校医代行は薄紅の蜉蝣

【怪・人・遭・遇】

 昼休み、カエルムゾディアーツに襲われた女生徒は、「呪い仮面」の被害者の一人である梅中の恋人、雪比奈桜という名の美術部員だった。
 よく考えれば、昨日の放課後に襲われていたのも彼女だったのを思い出す。
 疑わしいポーンのいる保健室は危険だと判断し、まだ少し錯乱状態にある彼女を教室で休ませていたのだが……今はどうやら落ち着いたようだ。
「……ごめんなさい、取り乱して」
「いやいや、怪物に襲われたんだから、アレくらいの反応は当然っしょ? 俺だったらもう少し立ち直るの遅いカモ」
 謝った雪比奈を宥めるように、JKが軽く肩を竦めて言葉を返す。
 そんな彼につられたように、雪比奈は軽く笑った。そんな彼女を見て、ユウキもほっとしたように胸を撫で下ろし……
「でも、良かったよぉ。仮面が完全に着けられた訳じゃなくて」
「完全に被ってたら外せなかったし」
「……へ?」
 ユウキと野座間の言葉に、雪比奈が不思議そうに首を傾げる。
 何だ? 何かおかしな事を言ったか?
 彼女の仮面は、俺達が外せる状態だった。いや、着いていなかった、と表現する方が妥当か。
 カエルムの仮面は、簡単に外す事が出来ないようになっている。だからこそ、俺達は「完全には装着されていなかった」と思ったんだが……
「ねえ、何か勘違いしてない? 私、本当に仮面を着けられたのよ?」
「何だって!?」
 きょとん、とした表情で言った雪比奈に、今度は如月が驚きの表情を浮かべる。
 いや、如月だけじゃない。他の面々……そして勿論俺も、彼女の言葉に驚きを隠せずにいる。
 しかしそんな俺達に気付いていないのか、彼女は自分が襲われた際の状況を簡単に説明し始めた。
「目の前の赤っぽい怪人が出てきて、『お前の存在は邪魔だ』って言われて。そして持っていた仮面を着けられて、気が遠くなって……でも、気絶する直前に、校医の先生の『起きろ』って声が聞こえたんだけど……結局、そのまま気絶しちゃって」
「ちょっと待て」
「何? 歌星君?」
「ポーンの……校医代行の声が聞こえたのか? その、『起きろ』と」
「うん。『そこで寝るな、起きろ、通行の邪魔だ』って。あんまりにも酷い物言いだったから、はっきりと覚えてるの」
 俺の問いに、雪比奈はこくりと頷いて言葉を返す。
 もしも彼女の言葉が夢現の中で聞いた幻聴ではないとしたら。「仮面を着けた張本人」が「起きろ」というのはおかしい。
 仮面を着けた本人は、「雪比奈を排除する」目的で襲ったのだから。
「だからね。きっとウメちゃんの時みたいに、先生が私の仮面を外してくれたんだと思うの」
 ぽん、と軽く手を叩きながら、彼女はにこやかな笑顔でそう言った。
 そしてその言葉に、改めて俺は先程のポーンの様子を思い返す。
 俺達が見たのは、「雪比奈の仮面に手をかけているポーンの姿」であって、「仮面を被せた瞬間」じゃない。
 あの時は、「カエルムに女生徒が襲われている」、「ポーンはスイッチを持っている」という事前情報があった。そして倒れた女生徒と、その顔に手をかけているポーンがいた。
 ……だからこそ、「ポーンに雪比奈が襲われた」と思い込んだ。彼の言動も、そう思わせるに充分なものだったのも確かだ。
 だが、前提を見直した上で、彼の言動を振り返ったらどうなる?
