灰の虎とガラスの獅子

【アブないW/ご褒美の後のキケン】

 灰猫さんの「担当さん」が、あの不出来、不肖、不気味な兄である「斉藤帝虎」であると知った日から、早数日。
 掃除の仕事をしていると照井さんから睨むような視線を受け、買い物途中で白騎士に会わないかとドキドキの毎日ではあるが、それ以外は、基本的に概ね平和だ。
 今日は本屋のバイトのお給料日。この中から今月の光熱費、家賃、その他諸々の雑費を差し引き、貯金する分も加味した上で……少しだけ、「贅沢」が出来ると判断した。
 ……初めての給料ではあるが、頑張って働いていたのだ。私は私にご褒美をあげてしかるべき。誰にも文句は言わせない。
 と、自分でもちょっと言い訳がましいとは思うが……とにかく、帰路の途中にある、以前から目を着けていた「科戸の風」という名の喫茶店に入って、メニューをじっと見つめる。
 うーん、この「季節限定マンゴーパフェ」も捨てがたいが、こっちの「抹茶葛きり」もおいしそうだ。ああ、でも定番メニューの「滑らかプリン」も……ああ、どうしてこうも甘味とは誘惑が多いのだろう。
 メニューを見て悶え、悩みに悩んだ挙句、私は結局「抹茶ガトーショコラセット」を頼んだ。
 ちなみに内容は、上質の抹茶を生地に練りこんだガトーショコラと、落雁つきのお抹茶。
 抹茶系統は苦味があって嫌いだと言う身内がいるが、私は抹茶が大好きだ。渋みと仄かな苦味が良い。
 洋の東西を問わず、菓子類は大好きだし、抹茶のみならず紅茶も好きだ。紅茶に至っては「好き」が高じて、紅茶マイスターの資格を取ったほど。
 いつか茶飲み友達を作って、三時のお茶会を開きたいという密かな夢があるにはあるが、いかんせんファンガイアである事を悟られない為に、様々な地を転々とする身。茶飲み友達がそもそも出来ないので、本当にささやかな夢でしかないのだが。
 しばらくして、私の席にやって来たケーキとお抹茶を眺めてから、ケーキをフォークで一口大に切って口の中に運ぶ。
 チョコレート独特の甘さの中に、練りこまれた抹茶のほろ苦さがちらりと顔をのぞかせる。正直、気の利いた事は言えないのだが、期待に違わぬ美味しさに頬が緩んだのが分かる。
 ……至福!!
 ヒトが作る料理は何でもおいしいが、その中でも味噌汁と甘味は特に秀逸だと思っている。
 最初にチョコレートを「お菓子」として扱った人に感謝したい。父が若い頃は、チョコレート……もとい、カカオの扱いは「菓子」ではなく「薬」だったと聞いている。確かに高カカオのチョコレートは、抹茶とはまた違った渋みと苦味がある。薬と言われて納得がいく。
 ああ、チョコレートが菓子として存在する時代に生まれて来て良かった!! ありがとう、過去の偉人!
 心の底からそう思いつつ、私はもう一口頂こうとして……こちらに向けられている視線に気付いた。
 この感じは……後ろからだろうか。振り返らずに後ろを確認する為、私は髪を直す振りをして鏡を取り出し、背後を確認する。
 そこにいたのは、どう言えば良いだろう。「派手」というありきたりな表現しか出来ない化粧を顔に施した女性だった。
 真っ赤な口紅を引き、紫のアイシャドウが毒々しい。ファンデーションも肌色ではなく白に近い色で、血色が悪く見える。目の下に隈が浮いているのも相まって、「綺麗」や「けばけばしい」という感想以前に、恐怖を感じさせる。
 服装と化粧が、全く合っていない。ちょっとしたホラー、もしくはサスペンス映画に出てきそうな雰囲気だ。身内の一人が見たら、憤死しかねないレベルでのミスマッチさ。とりあえず、お近付きにはなりたくない。
 その彼女が、半ば睨むようにしながら私の方を見つめている。
 ……私、何をしたかしら?
