迷い込むのはイルカの女王

【再・会・兄・姉】

 デルフィニス……繰糸お姉さんが、「本当に欲しかった物」を思い出して、美羽お姉さんと仲直り出来たと思った直後に、なんか黒いドロドロがお姉さんを拘束。
 完全にその黒いドロドロの操り人形にされてしまったデルフィニスを、弦太朗お兄さんがやっつけました。
 そして、デルフィニスがさっきまでいた場所には、繰糸お姉さんが使ってたらしい、なんかトゲトゲのついた痛そうなスイッチが転がっています。
 でも……プールで会った時に感じたような、黒くて怖い感じはもうしません。もう、空っぽみたいに見えます。
 それを美羽お姉さんが拾い上げると、お姉さんは押し込まれているスイッチに指をかけて……
「愛。今、戻してあげるから」
 呟くと同時に、スイッチを切ったみたいです。
 空っぽになって、もう形を保っているのも出来なくなったのでしょうか。スイッチはジュゥ、と小さな音を立てると、そのままどこかに消えてしまいました。
 ただ、消える直前に、繰糸お姉さんの「本質」でもある「白い光」が、プールの方へ飛んでいくのが見えたので……たぶん、スイッチに閉じ込められていたお姉さんの「心」は、お姉さんの体に帰ったんだと思います。
「ふぅ。何とか終わったな」
 弦太朗お兄さんも、にこっと笑ってそう言ってくれました。
 お兄さんを囲んでいた「人工の星」がなくなっているので、たぶんベルトのスイッチを切ったんでしょう。
「これで、後は霧雨の兄ちゃんと姉ちゃんを見つけるだけだな」
「いや、実際それが一番の難関って気がするんですけど、俺。時間的にも、そろそろ帰っててもおかしくないんじゃ?」
 わたしの頭をくしゃっと撫でる弦太朗お兄さんに、ジェイクお兄さんが困ったような顔でそう言いました。確かに、いろいろあったせいで気付きませんでしたが、いつの間にか辺りはちょっと暗くなっています。
 「夜」って言うにはまだちょっと明るいですが、「夕方」と言うにはちょっと空の色が黒いです。
 えーっと、こういうのを……「たそがれどき」って言うんでしたっけ? あれ? ちがう?
 いいえ、それは遠いお山にぽーんと捨てて。お兄ちゃんとお姉ちゃんが、まだこの時間で帰っているとは思えませんが……
「確かに、季節柄、日の入りの時刻が早いとは言え……確かに残っている生徒は少ないだろうな」
 うむ、と腕を組みながら、赤いジャケットのお兄さん……たぶん、「大文字先輩」さん……もジェイクお兄さんの言ったことに頷いています。
 ………………
 あう。なんとなくそんな感じはしていましたけど……お兄さん達は大きな勘違いをしています。もちろん、ちゃんと説明していなかったわたしがわるいんですが。
「あのあのっ! ちがうんです!」
「違うって……何が?」
 わたしが言うと、黒いリボンのお姉さん……たぶんこの人は「友子ちゃん」さん……が、軽く首を捻って聞いてくれます。
 ……あ、今気付きましたけど、このお姉さん、なんかちょっとウォッチャマンおじさんと同じかも。ウォッチャマンおじさんの方がすっごく明るいですけど、指先に「機械を操る力」があるのが似ています。
 それからちょっとだけ魔力も感じるのは……お姉さんのご先祖さまに、ゴースト族さんとかがいたとかでしょうか? たまーにそういった、「ご先祖さまに魔族がいるために、魔力を持って生まれたヒト」がいるんだって、これもビショップさんが言ってました。
 いえいえ、それも今は遠いお山にぽーんと捨てて。こんどこそ、お兄ちゃんとお姉ちゃんへの誤解を解かないと!!
「えっと、お兄ちゃんとお姉ちゃんは……」
「あれ? 君達、揃いも揃って何をしているんだ、そこで?」
 大人のひとであって、生徒じゃないんです。
 そう言おうと思ったのに、どうしてなのかまたオジャマが入ってしまいました。
 あうぅ、なんで今日は言いたいことを言わせてくれないんですか。なんですか、今日は神様がいじわるな日ですか。
 ちょっと泣きそうになりながら、わたしは声がした方を見ました。
 聞こえてきたのは男のひとの声でしたが、辺りが暗いせいで顔とか姿とかはよく見えません。ただちょっと……聞いたことのあるような声なのに、もやっとしているのでどこで聞いたのか分りません。
 むー、すっごくよく聞く声なんですが……
 そんな風に思っていると、ユウキお姉さんがその人に気付いたみたいです。ちょっとだけビックリしたみたいな顔になって……
「あ、灰猫先生!」
 …………
 うにゃっ!?