 俺達が到着した時、彼は仮面を「着けていた」のではなく、「外していた」のだとしたら。
――やるべき事は……まあ既に終わっていると言って良いだろう――
 あの言葉は、「襲うという目的を果たした」という意味ではなく、「仮面を外す仕事を終えた」という意味にも取れないだろうか。
 いや、だがそうだと決めるにはまだ早い。
 まだポーンがカエルムである可能性も残っている。
「……とにかく、しばらくの間はまだ警戒した方が良い。むしろ、君が助かったと知れれば、また怪人が襲ってくるだろう」
「うーん……私って言うより、美術部員が、って感じだけど……うん。気をつけるね」
 俺の言葉に、雪比奈は軽く首を捻りながらも頷きを返すと、すっくと立ち上がってそのまま彼女の教室へと戻っていく。そんな彼女を、慌ててJKと野座間が追う。
 ……気をつけると言ったそばから無用心な奴だな。
 そんな風に思いながら、俺はその後姿を見送った。

 そして放課後。
 午後の授業は大きな問題もなく終わり、如月達とラビットハッチに向かう途中。妙な感覚と共に、そいつは俺の前に姿を現した。
 フレームのない眼鏡をかけ、白衣を纏った、吊り目気味の男。
「ポーンっ!」
 校医代行であり、「ポーンと呼べ」と言った彼が、まるで俺を待ち伏せでもしていたかのように立って、こちらをじっと見つめている。
 だが、今の彼はカエルムの筆頭候補だ。姿を見せれば如月と朔田が黙ってはいないはず。
 そう思い、俺は反射的に如月達の方を振り返る。だが……
「どういう事だ!? 何故誰もいない!?」
「貴様に少々用があってな。少し特殊な細工をさせてもらった」
「特殊な細工? それで俺は如月達と分断されたのか?」
 思わず訝るような声で問えば、ポーンは軽く肩を竦め……
「主観の問題だな。貴様からすれば消えたのは連中だろうが、連中からすれば消えたのは貴様の方になる。数の暴力で言うなら、消えたのは貴様の方だ」
 ……確かに、今この場には俺とポーン以外は誰もいない。普段ならもう少し人の気配があるはずなのに、それすらもない。
 ではやはり、消えたのはポーンの言う通り俺の方だと言う事か。
 そう思いつつ、俺は真っ直ぐに向けられたポーンの視線を受け止め、こちらからも見返す。
 下手をすれば睨まれているようにも見えるが、彼の目付きは常にあんな感じだ。睨んでいる訳ではないのだろう。
 互いに黙ったまま、しばらく「睨み合い」が続き……だが、すぐにポーンの方が疲れたような溜息を吐き出すと、小さく言葉を紡いだ。
「ふむ。一応、効いてはいるようだな。少しは安定した色になっている」
「……何の話だ?」
「貴様の、魂の色の話だ。毎度毎度、会う度に無色になりかけているのはひやりとさせられる。その上、色がついていても全く安定していない。……不安定な人間という生き物の中でも、殊更に不安定すぎる。やはり貴様、人間ではないだろう?」
 そう言って、ポーンは自分の眼鏡を軽くずらす。
 正直、魂の色云々という話はよく分らん。だが、彼なりの「健康の基準」であり、それを独特の表現で示しているのだろう。
 だが、「効いている」というのはどういう事だ? この男に薬を処方された記憶はないから、「効く」という表現はおかしいと思うのだが。
「それにしても、だ。貴様には危機感という物はないのか?」
 唐突なその言葉が示すところが分らず、俺は思わず訝るような表情を浮かべる。
 それを見たポーンが、呆れたような口調で言葉を続けた。
「敵かもしれないと思う存在を前に、のんびりと構えるなど、襲ってくれと言っているようなものだぞ? まして、分断までされたこの状況なら、なおの事焦るべきだと思うが」
「……確かに、カエルムかもしれないという疑念はある。だが、俺個人としては、違うと確信している」
