんていうか、カミキリムシなのかゴキさんなのかよくわかんない触覚の校長先生より、イルカさん探しが先です。
 そう言う事にしておきます。うん。
 と、ぼやーっと考えていると。前の方から、さっきプールを覗いた時に睨んできたお姉さんが、ちょっと嫌そうな顔をして向こうからゆっくりと歩いてきています。
 ……えーっと、こっちのお姉さんは……
「彼女は水球部の織笛だ。君が見たデルフィニスは、彼女か?」
 小さく、ナイショ話をするような感じで、賢吾お兄さんが教えてくれました。
 でも……確かにさっき睨んだのはこのお姉さんですが、こうやって見るとさっきのイルカさんとはちがいます。髪の毛の色がちょっと明るすぎますし、目も濁ってませんし、やっぱりイルカさんよりサメさんだし。それに何より、このお姉さんからは「強い意志」を表す白い光が見えています。
 イルカさんにあったのは、黒いモヤモヤとその中でチカチカしている星だけで、お姉さん自身の「本質」は見えませんでした。それは、ドーパントになった人もそうですが、「自分の本質を見失った人」の症状です。
 ちがう、という意味で、わたしは賢吾お兄さんに向ってふるふると首を横に振って知らせます。すると賢吾お兄さんは小さく溜息をついて……
「……そうか」
 とだけ言いました。
「? ボクに何か、用?」
 そんなわたし達に気付いたみたいです。織笛って言うお姉さんは、やっぱり睨むような顔でわたしを見ると、そのままわたしに向ってそう言いました。
 でも、睨んではいますが怒ってはいないみたいです。
「あの、わたし、お兄ちゃんとお姉ちゃんを探しているんです」
「ふうん。それでこの人達と一緒に探してるんだぁ……って、風城センパイ!? うわ、それにクイーンフェスに出てた城島ちゃんじゃん! おまけに学年成績トップの歌星君に、学園一の情報通のJK!? 層々たるメンバーだねぇ、気付かなかった」
「……この距離で気付かないだと?」
「あははは……恥ずかしい話だけど、ボク、目が悪いんだよ。今は裸眼だから、つい睨むように見ちゃうんだよねー」
 困ったようにほっぺたを掻いて照れ笑いしながら、織笛お姉さんは賢吾お兄さんの質問に答えます。
 あぁ、やっぱりこのお姉さん、見えてなかっただけだったんですね。じゃあ、さっきプールから睨んできたのも、見ようとして目を凝らしていたからでしょうか。
 何と言うか、話してみると本当に元気で良いお姉さんです。なんか、お兄ちゃんに似た感じもします。
「あ、風城センパイ。ボク、センパイの事、応援してます!」
「Oops!?」
「ボク、大文字センパイのファンなんですけど……大文字センパイって、風城センパイと一緒にいる時が、一番輝いて見えるんです。だからセンパイ、頑張って下さい!」
「あ……ありがとう……?」
 嫌われているかも、ってジェイクお兄さんに言われていたせいでしょうか。全く真逆の事を言われて、美羽お姉さんもビックリしたみたいです。
 ちょっと言葉に詰まりながらも、織笛お姉さんにお礼を言っています。
 ……織笛お姉さんは、本当に「ファン」なんですねー。なんか目がキラキラです。
「姉貴はセンパイの事嫌いだって公言してますけど、ボクは逆にセンパイの事大好きですから!!」
 なんかもう力一杯美羽お姉さんに向ってそう言うと、織笛お姉さんはやっぱりちょっと睨むような目でわたしを見て……
「それじゃあね。霧雨ちゃんもお兄さんとお姉さんに会えると良いね!」
 と言って、ブンブンと手を振ってどこかへ行ってしまいました。
 目が悪いって言うのは本当みたいで、途中で柱にごっつんとぶつかっていましたが。
 ……って、あう? 何でさっきのお姉さん、わたしの名前をしってたんでしょうか? あれあれ?
「……壮絶な時間の無駄だったな」
 はあ、と溜息をついて、賢吾お兄さんは疲れたようにそう言います。
 でも……その顔がちょっと苦しそうに見えるのは、なんででしょう? あと、賢吾お兄さんのライフエナジーがちょっと少ないように見えるのも……
 心配して、ちょっと賢吾お兄さんの顔を覗き込みますが、すぐにお兄さんは息を整えると、何もなかったみたいな顔になって更に言葉を続けました。
「だが、こうなるともう一人……繰糸愛が最有力候補か。……丁度下で如月達が足止めをしている。確認するなら今だ」
 そう言うと、賢吾お兄さんはプールへ続いている階段をすたすたと降りて行きます。その後に続くようにして、わたし達もプールに向って降りていくと……そこには、弦太朗お兄さんと、黒いリボンのお姉さん、そして赤いジャケットに大きなお兄さんが、プールサイドで髪の毛を拭いているお姉さんに、何か話しかけているところでした。
 そして、そのお姉さんを見た瞬間。わたしの体に、ぞわぞわっと鳥肌が思いっきり立ってしまいました。
 冬ですが、寒いと言う訳ではありません。むしろこの室内プールは暖かいです。
 それでもこんな風になっちゃったのは……あのお姉さんの周りに、モヤモヤが鎖みたいに巻きついているからでしょうか。
 間違いありません。あのお姉さんが、イルカさん……「デルフィニス」です。
 でも……このままじゃ、あのお姉さんは自分の本質をなくしちゃいます。本質をなくして、それをあのモヤモヤで封印されて……そして、二度と本当の自分に戻れなくなっちゃいます。
 そう思ったら、いてもたってもいられなくなって……気がついたら、わたしはそのお姉さんの近くに立っていました。
「お姉さんですよね? あのイルカさん……デルフィニスって」
「……は? 何を言っているのかしら?」
「わたし、見てましたから。デルフィニスがお姉さんだって」
 きっぱりとそう言うと、ヒクリと「繰糸」って呼ばれていたお姉さんの口が歪みました。
 その横では弦太朗お兄さん達が、ビックリしたように目を開いてわたしを見下ろしています。後ろでこっそり確認するだけのつもりで、わたしをここまで出すつもりはなかったみたいです。
 とは言え、出てきてしまったのはしょうがない。……と、お姉ちゃんがよく言っています。だから今回も仕方ないんです。
 …………そう言う事にしておいて下さい。うん。
「ふっ……何それ。意味がわからないわ」
「とぼけても無駄よ。あなたがスイッチを使う瞬間を、この子が見ているから」
 ええっ!? そんなの、見てませんよ!?
