迷い込むのはイルカの女王

【本・質・看・破】

「ここは月面基地、ラビットハッチ。……ようこそ、宇宙へ!」
 ……この学校のどこかにいる、お兄ちゃんとお姉ちゃん。わたしはどうやら、宇宙に来たらしいです。
 ユウキお姉さんの言葉に、思わずぽかんとしてしまいます。
 げつめんきち……って、漢字で書くと「月面基地」でしょうか。と言う事は、ここは月? おお、それならここに来る途中で妙に強い魔力を感じたのもなっとくです。ここがお月様なら、いつも満月なわけですから。
 お外にはちょっと欠けた大きな青い星があります。あれ、多分地球です。写真で見たことがあります。
 お家に帰ったら、テトテトやクーちゃんに自慢しましょう。
「それにしても間一髪。ゲンちゃんが来てくれなかったら、私達今頃びしょ濡れでしたよ」
 ふう、と大きな溜息をついて、ユウキお姉さんは美羽お姉さんに向ってそんな事を言います。お姉さんの横では、ジェイクお兄さんもうんうんと首をたてに振っています。
 ああ、でもそうですよね。ユウキお姉さんとジェイクお兄さんは、あのお姉さんが入ってこれないように扉を押さえてました。でも、今はいっしょにいます。と言うことは、二人は「扉を押さえなくても大丈夫」だとおもって、ここに来たってことです。
 じゃあ、どうして大丈夫になったのかというと、多分ユウキお姉さんの言っていた「ゲンちゃん」さんが代わりに扉を押さえてくれたか、あるいはあのお姉さんをどこかにやってくれたかしてくれたんだと思います。それなら、あとでお礼を言いましょう。
 そんなふうに思っていると、ランドセルの中で何かがごそごそと動いて、背中に何かがぶつかるような感じがします。
 ……あ。忘れていました。ひとりだと心細いから、いっしょに来てもらっていたんでした。
 ランドセルを下ろして、その中からわたしは白いユーフォーみたいな「お友達」を取り出します。すると、「お友達」はちょっとぐったりしたみたいにへろへろと宙に浮かびあがると、黄色い目をきゅっと吊り上げてわたしを睨みました。
「△×★□○!!」
 「お友達」は、よく分らない言葉でそう言うと、わたしのおでこにゴツン、と体当たりをしました。
 ……うぅ、痛いです……
「Oops!? 何、それ!?」
「え、円盤!?」
「小型UFO、キター!!」
 びっくりしたみたいに言う美羽お姉さんとジェイクお兄さんですが、なんでかユウキお姉さんだけは目をキラキラさせて「お友達」を見つめています。
 でも、「お友達」の方はお姉さん達の事なんか全く気にしていないみたいです。こつんこつんとわたしのおでこに体当たりをしながら、甲高い声でずっと文句を言ってきます。
「■×※☆◎!! ◇◇、●♪▽θ♭△」
 やっぱりよく分らない言葉でそう言うと、今度は気持ち悪くなったのか、またへろへろとしながら「お友達」は近くの机に着地して、ぐてーっとしてしまいました。
 その横では、何だか食べ物みたいな形の機械さん達が困ったみたいに「お友達」をつっついています。
 いつもなら多分、「触るなぁっ!」って感じで飛び上がるんですが、ずっとランドセルの中にいてすっごく疲れているのか、つっつかれるままです。
 だから、ユウキお姉さんもさわって大丈夫だと思ったんでしょうか。キラキラしたまま「お友達」の背中をなでなでしています。
「すごーい! この滑らかな曲線美、この艶やかな躯体……これぞ紛れもない宇宙の神秘!」
「いや、って言うか……何、ソレ。まさかマジで……UFO?」
「ユーフォーっぽいけどちがいます。わたしのお友達で、サガークさんです」
「&д○%♪&▽○。○ΩΦ&、○ΩΦ!」
 ジェイクお兄さんに言われたので「お友達」……サガークさんを持ち上げて、そのお顔をお兄さん達に向けます。
 何だかサガークさんが文句を言っているように聞こえますが、たぶん気のせいです。サガークさんの言っている事は気にしちゃいけないって、おじいちゃんが言ってました。だから気にしません。
「……何なのかしら、それ?」
「う? ですから、サガークさんです」
「……◆◇△◇△♯★☆△&▼、&∴Ω」
