灰の虎とガラスの獅子

【そのAは崩れない/虹の牙】

 面倒な事になったと思いながら、俺は前方を悠然と歩く「敵」……ウェザードーパントこと、井坂深紅郎を睨みつける。
 睨み付けるとはいうものの、今の俺の姿はオルフェノクだ。表情筋が固いし、元々睨んでいるような凶悪面でもある為、睨んでいるとは思わないだろうが。
 それにしても、おかしいだろあの人。今の俺のこの姿を見て、「感動すら覚えている」って? 普通は怖がるぞ。そもそも、何で俺にメモリを挿したがる?
 苛立ちを押さえる為に軽く首を振り、吹っ飛ばされたせいで崩れていた体勢を立て直したその時になって。俺はようやく視界の端で、きょとんとした顔の彩塔さんの姿を見つけた。
 あんな風に、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔は、彼女にしては珍しい。往々にして彼女は口元に穏やかな笑みを浮かべているのに。
 …………って、いやいや、待て待て。何さらっと流そうとしてるんだよ、俺。
 ……彩塔さんの姿、だと?
 ン何でこんな所にいるかな、あの人はぁぁぁぁっ! 立ち入り禁止区域だろうがここはっ! いや、俺もここにいる時点で人の事言えないけどっ!
 心の中で大絶叫をかましながらも、俺は即座に彼女とウェザードーパントの間に立つ。
 俺の行動に、一瞬だけウェザーが訝ったような雰囲気を見せたものの、すぐに俺が後ろに回した人物の影を見止めたらしく、喉の奥から嫌な笑いをこぼす。
 一方で彩塔さんは、ウェザーの姿が見えていないのか、俺の背後からいつも通りの声を投げてきた。
「こんにちは、灰猫さん。先程こちらに飛ばされてきた際、かなり派手な音がしていましたけれど、お身体は大丈夫ですか?」
「何を呑気に俺の心配なんてしてんだ、あんたは!? この状況見て、もう少し緊張感って物を……」
「……いくら私とて、あの『白騎士』が危険だという事くらいは認識しています」
 視線だけ向けて放った俺の言葉に、彼女は軽く眉を顰めてそう返す。その瞳の中には、ウェザーの姿がはっきりと映っているのが見えた。
 つーか、あいつが見えているなら本当に逃げてくれ。危険だと思ってるならなおの事!
 昨日のカレントの時と言い、俺の時と言い、そして現在の井坂と言い、この人は何でこんなにも危機感がないかな!? 怪人だぞ!? 言いたかないが、化物だぞ!? 例え見慣れてるにしても、少しは慌ててくれ!
 そう俺が思ったのと、彼女が獲物を狙う猛獣のように、すぅっとその目を細めたのはほぼ同時。
 彼女が浮かべたその表情を見た瞬間、俺の背中に冷たい物が走った。俺に向けられた訳でもないのに、彼女が放つ敵意は、周囲の気温を一気に下げた。それくらいの冷たさを持っている。普段の彼女からは想像なんて出来ないほど、冷酷にして残忍な目が、俺を通り越し、ウェザーに向けられていた。
 だが、向けられた方はその気温の変化すらも楽しんでいるらしい。ほう、と感嘆の声を上げると、さっきまでと変わらない、実に楽しそうな声を放つ。
『これは面白い。今日は実にいい日だ。……貴女もドーパントに対する、未知の可能性を秘めているようですねぇ』
「ドーパント……その単語は先も聞きました。正確な定義はわかりませんが、『メモリのような物を使って、ヒトから異形へと変じた者』……という解釈で宜しいのでしょうか?」
「ほぼ正解。ただし、『メモリのような物』じゃなくて、『メモリその物』だけど……な!」
 彼女の問いに答えながら、俺は左手で彼女の体を抱え、その場に落ちてきた雷をギリギリでかわす。
 おいおいおいおい! 話の途中で攻撃を仕掛けてくるって、流石に卑怯だろ!?
