校医代行は薄紅の蜉蝣
【疑・惑・困・惑】
獅子の怪人の前に、蜻蛉の異形が立っている。
獅子と対峙する蜻蛉の手の中には、未だラストワンに到っていないゾディアーツスイッチが握られていた。
『貴様、何者だ?』
「何者と聞かれても」
一方の問いに、もう一方が静かに答える。だが、問うた方はその回答では満足しなかったらしい。素早い動きで一歩前に踏み出すと、相手に向かって渾身の拳を振りぬく。
だが、その拳は虚しく宙を切るだけ。かわされたのだと理解すると、拳の主はチィと一つ舌打ちを鳴らした。
「……はぁ。行儀の悪い」
かわした方は心から呆れたような溜息と共にそう言葉を放つと、そのステンドグラスのような体に、普段人前に晒している方の姿を映し出して、きつく相手を睨みつける。
一方は体に星座のような模様を体に抱く存在、ゾディアーツ。
そしてもう一方はステンドグラスのような物で構成された存在、ファンガイア。
その奇異な光景を見ている者がいないのは救いだろうか。薄闇の中で浮かび上がる二つの影は、何も知らぬ者が見ればちょっとした恐怖を感じさせる光景。
ステンドグラスの一つ一つに顔が映し出され、こちらを睨んでいる光景は、ゾディアーツである彼にとって、ホラー以外の何物でもない。人としての姿の時にその格好を見たのなら、明らかに眉を顰め、蔑みの混じった目で見つめていた事だろう。
そもそも、不躾に見つめてくるような相手に「行儀が悪い」などと言われる筋合いはない。
『まあ良い。貴様が何者であろうと……邪魔をするなら倒すだけだ』
言うが早いか、ゾディアーツは再び拳を振りぬく。だが、ファンガイアも再びそれをかわすと、空振りした拳は近くの壁を叩き、それを拳の形に砕いた。
『二度もかわすとは……なかなかやるようだな』
「それなりには」
楽しげなゾディアーツの声とは対照的に、ファンガイアの声はひどく静かだ。ステンドグラスに映っている表情も、ひどく凪いでいる。
それが逆に、己の自信を示しているかのように、ゾディアーツには見えたらしい。微かな苛立ちを感じながらも、怒りで己を見失うような愚は犯さない。
ぎゅりっと自身の拳をきつく握りながらも、彼はスイッチを切って自身の本来の姿を晒す。
それに何を思ったのか、ファンガイアの方も普段晒している「ヒト」の姿に擬態し、訝しげな表情を向ける。
月明かりの下で晒される互いの顔は、ひどく顔色が悪いように思えた。
蜉蝣だった方は手の中でスイッチを弄びながら、獅子だった方をじっと見つめ、その真意を推し量ろうとしているらしい。
だが、すぐにそれにも飽きたのか、彼はすぐに興味を失したような表情を浮かべると、つまらないという感情を隠しもせずに声をかけた。
「それが貴様の正体か」
その言葉に、獅子だった方は軽く口の端を吊り上げて沈黙を返す。
相手のその表情が、自分を馬鹿にされたようにでも感じたのだろうか。蜉蝣は軽く顔を顰め、どこからか取り出した彫刻刀を相手に向けた。まるで刀を突きつけるように。
「まあ何でも良い。貴様に興味はない。だが、何人 であれ、俺の邪魔をする事は許さん」
「邪魔?」
蜉蝣の言い分が分らないのだろう。獅子だった者は軽く首を傾げ、相手を真っ直ぐに見つめる。
一方で蜉蝣だった方も真っ直ぐに獅子だった方を見つめ……そしてどこか苛立たしげな感情を声に滲ませて言葉を紡いだ。
「俺の創作を邪魔する事だ。その為にも、これは貴様には渡せんな」
そう言うと、蜉蝣は無表情のまま手元のスイッチを見せびらかす。
その様が獅子には不快に感じたらしい。人の姿のまま拳を握り、蜉蝣に向って勢い良く振りぬく。だが、蜉蝣はその姿をもう一度「蜉蝣」に変えると、ふわりと宙を舞ってその拳を回避、そのまま夜の闇に紛れて、その姿を消したのであった。
ひょっとすると、校医代行は今校内を騒がせている「呪い仮面」……彫刻具座、カエルムゾディアーツじゃないのか……そんな疑念を抱きながら一夜明けて。
俺はまた、朝礼が始まる前に保健室へと足を運び、「彼」の話を聞くべくその扉を開けた。
……どうもまた、木彫りの生物が増えている。
どういう基準で作っているのかは分らないが最初の蜻蛉 に始まり、蟷螂 、葡萄根油虫 、獅子、虎、海豚 、蜥蜴 が、保健室の壁際をぐるりと囲むようにして並んでいる。
……いつの間にこんなに増やしたんだ……?
