臨時講師は虎と獅子

【激・突・異・形】

 俺は灰猫弓。本業は小説家。
 ……なのに、だ。何故か俺はここ、天ノ川学園高校で理科の臨時講師をしている。
 それもこれも、全てはあの自称「変人」のマスカレイドドーパントのせいだ。
 何でこっちの許可なく臨教の書類を通してやがる。おまけに免許偽造済みって……それはアレか、財団とやらの力か、そうなのか。
 そもそも、校長が偽造に気付かないとか、どうなんだよ。
 俺が持つ校長への認識は、「何かにつけて『軽い』とか『重い』とか、フラフラとヒトを秤にかけるような事を言う優男」という、誰が聞いても好意的ではないのだなと即座にわかるものだ。
 何というか、あの男はいまひとつ信用出来ない。本能的な部分で警戒警報が鳴っている。一応顔には出さないようにはしているが、ふとした瞬間にストレスと共に敵意が吹き出しそうになる。
 色々と思うところがあるせいか、朝も早くからがっくりと突っ伏すようにして、俺は深い溜息を吐き出した。
 とてもじゃないが、教員の取るような姿勢とは言えない。何しろ、机の上に顎を乗せ、死んだ魚のような目でぼんやりと正面を見ているのだ。こんなんで教員やれるっていうんだから、本当にどうなんだよと思う。
 そもそも俺は文系寄りの理系なんだっつーの。ある程度の法則のある数学ならともかく、理科とか向いてないんだよ畜生め。
「深い溜息ですなぁ、灰猫先生」
「ああ、大杉先生。……いえ、少し疲れただけですよ」
 そんな俺に、生活指導主任の大杉 忠太先生が、サスペンダーをバチンと鳴らしながら声をかけた。
 背が高く、細身……と言えば聞こえは良いが、ぶっちゃけて言えば痩せすぎだし、髪も「禿げてはいないが少ない」といった所。ご面相も…………正直色々残念な教員ひとだ。
 この手の教員には学生の頃から苦手意識があるんだが、一応同じ理科の教員……と言ってもあちらは主に履修者の少ない地学をメインに担当しているんだが、とにかく今後どれくらいの付き合いになるかもわからないので、とりあえず当たり障りのない言葉を返しておく。
 しかしどうも、俺はこの大杉先生には良く思われていないらしい。何かにつけて突っかかってこられる事が多く、対応に困る。
――基本的にお前、引き篭もりだもんな。話しかけられてまともな対応出来るとは思えない――
 引き篭もりである事は否定しないが、俺の中で引き篭もっているお前が言うな、アッシュ。腹立つ。
 自分の中に住む「もう一つの人格」とも呼ぶべき存在、「アッシュ」と名乗る相手に心の中で返し、俺は未だ見下ろしたままの大杉先生に視線を向けた。
 こちらがぼんやりしているのが気に障るのか、彼は人指し指をブンブンと上下に振りながら、何やら説教をかましてきている。
「友達感覚で生徒と接しちゃ駄目なんです。いくら女子生徒に人気があるからって、そこを勘違いしちゃいけない。私なんかね、生徒から畏怖を込めた眼差しで見られる事はあっても、憧れの目で見られた事はありません」
「はあ……」
 それ、畏怖じゃなくて軽蔑じゃ?
