臨時講師は虎と獅子

【臨・時・事・情】

「先生、さようならー」
「はい、さようなら」
「また明日ね、彩塔さいとう先生」
「ええ、また明日」
 ひらりと手を振って追い抜かしていく青いブレザーを纏った学生達に、こちらも言葉と手袋を着けた右手を振り返し、私こと彩塔 硝子しょうこは笑顔で彼らを見送る。
 ここは、天ノ川学園高等学校。都心から少し離れた場所にある、天ノ川学園都市の中にある高校だ。
 で、私がそこで何をしているのかと言えば。聞いてお分かりかと思うが、ただいま彼らの「先生」をしている。
 「先生」と言っても、常勤講師ではない。先日産休に入った教師の代理、つまり臨時講師として、この学園で教鞭をとっているのだ。担当教科は社会科、その中でも主に世界史を教えている。
 既にこの学校に来て一週間が経過しているのだが、生徒の数が多い事や、私が受け持つクラスも多くはない事から、まだまだ知らない、あるいは顔と名前の一致しない生徒も多い。
 幸か不幸か、生徒の方には覚えられているようではあるのだが。
 臨時とはいえ、生徒から見れば「先生」である事には変わりはなく、休憩時には容赦ない質問攻めに合う事もしばしば。
 ……その殆どが授業の内容ではなく、ごく個人的な物……「恋人はいるのか」から始まり、「好みのタイプ」、「以前の職業」などである事はご愛嬌。この年頃の子供は、勉学よりも己の興味に夢中になる頃合だ。自分にも覚えがあるので、それが悪い事だとは言わないし、むしろそうやってどんどん己の見識を広めてほしいとも思う。
 「先生」と言っても、友人の延長くらいの感覚で付き合ってくれる女子生徒が多いし、男子生徒もごく普通に声をかけてくれるので、恐らく私個人の人格は認めてもらえているのだろう。
 授業の方の受けに関しては不明だが、文句が聞こえない事を考えれば、それなりに認めてもらえていると思いたい。実際、分り難い授業をしよう物なら、この年代の少年少女は容赦なく授業を崩壊させるし、こちらに対しても攻撃的な態度を取る。
 普段から右手に嵌めている手袋に関しては、「チョークに弱い体質」と言って誤魔化していた所、それがまた彼らのツボにはまったのか、えらく心配もしてくれる。受け持ちのクラスの子からは手荒れに効くというハンドクリームを多数貰い、受け持ちでないはずのクラスの子からは「こっちの方が似合うよ」と新しい手袋を貰ったりまでしてしまっている。
 そんな風に懐いてもらうのは、ひどくありがたい事ではあるのだけれど、他の先生方からは、当たり前だがあまりいい顔はされない。それに、私がこの学園にいられる期間はおよそ半年。懐かれすぎれば、別れが辛くなるし、何より私はある目的を持ってこの学園に来たのだ。彼らを騙すようで心苦しいが、その目的を達成する事が第一である以上、あまり親しくなりすぎるのも良くない。
 ……一応、それなりの距離は取っているつもりではあるのだが。
 思いながら、ふぅ、と深い溜息を吐き出した瞬間。
「相変わらず、生徒に随分と懐かれていますね、彩塔先生。だけど、『先生』ではなくて『お友達感覚』って奴のようですがね」
 馬鹿にするような冷淡な声に反応して振り返れば、そこには幾人かの生徒を引き連れた、すらりと背の高い、ハンサムもしくはイケメンなどの表現が似合う男が、声同様どこか馬鹿にしたような笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
 白衣を纏っているその姿は、あからさまに「理科の教員」という感じがするし、彼からは今日の授業で使ったらしい薬品の匂いが微かに漂っている。
 その半歩分後ろでは、私を嫌っている事を公言して憚らない、白衣の生徒達が並んでおり、冷たい視線をこちらに向けている。