疑問に思いながらも、俺は「彼」に視線を向ける。そこには、今まで見てきたのと同じように、今また何かを彫刻刀で彫っている校医代行の姿がある。
だが、今彼が手がけているのは、いつものような「木彫りの生物」ではない。手の中に埋もれて見え難い中、微かにだが金属特有の銀色の光沢が見て取れた。それに、持っている彫刻刀もいつもの物とは異なる。もっと小さくて細い……彫金用のものだろうか。
いや、俺もそういった事に造詣が深い訳ではないので、よくは分らないが。
「……アクセサリーでも作っているのか?」
「それ以外に見えるのか?」
「いや。いつもは木彫りの人形ばかりだから、珍しいと思っただけだ」
「アクセサリーを作れん事もない。現にかつて、『絶望』の女王と『灰燼』にも作ってやっている。あの時は『夢の中』の方の愚弟との合作だったが」
「絶望」の女王? 「灰燼」? それに……「夢の中」の方の愚弟?
彼の言葉の意味を理解しきれず、俺は軽く首を傾げる。彼の言葉……というより表現はいつも独特だ。誰かの事を指し示しているのは理解出来るが、俺の知らない「誰か」なのだろう。
少なくとも一人は「愚弟」と言っている以上は弟なのだろうと予想は出来るが、それ以上の事は分からない。
……この男の兄弟か。凄く苦労しているか、あるいは同じくらい奇異な奴か……どちらにせよ、会う事もないだろう。考えても仕方がない。
それよりも、一つ気になる事がある。それは……
「……何故、眼鏡をかけずに彫っているんだ?」
「これに関して言えば、眼鏡をかけたままでは完成せんからな」
普段からあまり機嫌の良さそうな表情をしている訳ではないが、今日はそれに輪をかけて不機嫌そうに見える。
それは恐らく、「見えすぎる」からだろう。きっと俺が今見ている景色よりも、更に多くのものが、今の彼の目には映っているはずだ。
…………彼の言葉を信じるのならば、という条件は付くが。
「それで? 今日も、美味そうとは言えんが不味くもなさそうな中途半端で不安定さ全開、相変わらず人間か否かの判別のつかない貴様が、何の用だ?」
視線を手元に戻して再び彫金を始めながら、彼はいつも通り静かな声で問いを投げた。
聞きたい事は幾つかある。本当に昨日はカエルムを見なかったのか、あるいは本当はあなたがカエルムなのではないか等。
だが……それを聞いたところで彼は昨日と変わらない答えを返すだろう。
「見ていない」、「知らない」、「怪人がいるというなら解剖したい」など。
だが、疑いを持っている俺が、その言葉を正直に信じられるだろうか。生憎と、俺は如月のように真っ直ぐな男じゃない。信じる事よりも、疑う事の方が得意な部類の人間だ。
「……昨日の昼の話なら、誰にも会っていないし、お前達以外にぶつかった奴はいない」
「え?」
「貴様の顔に書いてある。『昨日の事をもう一度聞きたい』、『本当に知らないのか』とな」
こちらを見向きもせず、だが口元に不敵な笑みを浮かべて放たれた校医代行の言葉に、俺はびくりと体を震わせる。
こちらの考えが読まれているのか? だとすれば、俺が彼に抱いている疑念も?
もしそうだとすれば……そして本当に彼がカエルムだとしたら。……この状況は危険すぎる。
無意識の内に半歩分彼から距離を取りつつ、半ば睨むようにして問いを投げた。
「……そんな事まで、お前の目は見えるのか?」
「そんな物は見えん。だが、少なくとも貴様よりは長く生きているからな。ある程度他人の表情は読める」
カリカリと、やはり俺の方は見向きもせずに彼は言葉を返す。
俺の表情の変化で、考えている事を見抜いたというのか? ほとんどこちらの方を見ていないのに?