 ユウキお姉さんが呼んだひとの名前に、今度はわたしがビックリします。そう言われれば確かに、今の声は……
 そんなっ! せっかくナイショでやってきて、こっそり宿題をやってしまおうと思ったのに!
 「灰猫先生」が近付いてくることにアワアワしながら、わたしは思わず一番隠れやすそうな大文字先輩さんの後ろに隠れます。
「お、おい!?」
「しーっ。ナイショにしてください」
 ビックリしてわたしを見るお兄さんに、わたしは人指し指を立てて「ナイショ」のポーズをします。
 まだわたしからは格好が見えませんが、もしもわたしが「灰猫先生」に見つかったら……きっと、絶対、物凄く怒られます。
 だけど、ゆっくり近付いてくる「灰猫先生」は、はあ、と溜息をつくと、その場所でぴたっと止まって、やっぱりどこかもやっとした声でこっちに向って言いました。
「やれやれ。また大変な事に首を突っ込んでいたみたいだな」
「そう言うなよ灰猫センセ。事件は青春の雄叫びだ!」
「……相変わらず、訳の分らない事を言うなぁ、如月は」
 弦太朗お兄さんの言葉に、くすっと……でも困ったような「灰猫先生」の声が聞こえます。
 わたしが「灰猫先生」の姿が見えていないように、「灰猫先生」もわたしの姿が見えていないのでしょうか? 見えていたら、絶対に怒りますよね?
 不思議に思って、わたしはそっと大文字先輩さんの後ろから、その影をじぃっと見つめます。
――夕方の別名にゃ、黄昏時って呼び名がある。「黄昏」ってのは「誰そ彼」……「アレは誰だ?」って言葉から来てる。だから、薄暗い時間に出てきた奴ほど、本物かどうか疑えよ?――
 なんでかわかりません。でも、ちょっと前にお兄ちゃんがそう言っていたのを思い出します。
 でも、今思い出したって事は、ひょっとして。
 暗くてよく見えない中で、じっと……いいえ、じぃっとその「灰猫先生」を見つめていると、わたしの目はだんだんその「影」に慣れてきたみたいです。そのひとの影を、ぼんやりですが見ることが出来るようになりました。
 でも、わたしの目に見えている、その「灰猫先生」の格好は。
「灰猫弓……やっぱり、変な感じがする」
「変、とは心外だな、野座間さん。俺は至極真っ当な化学の講師のつもりなんだけどなぁ」
 楽しそうな声で、「灰猫先生」はこっちに近付きながら、友子お姉さんの言葉に返します。そしてみんなも、それを不思議に思っているようには見えません。
 弦太朗お兄さん達の目に、どう見えてるのかは分りません。でも、疑っていないってことは、お兄さん達が知っている「灰猫先生」に見えてるんだって言うのはわかります。
 そんな訳が、ないのに。
 だから、これ以上「灰猫先生」がお兄さん達に近付く前に。わたしは大文字先輩さんの後ろから顔を出して、「灰猫先生」に向って声をかけました。
「……あなたは、誰ですか?」
「ん? ああ。はじめまして、お嬢さん。俺は灰猫弓。この学校で先生をしているんだ」
 「灰猫先生」と呼ばれている「それ」は、わたしの質問に足を止めてそう答えます。声だけ聞けば、優しいお兄さんのように聞こえるかもしれません。ひょっとしたら、弦太朗お兄さん達にはにこにこと笑って見えているのかも。
 でも……「それ」の周りを取り囲んでいる黒いモヤモヤ……いいえ、ドロドロは、さっきデルフィニスさんを操っていたのと同じ物です。さっき見た時と違うのは、真中にいるのが変な怪人であること、そして何よりも「黒い糸」が見えないことでしょうか。
 糸がないけど、ドロドロは同じ。つまりそれって、さっきのお姉さんを操っていたのは、この怪人ってことですよね?