 ポーンの言いたい事は分る。彼の言う通り、本来ならもっと焦るべきだ。
 ゾディアーツである可能性の捨てきれない男に、如月達と何らかの方法で分断され、孤立させられている。普通なら危険だと判断して逃げるべき状況だろう。
 だが……言葉の通りだ。灰猫や雪比奈が「ゾディアーツじゃない」と言い切ったように、「歌星賢吾」という一個人として、ポーンはゾディアーツではないと確信している。
 だからだろうか。不思議と焦りは沸いてこない。
 そんな俺の言葉に、ポーンは珍しくきょとんと目を見開き……そして次の瞬間。
「クッ……クックック……」
 大笑い、というには語弊があるが、少なくとも普段の彼からは想像出来ないほどの「爆笑」を始めた。
 右手で自身の顔を覆い、体を軽く仰け反らせ、ただただくつくつと喉の奥で笑い続けている。
「……何かおかしな事を言ったか?」
「クックック……成程、俺がそのカエルムとやらではない。だから安全であると、そう思っている訳か」
 その言葉に、そうだ、と肯定しようと口を開きかけた瞬間。
 ポーンは顔を覆っていた手を下した。……それと同時に、彼の全身が変化していく。
 パキパキと小さな音を鳴らしながら、それまでの「白衣の男」の姿から、ステンドグラスのような模様の「薄紅の蜉蝣」へ。
 スイッチを使った様子はない。それに、体に星座を模した「星」もない。ならば目の前の存在は、ゾディアーツではない、別の、怪人。足首から腿にかけて、フラミンゴを象ったモザイク画が施されている。
 恐らく昼休み中、一瞬だけ見たのは、この姿だったのだろう。
 驚きよりも、納得の方が大きい。どことなく人間離れしているとは思っていたし、灰猫からもそれらしい話は聞いていた。
 ……彼は、人間とは違う存在なのだ。そしてそれを隠すつもりもない。
「生憎と、俺はこの通り人間ではなくてな。……これでもまだ、危機感は沸かないと言えるか?」
 いつもと同じポーンの声が、楽しげに響く。
 俺に何を期待しているのかは分らないが……少なくとも、今の彼の姿を見ても、危機感と呼ばれる類の物は沸きそうにない。それは多分……
「本当に襲うつもりなら、いくらでも機会はあった。だが、今まで俺は襲われていない。……つまり、襲うつもりはないと言う事だ」
 思っている事をそのまま口に出せば、ポーンは笑うのを止めた。
 同時にその背後に、フォーゼのマグネットステイツの電磁砲を連想させる一対の「牙」のような物が浮かび、その切っ先がゆっくりと俺の方へ狙いを定めた。
 その瞬間、初めて俺はポーンという男に危機感を抱く。
 それまでは一切感じなかった「命の危険」を、今は痛いぐらいに感じる。口の中は乾き、呼吸をする事さえも忘れ、ただ俺は目を見開いてその「牙」に視線を向けるしか出来ない。
「……不味そうな色である事は変わりないが、このまま断続的な苦しみの中で生きるより、いっそこの場で……」
 感情の読めないポーンの声が響く。そして「牙」をこちらに向けたまま、その薄紅の蜉蝣は俺に向かって歩みを進め……
 だが、次の瞬間。
「歌星君!」
 女の声が聞こえたと認識すると同時に、俺の腕は何者かに引かれ、強引に蜉蝣の進路から引き離された。
 危機感から解放された俺は、弾かれたように声の主、つまり腕を引いた人物の顔を見やる。
 そこには、妙に真剣な表情を浮かべた彩塔硝子が、蜉蝣……ポーンを睨みつけていた。
「彩塔?」
「……妙に覚えがある気配がすると思って来てみれば。……簡易型の結界まで張って何をしているんです、この駄眼鏡」
 俺の呼びかけには答えず、彼女は蜉蝣を睨んだままに、嫌悪を含んだ硬い声を飛ばす。
 ……だが待て。今のポーンは蜉蝣の怪人であって、眼鏡はかけていない。ならば、彩塔は今のポーンを見た上で、彼の「普段の姿」が分っているというのか?