「しかし、俺も全てを知る者……『ラプラスの悪魔』ではない。その場で強く思っているであろう事を、経験則から想像するだけだ」
くつくつと、昨日と同じように喉の奥で笑いながらそう言ったのと、作っていた物の完成は同時だったらしい。
彫金用の彫刻刀を脇に置き、それと交換するように机上に置いてあった眼鏡を手に取ってかけ直した。それでようやく「イカレた視界」とやらから解放されたのだろう。ふう、と疲弊の混じった溜息を一つ吐きだし、椅子にその体を深く沈めた。
そして唐突に俺の方へ向き直ると、彼は真っ直ぐに「何か」を持った右手……というよりも右拳を差し出す。
その行為の意味が分らず戸惑えば、彼は呆れたような溜息と共に声を紡いだ。
「手を出せ」
顎でしゃくられ、反射的に彼が差し出した拳の下に手を差し出す。すると彼は満足そうに一つ頷くと、拳の中に納めていた物をゆっくりと俺の掌の上に乗せた。
「……これは?」
「手慰みで作ってみた。いらなければ捨てろ、返品は不可だ。……ただし、曲がりなりにも俺の作品だからな。目の前で捨てられた場合、怒り狂って貴様を殺すかもしれん」
やはり医者らしくないひどく物騒な言葉と、それに見合わぬ悪戯めいた笑みと共に渡されたのは、白銀色をしたタイピンだ。
丁寧な事に、小さく天ノ川学園高校の校章が刻まれており、アクセントにはブレザーに合わせたらしい小さな青い石が埋まっている。宝石なのかただのカラーストーンなのか、生憎と俺には判断がつかないが、決して安っぽくは見えない。木彫りの人形達と同じく、丁寧で繊細な作りだ。
……ただ、普通は学生服にタイピンは付けない。
そもそも、俺にはこれを貰う理由がない。
「何故、俺にこれを……?」
「………………完成した時、偶々貴様がここにいた。その理由では不満か?」
先程まで使っていた彫刻刀を革製のケースにしまいながらそう言った。
今日はこれ以上何かを作るつもりはないのだろうか、いつもの彫刻刀も、次の作品の材料も取り出そうとはしない。
ただ、俺の次の行動を待っているかのように、鋭い視線を俺に向けている。
「……名前も知らない相手から、貰う訳にはいかない」
「正論だな。まあ捨てないだけマシか」
「捨てたら殺すと言ったのは、お前だろう」
疲れたような表情のままなのに、彼は楽しげにくつくつと笑う。
何故だろう。カエルムと重なるようで、ぶれる。
カエルムは自分の仮面を芸術と呼び、大切にしていた。目の前の男も、自分の彫刻を大切にしているのだろう、「捨てたら殺す」と脅してきた。それに、笑い方や話し方も似ている気がする。自信にあふれ、傲慢そうな物言いなどは完全に一致する。
だが……確かにぶれる部分もある。
「作品」の仕上がりは、何度も考えている事だが明らかに天と地程の差がある。それに……カエルムは妙に感情的だったところがあるが、この男は淡々としている印象を受ける。
訝るような視線を送っているのが自分でも分る。だが、彼はそれを気にした様子もなく、つまらなそうに頬杖をついて問いかけた。
「貴様は俺の名を知りたいとでも言うつもりか? 何の為に?」
「何の為って……困るだろう? 『校医代行』は肩書きだし、いつまでも年長者を『お前』と呼ぶのも、少し抵抗がある」
「俺はそれで構わないがな。そもそも、名を知られる事は魂の一端を握られる事にも等しい。貴様ら人間や、それに準ずる者達がホイホイと簡単に名を教える事の方が、俺は不思議でならん」
本気で不思議に思っているらしく、彼はトントンと利用者名簿……そこに書き込んだ俺の名を指し示しながら、軽く首を捻る。
名を知られる事がどう、というのは彼の生まれ育った地方の風習か何かなのだろうか。少なくとも、俺はそう言った考え方を理解する事はできない。魂がどうという考え方は、どちらかと言えば野座間の担当だ。
そう思っている間にも、彼はそれに、と言葉を続ける。
「……それに、短い関わりしかない者の名を覚えて何になる? どうせ人間など、惰弱で脆弱で短命な種。個体の名を覚えるだけ、時間の無駄だ。……貴様らにとってはな」
そう言っている間の、ほんの一瞬。眼鏡の奥にある彼の瞳の色が、七色に光ったような気がした。
……また、あの色……?
あの色は確か、昨日も見た。彼が、自身の目が「イカレている」と言った時に。それが何を意味するのかは分らないが……
「まるで、自分が人間じゃねぇみてぇな言い方するんだな、先生」
「如月!?」
いつの間に保健室に来ていたんだろうか。およそこの部屋とは無縁そうな如月が、扉の前に立って校医代行を見つめていた。
ここに如月が居る理由は、恐らく昨日、彼が少し怪しいかもしれないと告げたからだろう。
「……入ってくるなり騒々しい。ここは怪我人や病人、悩みのある輩が来る場所であって、貴様のような、どこをどうとっても健康体でしかない輩が来るべき場所ではない」
「そんな事はねぇさ。俺にだって悩みの一つや二つくらいはある!」
溜息混じりに放たれた彼の言葉に対し、如月はきっぱりと……それこそ胸を張って言葉を返した。
……だが、正直に言えば、俺にも如月に悩みがあるとは思えない。彼の場合、持ち前の明るさで何もかもを解決する節がある。
「悩み? 一応は聞いてやろう」
「例えば、そうだな……どうやったら先生と仲良くなれるかとか」
「時間の無駄だ」
怪我人の治療の際に使う椅子にどっかりと腰掛けて言った如月に対し、校医代行は一言の元にバッサリと切り捨てる。おまけに如月には興味がないのか、呆れたような表情でそっぽを向いている。
一方で如月は、彼の放った一言に少しだけ笑うと、俺を見やり……
「何か、先生って出逢った頃の賢吾みてぇだな」
「……俺はここまで酷くない」
酷くない……はずだ。少し自信はないが。
「とにかくだ先生。俺は如月弦太朗。この学校の全員と友達になる男だ。勿論、先生ともだ。その為には、名前を知る事からはじめねえとな!」
「唐突かつ果てしなくポジティブな男だな。……だが、そのくせ疑っているという態度は隠さない。単純明快な馬鹿ではあるが、どうしようもない愚者ではないということか」
上機嫌とは言えないが、不機嫌とも言えない……ただ事実だけを述べるような口調で言った校医代行の言葉に、俺も如月もぎょっと目を見開いた。
それを見て彼は口の端を吊り上げると、更に言葉を続けた。
「恐らくは……昨日貴様が追っていたという『怪人』とやらがこの俺なのではないかという疑いでも抱いているんだろう? 貴様らの顔にそう書いてある」
くつくつと、眼鏡の奥の瞳を細め、彼は楽しげに言葉を紡ぐ。
その声が、心なしかカエルムと重なった気がするのは俺の気のせいだろうか。重なってはぶれ、そしてぶれては重なる。
本当にこの男がカエルムなのではないかという疑念が強まる一方で、大きな違和感が存在している。だが、その違和感の正体が掴めない。
悶々と悩む中、彼は白衣のポケットに手を突っ込むと、楽しそうな笑みのまま俺達に「それ」を見せ付けた。
「そんな疑問渦巻く中、『これ』を見せた場合、俺への疑いは確固たる物に変わるのか?」
「それは!」
彼が見せた「それ」。間違いなく、ゾディアーツスイッチだ。
なら、やはりこの男がカエルムなのか?