 美羽お姉さんの質問に答えると、どうしてなのかサガークさんがぐてーっとしたまま何か言ってます。でも、サガークさんの言葉は分らないので気にしません。
 でもでも、何で美羽お姉さんは困ったみたいに笑っているのでしょうか。
 うーん……分りません。
 そんなふうに思っていたところ、いきなりこの「秘密基地」の扉が開いて、知らないお兄さん二人が入ってきました。
 ジェイクお兄さんと同じ制服を着ているお兄さんと、黒い服を着たお兄さんです。黒い服のお兄さんは、なんか髪の毛がロケットみたいな面白い形です。
 その黒い服のお兄さんは、入って来るとちょっとがっかりしたみたいな顔で、美羽お姉さんに言いました。
「悪い、ゾディアーツに逃げられちまった」
 ……ぞでぃあーつ? そう言えばさっき美羽お姉さんも、あの暗いお姉さんを見た時にそう言っていたような気がします。
 あのお姉さんのお名前なのでしょうか?
 と、思っていると。制服のお兄さんが、ちょっと怖い顔でわたしを見たかと思うと、怒ったような顔になって美羽お姉さんに向って怒鳴りました。びしっと、わたしに向って指差しながら。
「ちょっと待て! 何故こんな子供をラビットハッチに連れてきた!?」
「ゾディアーツの攻撃に巻き込まれかけたのよ。賢吾君、あなたはこの子を見捨てろとでも言う気?」
「そう言う問題じゃない!」
 ばんっと机を叩きながら、けんご君と呼ばれたお兄さんはやっぱり怖い顔でわたしを見ています。
 ……多分、ここが秘密基地で、わたしが「ぶがいしゃ」というものだからなのかもしれません。秘密基地に知らない人が入ってきたら、わたしだって怒ります。
「ここが秘密基地なら、お口にチャック。わたし、誰にも言いません。んっ」
 お口にチャックしながら言ったのですが、お兄さんは困った……というよりは疲れたみたいな顔になって溜息を吐き出すと、近くの椅子に座ってわたしの顔を見て言いました。
「……そうじゃない。宇宙空間は人体に悪影響を与える事が多い。俺達すら宇宙酔いをする事もある。こんな子供なら受ける影響も当然大きいに決まっているだろう」
 んーっと、んーっと……
「つまり、宇宙空間では、体に悪い事が多い。子供は、特にその『悪い事』が大きくなる。……こう言えば分るか?」
 お兄さんの言った意味が分らなくて首を傾けたわたしに気付いたのでしょうか。お兄さんは親切にも言い直してくれました。
 ……お兄さん、親切です。そして、実は心配してくれていたんですね。
「大丈夫です。わたし、ヒトより『がんじょー』ですから」
「そう言う問題じゃな………………何だ、それは」
 何か言いかけてたみたいですが、お兄さんの目に、わたしの顔の辺りでふよふよしているサガークさんが見えたのでしょう。すっとサガークさんを指差して、何だか「変なものを見てしまった」みたいな顔で聞いてきます。
「お友達のサガークさんです」
「名前を聞いているんじゃない。……生物なのか?」
「んー……一応、生き物みたいです」
 わたしもよく分りませんが、サガークさんはファンガイアが作った人工モンスターと言う物なのだそうです。古代蛇を改造したとかビショップさんが言っていた気がしますが、わたしは絶対にサガークさんの正体は宇宙人だと思います。
 だって、蛇さんには見えませんから。ククルカンさんの方が思いっきり蛇さんです、おっきいですけど。
 サガークさんはわたしの答えが気に入らなかったのか、なにかうにゃうにゃ言いながらペシペシわたしのおでこを叩きます。多分、「俺は生き物だー」とでも言っているのかもしれません。
 でも、わたしサガークさんが何か食べてるトコ見たことないです。
 ……と言うことは、サガークさんはやっぱり機械さんなんでしょうか? こんど、お姉ちゃんに聞いてみましょう。
 と、心に決めていると、黒い服のお兄さんがひょいっとサガークさんを持ち上げました。
「へえ、お前凄ぇじゃねーか。こんな不思議円盤とも友達になれるなんて」
 心からそう思っているみたいにお兄さんはそう言うと、サガークさんを持っていないほうの手をわたしに差し出しました。
 えーっと、握手しよう、ってことでしょうか?