 まるで一昔前の医療ドラマの総回診シーンのようだ。あの並びは何かしらの序列に基づく物なのだろうか。いっそ感心してしまう程に綺麗に並ぶ生徒達の中、特に冷たい視線を送っているのが、相手の両脇に立つ一組の男女。理科部部長の設楽したら 明草あけくさ君と、副部長の川奈かわな 瑠美るびさんだったか。
 万人に好かれるとは微塵も思っていないのだけど、ここまで嫌われる理由も……ないと思うのだが。
 そんな事を考えながら、こちらも嘘臭さと胡散臭さが満開に咲き乱れた作り笑顔を浮かべ、声をかけてきた「相手」に向って言葉を返す。
「あら、灰猫はいねこ先生。先生こそ生徒さん……特に理科部の皆さんに懐かれていらっしゃるようで。何故でしょう、若い女性を侍らせているその様は、やや犯罪のような印象を受けます」
「はっ、手厳しいな。ですが、あくまで俺の人徳って奴ですよ。……体質で気を引くあなたとは違ってね」
 にこにこ。
 バチバチバチバチ。
 「相手」……灰猫 きゅう先生との間にあからさまな火花を散らせ、互いに満面の笑み……に見せかけた冷笑を浮かべて言葉を交わす。
 恐らく第三者の視点から見れば、火花どころかブリザードが吹き荒れている幻覚が見える事だろう。「灰猫先生」と「彩塔先生わたし」の間柄は、いっそあからさますぎる程に険悪だ。
 灰猫弓。彼もまた、私と同じ「臨時講師」である。こちらは通勤途中で大怪我を負った教員の代理として、私よりも二週間程先にこの学園に来た、簡単に言えば先輩にあたる人物。たかが二週間で先輩、後輩の関係もないのだが。
 そのすらりとした見目と、清々しいまでのフェミニストぶりから、一気に女子生徒の人気者となったと聞いている。更に見目だけでなく「分りやすい授業」や「相談に乗ってくれる、良いお兄さん」の面もある為か、男子生徒からの信頼も厚い。
 彼の担当教科は理科、主に化学であるが故なのか、彼の「信奉者」は理科部の生徒が多い。
 私とは赴任時期が近い事もあるせいか、いつの間にか私達の知らぬ間に、生徒間のごく一部に「灰猫派」、「彩塔派」と呼ばれる派閥めいた物まで出来ている始末。
 授業スタイルどころか、教科すら全く異なるというのに、比較されるのはあまり好ましくないのだが。
「気を引いたつもりは。そのように見られるなんて、随分と穿った見方をされるのですね」
「ははっ。彩塔先生程じゃありませんよ」
「先入観で物を言っている事は認めます。ですが灰猫先生、あなたに関して妙な噂が飛び交っている以上、そう見てしまっても仕方ないのでは?」
「噂? どんな物かは知りませんが、俺にやましい所なんてこれっぽっちもありませんよ」
 私が赴任した時から、「何故か」彼は私を敵視し、突っかかってくる。その為、こちらも「お返しとして」言葉を返す。そのやり取りが、この学園に来てから一週間続いている。
 ある意味、今ではすっかりおなじみの光景という事で、最初の頃は止めようとしていた生徒達も、今ではいつもの事かと無視するか、あるいはもっとやれと煽る始末。
 大人気ないとは分っているし、その言葉を直接言われる事も多々あるのだが……生来の負けず嫌いとか、売られた喧嘩は利子つきで返すとか、その他諸々の事情ゆえに、そう簡単にやめられないのが現状だ。
 それに……「噂」の真偽も気になる事でもあるし。
「まあ、ご存知ないんですか? 『灰猫先生は若い女の子と同居している』、『灰猫先生に楯突くと、怪物に襲われる』などの噂を、よく耳にしますが」
 にこやかな笑みと共にその言葉を放った瞬間、彼の後ろに控える生徒達から、ぶわりと突き刺すような気配が放たれた。
 「敵意」などの生やさしい物ではない。これは殺気。本気で私を殺すつもりの気配。
 その気配にゾクゾクとした感覚を覚えながらも、私は平静を装って相手の言葉を待つ。