それならこの男の目的は何だ? 何故俺達にわざわざ正体を明かすような真似をする?
「それをどこで手に入れた!?」
「これは拾い物だ。貴様達も知っているという事は、流行っているのか? 内包されている力は興味深いが、作りが粗雑だ。気に入らん」
コロコロと手の中でスイッチを弄びながら、彼はつまらなそうな声で言葉を紡ぐ。
スイッチを押すつもりはないのか、指は押下する為のボタンにはかかっていない。取り上げるなら、今しかない。
如月も同じ事を思ったのだろう。真っ直ぐに腕を伸ばし、そして校医代行を見据えて厳しい声を飛ばした。
「先生、それをこっちに渡してくれ!」
「断る」
「何故だ?」
「これは、作りこそ粗雑で怪しいが、俺の興味の対象だ。解体し、どのような構造を持ち、そしてどのような力を内包しているのかを知りたい」
そう言いながら、彼は先程彫刻刀をしまった革のケースを広げ、いつもの物よりも大振りな物を取り出すと、刀身の部分で軽くスイッチを叩く。
その表情は、本気でスイッチを解体したがっているように見えた。
……ゾディアーツとしての力を手に入れたなら、その力の源であるスイッチを解体しようとするか……?
ふと、そんな疑問が頭を過ぎる。だが、こちらの困惑など彼には知った事ではないのだろう。フン、と軽く鼻で笑うとそのスイッチを再び白衣のポケットに放り込んだ。
彼が本当にカエルムのスイッチャーだったとしても、ここで「変身」するつもりはないらしい。だが同時に、俺達にスイッチを渡すつもりもないようだ。
半ば睨みつけるように見つめる俺達の視線を受けながら、彼はいつもの……傲慢で不遜そのものの態度と表情で言葉を続けた。
「『俺がスイッチを持っている』という事実。これをどう受け止めるかは貴様達次第だ。一つの『事実』は七色の『予測』を生み出す。その中に強かな『真実』を見出すか、それとも儚い『虚偽』を見出すか……それもまた、貴様達次第」
そう彼が言った瞬間、朝礼前の予鈴が鳴り、廊下からはバタバタと生徒達の駆ける音が響いた。
「時間切れだ。教室へ帰れ」
「なっ!?」
「うおわっ!」
言うが早いか、彼は俺と如月の体をくるりと反転させ、背中を押して保健室から押し出した。
彼に初めて出会った時も、こうやって押された記憶がある。あの時は保健室のベッドに向ってだったが、今回は廊下だ。倒れるまではいかずとも、よろめくくらいはしてしまう。
それにしても、本当にこの男、どれだけの力を持っているんだ? 俺はともかく、如月まで片腕で押し出すなんて。
「っ! 先生! 俺は絶対に諦めねえ! 友達になる事も、スイッチを渡してもらう事も!」
「前者はともかく、後者は確実に不可能だ。アレは技巧匠としての俺を疼かせる」
技巧匠? どういう事だ? こいつは校医代行……つまりは医者なんじゃなかったのか?
