灰の虎とガラスの獅子

【Sの落とし穴/過剰不適合者】

 今まで私達が攻撃していた「白騎士」が、彼の生んだ蜃気楼だと気付いた瞬間。
 灰猫さんの左隣に、「本体」がいるのが視界に入った。
 それまで恐らく、別の蜃気楼を作って自身の姿を隠していたのだろう。「本体」の姿は唐突に現れたように見えた。
 ……しまった、迂闊だった! あの人の狙いは灰猫さんで、簡単な相手ではないとも分かっていたはずなのに!
「灰猫さん!」
 逃げて下さい、と叫ぶよりも相手が動く方が早かった。いや、私が気付くのが遅すぎただけか。咄嗟の事過ぎて、灰猫さんも対処が遅れたらしい。彼が「白騎士」に向き直ったと同時に、相手は彼の左腕を掴むと、その手に持っていた銃型の「何か」を押し当て、躊躇なくその引鉄を引いた。
 聞こえてきた空気が抜けるような音から察するに、恐らくは銃弾以外の「何か」を打ち込むための機械らしい。
 ……「何か」など、今までのやり取りから推測するに、「ヒトをドーパントに変えるメモリ」とやら以外に考えられないではないか。
 先程出会った「雷神様」は、メモリだけで変身していた。しかし灰猫さんには、あの銃型の機械を使用した。あの機械が、無理矢理打ち込む為に必要なものなのか、あるいは「最初の一回だけ」必要とするものなのかは分からないが、どちらにせよ灰猫さんの体内に、メモリが打ち込まれた事には変わりない。
「が……うあああああぁぁぁっ!?」
 打ち込まれた刹那。灰猫さんは咆哮にも似た悲鳴をあげてその場に蹲り、姿をオルフェノクからヒトに戻した。
 普段見かける彼とは違い、髪形は整えられ無精髭も剃られているためか、出会った当初に予想した通りの美男子っぷり。普段からこうならモテるのだろうなあとか思うのだが、今はそんな呑気な感想を抱いている場合ではない。
 ……苦しみ方が、尋常ではない。
 「雷神様」はメモリを挿しても苦しんでいなかった。むしろ余計にハイになっていたように思う。灰猫さんにメモリを挿した「白騎士」もそうだ。苦しんでいる様子は見えない。つまり「メモリを挿せば、誰しもが苦しむ」訳ではないのだろう。
 だが、灰猫さんは苦しんでいる。それも、血を吐くのではと不安になる程の絶叫を響かせて。
 ……もしかすると、灰猫さんの持つ「オルフェノクの力」と「メモリ」の持つ力が互いに反応しあい、彼に激痛をもたらしているのではないだろうか。
 ただの人間が使うだけでも、自分の意図せぬ方へと思考が向かうらしいことは、先の「雷神様」になっていた警官の言葉からも理解できる。それを、「既に異なる力を持つ者」が使えば、どんな副作用が出るか。灰猫さんの場合、それが激痛という形で出ているのかもしれない。
 だが、私のその予想は、打ち込んだ者の言葉によって否定された。
『フフフフ……素晴らしい。実に素晴らしい! これ程の拒絶反応を示すとは!!』
 楽しげな声を聞いた瞬間、私の頭にカッと血が上るのを感じた。同時に、自分でも信じられない程の速度で相手に詰め寄ると、そのまま思い切り棍を振り抜く。
「あなた……まさか、こうなると分かっていて、灰猫さんに今のメモリを打ち込んだんですか!?」
『ええ。しかし、少々予想とは異なりますねぇ』
「予想?」
 棍を立て続けに振るがそれらはすべて躱され、ゴッ、ガッと周囲の物……建物の壁、床を形成するコンクリート、トタンぶきの屋根などを破壊し、瓦礫を作るだけに留まる。
 自分でも自覚できる程、攻撃が荒い。声に苛立ちが混じっている。しかし、分かっているのに抑えきれない。
 ……何なのだろうか、この感情は。酷く……腹立たしい。
『ええ。私の予想では彼はすぐにメモリを体外に排出すると思ったのですよ。『そういう体質』である事は分かっていましたからね。しかし、そうはならず、彼は未だ苦しみ続けている。……先程見た、あの力のお陰でしょうかねぇ?』
 「あの力」とは、恐らくオルフェノクの力の事だろう。そのせいで、本来なら即座に排出されるはずのメモリが体内に留まっている、と「白騎士」は考えているようだ。
 しかし何故、わざわざ「すぐに排出される」と思っていたメモリなど打ち込んだのか。灰猫さんをドーパントとやらにする気はなかったのか?