 不審に思うが、あからさまに探りを入れても仕方がない。鏡をしまうと、私は残っているガトーショコラを頬張った。
 感覚から察するに、彼女は同族ではなく人間。それならば、気を張る必要は殆どない。この街にはドーパントなる異形も存在するが、そうそう頻繁に出会うものでもなかろう。出会ったとしても、気付かないなら出会っていないのと同じ。
 それに、このケーキは折角の「ご褒美」なのだから、のんびりと食べていたい。至福の時間を邪魔されるのは、正直あまり好ましくないし。
 そんな風に思いながら、ガトーショコラの最後の一切れを口に頬張った……刹那。ふと、私の頭上に影が差し、声が降ってきた。
「アンタが彩塔硝子?」
 聞き覚えのない女の声。しかも人の事を呼び捨てとは。随分と礼儀のなっていない人だ。食べ終わるまで待っていたであろう事だけは評価できるが、もう少し余韻という物を味わっていたかっただけに腹立たしい。
 若干の怒りを覚えながら、私は頬張ったガトーショコラを嚥下すると、声の主……後ろの席に座っていたはずの、件の「派手な女性」へと視線を向けた。
 こうしてみると、背格好は私に似ているかもしれない。肩線で切られた髪に、ボーイッシュな服装。靴も、私と同じように動き易さを重視しているのか、スニーカーだ。だが、いかんせん服の全てが「原色」。いくらデザインが「ボーイッシュ」と呼べるものであっても、こうも原色だらけだと色々と霞む。
 おまけに顔も全然違う。少なくとも、私はあんな化粧はしないし、こんなに血色も悪くない……はず。一般的なファンガイア氏族なら、彼女のライフエナジーを頂こうとは思わないだろう。明らかに不味そうだ。
 顔を上げた事で、彼女の問いに肯定を返したと取ったのか、相手は真っ赤な唇をニィと吊り上げ、私の顔を覗き込んだ。
「本当に綺麗よね。羨ましい」
「……あの?」
「髪も艶やか肌も凝脂。噂通りの綺麗な人」
 するりと頬を撫でられ、一瞬私は顔を顰めた。
 見ず知らずの人間に撫でられた事に対する嫌悪もある。だがそれ以上に、彼女の指先から伝わる「悪意」が、私の肌を焼いたように感じた。
 反射的にその手を払い、合わせていた視線をわざと反らして、「あなたに興味など一切ない」という態度を示しつつ、社交辞令的に彼女へ声を投げた。
「……私に何か御用でしょうか?」
「知ってる? アンタ今、この風都で話題の女性の一人なのよ」
「それは存じませんでした。大食いとか、怪力とか、そんな方面での噂でしょうかね?」
 私に関する話題ならば、恐らくそれくらいの物だ。他に目立つような事をした覚えも、心当たりもない。私はひっそりと生きていたいのだ。目立ってたまる物か。
 しかしそんな私の言葉に気分を害したのか、視界の端に映った彼女の顔は憎悪で歪み、私の髪を掴んで自分の方へと強引に引き寄せた。……ブチブチと何本か髪が抜ける音が聞こえる程、勢いよく。
 その様子を見て、何人かの客がひそひそと何事か話している。遠巻きに見ているのは、やはり厄介事に巻き込まれたくないのだろう。私だって、当事者でなければ遠巻きに見ている。正義感振りかざして助けに入るような真似はしない。
 人間同士のゴタゴタなど、人間同士で解決すればいいと思っている。そこに他の種族が介入するのはお門違いだ。
 ……この街の場合、人間同士のゴタゴタである事の方が少なそうだが。
「私を馬鹿にしてるでしょ」
「馬鹿に、というか……私は思った事を述べたまでです」
 掴んでいる彼女の手をバシリと払い、私はきつく相手を睨みながら言ってやる。
 人間同士のゴタゴタならば介入しないが、彼女は私に喧嘩を売ったのだ。ならばこちらもそれ相応の態度でお相手してしかるべき。