「そもそも、教師というのは威厳が大事なんです。良いですか? 舐められたらそのままずるずると生徒に馬鹿にされ続けるんです。大体……」
――凄ぇ。こいつの台詞、百パーお前への僻みと嫉妬で構成されてるっぽいぞ――
 いや、楽しむところじゃないだろ。お前本当に性格悪いな。
――「性格悪い」とか、お前が言うか!?――
 まだまだ続きそうな大杉先生の「お小言」を右から左に聞き流しつつ、俺はやはり心の中でアッシュに対してツッコミを入れる。
 大杉先生には悪いが、俺の目的はあくまで「怪人探し」であって、「良い教員である事」ではない。
 本職が教員だというのなら、俺だってそれなりに努力もするが、残念な事に本来は小説家だし、そもそも教員の免許も取得していない。出来る事ならあまり不特定多数の人間と関わるのだって御免被りたいというのに。
 思いつつ、はあと再度溜息を吐き出しそうになった瞬間。俺の後ろから、心底がっかりしたような女の声が響いた。
「それじゃあ、私も馬鹿にされているんでしょうか……」
「そ、園田先生!」
 その女の声に、大杉先生があからさまに上擦った声を上げる。それだけで、俺は後ろにいる人物の正体を理解した。
 ……園田 紗里奈先生。「綺麗」よりは「可愛い」寄りの意味で容姿端麗な女性であり、生徒から「友達感覚」で見られる教員の代表格だ。確か担当教科は国語、とりわけ古文だったと記憶している。
 その容姿ゆえ、彼女に熱を上げている教員や生徒も多い。
 大杉先生は彼女に熱を上げている人物の筆頭と言って良いだろう。端で見ていてもかなり分り易く態度に示しているのだが、彼女の方は気付いていないのか、それとも気付いていての行動なのか、結構さらりと彼の言動を流している。
――恋愛事に鈍いって点じゃ、お前もどっこいどっこいだと思うがな――
 黙らっしゃい。
 先程彼女が放った言葉の中に落ち込みの色を感じ取ったのか、大杉先生はおろおろとしながら、「そんな事ありません」、「園田先生は悪くないです」、「親しみやすいって事ですよ」などと弁明している。
 まあ、確かに園田先生の見目は綺麗だと思うし、可愛いと言っても良いのだろうが、生憎と俺には恋人がいるので特に興味もない。
 …………その恋人と、調査の為とは言え、学園内ではひたすら険悪な雰囲気を作らなくてはならない事が、今の俺にとっての最大のストレスだったりする訳だ。
 俺の後に赴任してきた臨時講師、彩塔硝子。
 表向きはひどく仲が悪いフリをしてはいるが、実際は俺の恋人だ。出会ってから二年経つが、最近になってようやく、俺の名前を呼びに慣れてきたと言うのに。
 はあ、と再び溜息を吐くと、今度は彼女の後ろから大杉先生とは違う男の声が聞こえた。
「重いねぇ。教員生活を始めて三週間……そろそろ生徒達の期待の重みを実感し始めたのかな?」
「……おはようございます、校長先生」
 すっと手首を返し、いまだ突っ伏し気味の俺に人指し指を差し出したのは、赤い革ジャンを着た若い男。目元に穏やかな笑みを浮かべているこの若い男こそ、この学園の校長である速水はやみ 公平こうへいその人だ。
 名前が「公平」であり、二言目には「軽い」だの「重い」だの口にするこの人物を、俺は影でこっそり「天秤」と呼んでいる。さっきも言ったが、俺はこの男を信用できない。
 俺自身がこの学園で「そういう演技」をしているせいもあるからか、この人の「若くて二枚目で穏やかな人柄」という評価を嘘くさく感じてしまっている。特に最後の「穏やか」って部分が、どうにもしっくり来ていない。そういう意味では、素直に好悪を表に出している大杉先生の方が信用できる。あの人は良くも悪くも、裏表がない。
「おはようございます、校長先生、大杉先生。……そしてそこに立たれると非常に邪魔です園田先生。どいて下さい」