 だが、これ以上私と灰猫先生の睨み合いを見ていたくないのか、それとも単純に私の顔を見たくないのか、それまで無言で控えていた川奈さんがフンと鼻を鳴らし……
「先生、そんな失礼な人放っておいて、早く行きましょう?」
「川奈君の言う通りです。貴重な補習の時間がなくなってしまう」
 彼女に同意するように設楽君が言えば、残りの子達も同意するように頷き、全員で敵意の篭った視線を私に向ける。
 彼の方も、ニヤリと勝ち誇ったような笑みを浮かべて「そうだね」とだけ言うと、スタスタと私の脇をすり抜けるようにして歩を進め……
「猫かぶり」
「エセホスト」
 すれ違いざま、互いに捨て台詞のように吐き捨てた言葉は、彼の親衛隊の耳にも届いていたのだろう。ギロリと殺気の篭った複数の視線を受けながら、私もまた馬鹿にしたように鼻で笑う。
 勿論、そんなあからさまな挑発に彼が乗るような事はない。……生徒の何人かは、乗ってきそうな勢いではあったが、結局は歩き去っていく灰猫先生の後を追ってその姿を消した。
 そんな彼らの気配が完全に消えたのを確認し……私はこの日何度目かになる溜息を吐き出して、思う。
 いつまでこんな、精神衛生上よろしくない「茶番」を続けなければならないのか、と。

 さて。私の事を少し話そう。名は、先にも述べた通り「彩塔硝子」という。ただしこれはヒトの中で生活する為の仮の名であり、本来の名……「真名」は別にある。それに、今の姿もヒトの中で生きていく為の擬態。擬態を解いた姿は、ヒトからは「ライオンファンガイア」と呼ばれている。
 以上の事からも分るように、私は「ヒト」ではなく、「ファンガイア」と呼ばれる種の異形。それも不本意ながら、上位の存在たる「チェックメイトフォー」の一人、「ルーク」の称号を持つ者だ。
 普段から右手に手袋を着けているのは、常に右手の甲に浮かぶ「ルークの紋章」を隠す為であり、別段荒れやすいとかアレルギーがあるとかではない。一般的に紋章が刺青のように見えてしまう上に、同族から「ルークである」と即座にばれてしまうのが嫌なので、手袋をつけているだけだ。
 私達ファンガイア氏族をはじめとする「魔族」と呼ばれる存在は、「ライフエナジー」と呼ばれるエネルギーを、他者から奪う事でしかその生命を維持出来ない生命体である。
 ライフエナジーさえ途切れなければ、百年二百年は優に過ごせる半面、ライフエナジーその物は他の生命体から奪わねばならない。自分ではライフエナジーを生み出す事の出来ないのだ。人間でいうところの「必須アミノ酸」のようなものか。
 かつてのファンガイア氏族は、短命ながらも豊富にライフエナジーを持つ「ヒト」からそれを奪い、「人間はファンガイアの家畜である」という考えが横行していた。
 しかし現在、我らの長である「キング」の意向によって「ヒトとの共存」が打ち出され、「ライフエナジーに代わる新しいエネルギー」を開発する事に成功。それによって、我々は命をつないでいる。
 …………何が言いたいのかというと、「私は異形だが、人間に手を出すつもりはない」という事だ。それさえ理解しておいて頂ければ、何の問題もない。
 住まいは風都という名の「政令指定都市一歩手前」の街にある、マンスリーマンションの一室。現在はそこで、二人の同居人と生活を共にしている。
 普段は風都の中で色々なアルバイトをして生活費を得ている。本屋の店員、ビルの清掃、探偵事務所への情報提供、風都の観光案内などが主な私の仕事だ。
 そんな私が、何故いきなり臨時講師などしているのか。
 …………発端は一月ほど前に遡る。

「高校への潜入、及び調査ですか?」
『うん』
 その話を持ってきたのは、あまり見慣れたくないのに見慣れてしまった一人の異形。