そう疑問に思うが、俺達を押し出した本人は何かを思いついたようにふむと一つ頷き……
「歌星賢吾、そして如月弦太朗」
「へ?」
「え?」
名前を呼ばれた事に驚き、彼の顔を凝視すれば、相手は不敵な笑みを浮かべ……
「『校医代行』で呼びにくければ、貴様らには特別に『ポーン』と呼ぶ事を許可してやる。ありがたく思え」
「『ポーン』?」
「そうだ。称号なら問題なかろう。……また昼休みにでも来い。貴様達で遊んでやる」
くつくつと。およそ学校にいる大人らしからぬ事を言いながら、校医代行……「ポーン」を自称する男は、ひらりと手を振って保健室の中へと消えていった。
疑惑と困惑、そして……先程彼に手渡された、タイピンを残して。
獅子の怪人の前に、蜻蛉の異形が立っている。
獅子と対峙する蜻蛉の手の中には、未だラストワンに到っていないゾディアーツスイッチが握られていた。
『貴様、何者だ?』
「何者と聞かれても」
一方の問いに、もう一方が静かに答える。だが、問うた方はその回答では満足しなかったらしい。素早い動きで一歩前に踏み出すと、相手に向かって渾身の拳を振りぬく。
だが、その拳は虚しく宙を切るだけ。かわされたのだと理解すると、拳の主はチィと一つ舌打ちを鳴らした。
「……はぁ。行儀の悪い」
かわした方は心から呆れたような溜息と共にそう言葉を放つと、そのステンドグラスのような体に、普段人前に晒している方の姿を映し出して、きつく相手を睨みつける。
一方は体に星座のような模様を体に抱く存在、ゾディアーツ。
そしてもう一方はステンドグラスのような物で構成された存在、ファンガイア。
その奇異な光景を見ている者がいないのは救いだろうか。薄闇の中で浮かび上がる二つの影は、何も知らぬ者が見ればちょっとした恐怖を感じさせる光景。
ステンドグラスの一つ一つに顔が映し出され、こちらを睨んでいる光景は、ゾディアーツである彼にとって、ホラー以外の何物でもない。人としての姿の時にその格好を見たのなら、明らかに眉を顰め、蔑みの混じった目で見つめていた事だろう。
そもそも、不躾に見つめてくるような相手に「行儀が悪い」などと言われる筋合いはない。
『まあ良い。貴様が何者であろうと……邪魔をするなら倒すだけだ』
言うが早いか、ゾディアーツは再び拳を振りぬく。だが、ファンガイアも再びそれをかわすと、空振りした拳は近くの壁を叩き、それを拳の形に砕いた。
『二度もかわすとは……なかなかやるようだな』
「それなりには」
楽しげなゾディアーツの声とは対照的に、ファンガイアの声はひどく静かだ。ステンドグラスに映っている表情も、ひどく凪いでいる。
それが逆に、己の自信を示しているかのように、ゾディアーツには見えたらしい。微かな苛立ちを感じながらも、怒りで己を見失うような愚は犯さない。
ぎゅりっと自身の拳をきつく握りながらも、彼はスイッチを切って自身の本来の姿を晒す。
それに何を思ったのか、ファンガイアの方も普段晒している「ヒト」の姿に擬態し、訝しげな表情を向ける。
月明かりの下で晒される互いの顔は、ひどく顔色が悪いように思えた。
蜉蝣だった方は手の中でスイッチを弄びながら、獅子だった方をじっと見つめ、その真意を推し量ろうとしているらしい。
だが、すぐにそれにも飽きたのか、彼はすぐに興味を失したような表情を浮かべると、つまらないという感情を隠しもせずに声をかけた。
「それが貴様の正体か」
その言葉に、獅子だった方は軽く口の端を吊り上げて沈黙を返す。
相手のその表情が、自分を馬鹿にされたようにでも感じたのだろうか。蜉蝣は軽く顔を顰め、どこからか取り出した彫刻刀を相手に向けた。まるで刀を突きつけるように。
「まあ何でも良い。貴様に興味はない。だが、
「邪魔?」
蜉蝣の言い分が分らないのだろう。獅子だった者は軽く首を傾げ、相手を真っ直ぐに見つめる。
一方で蜉蝣だった方も真っ直ぐに獅子だった方を見つめ……そしてどこか苛立たしげな感情を声に滲ませて言葉を紡いだ。
「俺の創作を邪魔する事だ。その為にも、これは貴様には渡せんな」
そう言うと、蜉蝣は無表情のまま手元のスイッチを見せびらかす。
その様が獅子には不快に感じたらしい。人の姿のまま拳を握り、蜉蝣に向って勢い良く振りぬく。だが、蜉蝣はその姿をもう一度「蜉蝣」に変えると、ふわりと宙を舞ってその拳を回避、そのまま夜の闇に紛れて、その姿を消したのであった。
ひょっとすると、校医代行は今校内を騒がせている「呪い仮面」……彫刻具座、カエルムゾディアーツじゃないのか……そんな疑念を抱きながら一夜明けて。
俺はまた、朝礼が始まる前に保健室へと足を運び、「彼」の話を聞くべくその扉を開けた。
……どうもまた、木彫りの生物が増えている。
どういう基準で作っているのかは分らないが最初の
……いつの間にこんなに増やしたんだ……?