 ……こいつの目的は「ドーパントを増やす事」ではなく、「そういう体質」である人物にメモリを挿す事にあった? では、何の為に?
 ……いや、今はそんな事を考えている場合ではない。とにかく灰猫さんから、メモリを抜き出さないと、彼の苦痛が長引く。抜き出し方は分からないが、今は灰猫さんの側についているべきだ。何故かはわからないが、本能がそう告げている。
 ……灰猫弓を、このまま放置してはならないと。
 軽く一つ舌打ちをし、私は棍を「白騎士」に向かって思い切り放り投げて距離をとり、自分の姿をヒトの姿に変えて、彼の顔を覗き込む。
「灰猫さん、大丈夫ですか!? しっかりして下さい!」
 呼ばれての反射行動だったのだろう。灰猫さんがこちらを見やる。
 その刹那、私が感じたのはたった一つの感情。
 …………怖い。ただ、それだけだった。
 虚ろな瞳、低く呟かれた怨嗟の言葉、悪意に憑りつかれたような笑み。
 今の彼は、声をかけた私はおろか、周囲に存在する全てを認識していない。背中に冷たい物が走る程に、彼が醸し出す雰囲気は恐ろしい。
 視界に入った全てを破壊し、蹂躙し、築かれた瓦礫と屍の山で高笑いを上げる。
 そんな姿が、今の彼からは容易に想像出来る程に。苦痛の中で、メモリの持つ「悪意」が、彼を飲み込んでしまったというのか。そしてその「悪意」に、今の彼は縋っているとでもいうのか。
 ……そんな馬鹿な。
 全てを知っている訳ではないが、少なくとも、私が知る灰猫弓なる男性は、そんな「悪意」の言いなりになるような人ではない。己が生まれ育ったこの街に誇りを持ち、誰かを傷つける事を厭う人だ。
 そう思った直後。徐々に焦点の合ってきた目は、私の姿を認識したらしい。焦点が合うにつれ、瞳にいつもの光が戻っていくのが見えた。
 身に纏う雰囲気も、全てを灰に変えてしまいそうな邪悪な物から、普段の飄々とした物に変わる。
「彩……塔、さん……?」
 彼が、そう呟いた瞬間、その腕からポロリとメモリが抜け落ちた。それと同時に、灰猫さんは軽く笑うと、余程疲弊していたのかその場で崩れ落ちるように倒れこんでしまう。
 抜け落ちたメモリの色は灰。真ん中に書かれた文字は「A」。端が崩れかけ、今にも崩壊しそうに見えるその文字が、先程の灰猫さんの見せた空気と相まって気色悪い。
 何のメモリなのかは知らないが、こんな物があるから、灰猫さんは苦しんだ。ならば。
「こんな物!」
『おっと、破壊されては困りますねぇ』
 私がメモリを手に取るよりも先に、「白騎士」がそれを奪い取る方が早かった。
 いつの間に側に寄っていたのか知らないが、「白騎士」に一瞬遅れた私の手は虚しく空を切り、そのままの勢いで地面のコンクリートにぶつかる。勢いが付きすぎていたせいで、コンクリートに指先を擦り、擦過傷が出来たが、今は苛立ちの方が大きいせいか、然程痛みは感じない。
 一方で「白騎士」は、一陣の風のように私達の横をすり抜けてこちらとの距離をとると、先程拾い上げたメモリをひらひらと見せびらかした。
 ……鬱陶しくも腹立たしい真似を……!