 黒タキシードを纏い、顔は多足類の足、もしくは肋骨を連想させるような白い模様が施されたフルフェイスの仮面をつけた者……マスカレイドドーパントと称される「怪人」で、自らを「クーク」と自称するその人物は、私の言葉にこっくりと大きく頷いた。
 ドーパントというのは「『地球の記憶』を記録した『ガイアメモリ』と呼ばれるツールを使って、人から異形へと変じた者」の総称である。マスカレイドドーパントとは、「マスカレイドメモリを使ったドーパント」を指す。
 あくまでもメモリの力で異形と化しているだけなので、メモリを体から抜くか、壊すかさえすれば普通のヒトに戻るのだが……このクークは、曰く「ボク、シャイだから~。素顔晒したくないんだよね~」と、変装気分でメモリを使っているのだから如何ともし難い。
『最近、その学校で奇妙な出来事が起こっててさぁ。……ボクはちょっと手出しする訳に行かないから、君らで解決してくれないかなぁって』
「何で警察じゃなくて、俺らに話を振るんだよ」
 思い切り顰め面をしながら、同居人の一人が聞こえよがしに呟く。
 その意見には同意したいところですが、このヒトが風都の外で、警察とか探偵に頼みに行っても、騒ぎになるだけのような気がします。何しろ見た目からして異形な訳ですし。
 と、心の中でのみ呟きを落としつつ、私はじっとクークの顔を見る。
 風都の中であるならば、クークはご近所様やそれなりの公共施設への出入りが自由なようだ。少なくともこのマンスリーマンションの住人に対しては、恐ろしいまでの根回しの良さで「顔見知り」を作り、そして受け入れられている。
 私達とて、なんやかんやで受け入れてしまっているのを考えると、実はこいつが一番危険な存在なのではなかろうかと言う気にさえなってくるが、それはさておき。
 この存在が絡むと、ろくな事がないのは良く知っている。嫌な予感を覚えつつ、私は無言で先を促すと、相手は口元と思しき部分に人指し指を当て……
『う~ん、警察とか~あるいは探偵とか~、そういうのじゃちょっとまずいんだよね~。…………何しろウチの組織絡みだから』
「……は?」
『ざーいだーんエーッッックス!!』
 しゅばっという擬音が聞こえそうな勢いで腕を顔の前でクロスさせ、クークは何故かやたら楽しそうな声で言の葉を放った。
 ……そう。この奇妙な人物、これまた実に奇妙な組織に属している。
 組織の名は「財団X」。かつてはこの風都をガイアメモリの実験都市と定め、メモリの持つ力を利用して、何やら途方もない事をしでかそうと企んでいた組織。
 現在はメモリへの関心を失っているらしく、風都に彼らの痕跡はほぼ無いに等しいほどに減ったが、他にも様々なツールや実験やらに手を出し、私の主観で「良からぬ事」を企んでいるらしい。
 「らしい」などと曖昧な事を言うのも、彼らの全容や目的などが一切不明だからである。
 そしてクークはその組織に属していながらも、「面白い物が見たい」というだけの理由で、組織のやる事為す事を、時にはひっそり、そして時には堂々と邪魔する、正しく「変人KOOK」なのだ。
「……あの組織、まだ何かやっていやがるんですか?」
『勿論。諦めの悪さが売りの、悪人組織だからねー。金になるなら何でもやるよ』
「そこに属してる奴の台詞じゃないだろ」
 力の限り顔を顰めながら、私も同居人も呻くように言葉を紡ぐ。
 それもそのはず、あの組織には私達二人……いや、もう一人の同居人含め、三人とも良い思い出がない。正直に言えば、さっさと潰れてしまえば良いのにとさえ思っている。しかし世界的な広がりと潤沢な資金があるらしく、個人的な思惑如きではびくともしないらしい。
 ……まあ、「悪の組織」などと呼ばれるものは、得てしてそういう風に出来ているのだろうけれど。どうしてその無駄なまでに広いネットワークと軽いフットワークを、他の事に生かそうとしないのか。
「……それで、その校内では何が起こっているんでしょう?」