疑問に思いながらも、俺は「彼」に視線を向ける。そこには、今まで見てきたのと同じように、今また何かを彫刻刀で彫っている校医代行の姿がある。
だが、今彼が手がけているのは、いつものような「木彫りの生物」ではない。手の中に埋もれて見え難い中、微かにだが金属特有の銀色の光沢が見て取れた。それに、持っている彫刻刀もいつもの物とは異なる。もっと小さくて細い……彫金用のものだろうか。
いや、俺もそういった事に造詣が深い訳ではないので、よくは分らないが。
「……アクセサリーでも作っているのか?」
「それ以外に見えるのか?」
「いや。いつもは木彫りの人形ばかりだから、珍しいと思っただけだ」
「アクセサリーを作れん事もない。現にかつて、『絶望』の女王と『灰燼』にも作ってやっている。あの時は『夢の中』の方の愚弟との合作だったが」
「絶望」の女王? 「灰燼」? それに……「夢の中」の方の愚弟?
彼の言葉の意味を理解しきれず、俺は軽く首を傾げる。彼の言葉……というより表現はいつも独特だ。誰かの事を指し示しているのは理解出来るが、俺の知らない「誰か」なのだろう。
少なくとも一人は「愚弟」と言っている以上は弟なのだろうと予想は出来るが、それ以上の事は分からない。
……この男の兄弟か。凄く苦労しているか、あるいは同じくらい奇異な奴か……どちらにせよ、会う事もないだろう。考えても仕方がない。
それよりも、一つ気になる事がある。それは……
「……何故、眼鏡をかけずに彫っているんだ?」
「これに関して言えば、眼鏡をかけたままでは完成せんからな」
普段からあまり機嫌の良さそうな表情をしている訳ではないが、今日はそれに輪をかけて不機嫌そうに見える。
それは恐らく、「見えすぎる」からだろう。きっと俺が今見ている景色よりも、更に多くのものが、今の彼の目には映っているはずだ。
…………彼の言葉を信じるのならば、という条件は付くが。
「それで? 今日も、美味そうとは言えんが不味くもなさそうな中途半端で不安定さ全開、相変わらず人間か否かの判別のつかない貴様が、何の用だ?」
視線を手元に戻して再び彫金を始めながら、彼はいつも通り静かな声で問いを投げた。
聞きたい事は幾つかある。本当に昨日はカエルムを見なかったのか、あるいは本当はあなたがカエルムなのではないか等。
だが……それを聞いたところで彼は昨日と変わらない答えを返すだろう。
「見ていない」、「知らない」、「怪人がいるというなら解剖したい」など。
だが、疑いを持っている俺が、その言葉を正直に信じられるだろうか。生憎と、俺は如月のように真っ直ぐな男じゃない。信じる事よりも、疑う事の方が得意な部類の人間だ。
「……昨日の昼の話なら、誰にも会っていないし、お前達以外にぶつかった奴はいない」
「え?」
「貴様の顔に書いてある。『昨日の事をもう一度聞きたい』、『本当に知らないのか』とな」
こちらを見向きもせず、だが口元に不敵な笑みを浮かべて放たれた校医代行の言葉に、俺はびくりと体を震わせる。
こちらの考えが読まれているのか? だとすれば、俺が彼に抱いている疑念も?
もしそうだとすれば……そして本当に彼がカエルムだとしたら。……この状況は危険すぎる。
無意識の内に半歩分彼から距離を取りつつ、半ば睨むようにして問いを投げた。
「……そんな事まで、お前の目は見えるのか?」
「そんな物は見えん。だが、少なくとも貴様よりは長く生きているからな。ある程度他人の表情は読める」
カリカリと、やはり俺の方は見向きもせずに彼は言葉を返す。
俺の表情の変化で、考えている事を見抜いたというのか? ほとんどこちらの方を見ていないのに?
「しかし、俺も全てを知る者……『ラプラスの悪魔』ではない。その場で強く思っているであろう事を、経験則から想像するだけだ」
くつくつと、昨日と同じように喉の奥で笑いながらそう言ったのと、作っていた物の完成は同時だったらしい。
彫金用の彫刻刀を脇に置き、それと交換するように机上に置いてあった眼鏡を手に取ってかけ直した。それでようやく「イカレた視界」とやらから解放されたのだろう。ふう、と疲弊の混じった溜息を一つ吐きだし、椅子にその体を深く沈めた。
そして唐突に俺の方へ向き直ると、彼は真っ直ぐに「何か」を持った右手……というよりも右拳を差し出す。
その行為の意味が分らず戸惑えば、彼は呆れたような溜息と共に声を紡いだ。
「手を出せ」
顎でしゃくられ、反射的に彼が差し出した拳の下に手を差し出す。すると彼は満足そうに一つ頷くと、拳の中に納めていた物をゆっくりと俺の掌の上に乗せた。
「……これは?」
「手慰みで作ってみた。いらなければ捨てろ、返品は不可だ。……ただし、曲がりなりにも俺の作品だからな。目の前で捨てられた場合、怒り狂って貴様を殺すかもしれん」
やはり医者らしくないひどく物騒な言葉と、それに見合わぬ悪戯めいた笑みと共に渡されたのは、白銀色をしたタイピンだ。
丁寧な事に、小さく天ノ川学園高校の校章が刻まれており、アクセントにはブレザーに合わせたらしい小さな青い石が埋まっている。宝石なのかただのカラーストーンなのか、生憎と俺には判断がつかないが、決して安っぽくは見えない。木彫りの人形達と同じく、丁寧で繊細な作りだ。
……ただ、普通は学生服にタイピンは付けない。
そもそも、俺にはこれを貰う理由がない。
「何故、俺にこれを……?」