 それになによりも。目の前にいるのが本物の「灰猫弓」なら、わたしに向って「はじめまして」なんていう訳がないんです。
 だって……「灰猫弓」っていうのは、わたしの「お兄ちゃん」のことなんですから。
「…………嘘つき」
「霧雨?」
 わたしの言葉に、美羽お姉さんが不思議そうに首を傾けています。どうして「嘘つき」と言ったのか分らないからだと思いますが……でも、今はそれを説明している時間はありません。
 このままでは、怪人さんにみんな騙されてしまいます。そして、気付かない内にあの黒いドロドロに取り込んじゃう気なのかもしれません。
 わたしは出来るだけ目に力を込めて怪人さんを睨みつけると、上の方でふよふよしているサガークさんに向かって、もう一度叫びました。
「サガーク! そいつをここから引き離しなさい!」
「×○<▼!」
 びしっと怪人さんに向かって指差しながらいったわたしに、サガークさんは「命令」にしたがって、思いっきり怪人さんのお腹……「みぞおち」って言うらしい部分に突っ込んでいきました。
 お姉ちゃんからは、「人に向かって指を差すのはお行儀が悪いからやめておいた方が良いですよ」って言われていますが、「ただし、敵と思った存在には、その範疇にありませんので」とも言われているので、たぶんだいじょうぶです。
 さて、サガークさんに突っ込まれた怪人さんはと言うと。おもいっきり「みぞおち」に一撃をお見舞いされたせいか、弦太朗お兄さん達からちょっと離れた場所で、ゲホゲホしています。
「い、いきなり何をするんだ、お嬢さん? それに、こいつは!?」
 声はまだ、弓兄ちゃんの声ですね。と言う事は、たぶん格好もまだ弓兄ちゃんのままなのでしょう。わたしの目には相変わらず怪人さんのまんまですが、お兄ちゃんのニセモノって言うのはちょっとムカつきます。
 わたしでこう思うんですから、きっと弓兄ちゃん本人とか、お姉ちゃんがこの怪人さんを見たら……うん。きっと物凄く……いいえ、「ものすっごぉぉぉぉく」怒ると思います。
「他のひとには、弓兄ちゃんにみえたのかもしれません。でも、わたしには……あなたが変なマントをつけた……お皿を二枚合わせたよーなお顔の怪人さんにみえます」
「マントをつけた二枚皿の怪人……まさか、この間の天秤座……リブラか!?」
 わたしが「普段の姿が見える」ということを知っているからでしょうか。はっとしたように賢吾お兄さんはそう言うと、出来るだけ怪人さん……リブラから離れるみたいにして、ゆっくり後ろに下がります。
 そしてリブラに一番近い場所にいた弦太朗お兄さんはもう一度腰のベルトに手をかけています。たぶん、またさっきの「人工の星」の力を使えるようにしているんでしょう。
「ちょっと待ってくれ。リブラとか怪人とか、俺には何の事かさっぱりだ。……風城さん、君もどうしてそんな目で睨む?」
「私は、この学園のクイーンです。『クイーンの責務は護る事』。それなら、この学園にいる生徒やその関係者を護るのは、私の責務ですから」
 ちょっときびしい顔で美羽お姉さんはそう言うと、わたしの姿を完全に隠すみたいに、大文字先輩さんの横に立ちました。
 そんなお姉さん達の様子に、リブラはひょいっと肩をすくめて……
「やれやれ。……お嬢さん、君も悪戯がすぎるんじゃないか? ご両親に叱られるぞ?」
「叱るはずのお兄ちゃんのお名前が、『灰猫弓』っていうんですけど、それでもまだそんなこといいますか?」
「えぇっ!? 霧雨ちゃんの『お兄ちゃん』って、灰猫先生のことだったの!?」
「なら、『お姉ちゃん』って言うのも、大体の予想がつくっすね」
 ユウキお姉さんのビックリした声と、ジェイクお兄さんの呆れた声に、わたしはリブラを睨んだまま、こくんと頷きます。
 他の人達もやっぱりちょっとビックリしたみたいですけど、でも、今はそれどころじゃないって思っているみたいで、じっとリブラを見つめています。
「おいおい。そんな子供の言葉を信じるのか?」