『うん。傷害事件』
「毎度毎度、さらりととんでもない事言うよな、お前」
 それもまた同意します。
 やはりそれも心の中でのみ呟きながら、私達はクークの話に耳を傾けた。
 ……概要は、こうだ。
 ここ数週間、何者かが校内で教師達を標的とした襲撃が行われていると言う。
 「何者か」と表現したのは、犯人はジャージ姿に覆面という格好だったかららしい。
 初めの内はゴムの警棒で殴る程度の可愛らしいものだったが、徐々に武器がエスカレートしていき、今では刃物で切りつけられているそうだ。
 ……ここまでなら、ごく普通の傷害事件、警察の介入する余地があったのだが、この後からが問題だった。
 ある時を境に、目撃される犯人の姿が変わった。それも、人ではなく異形へと。扱う武器も、異形が持つ「紐状の物」へと変わり、意識不明に陥る教師も増えたのだとか。
 襲われた教師達は、クークの独自の調査の結果、「最後に襲われた教師」を目の敵にしていた者達らしい。だからこそ当初は、その「最後に襲われた教師」を怪しんでいたらしいが……それもまた襲われた事で、犯人像が読めなくなったと言うのだ。
 とはいえ教師陣は戦々恐々。いつ何時、自分が襲われるかと怯え、縮こまる始末。
 下手をすれば教師陣は恐怖のあまり「登校拒否」を起こしかねないし、そんな事になろうものなら学校はその機能を失って勝手に崩壊、彼の属する財団は実験場を変えねばならなくなる。そうなった場合、パワーバランスが崩れるとかで、クークとしては「面白くない」らしい。
 だから、個人的に依頼に来たのだと。異形には異形を、そうすれば何か面白い事が起こるんじゃなかろうかという打算をおおっぴらにして。
 …………いや、まず警棒の時点で、学校側は警察を呼ぶべきだったのではと思うのだけど。
「出て来たのが異形とか怪人って。聞いてる感じじゃぁドーパント絡みっぽくも聞こえるが、ガイアメモリからは手を引いたんじゃないのか、お前のトコ」
『んっふっふ~。手を出しているのがメモリだけとは、かーぎりーませーん』
「……では、そこでは何に手出ししているんです?」
 その問いを耳にするや否や、クークはまるで待ってましたと言わんばかりにくるりとその場で一回転すると、びっしぃっと親指を立て……
『アストロスイッチに手出し、なう』
「呟きか!?」
「アストロ……?」
 聞き慣れない単語に顔を顰める私に、クークはこくりと首を縦に振ると、ひどく簡潔な……簡潔すぎて、なおの事分り難い説明をしてくれた。
『うん。地球の記憶を引っ張り出して云々かんぬんしているのがガイアメモリなら、宇宙の力を引っ張り出して云々かんぬんしているのがアストロスイッチ』
 ……云々かんぬん……
「曖昧な表現ですね」
『ほら、ボク下っ端だから! 詳しい事ワカラナーイ』
「相変わらずイラッとするなぁ、お前……」
 同居人は本気で少し苛立っているのか、私の横でぎゅりっと拳を握り、今にもクークへ向けて振りぬきそうなオーラを出している。
 そしてその気持ちは、私も理解できる。出来るだけに、そっと彼の拳を押さえ、にこやかな笑顔で彼に言った。
「殴っても構いませんけれど、私が殴る分くらいは生かしておいて下さいね?」
『え? ちょっ!? 何で殴る気満々!? やーめーてー、君らに殴られたら、ボク、死んじゃうよぉ~』
「いっぺん死ね」
 吐き捨てるように言いながらも、やはり彼も先の「アストロスイッチ」とやらの話が気になっているのか、固めていた拳を下ろし、困ったようにぐしゃぐしゃと髪を掻き毟った。
 かく言う私も、正直気になっている。
 ヒトに手出しをする異形全てを「許せない」などと言うつもりはない。
 かつてのファンガイア氏族は、間違いなくヒトに害を為す者であったし、そうしなければ生きていけなかったからだ。