『なかなか素早い反応ですねぇ。ますます面白い』
「そいつはどうも! でも、何でかな。あんたに褒められても嬉しくない!」
 楽しそうな相手に対し、俺は自分でも分るほど苛立った声で答え……とりあえず何本か矢を放つ。勿論当てるつもりはない。単なる威嚇だ。
 しかし俺の矢は、相手の起こした竜巻に遮られ、粉砕されてしまう。
 いや、もう本当に何なんだよあの人!? こっちに向かってガイアメモリを挿したがるわ、この姿を見て楽しそうに笑うわ、俺の矢を風で粉砕するわ。いや、「ウェザー」なんだから雷や風を起こすのはお手の物なんだろうが、それにしたって色々出来すぎだろ!
 挙句、何故かは知らんが彩塔さんにも目をつけている様子も見せていることだし。勘弁してくれ、マジで!!
「彩塔さん、この場から逃げろ。……今回は『守りながら戦う』のは難しい」
「……後半部分については同意します。確かに、あの『白騎士』相手に、『誰かを守りながら』というのは至難の業でしょう。それだけの実力者である事は分かります」
 俺の言葉にこくりと頷きながら、彼女は真剣な表情でそう答える。
 同意してくれるのは嬉しいんだが、「後半部分については」って事は、前半部分、つまり「逃げろ」には同意できないって?
 ……守りながら戦うのは難しいと分っているのに、逃げるつもりはないってか!?
 何を考えてるんだ、と俺が怒鳴るよりも先に、彼女はウェザーの方に視線を向け、恐怖も何もない……純粋に疑問に思っているような表情で、言葉を発した。
「『白騎士』さん、あなたにお伺いします。仮に私が逃げようとしたとして、あなたは私を逃がしますか?」
『それは出来ない相談ですねぇ。ドーパントとは異なり、そして灰猫弓とも違う存在モノである貴女にも、私は興味を覚えていますから』
「……との事です。ここで逃げようとしても、執拗に追ってくる気満々でしょうし、そもそも逃がしてもらえそうにありません」
 逃がさない、と宣言されたにもかかわらず、彼女は特に慌てた様子もなく淡々とした口調で俺に言う。それどころか、口元にはうっすらと笑みが浮んでいるようにさえ見えた。
 何でそんなに冷静でいられるのかというのも疑問だが、それ以上に……何でそんなに楽しそうなんだ、この人は。楽しめるような状況じゃないだろう?
「灰猫さん。この状況で言うのも、非常に申し訳ないのですが……」
「……何?」
 あ、何だろう。何だか妙な予感がする。
 嫌な予感……とは少し違うが、「胸騒ぎ」という点では似ているかもしれない。
 彼女の声に不穏な物を感じ取り、俺は軽く眉を顰めて彼女の声に応える。
 「一緒に逃げよう」ならまだ良い。癪だが、逃げに専念するのは一つの手だ。逃げるが勝ちって言葉もあるくらいだし、この際逃げを打つのはアリだ。
 あるいは、「相手の足止め」を俺に頼むか。それなら、彼女が逃げ切ったのを見計らって、こっちも全力で行けば良い。まあ、こちらの手段は少々俺の心証を悪くするが、今回は仕方がない。相手が悪すぎる。むしろ、そうしてくれた方がありがたい。
 しかし……しかしだ。出会って、付き合いも短いが、はっきりしている事がある。
 彩塔硝子なる目の前の女性は、卑怯な真似をこの上なく嫌い、更にプライドが滅茶苦茶高いという事。
 それを考えれば、後者の「足止め」という選択ありえないだろう。ならば、やはり「一緒に逃げよう」だろうか。……いや、むしろそう言って下さい、お願いします。
 今、俺の中にある「最悪の選択肢」だけは選ばないで下さい、ホント割と真剣に。まかり間違っても「自分が戦う」とか、そんな事は言うなよ!?