「悪いが俺達は、彼女の見る目は信用できると思っている。現に、今回は彼女の『目』に助けられた」
「ちなみに、お姉ちゃんは硝子ちゃんです」
「……お嬢さん、そろそろやめないと……お仕置きをしないといけなくなるんだが?」
 どことなく楽しそうな声でそう言うと、リブラはゆっくりとこっちに向って歩いてきます。
 だけど、やっぱり声は弓兄ちゃんのままなので、格好も弓兄ちゃんのまま、弓兄ちゃんを悪者にする気なのでしょう。
「……ねえサガークさん。これ、やっちゃって良いって受け取って良いんだよね?」
「△⊿、&∫&▼」
「わーい、サガークさんの許可が出たー」
「&Φ∠☆△! %△◇○☆Ω&◆↓∃◇∑♯!?」
「だって、お兄ちゃんのフリして、悪いことしようとしてるんだよ? やっつけなきゃ。ちょうど夜だし、バレないよ」
「~д♭↑●×∠♭&▼。■>□д∠♪Φ□Ω◆」
「大丈夫。わたしは子供だから、ちょっとやりすぎても『ごめんなさい』って謝れば、大人は許してくれるんだよ。クーちゃんがそう言ってたもん」
「……▼√☆>%△θΩ☆、◎△∞」
 ちょっと……本当にちょっとですよ? いつまでも弓兄ちゃんの声で「お嬢さん」なんて言われるのが気持ち悪すぎてイラッとしたので、サガークさんとそんな会話をしながら、わたしはもう一回てのひらに力を溜めます。
 力を溜めると、何となくサガークさんの言っている事がわかるので、会話としては成り立っているはずです。成り立っていても、返って来た答えなんて、全然聞いていないんですが。
 薄暗かった周囲は、とっくに真っ暗な夜になっています。さっきお月様にある秘密基地で魔力が出て行ってしまったと言っても、リブラをやっつけるには充分だと思います。
 と、言う訳で。お姉さん達がわたしに背中を見せているのを良いことに、ゆっくりと左手を挙げようとした瞬間。
 リブラの後ろに、誰かが姿を現しました。
「お仕置き、ねえ……それはこっちの台詞なんだけどな」
 その人はそう言うと、リブラの前にするりと回りこんで、そのままその胸を蹴っ飛ばしました。
 突然すぎたからでしょうか、リブラは「ぐっ」て呻くと、よろっと後ろによろめきます。そして蹴った方の人は、たむっと地面を蹴って大きくバク宙したかと思うと、美羽お姉さん達の前に着地、こっちに向かって悪者みたいな笑みを向けました。
 細い月と校舎から漏れた光に照らされたその顔は、いつも見ているお兄ちゃんの……灰猫弓その人の顔でした。
「弓兄ちゃん!?」
「疑問形混じりって……霧雨、お前の目にはそれ以外の誰かに見えるのか?」
「……見えません」
――正直でよろしい――
 大文字先輩さんの後ろに隠れていたわたしを引っ張り出して、弓兄ちゃんはそのままひょいとわたしを片手で抱え上げると、困ったみたいな顔で笑いました。
 そのすぐ横では、ふふんって感じで笑っているあー兄ちゃん……アッシュ兄ちゃんの姿も見えます。
 あうぅ……こっそりしたかったのに……
 怒られると思ってビクビクしていると、弓兄ちゃんは困った顔をしたまんま、ぴんっとわたしのおでこを弾いて言いました。
「何でここにいるのかとか、何を無茶してんだとか、色々言いたい事はあるんだが……霧雨、今回叱るのは俺の役割じゃないんだよ」
 ……今回叱るのは、お兄ちゃんの役割じゃない? だとすると、今回叱るのは……
 あ、何だかとっても怖い感じがします。弓兄ちゃんが怒らないと言うのなら、怒る人はたった一人です。
「……何を、しているんです? こんな所で」
 後ろから聞こえる、言葉短く切って言い聞かせるようなこの女の人の声は……
「彩塔ちゃんも来たのか!?」
 弦太朗お兄さんが誰よりも早く、後ろにいる女の人に気付いたらしく、その人の名前を言います。
 わたしの知っているひとの中で、「さいとうちゃん」なんて呼ばれる女の人は、たった一人しかいません。そして後ろにいるひとから、物凄く大きな魔力が感じられるならもう決まりです。
 ぎぎぎぎぎって音がしてもおかしくない感じで首をその声の方に向けると、そこには思った通りのひとが立っていました。