「ご、ごめんなさい彩塔先生。……おはようございます」
 俺達の「娘」を学校まで送ったのだろう。俺と時間差をつけて登校して来た硝子が、非常に冷たい視線を席に群がる先生達……無論、俺も含む……に送りつつ、自身の席である俺の横に鞄をどすりと置いた。
 そんな彼女の冷たさに当てられたのか、園田先生もビクリと体を震わせると半歩下がって彼女に道を譲る。
 俺との「仮初の敵対関係」を築く為の雰囲気作りもあるのだろうが……それ以前に、彼女が何故か園田先生を嫌っている節がある。こちらは演技ではなく、本心から。
 先日家でその理由を聞いたら、「本能的に受け付けないんです、あの人」と言っていた。ちなみに大杉先生の事は「生理的に受け付けない」と言っていたか。多分、俺が速水先生を受け付けないのと同じ感覚だろう。
 あからさまに冷たい態度の彼女に、速水は困ったような笑みを浮かべ……
「軽いねぇ。公的な場で好悪をあからさまに示すのは、あまりにも人として軽い。まして君は今、この天高あまこうの教師だ。生徒を星々へ導く者としての行為としてはひどく軽い」
「申し訳ありません。……朝から少々、不愉快な目にあったので。ホームルーム開始までには立て直します」
「不愉快な目? それは、今朝の斬新な髪型と髪飾りに関係が?」
 にこりと笑い、彼女がもっとも嫌うであろう「エセホスト」の口調で言いつつ、俺は彼女の髪にそっと手を伸ばす。
 いつもは綺麗に整えられている彼女の短い黒髪が、今はぐちゃぐちゃに乱れている。所々に鱗のようなものが絡まっており、伸ばした手でそれを外す。
 鱗のような物……いや、鱗その物だ。それも魚のような薄い物ではなく、爬虫類の持つ比較的硬い物。
 暗に何があったのかを聞くと、彼女はフ、と冷笑を浮かべ……
「ああ、ありがとうございます灰猫先生。門を潜った瞬間に、空から蛇が降ってきたもので。追い払うのに苦労しました。大蛇はなかなか重いですね」
「ほう?」
「ちょっ。彩塔先生! へ、蛇なんて普通降ってくる物じゃないでしょ!?」
「大丈夫ですか彩塔先生? 噛まれたりとかはしませんでした?」
 彼女の言葉に驚いたのか、速水先生は軽く目を細めて彼女を見やり、大杉先生と園田先生は彼とは反対にぎょっと目を見開きながら言葉をかける。
 かく言う俺も、表面上はニヤリと笑って見せているものの、物凄く心配だ。
 硝子が蛇程度で驚くような女じゃない事はよく知っているし、噛まれた程度でびくともしないのも知っている。というか、噛まれる前に彼女の殺気で蛇が逃げるだろう事もよく分る。
 分るがしかし、心配なものは心配だ。何たって俺の恋人なんだから。
「ご心配なく。噛まれていたらこの場にいません。……それにしても、今日の天気予報では蛇が降るとは言っていませんでしたよね? 外れるにも程があります」
「どれ程腕の良い気象予報士でも、生物の動きまでは予測できませんよ。……まあ、怪我がなくて何より」
 後半は俺の本音だが、それを周囲に悟られる訳には行かない。あくまで「灰猫先生」として、嫌味ったらしい口調でそう彼女に告げると、彼女の方も「彩塔先生」として、目が笑っていない笑顔をこちらに向ける。
 そんな俺らを、囲んでいる三人の先生も困ったように見つめ……だが、速水先生は忙しいのか、呆れたような溜息と共に教員室から立ち去り、大杉先生の方は厄介事に関わりたくないのか、俺らには何も言わず、おろおろと困惑する園田先生の腕を引いて自席へと戻っていくのだった。
 ……それにしても……
「蛇か。……二度目だっけ?」
「はい。前回はロッカーに毒蛇、今回は毒を持たない大型の子で絞め殺されかけました。……もしかすると、相手は蛇を操る力を持っているのかもしれません」