 そう願う俺をよそに、彼女はじっと俺を見つめ、その口を開く。
「一緒に……」
 よし来た、逃げるんだな。そうだよ、今回は分が悪すぎる。いや、絶対に勝てない相手とまでは思わないが、やっぱり誰かを守りながら戦うには、流石に不利すぎる相手だもんな。
 一瞬でそんな事を考え、俺は彼女を抱えて逃げる準備をしようと体勢を整え……
「一緒に、戦わせて下さいませんか」
 ………………
 何を言われたのか、よく分からなかった。
 「逃げる」でなかった事は確かだ。そして「自分が戦う」でなかった事も確か。
 ……俺が考えていた「最悪の可能性」の、その斜め上を行った選択肢を、彼女は答えなかったか?
 えーっと? 一緒に、戦う?
 …………
「大却下だぁぁぁぁっ!」
「え!? 何故ですか?」
「聞くのか!? この状況でそれを!?」
 俺の渾身の怒声すらもさらりと流し、彼女は心底不思議そうにこちらを見上げている。
「しかも、何でそんな驚きとがっかりの入り混じった顔で俺の事見てるんだアンタは!? この状況、理解してるんだろ!? 守りながら戦うのは無理で、しかもウェザーが危険な存在だって!」
「ええ、認識しているつもりですが」
「じゃあ何でそこで『戦う』って選択肢が出るんだよ? 普通、そんな選択肢はないだろ? 逃げろよ!」
「そういう物でしょうか?」
 いや、確かにちらっと「この人なら言い出しかねない」とは思っていたけれど! でも、まさか本当に言うとは思ってなかった。出来る事なら数秒前までの甘い考えを抱いていた自分をぶん殴りたい。
 そんな事を思いつつ、首を傾げて言った彼女の顔を見下ろして、気付く。心なしか彼女の瞳の色が、虹色に染まっているように見える事に。
 いやいや、きっと光の加減のせいだ。それよりも今は彼女の説得が先だ、うん。
「良いか? 相手はドーパントであって、その辺に転がる痴漢じゃない。しかも、昨日のカレントドーパントよりも遥かに強い」
「先程も言いましたが、それも認識しています」
「なら、尚更普通は『逃げよう』って考えに至るだろ!? 勇敢なのは美徳かもしれないが、今回の場合は無謀すぎる! 勇敢と無謀は、根本からして別物だ!」
 本気で何を考えているんだ、この人は!?
 相手が強い、それも凶悪な方向の存在だと分っていながら、さらっと「戦う」などと言ってしまう。
 並の女性のように、異形を見て悲鳴上げる、なんて事は昨日の時点から期待はしていないし、やって欲しくもないが、だからといって立ち向かう事も期待していない。
 言葉にもしたが、「勇敢」と「無謀」は違う。今回の場合は、明らかに後者だ。
 曲がりなりにもオルフェノクである俺が、「簡単に勝てない」と思っている相手だぞ? 普通の人間である彼女が手を貸してくれたところで、足手纏いになるだけだ。
 そう思ったその瞬間、彼女はにっこりと俺に向かって笑いかけ……
「しかしそれは、普通の人間の場合、ですよね?」
「……あ?」
 一瞬、心を読まれたのかと思った。だってそうだろう? 俺はさっき、「普通の人間である彼女」と思ったのだから。
 だからこそ、間の抜けた声が俺の口から漏れたんだと思う。
 だが、そんな俺の……そして何故か大人しくこちらのやり取りを見ているウェザードーパントの目の前で。
 ……彼女の姿が、変わった。
 最初の変化は、下顎から頬にかけて。ピシピシと音が鳴ると共に、その顔にステンドグラスのような色合いのモザイクが浮かび上がった。
 それはまるで、虹色の牙。
 気が強そうでありながらおっとりしている……そんな印象を抱いていたが、とんでもない。彼女は見た目通り、気が強いのだ。