「見て分らんか?」
「『分らない』のではなく、『分りたくない』から聞いているんです。自分の予想が外れている事を願って」
「『分りたくない』のに問うのは矛盾した行動だが、『矛盾』は貴様の根幹だったな」
「こちらの質問に答えてもらえます?」
「そうだな、俺は校医代行としてこの学園に存在している」
「…………最悪の代行ですね。あなたがマトモに仕事をするとは思えません」
「仕事はする。だが、趣味も実行する」
 混乱する俺を置いて、二人はぽんぽんと会話を続ける。しかし、緊張感や危機感は、互いの声には存在しない。
 彩塔は呆れと怒りの混ざったような印象だし、ポーンは姿を除けばいつも通りだ。俺も既に、先程感じていたはずの恐怖……危機感は消えてしまっている。
 妙に親しげに感じるのは、この二人が顔見知りか何かだからなのだろうか。
「本当に最悪です。ですが、聞きたいのはそこではありません。……あなた今、歌星君に何をしようとしていました?」
「それこそ見た通りだ。少し……脅していた」
 その言葉と同時に、ポーンの姿がいつもの怜悧な校医代行の物へ戻る。
 あまりにも「いつも通り」過ぎるその表情で、ようやく俺はからかわれたのだと理解した。
 普段からゾディアーツを相手取っているせいか、怪人に対する危機感が薄れてしまっているのかもしれない。それを、ポーンなりに警告したつもりなのだろう。
 だが、彩塔の方はそうは思っていないらしい。疑わしげな瞳でじっとポーンを睨んでいる。
「貴様も、俺の嗜好は知っているだろう。誰が好き好んでそんな不味そうな色をした人間を食うか」
「あなたと違って特殊な目を持っていないので、歌星君が不味そうかどうかは分りませんが、あなた、実は結構病んでますからね。正直何をするか分かりません」
「病人を診る方ではあるが、病人ではないぞ」
「いいえ。あなた、頭の……というより、もっと深い部分でビョーキです。それも、おそらく治る見込みゼロです」
「……ふむ。それは確かに専門外だな」
 彩塔の棘を含んだ言葉に、何故か楽しげな様子でそう言うと、ポーンはくるりと踵を返してどこかへ消えてしまった。
 それと同時に、どこか遠くで俺を探しているらしい如月達の声が耳に届く。恐らく、「戻ってきた」からこそ、彼らの声が聞こえるのだろう。
 無意識の内に安堵の息を吐き出すと、それまで俺の腕を掴んでいた彩塔が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか、歌星君? あの駄眼鏡に何もされませんでしたか?」
「いや。彼が言った通り、脅されていただけらしいからな。怪我はない」
「どうでしょうか。あの男、時折自分でも制御出来ない部分がありますから。特に、自分では治療不可能であると判断した相手に対しては」
 言いながらも俺の様子を見て怪我がないのを確認したらしい。彼女は苦笑を浮かべてはいる物の、ほっと安堵の溜息を漏らす。
 確かに、彼女が現れる直前は危機感を覚えはしたが……彩塔が思う程、危険だったとは思えない。
 軽く首を傾げた俺に対し、彼女は妙に同情的な視線をこちらに向けると、その視線を同じくらい同情を含んだ声で言葉を紡いだ。
「ご愁傷様です歌星君。あなた、あの男に気に入られてしまったんですね」
「……気に入られている割には、『ポーン』という『肩書き』しか教えてもらえていないんだが」
「あの駄眼鏡の、ヒトに対する扱いとしては充分すぎる程です。普段はその称号すらも『時間の無駄』と言って教えない輩ですから」
「随分と詳しいな。さっきの態度もそうだが……奴と知り合いなのか?」
 純粋な疑問をぶつけた瞬間、彩塔の顔がひくりと引き攣る。
 ……確か灰猫が昼に見せた顔も、同じような感じだったな。そんなにこの二人にとって、ポーンは「関わりたくない存在」なのか?