「………………完成した時、偶々貴様がここにいた。その理由では不満か?」
先程まで使っていた彫刻刀を革製のケースにしまいながらそう言った。
今日はこれ以上何かを作るつもりはないのだろうか、いつもの彫刻刀も、次の作品の材料も取り出そうとはしない。
ただ、俺の次の行動を待っているかのように、鋭い視線を俺に向けている。
「……名前も知らない相手から、貰う訳にはいかない」
「正論だな。まあ捨てないだけマシか」
「捨てたら殺すと言ったのは、お前だろう」
疲れたような表情のままなのに、彼は楽しげにくつくつと笑う。
何故だろう。カエルムと重なるようで、ぶれる。
カエルムは自分の仮面を芸術と呼び、大切にしていた。目の前の男も、自分の彫刻を大切にしているのだろう、「捨てたら殺す」と脅してきた。それに、笑い方や話し方も似ている気がする。自信にあふれ、傲慢そうな物言いなどは完全に一致する。
だが……確かにぶれる部分もある。
「作品」の仕上がりは、何度も考えている事だが明らかに天と地程の差がある。それに……カエルムは妙に感情的だったところがあるが、この男は淡々としている印象を受ける。
訝るような視線を送っているのが自分でも分る。だが、彼はそれを気にした様子もなく、つまらなそうに頬杖をついて問いかけた。
「貴様は俺の名を知りたいとでも言うつもりか? 何の為に?」
「何の為って……困るだろう? 『校医代行』は肩書きだし、いつまでも年長者を『お前』と呼ぶのも、少し抵抗がある」
「俺はそれで構わないがな。そもそも、名を知られる事は魂の一端を握られる事にも等しい。貴様ら人間や、それに準ずる者達がホイホイと簡単に名を教える事の方が、俺は不思議でならん」
本気で不思議に思っているらしく、彼はトントンと利用者名簿……そこに書き込んだ俺の名を指し示しながら、軽く首を捻る。
名を知られる事がどう、というのは彼の生まれ育った地方の風習か何かなのだろうか。少なくとも、俺はそう言った考え方を理解する事はできない。魂がどうという考え方は、どちらかと言えば野座間の担当だ。
そう思っている間にも、彼はそれに、と言葉を続ける。
「……それに、短い関わりしかない者の名を覚えて何になる? どうせ人間など、惰弱で脆弱で短命な種。個体の名を覚えるだけ、時間の無駄だ。……貴様らにとってはな」
そう言っている間の、ほんの一瞬。眼鏡の奥にある彼の瞳の色が、七色に光ったような気がした。
……また、あの色……?
あの色は確か、昨日も見た。彼が、自身の目が「イカレている」と言った時に。それが何を意味するのかは分らないが……
「まるで、自分が人間じゃねぇみてぇな言い方するんだな、先生」
「如月!?」
いつの間に保健室に来ていたんだろうか。およそこの部屋とは無縁そうな如月が、扉の前に立って校医代行を見つめていた。
ここに如月が居る理由は、恐らく昨日、彼が少し怪しいかもしれないと告げたからだろう。
「……入ってくるなり騒々しい。ここは怪我人や病人、悩みのある輩が来る場所であって、貴様のような、どこをどうとっても健康体でしかない輩が来るべき場所ではない」
「そんな事はねぇさ。俺にだって悩みの一つや二つくらいはある!」
溜息混じりに放たれた彼の言葉に対し、如月はきっぱりと……それこそ胸を張って言葉を返した。
……だが、正直に言えば、俺にも如月に悩みがあるとは思えない。彼の場合、持ち前の明るさで何もかもを解決する節がある。
「悩み? 一応は聞いてやろう」
「例えば、そうだな……どうやったら先生と仲良くなれるかとか」
「時間の無駄だ」
怪我人の治療の際に使う椅子にどっかりと腰掛けて言った如月に対し、校医代行は一言の元にバッサリと切り捨てる。おまけに如月には興味がないのか、呆れたような表情でそっぽを向いている。
一方で如月は、彼の放った一言に少しだけ笑うと、俺を見やり……
「何か、先生って出逢った頃の賢吾みてぇだな」
「……俺はここまで酷くない」
酷くない……はずだ。少し自信はないが。
「とにかくだ先生。俺は如月弦太朗。この学校の全員と友達になる男だ。勿論、先生ともだ。その為には、名前を知る事からはじめねえとな!」
「唐突かつ果てしなくポジティブな男だな。……だが、そのくせ疑っているという態度は隠さない。単純明快な馬鹿ではあるが、どうしようもない愚者ではないということか」
上機嫌とは言えないが、不機嫌とも言えない……ただ事実だけを述べるような口調で言った校医代行の言葉に、俺も如月もぎょっと目を見開いた。
それを見て彼は口の端を吊り上げると、更に言葉を続けた。
「恐らくは……昨日貴様が追っていたという『怪人』とやらがこの俺なのではないかという疑いでも抱いているんだろう? 貴様らの顔にそう書いてある」
くつくつと、眼鏡の奥の瞳を細め、彼は楽しげに言葉を紡ぐ。
その声が、心なしかカエルムと重なった気がするのは俺の気のせいだろうか。重なってはぶれ、そしてぶれては重なる。
本当にこの男がカエルムなのではないかという疑念が強まる一方で、大きな違和感が存在している。だが、その違和感の正体が掴めない。
悶々と悩む中、彼は白衣のポケットに手を突っ込むと、楽しそうな笑みのまま俺達に「それ」を見せ付けた。
「そんな疑問渦巻く中、『これ』を見せた場合、俺への疑いは確固たる物に変わるのか?」
「それは!」
彼が見せた「それ」。間違いなく、ゾディアーツスイッチだ。
なら、やはりこの男がカエルムなのか?