 普段はその牙を隠しているだけで。
 そして次の瞬間、彼女の姿が「白い怪人」に変わった。両肩には、笛を吹く天使像のような飾りがあり、右手にはどこから召喚したのか不明だが、彼女の身長と同じくらいの大きさの棍棒。
 全体的なシルエットから動物っぽさを感じるが、これは……
「えーっと……羊?」
「……そう仰る方は初めてです。一応、これでも獅子なのですが」
 苦笑めいた声で、彼女が俺の呟きに答える。
 よく見れば、ステンドグラスのような模様のひとつひとつに、まんま苦笑している「普段の彼女」の顔が浮んでいた。
「昨日は黙っていましたが……私もこの通り、『ヒト』ではありませんから」
「まさか……アンタも、『ヒトの命を食って生きる』とかいう種族?」
「はい。その通りです。ヒトの伝承の中では、『吸血鬼』と呼ばれる者達に近しいでしょうか」
 そう言うと、彼女はいきなり持っていた棍棒を構え、ウェザーの方に向き直る。
「二対一で、やや卑怯ではありますが、お覚悟を」
 ぺこりと頭を下げてそう言ったかと思うと、彼女はウェザーに向かって駆け出し、その棍棒をフルスウィング。
 って、いきなり殴りかかるか!?
 心の中でツッコミを入れるが、ウェザーはその攻撃を後ろに飛んでかわす。
 彼女の攻撃に、スピードはそれ程乗っていない。だが、あの細腕であれだけの大物を振り回したという事は、純粋に、かなりな腕力を持っているって事だ。
 恐らく、当たればただじゃ済まない。普段の彼女からは想像できないが、今の彼女を見ればわかる。
 彼女は、パワーファイターだ。それも、拳でどうにかしてしまうタイプの。押しても引いてもダメなら、ぶん殴って叩き壊して押し通れ! ってレベルで。
 うん、敵に回したくないタイプだな。俺みたいな中距離射撃タイプの戦闘を好む者にとっては、相性はよくない。彼女が味方で良かった。
「ああ、やはりかわされましたか」
『痛そうですからねぇ』
 かわされた事に特に思うところもないのか、淡々と呟いた彼女に対し、ウェザーの方は楽しそうな声で言葉を返す。
 少なくとも、ウェザーはこの状況を楽しんでいる。むしろ「喜んでいる」と表現していいかもしれない。
 しかし、これなら行ける。ウェザーも直接戦闘向きじゃない。どちらかと言えば特殊な力を使って、遠距離、もしくは中距離から攻撃するのが性に合うタイプだ。俺と同じで、腕力に物を言わせる相手は得意じゃないだろう。
 彼女が怪人だったという事実には流石に驚いたが、今はそれを追及している場合じゃない。ウェザーを追い返す事が先決だ。
「彩塔さん、もう一丁頼む!」
「承知しました、灰猫さん」
 俺の声で、何を意図しているのか分ったらしい。彼女はこくりと軽く頷くと、もう一度棍棒を軽々と振ってウェザーに殴りかかる。
『おっと……』
 小ばかにしたような声を上げて、その攻撃をもう一度後ろに飛んでかわすが……それはこちらの狙い通りだ。
 大抵、人間は咄嗟の攻撃をかわす時に癖が出る。ある者は右、ある者は左って具合で、無意識のうちに一方向に避けるものだ。ウェザーの場合は、それが「後ろ」……つまり、相手の間合いから外れようと動くらしい。
 その癖さえ分かれば簡単だ。囮の攻撃をかました後、その「癖」の方向に待ち伏せして攻撃すればいい。幸いにも今回は俺と彩塔さんの二人がかり。
「俺がいるのを忘れてもらっちゃ困るな!」
『しま……っ!!』
 拳を固め、殴りかかろうとする俺にようやく気付いたのか、彼は慌てたような声を上げる。
 だが、遅い。俺の拳が相手の顔面を捉える方が早い!