「…………ぅあう」
「もう一度お聞きしますね。何を、しているんです? ……霧雨さん?」
「お……お姉ちゃん……」
 にこにこにこにこにこ。
 そこに立っていたのは、やっぱりと言うか何と言うか、わたしの「お姉ちゃん」……彩塔硝子ちゃんでした。しかも、顔いっぱいに怖いくらいの笑みを浮かべています。
 硝子ちゃんがこんな顔をしてる時は、怒っている時だと言うことを知っています。それも……物凄く。
「え、えーっと……学校の宿題をしにね……」
「ほほぉ。わざわざ遠く風都から、ここに? それはまた無駄に壮大な冒険をしていらっしゃるんですねぇ、霧雨さん?」
「しょ、硝子ちゃん? 目が……怖いよ?」
「うっふふふふふ。気のせいですよぉ、霧雨さん。怖く見えるのは、やましい所があるからじゃないですか?」
「うあう」
「まあ、霧雨さんのお話は後でたっぷり……いいえ、たぁっぷり聞くとして」
 硝子ちゃんはゆっくりこっちに近付いてから力一杯そう言うと、やっぱりにこにこ笑ったまま、今度はリブラにその顔を見せます。
 そして次の瞬間には、だむっと地面を蹴ってリブラに近付いて、そのまま、たぶんまだ弓兄ちゃんの格好のままだと思われるリブラに向って、左手でグーを作って思いっきりその顔を殴り飛ばしました。
『がっ!?』
 リブラも、まさかお姉ちゃんにそこまでの力があるとは思わなかったみたいです。殴られたリブラは、大袈裟ではなく本当に吹き飛んで、校舎の壁に激突してしまいました。
 その時の勢いで弓兄ちゃんの格好をやめたのでしょうか。聞こえてくる声は弓兄ちゃんとは全然違う、モヤモヤした声に変わって、さらに黒いドロドロが手元の杖に集まっていきました。
 お陰で、リブラの格好がよりはっきり見えます。お皿を二枚合わせたような顔に、ゴキさんだかカミキリムシさんだかよく分らない長い触角が生えた、マントの怪人。遠くから見ると、何となく絵描き歌の「かわいいコックさん」の途中に出てくるカエルみたいなお顔にも見えます。
 うわぁ。こうやってはっきり見えると分りますが……リブラって怪人は、この学校の校長先生です。あの長い触角は、間違いないです。
「私達の『娘』に手を出そうとしやがりました事、骨の髄まで後悔させて差し上げないといけませんねぇ」
 硝子ちゃんはぽかんとしている弦太朗お兄さん達を無視して笑ったままの顔でそう言うと、殴った左手をスリスリさすりながら軽く首を傾げます。
 操られていたデルフィニスさんより、そしてリブラより。
 …………今のお姉ちゃん……硝子ちゃんの方が、絶対怖いです。
 顔は笑ってますけど、手はなんかゴキゴキ鳴ってますし、しかも硝子ちゃんの魔力が、今度は右手に作ったグーに篭っているのがはっきり見えています。
 ああ、本気です。本気で硝子ちゃんは、リブラをボッコボコのベッコベコにする気です。ひょっとしたら、リブラの顔がへこんだまま戻らなくなるかも……
「し、硝子ちゃん? あんまり本気で殴っちゃ『めっ』だよ?」
「大丈夫です霧雨さん、殺しはしません。…………九割九分九厘殺し程度で我慢しておきます」
「おーい硝子、それほぼ全殺しだ。せめて九割に留めて、俺の分も残してくれ。残りの一割は俺がヤるから」
――うーん、殺る気満々だな、二人共――
「努力はします。ですが、原形を留めなかったら申し訳ありません」
「いや、そこは留めといてやれよ。せめて親が見ても自分の子供だと分らない程度に」
――それもどうかと思うし、そもそもそれは留めてるとは言わない――
「二人共、だから『めっ』!!」
 なんかよく分りませんが、二人共本気で怒ってるみたいです。って言うかあー兄ちゃん、突っ込んでいる暇があるなら止めてください。
 そんな風に思っていると、硝子ちゃんはふう、と深い溜息をはきだして……
「まあ、冗談はともかくとして。……危うく我がクイーンの『裁きの雷』が発動する所でした」
 うあバレてる! ちょっとだけ「クイーンの力」を使おうとしたこと、硝子ちゃんにバレてる!!