 周囲に聞こえない程度の声で言葉を交わしつつ、俺達は小さく溜息を吐き出した。未だ正体の見えぬ相手と、見える形で襲ってくる蛇に警戒しながら。

 コォン、と四時限目終了のチャイムが鳴ると同時に、教室にいた生徒達は一斉にカフェテリアへと向かう。基本的にここの生徒は、弁当を持っていてもカフェテリアで食事をするのがスタイルらしい。教室で弁当を広げて……という光景は、あまり見かけない。
 がらんとした教室の中に残っているのは、教科書を立てた状態で机に突っ伏して眠っている、リーゼントに短ランの「バッドボーイ」と、それを呆れた視線で見やる「保健室の主」、そして「宇宙オタク」と名高い女子生徒の三名のみ。
「おーい如月、寝るなとは言わないし、つまらないならそれは俺の力量不足だ。だが若人よ、せめて昼飯くらいは食え」
「はっ! 昼飯!? チャイム鳴ったのか!?」
「ついさっきな」
 俺の声が聞こえたのか、ガバッと身を起こした「バッドボーイ」こと如月 弦太朗なる彼に、「保健室の主」こと歌星 賢吾が呆れた声で返す。
 「バッドボーイ」……不良っぽく見えるが根は真面目そうな如月と、見るからにそういう熱血系の奴が苦手そうな歌星がつるんでいるのは、正直驚きなのだが……橋渡しを、間に立つ「宇宙オタク」こと城島 ユウキがしているのだろう。まあ、仲良き事は良い事だ。
「起こしてくれてありがとな、灰猫センセ」
「出来れば起こす必要がないよう、最初から起きていてくれるとありがたいんだけどな」
 一緒に教室を出ながら、苦笑を浮かべて言ってやると、如月もばつが悪そうに後ろ頭を掻いて半笑いを浮かべる。
 これは俺の主観だが、如月は見た目程「バッドボーイ」ではないと思う。授業の成績は芳しくないし、時折授業中に姿を消す事があるが、まあそれは若さ故の暴走って奴だと思っている。むやみやたらに授業を崩壊させるような事はないし、不要な暴力も振るわない。
 だからこそ、歌星もつるんでいるんだろう。俺の勘だが、この二人は風都にいる某探偵二人組のような良いコンビになるんじゃないか。
 思いつつ、俺も教員室に戻るべく、カフェテリアに向う彼らと共に階段を下る。
 カフェテリアと教員室は、どちらも校舎の一階にある。向かう方向が同じという事もあって、少し他愛ない会話を交わしていた……瞬間。俺の注意力が散漫だったせいか、踊り場で向かいから来た誰かとぶつかった。
「きゃっ」
「おっと、すまない」
 勢いで倒れそうになる相手を支え、その顔を見下ろす。
 緩くウェーブがかかった黒髪に、目の下に施された黒いメイク。首元のリボンも、学校指定の臙脂ではなく黒に近い色。抱えているのは某社の薄型コンピュータ。
 確かこの激しく特徴的な子は……
「野座間さん。大丈夫か?」
 一年生の野座間 友子。初対面時、俺の顔を見て「嘘っぽい」、「変な力を感じる」など、若干どきりとさせられる台詞を吐き出されたせいかきっちりと記憶に残っている。
 勘が鋭く、どうやら俺に対して違和感を抱いているらしい。彼女には随分と警戒されている。
 ……まあ、俺も「ヒトにあらざる者」だから、その勘は正しいのだが。
 相手が俺だと分った為なのか、彼女は一瞬ビクリと体を震わせると、すぐさま俺を押し戻すようにして体を放し、半ば睨むような目で俺の顔を見つめ……
「……やっぱり、変な力を感じる」
 言うと同時に、彼女は何かを探るように俺が着る白衣のポケットを勝手にまさぐる。
 ……って待て待て待て! そこには……
「これ」
 慌てた時には既に遅く。彼女は素早くポケットからUSBメモリに似た物体を取り出すと、それを観察するように見つめる。本体部分に、六つの弾丸で「B」とデザインされた鈍色のそれは、一般のUSBと比較して結構大型だ。間違いなくコンピュータ系のコネクタには合わない作りをしている。