 思いながら、俺は相手の顎目掛けて思い切りアッパーを繰り出す。直接戦闘は苦手だが、それは射撃と比較しての話であって、出来ない訳じゃない。
 俺の拳は、間違いなく狙った箇所を捉えた。
 ……いや。捉えたと、思った。
「んなっ!?」
 相手の姿が、まるで幻影のように透けたのだ。視覚的には相手の顎を殴っているのに、手応えがない。だが、残像でもない。それならとっくに消えているはずだ。
 だとすると、これは……何だ!?
「走れ!」
「え……っておうわっ!?」
 彩塔さんの「命令」に、反射的に走ると同時に、俺は今さっきまで自分の置かれた状況を確認する。
 そこには、何やら銃のような物……確か、ガイアメモリのコネクタを打ち込む機械で、スロットとか何とか呼んでいたはずだ……を持って、まさにその引鉄を引こうとしているウェザーの姿があった。
 危ねぇ。マジで危ねぇ。
 あの人俺に「メモリを挿す」って目的、やっぱり覚えてやがる! いや、それが本来の目的だろうから、忘れてくれているとは思ってなかったが! 忘れてくれていたらいいなあとか、淡い期待していたのに!
『おや、気付かれましたか。やはり二人相手だと、少々厄介ですねぇ』
 あまり困った風でもなくそう言うと、さっきまで俺が相手をしていた方のウェザーの姿がゆらりと歪んで消える。
 ……「ウェザー」は「天候」。奴さん、自分の蜃気楼を作って、それで相手してきてた訳か。
 冗談じゃない。「厄介」って、そりゃあこっちの台詞だ。
 彼女が声をかけてくれなきゃ、今頃俺は「オルフェノクでありながらドーパント」なんていう、妙な怪人になっていたところだ。これ以上更に人間離れした体になってたまるか。
「サンキュ、彩塔さん」
「いえ。それより、命令などしてしまって、申し訳ありません」
「いやいや、助かったから」
「ですが……困りましたね。このような、実力的にも精神的にも厄介な相手に会うなんて。この世に生を受けてから六十年以上経ちますが、二十年前に遭遇した阿鐘アベル以来、相手がヒトであるならば、今回が初めてです」
 確かに、天候を操る能力を持ってる以上、戦闘面で厄介だし、何かイっちまってる点においても、精神的にも厄介…………って待て。
 またこの人、さらりとトンデモ発言しなかったか!?
 「この世に生を受けてから六十年以上経つ」って……つまりこの人、こう見えて六十代!? 俺とダブルスコア以上トリプルスコア未満!?
 何だそれ、人間か!? いや、違うらしいのは今の姿を見れば分かるけどさ、歳の取り方はごく普通の人間と同じじゃないのか!?
『興味深い発言ですねぇ。先程は随分とお若く見えましたが?』
「一族の中では若い方ですね。六十五歳ですから。若いどころか、お子様です」
「どんなお子様だそれ!?」
「我が一族の中には、百年から二百年生きている者もいますが」
「怖っ。彩塔さんの一族、怖っ!! それ、普通に人間からすりゃ脅威だぞ!?」
「何を仰いますか。平均寿命が八百年程のドラン種族に比べれば、我々など短命な方です」
 そんな長寿で短命とか言うな。人間はどうなる。ましてその人間よりも短命なオルフェノクなんて、そっちから見たら一瞬で終わる存在って事になるじゃないか。
 ……いやいや、なんて悠長に会話してる場合じゃなかったな。今はとにかく、ウェザーをどうにかしないと!