「……知り合いというレベルを軽く凌駕した顔見知り……とでも表現しておきます」
 頭痛を堪えるように自身のこめかみを押さえながら、彩塔は何とも言えない苦い表情で、絞り出すように言葉を吐き出した。
 「知り合いというレベルを凌駕した顔見知り」?
 昔の恋人か何かだったのだろうか。彼女の言葉や表情にこそ苦々しい物だが、声はポーンに対する親愛の情のような物が含まれている気がする。
「……だから、驚かなかったのか。あの男が怪人でも」
「ええ、まあ。ヒトが変じた『怪人』ではなく、生まれながらの『異形』なんですけれどもね」
 彼女にしては歯切れの悪い物言いだが、それ以上は何も言うつもりがないのだろう。浮かぶ微苦笑が、その事を物語っている。
 だが、その次の瞬間。ようやく俺を見つけたらしい、如月の弾んだ声が響いた。
「お、賢吾! どこ行ってたんだ? 急にいなくなったから、驚いたぜ」
「如月。……実は」
「申し訳ありません如月君。歌星君にお話がありまして、少々拉致させて頂いていました」
 心配を隠そうとしない如月に説明しようとした俺を遮るように、彩塔が申し訳なさそうな表情で言葉を放つ。
 当然、彩塔の言葉は嘘なのだが、如月はその嘘を信じたらしい。
「何だよ、俺達は仲間はずれか?」
「申し訳ありません、如月君。何分なにぶんにも『共通の知人について』というプライベートな事でしたから」
「……そっか。プライベートじゃしょうがねえな!」
「ええ。それでは、私はこれで失礼しますね」
 にこ、と綺麗な笑顔で嘘を吐いたまま、彩塔は軽く会釈をしてそのまま教員室の方へと歩き去ってしまった。
 そんな彼女を、如月とユウキは笑顔で見送り、朔田は少しだけ迷惑そうな表情で視線を送る。
 朔田にしてみれば、無断で俺を連れ出した挙句、詳細な説明もなく去っていく彼女が迷惑だと思えたのだろう。その気持ちは分らなくもないが、実際に連れ出したのは、彼女ではなくポーンだ。
 だが、それを言わせないために、彼女はあえて自分が連れ出したかのような物言いをしたのだろう。そこにどんな意図があるのかは分らないが。
 思いつつ、今度こそラビットハッチに向かうべく歩を進めた、まさにその時。
 ごしゃぁっ、と言う派手な音と共に、白っぽい大きな何かが俺達の眼前を通り過ぎ、校舎の壁に叩きつけられた。
「うわぁぁぁっ! 何か飛んできたよ!?」
 反射的にユウキの言う「飛んできた物」に視線を向け、そして俺は軽く目を見開いた。
 そこにいたのは、先程別れたばかりのポーンだったからだ。
 彼の姿を確認するや、如月と朔田が警戒した様子を見せる。が、すぐに彼が「飛んできた」という事実を不審に思ったらしい。警戒しつつも、二人は彼が飛んできた方向を見やり……
「え!?」
「何だと!?」
 「そこ」にいた存在に、驚きの声を上げた。
 それもそのはず。そこにいたのは正真正銘のカエルムゾディアーツだったのだから。
「えええっ!? この先生があのゾディアーツじゃなかったの!?」
 如月達の心情を代弁するように、ユウキが二人を交互に見つめながら呆然と声を上げる。
 だが、見ての通りだ。「カエルムゾディアーツ」と「ポーン」が同時に存在する以上、少なくとも彼はカエルムではない。
 スイッチを持っているからには、ゾディアーツの可能性も否定はしきれないが……先程の蜉蝣の怪人、いや、「異形」としての姿を持っているのに、ゾディアーツになる必要はないだろう。
「やれやれ。いきなり投げ飛ばされるとは思わなんだ」
「……あれだけ派手な音を立てて壁に叩きつけられたというのに、随分とピンピンしているな」
「音だけだ。受身は取った。だが……白衣が汚れたな」