――へえ? メモリを一発で見抜きやがった。面白ぇ小娘だな――
 そう。今、野座間に奪われた物こそが、ガイアメモリ。
 かつて風都に氾濫し、使い方によっては「ヒトを異形へ変える」という危険な物体。地球が内包する「何らかの記憶」をこのメモリと言う媒体を通して引き出し、力に変える代物だ。
 俺が持っているのはヒトに直接使う物ではなく、あるツールと共に使う「弾丸の記憶バレット」。クークに言われ、万が一に備えて持ち歩いていたそれを、彼女はあっさりと見つけ出し、「変な力」と評した。
 ……勘が鋭いにも程があるだろ。
「何だこりゃ?」
「スイッチじゃないな……」
「けど、友子が『変な力』だと思ったモンだろ?」
 ごく自然に俺のメモリを野座間から受け取り、如月と歌星が何やら怪訝そうな目でそれを見ている。
 そしてその目は、やがてメモリから俺に向けられ……
 瞬間、かちりと小さな音が響いた。それと同時に、上階から何かがこちらに向かって降って来る。
 ぼたぼたと音を立てて降って来るそれを、最初は濃い緑色の太い紐だと思った。だが……次の瞬間にはそれが違うと認識する。
 ……どこの世界に蠢く紐がある。
 いや、仮にあったとしてもだ。先端が勝手に持ち上がり、シューシューと音を出す紐なぞあってたまるか、怖すぎる。
「門を潜った瞬間、空から蛇が降ってきたものですから」
 唐突に、今朝方硝子が言っていた言葉を思い出し、もう一度その「紐」を見つめ……その正体が無数の蛇であると、今更のように気付く。
 しかもその蛇は、まるで何かに操られているかのように一斉に野座間の足元めがけて襲い掛かった。
 襲い掛かると言っても噛み付いた訳ではない。彼女の足に絡みつき、移動し、そして踏ん張れないようにその足の下に潜り込むだけ。
 だが、それこそが蛇の目的だったらしい。ずるりと這い回る蛇達に足をとられ、彼女の体がぐらりと傾いだ。
「え……きゃあっ!?」
 悲鳴と同時に、階段を背中から落ちるような格好で落下していく野座間。
 それを見た瞬間、俺の中で嫌な感覚が広がる。ドクンドクンと、自分の鼓動が煩いくらい響く。
 階段。
 落とされる。
 …………死。
 一瞬の間に連想された単語。そしてそれが己の中に浮かぶと同時に、俺の体は勝手に動いていた。
 滑り落ちるような格好の野座間を抱えて一緒に落ちる。体勢を立て直す余裕はないし、そもそも蛇達が床面を占拠しているせいで足場も確保し難い。
 踊り場から階下まで十二段、高さにしておよそ二メートル。クッションは、当然ない。
「ちっ!」
 舌打ちをし、俺の体が野座間のクッションになるように位置を入れ替えるとほぼ同時に、俺の背に階下の床の固くて冷たい感触が当たり、ポケットに放り込んでいた缶型のメカがいくつか散乱する。
「ぐ、がっ!?」
 ドスンと派手な音が、近いような遠いような、よく分らない場所で響き、打ち付けた背と頭はズキズキと痛む。肺の中の空気は押し出され、視界は白く濁って景色をぼやけさせる。
 痛みはするが、怪我らしい怪我ではない、か。二、三十分もすれば全快するだろう。
 冷静に自身の状況を判断し、今度は霞む目で腕の中に抱え込んでいた野座間を見下ろす。
 俺がクッションになったからか、見たところ彼女に大きな怪我はない。とはいえ、恐怖から体は小刻みに震えており、血の気の引いた顔で俺の事を見上げている。
 踊り場からは蛇が退いたのか、慌てたように如月達が駆け下りて彼女に向って大丈夫かと声をかけている。俺も軽く頭を振って視界を安定させると、蛇が降って来た上階を見上げる。一瞬だけ翻った白衣の端が見えた気がしたが、それが男か女かは不明。