 ギリと奥歯を噛み締めながら、私は相手を睨みつける。
 だが、相手にとっては私の睨みなど大した事ではないらしい。彼はフフ、と軽く笑い……
『彼に伝えておいて下さい。またいずれ……このメモリを挿してあげましょう、とね』
「ふざけないで下さい。そんな事、させる訳がない」
『ご心配なく。君にもいずれ、君に合ったメモリをプレゼントします。それを楽しみにしていなさい』
 それだけ言い残すと、「白騎士」は私の前に雷を落とし、その場から姿を消した。地面に、焦げ跡だけを残して。
 「またいずれ」? おまけに、私がメモリを打たれなかった事を嫉妬しているとでも思ったのだろうか。いずれ私にまで挿す? 冗談ではない。あんな害意の塊のような輩とは、二度と会いたくない。少なくとも、私は。
 正直に言えば、今すぐにでもあの物騒な存在を見つけ出し、灰猫さんに打ち込んだメモリを回収、完膚なきまでに破壊したいのだが……打ち込まれた本人は、現在絶賛衰弱中。流石にこの場に放っておく訳にはいかない。
「とにかく、病院に……」
 せめて点滴でもと思い、呟いた瞬間。いつの間に意識を取り戻していたのか、灰猫さんはグイと私の腕を掴み、首を横に振った。だが、先程受けた苦痛の余韻が残っているらしく、まだ彼の様子は弱々しい。
「病院は……駄目だ。オルフェノクだと……気付かれる」
 真剣な表情で、だが苦しげに息を切らせながら、彼は私にそう告げる。
 ……確かに、それもそうだ。オルフェノクはどうなのかわからないが、少なくとも我々ファンガイアが病院で検査を受けようものなら、きっと大騒ぎだ。我々は擬態しているだけで、根本的に体組織が異なるのだから。
 元が人間であると言っても、彼らオルフェノクもまた異形へと変ずる。その時点で一般的ではないし、体組織にも差異があろうというものだ。調べればすぐにその差異も明らかになり、騒ぎになる。
 人間の中でひっそりと生きていくためにも、正体を知られる可能性はことごとく潰し、避けるべきだ。
「分かりました。何か私に出来る事はありますか? 治療行為が出来ないのは、不徳の致すところですが」
「痛みは、放っとけば……治ると、思う。それよりも、連れて行って欲しい場所が……ある」
「どこですか?」
「鳴海探偵事務所……って場所。ナビは、するからさ」
「探偵事務所? また、なぜそんな所に?」
「ちょっと、な」
 弱々しくはあるが、いつものような悪人めいた笑みを浮かべる灰猫さん。
 彼の真意が読めず、不思議に思いながらも、私は彼の指示した場所に向かうのだった。

 息も絶え絶えの灰猫さんに案内されたその「探偵事務所」に到着し、扉を開ければ。そこには四人の人間がいた。
 スーツ姿の、いかにも「ドラマの中のハードボイルド探偵」のような格好の青年に、分厚い本を持った青年、室内なのに鞄を肩から斜めにかけた若い女性、それから……奇妙な事に、超常犯罪捜査課の課長さんという取り合わせだ。
 さっきの今で顔を合わせるのは、非常に気まずい。何しろ私は、自宅待機を命じられた身なのだから。あちらもあまり快く思っていないらしく、軽く顔を顰め……しかし、私が支えている人の姿を見止めるや、その表情は訝しげなものへ変わるのが見て取れた。
「いらっしゃ……って、弓さん!?」
 スーツの青年は、真っ先に灰猫さんの惨状に気付いたらしい。心配そうに声を上げ、こちらに向かって駆け寄る。どうやら彼は、灰猫さんの知り合いのようだ。声同様、心配そうな表情で彼の顔を覗き込むと、支える役目を私から引き継ぎ、近くのソファに運んで横たわらせた。
 その際に、どうやら彼も気付いたらしい。
 灰猫さんの左腕に存在する、刻印に似た模様に。
「これは……」
「生体コネクタだな。ならばこの男、ドーパントか」