『裁きの雷……?』
「ああ、こちらの話です。どうせこの後ボコり潰されるあなたには、永遠に関係のない事象ですから、お気になさらず」
 にこーっと笑うと、硝子ちゃんはそのまま、魔力を込めた右手をリブラに向って振りぬきます。ですが、リブラもさっき殴られたからでしょうか、硝子ちゃんのグーを持っていた杖で押さえます。
 同時に、杖にまとわりついていた黒いドロドロが硝子ちゃんの右手に巻き付こうと伸びますが、硝子ちゃんはすぐに右手を杖から離すと、そのまま手を地面に置いて、手を中心にして足で地面に丸を描きました。
『何!?』
 当然硝子ちゃんの近くにいたリブラは、硝子ちゃんの足に足を払われてよろよろします。
 そこを狙って、硝子ちゃんはもう一回右手をグーにすると、リブラの杖ごとその顔を殴りました。ちょっと離れた位置にいるわたしの耳にも、ごきゃって音がしましたから……たぶん、リブラは物凄く痛かったと思います。
 一応、杖から出ていたドロドロがちょっとだけ壁になっていたみたいですが、怒った硝子ちゃんの前には無駄だったみたいです。そもそも、硝子ちゃんは見た目によらず、物凄く力持ちなんです。「暴走した十トントラック程度ならば、片手で止められますが」って、昔言ってた気がします。
『くっ……これは予想外の展開だな……』
 リブラがぐいっと口元を拭うみたいな仕草をして呻くと、杖のドロドロがリブラの後ろに広がって、それが大きな「穴」になります。多分、あの「穴」から逃げるつもりなんです。
 逃がしちゃダメだって思うんですけど、でもでも、今の硝子ちゃんの前にいてもらうのも何だかすっごくかわいそうですし……
 そんなふうに思っている間に、リブラはシャンと杖を地面に叩きつけてから鳴らすと、そのまま後ろの「穴」の中に消えてしまいました。
 他の人にはどんな風に見えたのかは分りませんが、「穴」には気付いてなかったみたいなので、急に消えたみたいに見えたのでしょうか。はっとしたように硝子ちゃんと弦太朗お兄さんが手を伸ばしましたが、その時にはもうとっくにリブラの姿はありません。
「……ちっ。逃げやがりましたね、あの%∵Ω&△が」
「いや、彩塔ちゃん。俺、今回だけはあいつに同情するぜ」
 逃げられた事にイラッとしてなのか、最後の方はサガークさんと同じ言葉で悪口を呟いた硝子ちゃんに、弦太朗お兄さんが「うわぁ」って言いたそうな顔で言いました。
 美羽お姉さん達も、流石に硝子ちゃんのあの笑顔の「てっけんせーさい」が怖かったのか、弓兄ちゃんの後ろに隠れてこくこくと頷いています。
 でも、硝子ちゃんはそんなみんなの顔は気にしていないみたいです。にっこりと弓兄ちゃん……に抱っこされているわたしの方を振り向くと、てくてくとこっちに歩いてきました。
 後ろでずざざって音がしたのは、多分硝子ちゃんが怖くてユウキお姉さん達が後ろに逃げた音だと思います。
 あうぅ、出来ることならわたしも逃げたいです。でも、弓兄ちゃんががっしり捕まえているので逃げられません。
「さて、それでは霧雨さん? 何故、私達に何の連絡もなく天高ここにいらしているのでしょう?」
「あ、あうう」
「当然、物磁モノジな斗李トリか……最悪、帝虎テトラ辺りと一緒にいらしているんですよね?」
「う……あううぅぅ」
 なんにも答えられないで、ただあうあう言って硝子ちゃんの目を見ないようにするわたしに、硝子ちゃんはさらにずずいっとお顔を寄せます。
 おでことおでこがくっ付くくらい近くに寄っているので、もう完全に硝子ちゃんのお顔しか見えません。
「…………まさかお一人でいらした、とかのたまうおつもりではありませんよねぇ?」
「い、一応サガークさんといっしょ……」
「却下です。しかもどうせ、サガーク殿は無理矢理ランドセルの中に突っ込むか何かして、半ば強引に連れて来たんでしょう?」
「あうあうあう……」
 どこまでも当たっているので、何も言い返せないでいると、硝子ちゃんは笑顔を消して呆れたようにはあ、と溜息をはき出しました。そしてはいた分よりも更に大きく息を吸うと……