――逃げられたか――
「逃がす訳ないだろ。歌星、メモリ返せ」
「あ、ああ……」
 半ばひったくるようにして歌星の手からバレットメモリを回収すると、俺は野座間を彼らに預けて立ち上がる。刹那、ズキンと後頭部が痛むが、こんな物、大した事はない。
「灰猫先生、先生は保健室に行った方が……」
「心配ありがとな、城島。だが……俺の目の前で誰かを突き落とすって真似をした阿呆は、許しておけない」
 痛みと怒りで、作っていたキャラ……硝子曰く「エセホスト」の面が割れ、素が出ている事はこの際気にしない。
 俺は散らばった缶を拾い集め、コキコキと指の関節を鳴らすと、逃げた相手を追って一気に上へ駆け上がった。相手の姿を見たのは一瞬、足音も殆ど聞いていないが、幸いな事に今は昼休み。上の階にいる生徒の数は恐らくそう多くないはず。
 二段飛ばしくらいの勢いで駆け上がりつつ、逃げる足音を聞きながら相手を追う。
 普通の人間なら、こんな小さな足音なんか聞こえないだろう。だが、俺は「普通の人間」ではない。
 ……オルフェノクと呼ばれる、「一旦死を迎えた後、再度覚醒した元人間」なのだから。動植物の特性と高い攻撃力を持った異形の姿を併せ持ち、ヒトの姿のままでも、常人に比べて聴力や視力、嗅覚などが妙に鋭くなる。
 俺の場合、数年前に「死」を迎えた。そのきっかけは、大学生の頃に階段から誰かに突き落とされた事。数年間生死の境を彷徨った挙句、結局は一度死に……そしてその直後、オルフェノクとして覚醒してしまった。
 だからこそ、俺は「誰かが誰かを突き落とす」という行為を嫌う。
 落とされた人間を自分と重ね、落とした人間を、未だ正体の分らぬ俺の下手人と重ねてしまうからだ。
 今回は直接手を下した訳じゃないが、それでも同じ事。生徒がやったというのなら、本気で説教をかまさなければ気が済まない。
 ……命は簡単に消えるという事を、教えてやらねば。
――おーお、何気に「先生」してるじゃねぇか――
「『先生』ってのは、『ず生まれる』って書くんだよ。年長者なら、誰でも『先生』だ」
 アッシュに返した瞬間、再びかちりと小さな音が響いた。同時に感じる妙な空気。野座間の言葉を借りるなら、「変な力」とでも言うべきか。
 聞こえなくなった……というか止まった足音を不審に思いつつ、階段を駆け上がり、そして廊下に顔を覗かせれば。そこには、俺達オルフェノクや、硝子達ファンガイア、そして風都で見かけたドーパントとはまた異なる意匠の異形が立っていた。
 体にはぽつぽつと星のような球状の飾り、「妙に蒼白いヒト」の躯体の左腕から右足にかけて大蛇が絡みついているような姿。だが、明らかにヒトとは異なる雰囲気。
「……お前が、蛇をばら撒いた張本人か?」
『邪魔をしないで欲しい』
 俺の問いに直接の答えは返さず、相手は機械加工したような、男女同時に喋っているように聞こえる声でそう言うと、近くの窓を開いて飛び降り、雑木林の方へと駆けた。
 異形として頑丈さが上がっているのか、三階だというのに窓の下へ身を投げた相手は然程大きなダメージを負った様子もなくそのままどこかへ走り去ろうとしているのが見える。
「逃がすか」
 周囲に誰もいない事を確認し、誰にという訳でもなくそう呟くと、俺は自分の姿を変えた。
 白に近い灰色の躯体、併せ持つ特性は虎。タイガーオルフェノクと呼ばれる姿へ変ずると、俺もまた窓から飛び降りて再度相手を追う。
 ひょっとすると、アレがクークの言っていた「アストロスイッチ」とかいう物の作用なのだろうか。
――だろうな。アレからは地球の力を感じねぇ。地球以外の星の力だ。強いて言うなら「星座の記憶コンステレーション」に近い――
 「星座の記憶」? そんな物もあるのか?