 驚いたような声を上げる探偵さんに対し、課長さんが険しい目で灰猫さんを睨み、どこからか手錠を取り出した。
 この反応を見る限り、あのメモリを扱った時点で犯罪扱いらしい。麻薬などと同じ扱いなのだろう。
 ……だが、灰猫さんの場合は無理矢理打ち込まれた物だ。これで逮捕は流石に気分が悪い。
「これは……無理矢理打たれた物です。灰猫さんの意思ではありません」
「何?」
「無理矢理って……」
 軽く眉を顰め、課長さんと探偵さんが深刻な表情で呟く。
 それを聞いていたのか、灰猫さんはうっすらと目を開け、軽く頷くと……
「ちょっと……油断した。何でかはよくわからないが、俺にメモリを挿したがった奴と遭遇してな。……不意をつかれて、このザマだ」
 確かに、よく分からない。あの「白騎士」は、何を目的に灰猫さんに対してあの灰色のメモリを挿したがっていたのか。そして、それが抜け落ちた後に「また挿しに来る」と言った理由も。
 あの一回で、あの男の目的は達せられなかったという事だろうか。それとも、他に調べたい事が出来た?
 本当に、分からない事だらけ。
「わからないから……調べてもらおうか、って思ってさ。俺が狙われる理由を。勿論、礼はする」
「……弓さん……」
「わかっているのは、相手の持っていたメモリが『灰色』の『A』だって事くらいだ」
 灰猫さんがそう言うと、本を持っていた青年がフム、と小さく頷き……くるりと踵を返すと、奥の部屋へと引っ込んでしまった。
 ……一体、何なのだろう。扉の向こうは何かデータベースのようにでもなっていて、部外者は立ち入り禁止にでもなっているのか。しかし、客商売としては、あの無愛想さ加減はいかがなものかと思うのだが、それは他の面々でカバーしているのかもしれない。
 一人考え込みそうになった瞬間、不思議そうな表情で女性が私の顔を覗き込み……
「それより、あの……あなた、どちら様?」
 ああ、そう言えば。確かにこの人達には自己紹介をしていなかった。
 課長さんすらも、恐らくは私への認識は「清掃員」でしかないだろう。まして会った事もない探偵事務所の皆さんにとっては、私は正体不明の怪しげな女にしかならない。
 思い、私はぺこりと頭を下げて一礼すると……
「彩塔硝子と申します。灰猫さんの隣人です」
「ああ。あんたがさっき、弓さんが言っていた!」
「……は?」
 灰猫さんが、この人達に私の事を? それはまた何故だろうか。
 なぜか納得したように頷く探偵さんと、女性の二人に対し、私の方は頭にクエスチョンマークを浮かべたような表情で首を軽く傾げる。
 私の事を調べさせようとした?
 いや、それなら軽々しく「灰猫さんから私の名を聞いた」とは言わないだろう。
 少なくともマイナスの方向で知られている雰囲気はない。
「あんたを狙っていたカレントドーパントは、無事に逮捕されたそうだ。照井から聞いた……ってあんたもその場にいたから、知ってるんだっけな」
 ……ああ、成程。
 つまり灰猫さんは、昨日のあの「雷神様」の台詞を聞いて心配したのだろう。だから、私が次に狙われている、と彼らに言って、警護なり「雷神様」を捕まえる囮にするなり……と考えたに違いない。
 まあ、その「雷神様」も、私の力ずくの「説得」で、ここにいる課長さんに対して自首した訳だが。
「それは、どうもご丁寧に……」
 ありがとうございます、と言うよりも先に。
 奥に引っ込んでいた青年が、不思議そうな顔をして出てきた。
 しかしその表情は……何故だろう、灰猫さんを睨んでいるようにも見える。
「検索が完了した。少々奇妙な事もわかったけれどね」
 パタンと本を閉じ、彼は軽く自分の顎を撫でながら、辛そうにソファでぐったりしている灰猫さんの方を見やった。
 何だろう、どことなくだが……彼は灰猫さんに、疑念を抱いている?