 だが、もしもこれが無意味で理不尽な暴力だったなら、私はそれを許す事が出来ないし、おそらく隣に居る彼も許せないと思うだろう。
 ……彼は、不条理な出来事で「ヒトではなくなった」存在だから。
「まあ、殴るのは後にして、だ。……お前、俺らに何をさせたいんだ? 学校に潜入ったって、そう都合よく用務員の募集なんかしてないだろ」
『用務員? 何を仰るウサギさん。君達には先生として行って貰うんだよ?』
 …………
「……はい?」
『んっふっふ~。既に君らの取得免許は偽造済みなんだ~』
 私の頓狂な声に、クークは賞状のような物を二枚取り出しながら、誇らしげな声で言う。
 変化などない筈のマスカレイドドーパントの表情が、何故かニヤニヤと笑っているように見えたのは、気のせいではないだろう。恐らくクークは、この仮面の下でニヤリと笑っているに相違ない。
 ……そう思うと、普段から腹立たしいマスカレイドの顔が余計に腹立たしく思える。
「待て。まさかお前……」
『ちょーどイイ感じに臨教必要らしくてさ~。偽造つくっちゃった。ま、その状況も、ボクがちょ~っとムニャムニャしたからなんだけど』
「最初から俺達を巻き込む気満々なんじゃねえかっ!」
『当然! ボクが来た時点で、お断りなんて出来ないようにしてあるのサ! 外堀埋めてから来るに決まってるじゃないか! その辺の根回しは得意中の得意だよ!』
 えへん、と無意味に胸を張り、同居人のツッコミを、クークはさらりと受け流す。
 裏でこの変人が何をしたのかは知らないが、私達をそこに送り込む為、何やら画策し、そして上手い具合にその状況を作り出した、と。
 ……本人は「下っ端だ」などと公言して憚らないが、本当に下っ端ならばその「ムニャムニャ」とやらなど出来ないだろう。
『そんな訳で、こっちで勝手に書類も通しといたから。理科は来週の月曜からオシゴトで、社会科はその二週間後に開始。……じゃ、よろしくねー。灰猫弓センセ、あーんど彩塔硝子センセ』
 同居人……「恋人」である弓さんと、私にそう矢継ぎ早に言い残すと、クークは彼に学園への入門証と教科書一式、更に何やら空き缶のような物数種を手渡して、スタタンスタタンと奇妙な足音を立てながら、姿を消した。
 そしてどうやら。悔しいがクークの目論見は当たったらしい。
 「犯人」は三週間前に赴任した「灰猫先生」に心酔でもしたのか、「教師襲撃」は再開された。
 狙いは「灰猫先生に敵対する教師」へ向けられ、私が赴任……というか潜入するまでの二週間で三人が襲われた。その誰もが、やたら太い紐状の物で体を締め上げられるという物。
 だからこそ、私が赴任してすぐから、こうやって「あからさまな敵対関係」を作り、相手の狙いを私に向けさせているのである。
 ……が。相手は今回に限りかなり慎重なのか、今のところ私に対する「攻撃」は来ていない。
 時折教室の窓から私めがけて鉢植えが落ちて来たり、ロッカーに毒蛇が入っていたり、尖ったガラス片が飛んできたりはするが、この程度は可愛い悪戯と呼べるし、どれもそれ程大きな被害は齎されていない。
 それよりむしろ、自身の恋人である弓さんと、演技とはいえ険悪な空気を醸し出さねばならない事が苦痛だ。女子に囲まれている彼を見るのは、誇らしく思うと同時にひどく腹立たしい。
 「その人は私の恋人なのに」と、妙な独占欲を発揮しては、ついつい不要な挑発を「生徒に対して」してしまうくらいに。
 もっとも、その挑発も一応は弓さんに向けているように見せかけてはいるが。
 ……我ながら、本当に大人気ない……
 はあ、と溜息を吐き出しつつ、私は夕暮れに染まった校舎を後にした。
 この学園を包む妙な気配に、本能的に嫌な物を感じ取りながら。
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