 差し出された大きな手を握ると、お兄さんはその顔いっぱいに笑みを浮かべて、そしてぎゅっとわたしの手を握り返してくれました。
「俺は如月弦太朗。この学校の全員と友達になる男だ!」
「吾妻霧雨です。よろしくお願いします」
 弦太朗お兄さんに負けないよう、わたしもきゅっと手を握り返すと、お兄さんは握り方を変え、そして手を離してから拳で上下からコンコンとわたしの手を軽く叩きました。
「……あう?」
「友達の印だ。これで霧雨、お前も俺の友達だ!」
 びしぃっと私を指差しながら、弦太朗お兄さんはすごく嬉しそうにそう言いました。
 その後ろでは、賢吾お兄さんが呆れたように溜息をついていますが、弦太朗お兄さんは気にしていないみたいです。
 そして賢吾お兄さんも弦太朗お兄さんの態度が「いつものこと」であると知っているみたいです。何か画面がいっぱいある席に移動すると、そこで何かを始めました。
 気になってぴょこぴょこ跳ねながら覗いてみると、何だかよく分らない……二本足で歩くイルカさんみたいな生き物が映っていました。
 しかも、そのイルカさんは手の先から水をドバドバ出しています。まるで、さっきの暗いお姉さんみたいです。
「体にイルカ座のアストロシンボル。デルフィニスだ。恐らくこいつは、コズミックエナジーを『水』の形で放出している」
 賢吾お兄さんはそう言うと、手元のキーボードをカチャカチャと打って、水の部分を大きくします。
 何か難しい言葉とか数字とかが並んでいますが、お兄さんにはその数字が解読できているようです。……わたしにはさっぱり分りませんが。
 少し画面が進むと、赤いロケットみたいな仮面の人が、そのイルカさんと戦っているところが映ります。
 その赤ロケットさんは、ちっちゃいバズーカみたいな物を持ってイルカさんに向って火の玉攻撃をしていますが、そのどれもがイルカさんの水で消されます。更にイルカさんは波乗りをして赤ロケットさんに体当たりまでしています。
 でも、イルカさんはロケットさんに興味がないのでしょうか。ロケットさんが体勢を立て直すより先に、水に乗ってどこかに行ってしまいました。
「見ての通り、それを自在に動かし移動や攻撃に使っている」
「追って来た時の台詞から考えてぇ、スイッチャーは風城センパイがクイーンである事を妬んでいる奴っスね。となると……水泳部の繰糸くりいと あい、水球部の織笛おるふえ 邑久おく、手芸部のおうぎ 大地だいち……大穴だとチア部の孤桜 京とか?」
 ……あう? ジェイクお兄さんもこのイルカさんに追いかけられたんでしょうか? 何でイルカさんの言ったこと知ってるんでしょう?