「まずはメモリの正体。これは『Ash』、つまり『灰燼の記憶』だ。そして、灰猫弓は『Ash』の『過剰不適合者』だという事もわかった」
 灰色のメモリで、「灰燼」。成程、それに関しては非常に納得できる。確かにあの時見たメモリの「絵柄」や雰囲気は灰のようだった。
 しかし問題はその後の台詞。「過剰不適合者」とは、一体何の事だろう。
「過剰不適合者? 何だそりゃ? 過剰適合者じゃなくてか?」
「文字通りの意味さ、翔太郎。灰猫弓は、アッシュメモリとはとことん合わない体質のようだ。過剰適合者の真逆と思えばいい」
「つまり、この男がメモリを挿しても、すぐに拒絶反応が出てメモリが排出されるという事か?」
「…………その通りだ、照井竜。怪人態になる暇もない。だが、挿された人間の体に大きな負荷をかける点では、過剰適合者と変わらない。排出するだけでも相当の体力を消耗する」
 成程、だから灰猫さんはこれ程までに衰弱しているのか。
 そう言えば「白騎士」も、拒絶反応がどうとか言っていたが、あれはそういう事だったのか。最初からあの白騎士は、灰猫さんがその過剰不適合者とやらだと知っていて挿したのだろう。
 ……だが、少し気になる事がある。何でそんな相手に挿したがったのかという点と、「白騎士」も言っていた事だが「予想とは異なる」……つまり、本来ならば挿されてもすぐに出るはずのメモリが、灰猫さんの場合、僅かではあったが体内に留まり、彼を苦しめていた点。
 やはり「白騎士」の言う通り、灰猫さんがオルフェノクである事が影響しているのだろうか。
 だから、しばらくの間彼の体内にメモリは留まり、彼を苦しめていたと?
 そうだとすれば、どこまでも厄介な。
「そんな物を持っていて、他人に挿そうとする奴なんて……一人しかいねぇな」
「ああ。……ほぼ間違いなく井坂だ」
 ……あの「白騎士」、課長さんや探偵さんが真っ先に思い浮かべる事が出来る程の常習犯なのか。
 井坂、とかいうらしいが……やはり逃がすべきではなかった。言葉は悪いが、ボコボコのけちょんけちょんにしておくべきだったと悔まれてならない。
 悔しいが、あれだけの実力者だ。私が力の限り殴りつけたとしても、死にはしないだろう。せいぜい粉砕骨折程度で終わる気がする。
 よし。今度会ったら、全身全霊で殴ってやろう。平手ではなく、拳で。歯の一本や二本は折れるかもしれないが、その程度で済むなら安いものだと思って頂きたい。
 などと、暗い決意を心に秘め、もう一度本を持っている青年を見つめる。
 ……やはり、灰猫さんに対する疑念の視線は変っていない。何を疑っているのかはわからないが、彼の言う「検索」なるキーワードがどうにも引っかかった。
 どれ程充実したネットワークがあの扉の向こうにあるのかは分からないが、あれだけの短時間……しかも、恐らくは「灰色」、「A」それから「灰猫弓」という数少ないキーワードだけで、あれだけの情報を検索できる物だろうか。正直、一族の持つ、最新のネットワークシステムを駆使しても三十分はかかる。
 ひょっとしたら、私には分からないキーワードがあったのかもしれないが、それにしても早すぎる。
 あらかじめ私達が来ると予測していた訳でもないだろうし……
 低く唸り、考え込んでいる私とは逆に、灰猫さんは全て解決と言わんばかりの笑顔を探偵さんに向けると……
「そっか。サンキュ、翔」
「弓さん、もう起き上がって大丈夫なのか!?」
「寝てばっかりも居られねーんだよ。明日のサイン会の準備があるし」
「そういえばさっきそう言ってたっけな。やっぱりまだ、弓さんが小説家だなんて信じられねーけど」
「そう言うなって。さっきも言ったが、俺だって未だに信じられないんだから」
 言いながら、灰猫さんは今まで横になっていたソファから上半身を起こし、立ち上がろうとする。
 恐らくは、作家としての誇りを持っているのだろうが……額には脂汗、顔色もまだ悪い。そんな状態で起き上がろうとするなど、愚かしいとしか言いようがない。
 「誇り高いのと無謀は違う」と、そう言ったのは灰猫さん自身ではなかったか?