 私は、一族の中では割と穏やかな方だと馬鹿兄達は言うが、それでも人並みに怒るし苛立ちもする。まして今は自分へのご褒美タイム。それを邪魔されたのだから、苛立つのも当然だ。
 それに、ケーキは食べ終わっていても、まだお抹茶も落雁も残っているのに。
「本当にムカつく。こんなに綺麗でしかもその自覚がないなんて。何なの本当に何なのよ」
 ギラギラと狂気じみた視線を私に向けながら、女性は私の苛立ちに気付いていないかのように言葉を放つ。私も苛立っているが、どうやらそれ以上に彼女の苛立ちの方が上回っているらしい。
 彼女の目は、嫉妬と憎悪に彩られた瞳。それがぐるぐると綯交ぜになって濃い闇を形成している。それは、以前「雷神様」になった警官を最初に見た時と同じものだ。
 まさかとは思うが、彼女もドーパントではなかろうか。だとすれば、私は今までの人生の中で、今は確実にトラブルを呼び込む時期に差し掛かっていると見た。
 半ば呆れ混じりにそう思いつつ、私は落雁を齧ると一気にお抹茶を呷る。どうせ厄介事が起こるのなら、美味しい思いだけはしておこうと思ったからなのだが。
 私の考えとは裏腹に、彼女はすっと私の耳元に唇を寄せ、そして低く囁いた。
 無事に家路につける日ばかりとは思わない事ね、と。
「思っていませんから安心して下さい」
 偽りの笑顔を向けてそう言うと、彼女はフンと鼻で笑って店から姿を消したのだった。
 ……ああ、多分待ち伏せしているんだろうなぁ……

 予想通りというか何というか。
 店を出てから少し歩いた場所に、「そいつ」は居た。
 見た目の印象としては、「ミロのヴィーナス」。白い、石膏のようにも見えるその姿に腕はなく、顔には歪な笑みが浮かんでいる。穏やかな印象を抱かせるはずの女神は、今は邪神のようにさえ映る。まるで、質の悪い贋作のようだ。
 こんな道の真ん中に、こんな石膏像などあるはずない。しかもこちらに向かって歩み寄る像など……正直、ただのホラーでしかない。マネキンでも充分怖いと思うが、石膏像はそれに近いものがある。
「こんばんは」
『呑気なものね、この状況で挨拶なんて』
「よく言われます」
 相手は女性言葉だが、聞こえた声はまるで機械で加工したように、高くなったり低くなったりしている。それが、私には非常に奇異に思えた。まさか、それが仕様という訳でもないだろう。ならば、正体を知られないようにするための工作? 何故?
 疑問を抱きはするが、相手からの敵意に晒されている現状で、それを深く考え込んでいる暇はない。ふっと一つ息を吐き出すと、私は笑みを消して警戒態勢をとった。
 しかしそんな私の態度は、相手を喜ばせただけのようだ。「ヴィーナス」はケタケタと笑うと、ゆっくりと視線を私に固定し……
『死んで頂戴』
 その言葉に、私は妙な予感を覚え、反射的に転がるようにして体を左へと動かす。しかし、特に何か起こる訳でもない。端から見たら勝手に転んだように見えた事だろう。
 だが、私は長年の経験から確信していた。相手が、何らかの攻撃を仕掛けてきていたであろう事を。
 その証拠に、相手はちぃ、と小さく舌打ちをすると、ギロリと私の顔を睨んだ。
 ……美術品にこれといった愛着がある訳ではないのだが、それでもこれだけは言える。「邪悪な顔のミロのヴィーナス」は、作者に対する冒涜であると。
 そんな私ですらそう思うのだ。美術品や芸術品などに造詣の深い三人の兄達が見たら、目の前の「ヴィーナス」をボッコボコに叩きのめそうと動くだろう。普段からかんらかんらと笑ってばかりの帝虎辺りでさえ、無表情で殴りつけるような気がする。
『風都の女神は、私だけで良い。園咲若菜も、クイーン&エリザベスも、レディ・ウィンドも、そしてあなたも要らない!』
 今挙がった名前の中で、かろうじて園咲若菜は知っている。灰猫さんの好きなラジオのパーソナリティで、この街のアイドルだ。確か、「若菜姫」の愛称で呼ばれていたか。