それならこの男の目的は何だ? 何故俺達にわざわざ正体を明かすような真似をする?
「それをどこで手に入れた!?」
「これは拾い物だ。貴様達も知っているという事は、流行っているのか? 内包されている力は興味深いが、作りが粗雑だ。気に入らん」
コロコロと手の中でスイッチを弄びながら、彼はつまらなそうな声で言葉を紡ぐ。
スイッチを押すつもりはないのか、指は押下する為のボタンにはかかっていない。取り上げるなら、今しかない。
如月も同じ事を思ったのだろう。真っ直ぐに腕を伸ばし、そして校医代行を見据えて厳しい声を飛ばした。
「先生、それをこっちに渡してくれ!」
「断る」
「何故だ?」
「これは、作りこそ粗雑で怪しいが、俺の興味の対象だ。解体し、どのような構造を持ち、そしてどのような力を内包しているのかを知りたい」
そう言いながら、彼は先程彫刻刀をしまった革のケースを広げ、いつもの物よりも大振りな物を取り出すと、刀身の部分で軽くスイッチを叩く。
その表情は、本気でスイッチを解体したがっているように見えた。
……ゾディアーツとしての力を手に入れたなら、その力の源であるスイッチを解体しようとするか……?
ふと、そんな疑問が頭を過ぎる。だが、こちらの困惑など彼には知った事ではないのだろう。フン、と軽く鼻で笑うとそのスイッチを再び白衣のポケットに放り込んだ。
彼が本当にカエルムのスイッチャーだったとしても、ここで「変身」するつもりはないらしい。だが同時に、俺達にスイッチを渡すつもりもないようだ。
半ば睨みつけるように見つめる俺達の視線を受けながら、彼はいつもの……傲慢で不遜そのものの態度と表情で言葉を続けた。
「『俺がスイッチを持っている』という事実。これをどう受け止めるかは貴様達次第だ。一つの『事実』は七色の『予測』を生み出す。その中に強かな『真実』を見出すか、それとも儚い『虚偽』を見出すか……それもまた、貴様達次第」
そう彼が言った瞬間、朝礼前の予鈴が鳴り、廊下からはバタバタと生徒達の駆ける音が響いた。
「時間切れだ。教室へ帰れ」
「なっ!?」
「うおわっ!」
言うが早いか、彼は俺と如月の体をくるりと反転させ、背中を押して保健室から押し出した。
彼に初めて出会った時も、こうやって押された記憶がある。あの時は保健室のベッドに向ってだったが、今回は廊下だ。倒れるまではいかずとも、よろめくくらいはしてしまう。
それにしても、本当にこの男、どれだけの力を持っているんだ? 俺はともかく、如月まで片腕で押し出すなんて。
「っ! 先生! 俺は絶対に諦めねえ! 友達になる事も、スイッチを渡してもらう事も!」
「前者はともかく、後者は確実に不可能だ。アレは技巧匠としての俺を疼かせる」
技巧匠? どういう事だ? こいつは校医代行……つまりは医者なんじゃなかったのか?
そう疑問に思うが、俺達を押し出した本人は何かを思いついたようにふむと一つ頷き……
「歌星賢吾、そして如月弦太朗」
「へ?」
「え?」
名前を呼ばれた事に驚き、彼の顔を凝視すれば、相手は不敵な笑みを浮かべ……
「『校医代行』で呼びにくければ、貴様らには特別に『ポーン』と呼ぶ事を許可してやる。ありがたく思え」
「『ポーン』?」
「そうだ。称号なら問題なかろう。……また昼休みにでも来い。貴様達で遊んでやる」
くつくつと。およそ学校にいる大人らしからぬ事を言いながら、校医代行……「ポーン」を自称する男は、ひらりと手を振って保健室の中へと消えていった。
疑惑と困惑、そして……先程彼に手渡された、タイピンを残して。