「……霧雨さん。あなたはご自身の立場を理解なさっているのですか!? 聖守セスが倒れたからと言って、あのド下衆三兄弟の長男、歌宿カインはまだ残っているんですよ!? 風都の中ならば、まだ幾分かの情報網と抑止力があるから構いませんが、風都の外に出る時は供をつけろと、口を酸っぱくして申し上げているでしょう!? 回遊魚である事は存じておりますが、もう少し自重なさって下さい!」
「なあ彩塔ちゃん、その辺で……」
「如月君は黙っていて下さい」
「ハイ、すみません」
 さすがに困ったみたいな顔をして弦太朗お兄さんが硝子ちゃんを止めようとしてくれましたが、それすらも硝子ちゃんの短い一言で終わってしまいます。やっぱり、今の硝子ちゃんは、ちょっと怖いみたいです。
 でも……硝子ちゃんは、今度はちょっとだけ泣きそうな顔になると、もう一回溜息をついて、小さく言いました。
「本当に…………どれだけ心配したとお思いなんですか」
「……ごめんなさい」
「いいえ。ご無事で何よりです」
 ちょっとだけ泣いてるみたいに見えて、わたしは素直に謝ると、硝子ちゃんはやっとほっとしたみたいに笑って、わたしの頭を撫でてくれました。
 それを見て、ようやくユウキお姉さん達も硝子ちゃんに近寄っても大丈夫だと思ったみたいです。ゆっくりとこっちに歩いてくると、不思議そうに首を傾げてお兄ちゃん達に声をかけました。
「ところで灰猫先生達はどうしてここに? 霧雨ちゃんがいるってわかっていたんですか?」
 その質問に、弓兄ちゃんの顔がちょっとだけ嫌そうになります。
 弓兄ちゃんの横では、あー兄ちゃんが「はははっ」て乾ききった声で笑っています。
「いや。実はな、知り合いたくもない変態の知り合いと、ちょっと相談があって話をしていたんだが……『そう言えばさっき、むーちゃんとこの学校で会ってね~。ビックリしちゃったよ、あっはっは』と言いやがったから」
 何だか疲れたみたいにそう言うと、弓兄ちゃんは遠い目で空を見上げました。
 ……わたしを「むーちゃん」って呼ぶ人は、たった一人。仲良しのマスカレイドドーパントさんのクーちゃんです。でも、わたしは今日、クーちゃんに会ってない気がします。それとも、どこかで会ったんでしょうか?
 結局、弓兄ちゃんや硝子ちゃんにナイショで宿題は出来ませんでしたが……でもでも、この学校で、新しいお友達が出来たのは良かったと思います。
 尊敬できる「クイーン」も見つかった事ですし。
 そんなふうに思いながら、わたしは弓兄ちゃんと同じようにお空を見上げて……そして思います。
 ……次こそは、お兄ちゃん達に見つからないよう、こっそりこの学校に来よう、と。

 灰猫弓、彩塔硝子の二人が帰り支度を整えている間。教員用の下駄箱の前には、二人を待っている吾妻霧雨の姿があった。
 ここならそれなりに人目も有り、なおかつ外の冷気に触れないと言う、彼らなりの配慮なのだろう。
 安全面を考えれば、目の届く教員室に連れて行くべきなのだろうが、未だ彼らは「表向きの敵対関係」を続けている。その為、「仲良く娘を連れて歩いている姿」を見せるような真似は出来ないのだ。
 多少不安な所はあるが、下駄箱……昇降口や門の前には防犯カメラがバッチリと働いている事と、霧雨が強引に連れて来たサガークもいるので問題はないと判断したらしい。
 ……決して勝手に動き回らないようにと釘をさして、少しの間だけそこで待っているようにと言って姿を消した。
 とは言え、霧雨はまだ小学一年生。じっとしていられないお年頃である。
 先程の大激怒を受けて、昇降口から出るような真似はしないが、あちこちの下駄箱をうろうろと彷徨っていた。
 そして、その中の一画。偶然にも完全に監視カメラの死角となる場所に歩を進めた時。彼女の前に、何者かがその姿を現した。
 この学園の生徒なのか、着ているのは学園推奨の青いブレザー。片手にはこれまた学園推奨のオレンジがかった赤いコートが提げられている。
 その存在に、不思議そうに彼女は顔を上げると……「普段の姿と本質を見抜く目」にはどう映ったのか。少しだけ驚いた表情を浮かべた後、すぐに破顔して相手の手を取った。
「あ、クーちゃん!」
「ヤッホー。今日も随分と元気いっぱいだったねー。いやー、でもまさかむーちゃんが天高に来ちゃうとは思わなかった。こっそり見てたけど、クーク、ドッキドキだったよー」