 クイーン&エリザベスは、最近「フーティックアイドル」なるアイドル発掘番組から、特別にデビューした女子高生二人組だったか。最近、仕事先の有線で彼女達のデビュー曲がかかっているので、流石にそのくらいは知っているが……
 もう一人の名前は初耳だし、そもそも私は女神などではない。ただの異形だ。
 思いながらも、私はまたしても「妙な予感」に押され、その場から離れるべく大きく後ろに跳び退る。
 その瞬間、微かにだが、首に何か触れた気がした。
 感覚としては……人の指、だろうか。それがまるで、私の首を締め上げるかのような……
 まさか、相手の力は……「見えない腕」か。しかも本体との距離を考えると、伸縮自在らしい。何と凶悪な力である事か。ドーパントは、人体の構造を無視した造りの者もあるという事なのだろうか。
 舌打ちをしたい気分に駆られながらも、表面上は冷静に見せかけて相手をじっと観察する。
 相変わらず、「ヴィーナス」の凶悪なご面相に変化はない。腕もない……ように見える。実際はあるのだろうが、少なくとも今は見えない。
『あら、上手くかわしたわね』
「お褒めのお言葉、恐縮です」
 喉の奥で笑う「ヴィーナス」に、私は微かに苛立ちの混ざった声で返す。
 この間の「雷神様」こと、カレントドーパントになっていた警官もそうだったが、どうやらドーパントの皆々さんは、「ヒトの姿をした者」を見くびる傾向にある。つまり、相手の力量を見極められていないのだ。
 かく言う私とて、完璧に相手との力量差を量れる訳ではないが。
 今だってそうだ。勘などという不確かな物で何とかかわしているに過ぎない。いつまでもかわし続ける事が出来るとは、到底思えない。
 さて、どうする、私。
 自分に問いつつ、もう少しだけ相手との距離を稼ごうとしたその時。私の頬を、一滴の水が叩いた。
「……雨?」
『ちっ……運が良いわね、あなた』
 徐々に強くなる雨足を気にしているのか、相手は忌々しげに空を見上げ……そして、歪んでいる顔を更に歪めて私を睨みつけると、そのままどこかへと走り去ってしまった。
 ……恐らく、腕は見えないだけで存在している。つまり、雨が降ればその「見えない腕」に当たってしまい、腕の場所がバレる。
 それでなくとも私はその「見えない腕」を二回かわしている。腕の場所がばれてしまえば、殺すのは難しいとでも判断したのだろう。
「力量差は見抜けない割に、退き際はなかなかに心得ている」
 呆れ半分、関心半分で思いつつ、私は土砂降りとも言える雨の中で軽く溜息を吐いた。
 既に服はびしょ濡れだ。今更雨宿りをした所で意味はないだろう。この程度で風邪をひくような軟な体ではないが、濡れて肌に張り付く服の感触は気持ちが悪い。
 帰ってすぐに着替えて寝よう。
 と、心に決めたのも束の間。私の進路を、見覚えのある影が遮った。
 闇の中でも目立つ、白い姿。高く結われた髪は甲冑につく房のようにも見える。その存在の周囲だけを雨粒が避け、なんだか異様な空間を醸し出している。
 「白騎士」……井坂。先日、灰猫さんにアッシュのメモリを挿した存在。
 灰猫さんに聞いた所、「ウェザードーパント」と呼ぶべき存在らしい。天候を操り、私が「会ったら絶対に殴る」と心に決めていた人物だ。天候を操るのだから、彼の周囲だけ雨粒が避けるのもうなずける。
『おやおや、奇遇ですねぇ』
「こんばんは。今日は、灰猫さんはいません。ですが、とりあえず一発殴らせなさい」
 まるで散歩中に出逢った近所の人のような口調に、こちらも同じように返しつつ、ぐっと拳を固めて相手の頬めがけて殴りかかる。
 本気も本気、いっそ殺してしまおうかと思うくらいの力を込めて。