 私には怒って、自分の事は棚上げ?
 何故かムカムカと腹立たしい気持ちになりながら、私は思い切り灰猫さんの額を鷲掴みにし……
「さ……彩塔さん?」
「問答無用です。寝てなさい」
 不審そうな声を上げる彼を軽く無視し、思い切りそのソファにその顔を押し付けてやる。
 その際、灰猫さんの悲鳴が聞こえた気がするが……気のせいだ。うん。絶対に私の腕力が強すぎる事による抗議の声などではない。
「怖っ」
「何を仰いますか。この顔色、このふらつき具合。おまけに私ごときに押さえつけられるザマで立ちあがろうなど、愚かしいにも程があります。もう少し寝かせて然るべきです」
 探偵さんの声にそう反論し、私はギロリと灰猫さんを睨む。
 恐らく、瞳の色が本来の虹色になっているのだろう。一瞬だけ、灰猫さんはびくりと体を震わせると、困ったような笑顔を浮かべながらも、結局はそのままソファに身を預けた。
 ……自分ではそんなに怖い顔をしていたつもりはないのだが。まあ、多少表情が硬かった事は認めるが。
「……ところで翔太郎」
「ん? どうした、フィリップ?」
 そんなやり取りを無視して、本を持った青年……フィリップが、「探偵さん」こと翔太郎さんに向かい、唐突に声をかけた。
 視線は、灰猫さんから外さないまま。持っていた本を閉じて。
「本当に、ここにいる彼は『灰猫弓』本人なのかい?」
 ……は?
「……どういう意味だ?」
 唐突な問いに、翔太郎さんも……そして女性も灰猫さん本人も驚いたらしい。
 きょとんとした表情で、フィリップさんの言葉に問いを返す。
「ここにいる男は、『灰猫弓』を名乗る別人……と言いたいのか?」
「その通りだよ、照井竜」
 「課長さん」……いや、今はどうやらプライベートタイムのようなので、照井さんと呼ぼう。彼の問いに、あっさりと頷くフィリップさん。
 私は、灰猫さんとの付き合いが長い方ではない。だから目の前にいる存在が、少なくとも私にとっての「灰猫弓」だ。
 その短い付き合いでもわかる事だが、この人は基本的に嘘を吐けない。そんな人が、果たして他人に成りすますなどできるのだろうか。
「何言ってんだフィリップ。ここにいるのは正真正銘、俺の幼馴染の灰猫弓さんだ」
「いきなりどうしちゃったの、フィリップ君」
 翔太郎さんに続き、女性も不思議そうな表情でフィリップさんを見ながら声をかける。
 しかし、言われている張本人である灰猫さんは……何故か、何も言わない。
 驚きのあまり声が出ないのか、それとも疲れすぎて喋るのも辛いのか……はたまた、何か心当たりがあるのか。
 そんな彼の様子に気付いているのだろうか。フィリップさんは実に不思議そうに眉を顰めると、とんでもない言葉を放った。
「『灰猫弓』に関して少し検索をしてみた。そしてその結果……『灰猫弓』という男は、五年前に既に死亡している」
 ……あ。
 そうだ。灰猫さんはオルフェノク。何をどう調べたのかは知らないが、確かに彼は一度「死亡」している。
 その言葉に納得した瞬間、思わず見てしまった灰猫さんの顔は……どこか辛そうで苦しそうな、何とも言えない物だった。
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