 軽く頭を振り、そして白衣についた砂埃を叩きながら、ポーンは訝しげな声で問いかけた朔田に言葉を返す。
 表情がいつも通りである事を考えれば、見た目通り然程ダメージはないのだろう。
 ……もっとも、奴はメテオの掌底を受けても平然としていた男だ。この程度はダメージにも入らないのかもしれないが。
「けど、ポーン先生がゾディアーツじゃないとしたら、何で先生が襲われたんだ?」
『簡単だ。そいつは俺の邪魔をしているからな。最優先で排除しようと思ったまで』
 ベルトを腰に装着し、いつでも変身できる様に準備を整えた如月に、カエルムはゆっくりとこちらに近付きながら言葉を返す。
 言葉こそ如月に向けているが、視線は完全にポーンを捕えている。完全に彼を次の標的と考えているらしい。
 だが一方でポーンの方は、特に慌てた様子も見せず軽く首を傾げ……
「邪魔? ああ。それは、貴様が着けて回っている不恰好な仮面を外し、破壊している事か?」
 苛立った様子のカエルムとは対照的に、ポーンの声はいつも通り……いや、どこか楽しげな雰囲気すら感じさせた。
 挑発しているとも取れるその声に、カエルムは苛立ちを更に募らせたらしい。チイと一つ舌を鳴らすと、右手と一体化しているノミをこちらに向け、低く呻くような声で言葉を放つ。
『不恰好、だと? 俺の仮面を?』
「ああ。いっそ素材が哀れな程に。貴様のような、己が虚栄心を満たす為だけの存在に加工された素材達が、不憫でならない。貴様の作った仮面は、あまりにも粗雑だ」
『不恰好だけでなく粗雑だと!? 俺の芸術を!?』
「そうだ。手技、情念のどちらの面を取っても、粗雑としか言いようがない。俺は貴様の仮面を見た所で、そこからは何の感情も伝わらん。それを芸術と呼ぶのは、芸術に対する冒涜だ。自己顕示欲だけは一人前のようだが、魅せる努力の欠片もない時点で、それはただの押し付けにすぎん」
 軽く肩を竦め、ポーンは淡々と言葉を放つ。
 挑発にしか聞こえない台詞だが、ポーンの事だ。恐らく本心から言っているのだろう。それが余計に腹立たしく感じるらしく、カエルムは怒りで体を戦慄かせている。
 明らかに危険な空気を醸し出しているカエルムだが、その敵意を向けられている本人は全く相手にしていないらしく、カエルムではなく俺達の方へ向き直った。
 ……心なしか残念そうに見えるのは気のせいか?
「しかし、如月弦太朗達が俺を疑うように仕向けたにもかかわらず、こんな結末を迎えるとは。それだけが残念だ」
「疑うように仕向けたって……何でだ?」
「俺は、好ましく思った人間の猜疑心を煽り、場を掻き乱すのが趣味なのでな」
「…………悪趣味だな」
 如月の言葉に、悪びれもせずに答えたポーンに、朔田が呆れと疲れがない混ぜになった声を漏らす。
 そして朔田の言葉には、俺も同意したい。あまりにも悪趣味に過ぎる。彼の言動にどれ程引っ掻き回されたか。
 だから灰猫はああ言っていたのか。「彼の行動全てが俺個人を混乱させるためだけの物だという前提で接した方が良い」と。
 一気に疲れが押し寄せ、無意識の内に溜息を吐くと、ポーンは楽しげに喉の奥で笑った。
 その顔は、お世辞にも医者や校医には見えない。例えて言うなら、「悪の幹部」だ。これほど悪人面が似合う者も、そうそういないだろう。
「だが、遊びは終わりだ。正直、そろそろ悪役を演じるのも飽きてきた所でもある。愚妹や『灰燼』ならば、俺を『演じる必要なく、正味で悪人』と評する気もするが」
 ポーンのその言葉が合図であったかのように。
 カエルムは大きく一つ吼えると、俺達の方へ向って駆け出してきたのだった。
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