 しかし相手は、即座に私と自分の間に氷の壁を張って、私の攻撃を防ごうとする。氷はかなり厚い。しかも空気を全く含んでいないらしく、白ではなくどこまでも清んだ色をしている。
 このような氷は、不純物を含まない分、一般的な氷よりも硬くできている。本来なら「即座」に出来る物ではないが、そこはドーパントとしての能力故なのだろう。
 だが……悪いが本気の私の前では、そんな壁など、ないに等しい。
 当たった拳は透明な壁を一瞬で真っ白なひびを入れ、僅かなタイムラグの後、その壁を粉々に破壊、勢いを殺さず白騎士の頬を捕え、その体を吹き飛ばした。
 まさか氷の壁が壊されるとは思っていなかったのか、彼は低く呻きながらも、近くの壁に叩きつけられる。
 感触からすると、相手の歯の二、三本は折ったか。ドーパントの姿なので分らないが、口の中が血だらけになっているようなら多少溜飲も下がろうという物だ。
「途中の氷で威力が多少落ちたとはいえ、私の全力の拳喰らってこの程度で済むとは、感嘆に値します。もう少しダメージを受けて頂けると思ったのですが」
『ぐっ……これは予想外でしたねぇ。まさかあの壁をあっさりと砕くとは』
「我が一族を甘く見すぎです。まして、私は、一族の中でも腕力面において自身がある方。『人間風情が』などと言うつもりはありませんが、見くびられる謂れもありません」
 殴られていながらも、どこか楽しそうな相手に対し、私は自分に出来る最大限の冷ややかな視線で相手を見下ろす。
 私とて、これでも一応はファンガイアだ、ヒトを見下す事が出来ない訳ではない。
 ……やろうと思わないだけで。
 それにしても、何故この男が、この格好でここにいるのか。
 「奇遇」と言っていた事を考えると、私を狙っていた訳ではない。そして、普段から「白騎士」の格好でうろついているとも考え難い。そんな事をすれば、非常に目立つ。別段気にしていなさそうな気もしなくはないが、目立てば彼の目的も果たしにくくなるだろう。
 そしてこの男は、誰かにメモリを挿す事、それによって齎される効果に執着している節がある。
 だとすると、考えられる事は、一つ。
「あなた……また誰かを襲ったんですか!?」
『おや、よくお分かりですねぇ』
 気付き、怒鳴るように言った私に対し、相手は心底楽しそうな声で肯定の言葉を返す。
 こちらもヒトの命を吸って生きる者だ。「人を襲ってはいけません」などと説教出来る立場にない事は、自分が一番良く分っている。
 分っているが……自身の快楽の為に人を襲うなど…………
 かぁっと頭に血が上り、もう一発殴ろうとした瞬間。
『それ以上はさせないわよ』
 女の声が、響いた。本来なら何もないはずの真上から。慌てて上を見やると、そこにいたのはまた別の異形。
 女性らしいボディラインは、先程の「ミロのヴィーナス」に通じるところがある。
 色は赤系統に紫が混じっている。それだけでも充分毒々しいと思うのに、問題は「彼女」の形。上半身は人間と同じような形状だが、足はないのか封印されているのか、とにかくふわふわと浮いている。全体としてのボディラインは、どことなく「人差し指」のような……
『井坂先生を殴るなんて、良い度胸しているじゃない、小娘が』
 先程の「ヴィーナス」と違って、こちらはどうやら見目通りの女性らしい。
 相手は言うと同時に、虚空にいくつかのエネルギー弾を生み出し、ジリジリと黒いプラズマを放つその弾を、彼女は容赦なく私に向かって放り投げた。
 軌道が真っ直ぐに私に向いているのを考えると、威嚇とかそんなつもりは一切ないようだ。感情のままに放られている印象がある。
 ああ、もう。私はひっそり地味に生きていたいのに、どうしてまたこんなトラブルが発生するの!? いや、自分から首を突っ込んでいる節があるのは否めいないけれども、それを差し引いても!