 ギロリとウェザーを睨み直し、俺は自分の感覚をフルに研ぎ澄ます。
 オルフェノクになった時、俺の五感は人間だった頃とは比べ物にならないほどに発達した。
 発達に関しては個人差があるのだろうが、俺の場合は、特に視力と嗅覚が過敏になった。
 夜目が利くようになったし、風の運ぶ微かな匂いにも反応するようになった。ひとえに、虎としての力が付加されたお陰だろう。
 ……正直、そんな力は欲しくなかったが。
『ふふふ。怖い目だ。しかし、その目の奥には人間に対する憎悪が秘められている』
「いきなり何言いだす? ないないない! そんな物、秘められてない!」
『そう思い込んでいるだけですよ。面白い、ますます君にこのメモリを挿したくなってきました!』
 嬉々とした声で言うウェザーに、力の限り否定の言葉を返すが……ダメだあの人、こっちの話聞いてねぇ! 何で俺の周囲にはこう話を聞かない奴が集まるんだ!?
 大体、どうして俺にメモリを挿したがっているのかは分からんし、俺が人間に対して憎悪を抱いている事になってんのかも分からないんだが、何にせよあの人を退けない事には……
 そう思った瞬間だっただろうか。
 再び前にいたウェザーの姿がぶれ、消えたのは。
「また蜃気楼か!」
『その通りです』
 思った以上に間近に聞こえた声に、俺はびくりと声のした方を見やる。
 俺のすぐ左隣。そこに、そいつはいた。
 手に、コネクタを打ち込む機械を持って。
「灰猫さん!」
「しまっ……」
 気付いた時には既に遅く。
 俺はウェザーに左腕を捕らえられ、バシュっという音と共にコネクタとメモリを打ち込まれる。
 最初に襲ってきたのは、強烈な違和感。そして、次の瞬間には、左腕を中心にして激痛なんて言葉じゃ生温いくらいの、強烈な痛みが襲ってきた。
 全身が引き裂かれ、もう一度作り直されるような、そんな痛みが。この痛みには覚えがある。俺が、オルフェノクに「なってしまった時」に感じた物と、よく似ている。
「が……ぅあああああぁぁぁっ!?」
 ウェザーの腕を振り払い、上半身をのけぞらせながら、俺は自分の姿を「タイガーオルフェノク」から「灰猫弓」に戻していた。
 いや、「戻ってしまった」っつった方が正しいか。自分の意志で戻った訳じゃないのだから。
 ……何だ、これ!?
 気持ち悪ぃ、体が痛い、世界が回る。頭ン中で、誰かの声が響いてくる。
 殺せ、壊せ、拒絶したモノ、全てを。本能のままに相手を屠れ。脆いモノは壊すべきだ。
 バラバラにして、作り直して、そして望む世界を組み立てろ。
『フフフフ……素晴らしい。実に素晴らしい! …………とは!!』
 そう笑うウェザーの声が、いやに遠い。言葉も、よく聞き取れない。
 煩い、黙れ、鬱陶しい。ああクソ、なんでこんなに苛立つんだ? 何もかも、全てが煩わしい。
 …………いっそ、壊すか? それも良いな、ああ、悪くない。
 それこそ、原形を留めないくらいバラバラにして、粉々にして、その上でもう一度組み立て直す。俺が好ましく思うように。
 俺を拒絶しない、俺を苦しめない、俺を蔑まない、そんな世界に。こんな簡単な事、なんで気付かなかったんだ?
――オレにはそれが、簡単に出来るのに――
 そうだ。俺には出来る。バラバラにして、組み替えて、全く違う物に変える事が。
 …………は? いやいや、出来る訳ないだろ。オルフェノクに、そんな力はないって。せいぜいヒトをオルフェノクの「毒素」で、オルフェノクに変えてしまうくらいで。
 いや。それも「組み替えている」事になるのか?
 ああ、もう意味わかんねえ。体が痛すぎて、考えが纏まらない。
 でも……そうだよな。もう、苦しみたくなんかない。裏切りたくない、傷つけたくない、裏切られたくない、傷つきたくも!
 そんな風に思った瞬間だっただろうか。俺の視界に、一人の女の顔が広がった。
「灰猫さん! 大丈夫ですか!? しっかりして下さい!」
「彩……塔、さん……?」
 そう呟いた刹那。俺の体から、違和感の元が抜け落ちたのを感じた。
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