「私が言うのも難だけど、またか、という感じね」
 そう言えば、さっきのお姉さんも、美羽お姉さんをクイーンから引き摺り下ろすとか言ってましたけど……美羽お姉さんはそんなに嫌われているんでしょうか? 迷子のわたしを案内してくれる、優しい人なのに。
「だが、その条件だけでは、スイッチャーの特定は難しいな。どこかにヒントがあれば良いが」
 そう言って、賢吾お兄さんはキーボードを叩きます。すると、今度はわたしの手を引っ張って逃げる美羽お姉さんと、その後ろから水に乗って追いかけてくるイルカさんの姿が映りました。
 ……って……
「……あう?」
「どうした、霧雨?」
「あのあの、このイルカさん、さっきお水を撒いて追いかけてきた人ですか?」
「うん、そうだよ。……見えてなかった?」
 弦太朗お兄さんとユウキお姉さんが、不思議そうな顔でわたしを見ます。
 多分、ユウキお姉さんは「当然見てる」と思ったんだと思いますが……
「わたしが見たの、イルカさんじゃなくて、お姉さんです」
「お姉さんって……それ、どう言う事だ?」
 がしっと弦太朗お兄さんはわたしの肩をつかんで、すごくマジメな顔で聞いてきます。
 そう言えば昔、落ちてた青と黄色のガイアメモリを拾ってお兄ちゃんに見せてあげたときも、こんな顔をしてました。その後、クネクネのお兄さんとか、銃を撃ってくるお兄さんとかに追いかけられて大変だったみたいです……お兄ちゃんが。わたしは楽しかったですが。
 でも、今はそれよりわたしが見たお姉さんのことですよね。だけど、こういうのって「せつめー」がむずかしいんです。
 でも、とにかくお姉ちゃんに言われたことをそのまま言えば良いので、わたしは弦太朗お兄さんの目を見返して言葉を返します。
「んっと……お姉ちゃん達に言われたことなんですが、わたしは『他人に見える物が見えなくて、見えない物が見える』みたいです」
「え? どう言う事?」
「えーっとえーっと……これもお姉ちゃんが言ってたんですけど、わたしは『その人の普段の姿』が見えると思っておけば良いらしいです。だから、わたしにはこのイルカさん、会った時はお姉さんに見えました」
 もちろん、今みたいに録画とか写真とかなら、「普段の姿」は見えません。でも、直接会うとその人の姿が見えます。
 もしもあのお姉さんが「普段からイルカさんの格好をしている」なら、イルカさんの格好にしか見えませんし、「イルカさんとお姉さんの格好が同じくらいの時間」なら、その時によって見え方が変わります。
 ちなみにお姉ちゃんは「その時によって見え方が変わる」人です。
 もちろん、ただ普通に「普段の姿」が見えるわけじゃないです。その人が持っている「力」とか、「本質」みたいなものがいっしょになって見えています。
 だから、美羽お姉さんはもともと持っている「クイーン」という「気高さ」がキラキラのオーラになって見えていますし、ジェイクお兄さんは「他人とのつながり」を示す細い糸みたいなものがたくさん絡んでいるように見えているんです。
 後は……お兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんのすぐ隣に、お兄ちゃんとは違う……でも、よく似た顔をした「あー兄ちゃん」の姿も見えます。でも、あー兄ちゃんの事はお兄ちゃんにもお姉ちゃんにも「ナイショ」です。
 でも、「普段の姿が見える」って説明しても、やっぱりよく分らないのでしょうか。美羽お姉さん達の頭の上には「はてな」が浮かんでいます。
「×、■×※↑Φ○☆△▽○□&○□☆」
 きゅっきゅっと、わたしには意味不明な言葉で言いながら、サガークさんはちょっと元気になったのかふよふよとその辺を面白そうに漂っています。
 あれ? でも、サガークさん、なんかちょっと目が赤いかも……
 そんな風に思ったのと、賢吾お兄さんが声をあげたのは、おんなじ頃でした。
「まさか、君、ゾディアーツの姿ではなく、スイッチャーが見えたと言うのか!?」