 その人物……普段は「KOOK」と名乗っているそいつは、霧雨の目に自身がマスカレイドドーパントの姿に見えていると分った為か、ヒトとしての姿のままでありながらも、自身を「クーク」と呼んだ。
 だが、メモリを使っていない以上、声までは変えようがない。霧雨の特異な力も、「視る」事には対応しているが「聴く」事にまでは対応していない。素の……作っていない、クーク生来の声が聞こえているのだろう。少し首を傾げ、不思議そうにクークを見上げた。
「う? メモリ、使ってないの? 声がおかしいよ?」
「あっはっはっは。こっちが地声なんだけどねー。ボクの声、変?」
「……変じゃないけど、ふしぎな感じ。クーちゃんに見えるのに、違うひとみたい」
 トントンと踊るようなステップを踏みながら言うクークに、霧雨は首を横に振ってそう答えを返した。
 実際、彼女と会う際は常に「マスカレイドドーパントのKOOK」としての姿であり、こうして「本来の姿」で出会うのは今日が初めてだ。
 そこまで思って、ふとクークの口の端が皮肉気に歪む。
――これが「本来の姿」? この子には「KOOK」が見えているのに?――
 彼女の目に、自身の姿がマスカレイドとして映っているという事は、つまり。彼の存在が抱く本質は、紛れもなく「マスカレイドドーパント」であると言う事を示しているに他ならない。
 それが自身にとって、喜ぶべき事象なのか悲しむべき事象なのかが分らず、クークの顔は奇妙に歪む。
 どうせ目の前で自身を見上げる少女には、この表情の変化など見えないのだ。クークという外見上の仮面を被る必要もなければ、そうでない自分を演じる必要もない。
 それは、ひどく嬉しくて……同時に恐ろしい事でもあった。
「ねえクーちゃん。なんでクーちゃんが天高にいるの?」
 霧雨に問われ、クークははっと我に返ると、その場でスタタンと踊るようなステップを踏み鳴らし……
「それはね、ボクがここの関係者だからサ!」
「…………『かんけーしゃ』って、べんりな言葉だよね」
「そうだね。何しろむーちゃんも『保護者がここで働いている』点では、立派な関係者な訳だし」
 言いながら、クークはステップを踏み終えると、その場から離れるようにくるりと踵を返す。それは、廊下からこちらに向かって響く足音に気付いたからだろう。己の素顔を晒すのは、クークにとって好ましい事ではない。
 そしてある程度霧雨から距離を取った所まで離れるや、クークはくすり、と小さく笑い……
「あ、そうだむーちゃん。今度こっそり遊びに来て、そして見つかっちゃった時は、『ボクに連れて来てもらった』って言えば良いよ。……ボクは大抵この学校にいるしね」
 それだけ言うと、改めてクークはひらりと霧雨に向って手を振った後、その場から姿を消した。素顔のまま制服を着ているので、恐らくは見つかってもただの生徒として扱われるだろう。クークと共に潜入している部下達を除き、誰一人として……この学園を牛耳る「監査対象」の我望光明ですら、その生徒が「財団X」からの監察官であるとは思うまい。
 それが妙におかしくて、クークはくすりと笑う。刹那、廊下の角から自身がここに招いた二人の姿を見つけ、「生徒らしく」ぺこりと頭を下げてやると、二人も作った笑みを浮かべてクークの横を抜ける。
「さようなら、灰猫先生、彩塔先生」
「ああ。さようなら。……猫かぶりな女に利用されないように帰るんだぞ?」
「はい、さようなら。エセホストには重々気をつけて下さいね?」
 こちらが彼らをここに連れて来た元凶だと気付いていないのだろう。「表向きの敵対関係」を作り上げた二人は、互いに互いを貶して去っていく。
 二人が恋人同士であるという事実を知る身としては、彼らの茶番は抱腹絶倒モノなのだが、それを堪えながら二人を見送ってやる。そんな茶番の原因である事も重々自覚しているし、そんな事をしよう物なら、折角作ってきた「ヒトとしての自分」のキャラが崩壊してしまう。
 素顔のままで本音を晒す相手は、霧雨と自分の部下達だけで充分だ。
「……とは言え、もう少し引っ掻き回すつもりなんだけどね」
 誰もいない廊下でクークは小さく笑い……そして、その場を後にするのであった。
 ……次なる「面白い事」に遭遇する為に。
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