 頭を掻き毟りたくなる衝動に駆られながらも、私は足元に転がっていた石を拾い、エネルギー弾に向かって思い切り投げつける。
 遠慮、容赦、手加減一切なし。全力で投げた小石は、一番手前にあったエネルギー弾と接触すると、それを貫き大きな爆発を上げさせる。他のエネルギー弾も、次々と誘爆を起こしていく。
 思った通り、接触爆発型だったか。
 爆煙に紛れ、その「人差し指」との距離をとるべく大きく後ろに下がった……その時。ひんやりとした何かが、私の背中に当たった。そう認識した途端に、それは意思を持つ者であるかのように、パキパキと音を立てて私を拘束する。
 「何か」など曖昧な表現は必要ない。間違いなくこれは、「白騎士」が生んだ氷の壁だ。服が雨で濡れていた分、凍りつくのは非常に早い。
「迂闊でした。あなたの事を一瞬でも失念していたなんて」
 首から下を完全に氷で覆われ、急速に体温が失われて行くのを感じながらも、「白騎士」に視線を向けて、本心からの言葉を紡ぐ。同時に、全身に力を込めて覆っていた氷を砕いた。
 あの程度の氷など、この姿のままでも容易く砕ける。伊達や酔狂でルークに選ばれた訳ではないのだ。拘束したければカテナでも持っていらっしゃい!
『あれを砕いたですって!?』
「怪力自慢なもので。申し訳ありません」
 驚きの声を上げる「人差し指」に向かって言いながら、私は体についた氷の欠片をパンパンと払い除ける。それを不快に思ったのだろう、「人差し指」は苛立たしげにこちらに顔を向けた。多分、睨んでいるつもりなのだろうが……その顔には「目」がないので、断言は出来ない。
『やはり、捨て置けないわね。ここで殺して……』
『いや、冴子君。今日はもう帰りましょう。目的は果たしましたし、奥歯も何本か折れてしまいました。早急に治療したいんですよ』
『…………分りました。最上級の歯科医を用意させますわ』
『それに、腹も減りましたしねぇ』
 止められた事を不服に思っているのか。しかしそれでも「人差し指」……「冴子」と呼ばれた彼女は、渋々と言った口調で返しつつも、優雅な仕草で「白騎士」に向かって一礼、そのまま「白騎士」が生んだ霧の中へと消えていく。
『ああ、そうだ。彼女のコネクタが成長するまでの間は、アッシュのメモリを成長させようと思っていましてねぇ。これからはちょくちょく、お邪魔しますよ』
 どこからか反響しているその声に、思わずぎょっと目を見開く。灰猫さんにメモリを挿すのは、時間潰しの為だとでも言いたいのか。
 その言葉にかぁっと血が上るが、既に相手の姿は微塵もない。
 やり場のない怒りを抱え、八つ当たり的に近くにあったドラム缶を蹴飛ばす。勢いがつきすぎたらしく、ドラム缶はミシリと音を立てて真っ二つに裂けながら、少し離れた所を転がり……そして私は、その先で倒れこんでいる二つの人影を見つけた。
 まさか、という思いが駆け抜ける。
 あの男は、「誰か」を襲い、そして「目的を達成した」と言っていた。あそこに倒れている人物が、その「被害者」である可能性は高い。
「大丈夫ですか!? しっかりして下さい!!」
 叫びながら駆け寄った私の視界に入ったのは、父娘と思しき一組の男女。娘の方は気を失ってはいるが、幸いにも無傷。だが……父親の方はもう……
 いや待て。「無傷」? あの男が、それで帰すような人物か? 「彼女のコネクタ」がどうとか言って……
 慌てて思い直し、私は反射的に彼女の袖を捲り上げる。その瞬間、私の視界に入ったのは……灰猫さんの腕に穿たれた物と、同じ刻印。コネクタとか呼ばれていた、ガイアメモリの受け入れ口。
「う、う……お父さん……」
 うなされるように呟く少女の頬を伝うのは、雨粒なのかそれとも涙なのか。
 そんな彼女の姿に、かつての自分が重なる。大切な人を、目の前で奪われた「あの日」の自分と。
 ふつりと湧き上がる怒りは、あの男へのものなのか、それともかつて、私から大切な人を奪った者への物なのか。
 顔の擬態が解けかけているのを感じつつ。それでも私は大きく深呼吸をして、救急車を呼んだ。
 その後に会うであろうあの男を、もう二、三発殴ってやろうと……そう心に決めて。
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