「『ぞでぃあーつ』とか、『すいっちゃー』がわかりませんが、たぶんわたしが見たのは、このイルカさんに変身しているお姉さんです」
 あの時お姉さんをとりまいていた黒いモヤモヤと星のような光は、「ぞでぃあーつ」というのに変身したときの力だと思います。
 水も、星の光から出来ましたし。そう思えば納得です。
 他の人達も納得したのでしょうか。ちらっと白い繭で「友子」って書いてある旗をみてから、「ああ」と呟いていました。
「まさか、霧雨も霊感少女だったとはね……」
「う? 『れいかん』ではなくて、魔皇力の作用らしいです」
「……何が違うのか、俺にはサッパリ」
「ここでその議論をするのは時間の無駄だ。……それより、デルフィニスの女だが、写真を見れば分るか?」
「はい、たぶ……ん」
 頷くつもりで首を縦に振った瞬間。かくん、とひざから力が抜けて、床の上にぺたんと座り込んでしまいました。
 なんか世界がぐるぐるしてます。……あ、サガークさん、そこの繭かじって遊んじゃダメです。
「だ、大丈夫!? 顔色が悪いけど?」
「……気持ち、わるいです」
 なんか、頭がガンガンします。目の前がまっくらで、くらくらします。気持ちわるいというか、もう全身から魔力が漏れてるような気がします。
 この感じは、ちょっと覚えがあります。満月の夜とか、魔力が上がった時におこります。特に皆既月蝕の日は一番辛いです。
 ああ、サガークさん、きっとわたしの魔力に当てられちゃったんですね。それで目が赤くなって……
「まずいな、重力制御をしていても、宇宙酔いを起こしたか」
 宇宙酔いじゃなくて魔力酔いです、賢吾お兄さん。
 そんな風に言いたかったんですが……ゴチンという音と、「いたい」と言ったわたしの声がどこか遠くに響いて……ばたんきゅー。

 練習の最中なのか、人気のないチア部のロッカールーム。数多あるその中から、「風城美羽」と書かれた物の前に、一人の女子生徒が立っていた。
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはこの事か。彼女は暗い瞳でそのロッカーを睨み付け、自身の拳で悔しげに何度も何度も叩いている。
 美羽は、最近この部屋に顔を見せなくなった。つまり、このロッカーに何をしようと、彼女が気付く可能性は極めて低い。それでも、殴らずにはいられないらしい。ガンガンと音が鳴るのも気にせずに、彼女はひたすらそれを殴りつけた。
 だが、それでも彼女の気が治まらないのか。片手に「恩人」から渡されたドーム型のスイッチを握り締め、頂点にある赤いスイッチを押そうと指をかけた……その刹那。
――Masquerade――
 どこからか、そんな音声が響く。
 まさか自分以外にこの部屋に誰かがいると思わなかったらしい。音がした方を振り返れば、そこにはこの学校の制服に身を包んだ、白で肋骨だが多足類の足だかを模した模様の入った黒面の怪人が立って……いや、踊っていた。
『流石にソレは、やめておいた方が良いんじゃないかなぁ?』
「ひっ!?」
 タタン、と軽やかなステップを踏みながら、くぐもった声で言うその怪人に、彼女は精一杯の虚勢を張って相手を睨みつけた。手元にはまだスイッチがある。相手が「怪人」ならば、こちらも「怪人の姿」で応戦すれば良い。襲ってくるならばの話だが。
 そんな彼女の意思に気付いたのだろうか。怪人はくるりとその場で鮮やかなターンを決めたかと思うと、その足を伸ばし、彼女の手の内にあるスイッチを蹴り上げた。
 一瞬の出来事に混乱しながらも、彼女は慌てて宙を舞うスイッチを追う。だが、重力に従って落下するスイッチは、彼女が受け取るよりも一瞬早く、怪人の手の内に収まってしまう。
「か、返しなさいよ!」
 怒鳴るように言いながら、彼女は怪人に奪われたスイッチを取り戻そうとその手を伸ばす。しかし怪人は軽い足音を立てて後ろへ跳んでその手をかわした。