――ああ。星座ってのは「地球から見た星の並び」。立派な「地球ほしの記憶」なんだよ――
 成程。確かに見る惑星が変われば、星の並びも多少は変わるわな。
 納得しつつ、俺は全力で相手を追いかける。
 相手も俺の気配に気付いたのか、はっとしたように振り返り……
『なっ!? 化物!』
「いや、お前さんに言われたくないし」
 相手が俺の存在に驚き、速度が落ちた隙を狙って、言葉を返しながら勢い良く相手の顔面を蹴り飛ばす。
 我ながら良い角度で極まったと思える渾身の蹴りは、速度も乗っていたせいか相手の体を派手に飛ばし、近くの木にその体を叩きつける。
 どうやら相手は戦い慣れていないらしい。痛いと苦情を言いながら、ギロリとこちらを睨みつけてくる。
『何だ、お前……何故攻撃をしてくる!?』
 相手は俺を「灰猫弓」だとは認識していないらしい。それならそれで好都合だ、こっちだってあまりこの姿を晒したくはない。
 相手の言葉には答えを返さず、俺は牽制の意味を込めてオルフェノクとしての武器である弓矢を番え、相手の周囲に向かって一気に放つ。
 さっきは蹴ったが、基本的に俺は肉弾戦を不得手としている。今のように、弓や銃で遠距離から牽制しつつ、退いてもらうのが俺のスタイルだ。
『うわぁっ! な、何をする! 危ない奴め!!』
 危ないとは言うが、相手に当たらないよう、そこはきちんと計算している。
 もっとも、そんな事を教えてやるつもりはない。再び弓を構えた俺に、相手は何を思ったのか、右手で体に巻きつく蛇の鼻頭を撫でた。
 するとその蛇の目が赤く光り、直後無数の蛇が相手の足元に生れ落ち、その場に群がり、こちらに向かってシュウシュウと威嚇しはじめる。
 予想していた通り、相手が蛇を操っているのだろう。現れた大小様々な蛇達は、統率の取れた動きでずるずると俺の側に這い寄り、その牙をこちらに向けている。
――へえ……やっぱりあいつが一連の「犯人」って訳か――
「みたいだ……なっ!」
 アッシュに返すとほぼ同時に、蛇は相手の腕の動きに合わせて一斉に飛び掛ってきやがった。
 それを大きく後ろへ飛んでかわしながら、俺は持っていた矢を放ち、宙を舞う蛇を貫いていく。貫かれた蛇は、オルフェノクの持つ「毒」にやられた為なのか、地に落ちると同時に、その身を灰に変えてざらりと崩れ落ちた。
『な、何だと!?』
 襲わせた蛇の全てを灰にされた事がショックだったのか、相手はジリと後退りながら俺を見る。その目はあからさまな恐怖の色を宿し、小刻みに震えながらも、どうやって逃げるかを必死に考えている様子が窺える。正直、そこまで怯えられるとこっちも傷付くんだが。
 思いながら相手に向かって手を伸ばした刹那。ぞわりと悪寒が駆け抜け、俺は反射的に矢を放ちながら再度大きく後ろに飛び退る。だが、矢は唐突に現れた「新手」のマントに弾かれ、地に落ちた。
 厚手のマントの下は、割と華奢な体。頭部にはサソリらしき飾り。恐らくそのまんまサソリだろう。
『オフィウクスの邪魔はさせん』
 「新手」……「サソリ」は、低くくぐもった声でそう言うと、掌を俺の足元に向け……
――かわせ、弓!――
 アッシュの声に反応するように、今度は大きく左に飛んだ瞬間、その掌からは光線が放たれ、俺が今までいた場所は小さなクレーターと化していた。
 濛々と白い煙が上がり、視界が利かない中、耳に届くのは遠くへ向う足音。恐らく、「サソリ」と共にあの「蛇使い」……「オフィウクス」とか呼ばれていた奴が逃げていく音ってところか。
「チッ……逃げられたか」
 ようやく視界が晴れた物の、既に足音は聞こえない。完全に逃げられたと判断し、自分の姿をいつものそれに戻す。
 ……恐らくあの「オフィウクス」はまた誰かを狙うだろう。その矛先は「灰猫弓」を敵視する存在だ。教師でも生徒でも、とにかく「俺」を貶す奴なら誰でも良いらしいというのが、野座間が襲われた事で分かった。
「……冗談じゃねえ……」
 大きな溜息を吐き出しながら、俺は連中が消えた方を睨みつけるのであった。
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