 いきなり後ろから投げられた美羽お姉さんの言葉に、ちょっとだけビックリして。でも、たぶんそれはお姉さんの作戦なんだろうと思って、ビックリしたのは顔に出さずに。
 何にも言わないで、じぃっとそのお姉さんを見つめていると……そのお姉さんは、諦めたようにフン、と鼻で笑い、さらにタオルの下に隠していた手を見せます。
 その手の中には、黒いモヤモヤを吐き出しているスイッチがありました。なんか、漫画の中の自爆スイッチみたいな感じに見えます。
「…………そう、見られてたのね。さっきの変な仮面の怪人と言い、その子と言い……マスターの言う通り、私、今まで甘かったみたいだわ」
「スイッチの悪用は、私達が許さない。さあ、スイッチを渡して」
 ずい、とわたしを隠すようにして、美羽お姉さんが繰糸お姉さんの前に出ます。
 その瞬間、スイッチから出てくるモヤモヤは更に多くなって、お姉さんを縛る鎖が更にきつくなって……
 ……お姉さんが、スイッチに、飼われている。
 なんとなくそう見えるのは気のせいでしょうか。
「風城美羽。アンタの……その偉そうな態度が、気に入らない」
『Last One』
 地の底を這うような声と同時に、お姉さんが持っているスイッチの形が変わった瞬間。そのスイッチから漏れるモヤモヤの色が更に濃くなりました。
 ……見ていて気持ち悪くなるくらいのソレは、夜の優しい闇とは全然違う、どす黒い闇。何もかもを飲み込んで隠してしまうような……そんな色をしています。
 スイッチを押したら、それこそ爆発するみたいに、そのモヤモヤが飛び出してくるのでしょう。スイッチから漏れているソレは、今か今かと待ち侘びるようにお姉さんの手に、そしてスイッチにかかっている指に絡み付いています。
 そしてこれはわたしの勘ですが……それを押したら最後、わたしの目に映るこの人は、「お姉さん」ではなく「デルフィニス」になってしまう気がします。
 そして、弦太朗お兄さん達も「危ない」と分っているみたいです。お姉さんを止めようと、手を一生懸命伸ばしているのですが……それよりも、一瞬だけ早く。
「最初から、徹底的に洗い流すべきだったのよ。私がクイーンになる事を邪魔する者、全て。……何で躊躇ったりしたのかしら……ね!」
 カチッと、スイッチをお姉さんが押した瞬間。スイッチからは予想通り……いいえ、予想よりももっとたくさんの「闇」がお姉さんの体を包み、「ρ」みたいな形……イルカ座の並びをしていた小さな光が、「お姉さんだった者」の体に張り付きました。
 そして現れたのは、映像で見たイルカさんそのもの。その脇には、いらなくなったのか、お姉さんの体が捨てられています。
 でも、その体には「中身」が……お姉さんの意思とか、精神とか、そう言った物は見えません。転がっているそれは、今はもう完全な抜け殻です。
『アンタさえいなければ、私はクイーンになれた! アンタが現れた事で、私の人生は惨めな物になった!』
 デルフィニスが怒鳴ると、プールの水がごごごっと唸りをあげて大きな一本の柱になります。それを操っているのは、デルフィニスの手に集まっている星の光が作った糸でしょうか。
 キラキラ光っているのに、全然綺麗に思えないのは、たぶんその向こうにある闇が、あまりにも危険だからかもしれません。
『それまで私を称えていた者達が、あっと言う間にアンタについた。それまで私に渡ってきた品々が、アンタの元へ渡るようになった。なのにアンタは、それをあっさりと捨ててしまえる!』
「……独り善がりな好意の押し付けは、迷惑なだけよ。私はそれが嫌いなだけ」
『それが腹立たしいのよ! ちやほやされているくせに! 誰からも好意を示されているくせに! 愛されてるくせに!』
 泣き叫んでいるような声で怒鳴ったお姉さん。
 でも、それが本音なんだって、わたしにはわかりました。お姉さんは、きっと……
『今度こそ、綺麗さっぱり洗い流してあげる!』
 そう言った瞬間、それまでうねっていた水が、わたし達めがけて落ちてきたのでした。
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