「……何よ。アンタもあの女を引き摺り下ろす邪魔をする訳? あんな女、女王になんて向いていないのに!?」
『その辺に関してはノーコメント。ボク、誰がクイーンの座についていよーと、どーでも良いから』
「どうでも良いと言うのなら返しなさい! それはあの女を痛めつけるのに必要なの!!」
『これ、キミとは相性の悪いツールだと思うんだけどなー。これ以上使うのは、ボクとしてはあんまりオススメ出来ない。っていうか、物凄く嫌』
「あんたに、私の何を理解できるというの」
 ギロリと怪人を睨みつける彼女の目に、狂気じみた何かを感じながらも、怪人はやれやれと言いたげに肩を竦めるだけ。
 その仕草にカチンと来たのだろうか、彼女はガン、と美羽のロッカーに拳を叩きつけ、もう一度……今度は先程よりも低く、呻くような声で言葉を放った。
「……いいから、返せ」
 地の底を這うようなその声にも、怪人は然程恐れた様子を見せない。だが、何か考える事はあるらしい。
『うーん、そこまで言うなら返してもいいんだけどさー……ここで暴れるのやめてくれたら、って言う条件付くんだよねー』
「何ですって?」
 今までの態度から鑑みて、怪人にはスイッチを返す意思などないと思っていた。おまけに提示された「条件」の易さにも驚きを隠せない。言葉を返すなら、「ここ以外ならどこでも暴れて構わない」と言う事だ。勿論、曲解ではあるが。
 だがあながち間違いとも言い切れないかもしれない。何しろ、怪人の声音からはこれと言った感情が読めないのだ。冗談にも取れるし、本気にも取れる。相手の真意が読めない以上、「ハイそうですか」と大人しく引き下がる事は出来ない。
 そんな彼女の心中を察したのか、怪人はタン、とその場でステップを踏みつつ、半ば独り言のように言葉を紡ぐ。
『知っての通りボク、こう見えてシャイだからさー、あんまり人前に出たくないんだ。キミが暴れたら、誰かが来ちゃうでしょ?』
 まるで子供に言い聞かせるような声で言う怪人に、ほんの僅かに苛立ちながら。それでもスイッチがなければ始まらないと分っているのか、彼女は渋々と言った風に首を縦に振って、同意の意思を示す。
 それを見るや、怪人は再び華麗なターンを決めると、彼女に向って奪ったスイッチを放り投げた。
『でもさー、ボクが言うのもアレだけど。キミ、今の自分を捨てる覚悟あるの?』
「……あるわ。クイーンの座を簒奪するためならね」
『えー? 今の自分を捨てたら、女王どころの姿じゃなくなるのにー?』
 クックと喉の奥で笑いながら放たれた怪人の言葉に、彼女は再び苛立ちを覚える。
 今ならゾディアーツに変身して、攻撃できるのではないか。そんな風に思う反面、スイッチを押すよりも先に怪人にスイッチを奪われる方が早いのではないかと言う思い……いや、「確信」もあり、結局彼女の指はスイッチを押下する事はなかった。
 それに……確かに、相手の言う通りでもある。
 今の自分を捨てると言う事は、必死の思いで整えてきたこのプロポーションを捨てると言う事だ。今までの努力を無駄にしてしまう気がして、どこかでブレーキがかかっている。
「それでも……あの女がちやほやされるなんて、許せない」
『ふーん。ま、良いんだけどね、どーでも。……ところでさぁ、この服でこの仮面カオは合わないと思わない? うーん、やっぱ服は黒か白が良いかなー』
「知る訳ないでしょ」
『あ、冷たい』
「……あんたの相手なんて、してられないわね」
 相手の言葉にそれだけ返すと、彼女はこれ以上ここにいても無意味と悟ったのか、くるりと踵を返してその部屋から出て行ってしまう。恐らくは美羽を探しに出たのだろう。
 その背を見送って、怪人……普段はクークと名乗っている「そいつ」は、自身の体からメモリを抜くと小さく呟く。
「キミは、『女王の器』じゃないでしょうに」
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