灰の虎とガラスの獅子
【そのAは崩れない/懐かしめない再会】
――『助けてくれて、ありがとう』
彼女はそう言って、ふわりと笑うと、怪人であるはずの俺の手をとった。一瞬、自分でも意識しないうちに体がびくりと揺れたが、彼女はお構いなしに俺の手を包むように握って言葉を続ける。
『大丈夫、私は怖いとは思わないから』
真摯な瞳で、俺を見つめて言ってくれた。
その言葉がとても嬉しくて……俺は思わず、泣きそうになる――
そこまで書いて、俺はふぅ、と軽く息を吐き出した。
物語上のヒロインは、結局主人公の正体を知らないという設定にはしてあるが……受け入れたって時点で、かなり彩塔さんを意識しているように思う。勿論、実際は手なんて握られてないんだが、そこは「恋愛」に発展させる為の脚色って奴だ。これくらい入れないと、絶対に担当のアホが煩く言ってくるに違いない。
昨日の夜から書き始めて、既に外は白んでいる。どうやら徹夜をしてしまったらしい。
金な物だ。
よし、寝よう。そして、起きたら続きを書こう。完徹が出来る程、もう若くもない。そう思った瞬間。
ジリジリと電話が凶悪な鳴り方をしだした。
この「早く出やがれ、このクズがっ」と言わんばかりの鳴り方は、悪魔のような俺の担当、斉藤帝虎 だ。
……いや待て。締め切りまでまだ余裕があるはずなんだが? そもそも、ついこの間も電話してきやがったよな?
自分でも分るくらい恨めしげな表情をして電話に向かい、俺はガリガリと頭を掻きながらその電話に出る。と、予想通りというか何というか。独特な、かんらかんらという笑い声と共に、やたらと元気なヤツの声が受話器の向こうから響いてきた。
『おはようございます、先生。清々しい朝ですね~!』
「……何ですか、朝一から。原稿の締め切りまではまだでしょう? ここ数日で何回確認の電話かけてくる気ですか。書けてる訳ねえだろうが」
『違いますよぉ、今日は原稿の催促じゃあありません。いや、書いていて頂けるなら、それに越した事はないんですけどね~』
じゃあ何だ。お前が催促以外に、電話してくる用事なんてそうないだろう。
と声を大にして言いたい気持ちを堪えながら、俺は彼の言葉の先を待つ。いや本当に、催促以外に電話の中身に心当たりがないんだが?
『先生、明日のサイン&握手会の事、モ・チ・ロ・ン覚えてらっしゃいますよね? 風都ブックスでやる』
「…………あ」
「勿論」の部分に力が籠った、皮肉混じりの斉藤の言葉に、俺は思わず間の抜けた声を上げてしまう。
そうだった。そういえば明日、地元の大型書店である「風都ブックス」で、「刃稲 虎丘」の「サイン&握手会」があるんだった。うわぁ、今の今まですっかり忘れてたわこの野郎。
『……その様子だと、やっぱり忘れてましたねぇ。まあ予想の範疇です』
「やっぱりって。忘れてなかったらどうするんですか」
『何年担当していると思っているんですか。先生が忘れていない訳がない事くらい、お見通しです。その上での嫌味なんですから。むしろ覚えてた方が驚きですよ~。かんらかんらかんらっ』
その言葉に、俺の喉からぐぅと詰まったような声が出る。何というか、この担当とは相性が悪い。こっちがどれだけ取り繕っても、何故か見透かされているようなところがある。
友人、上司、先輩という関係よりも、「兄」のような存在だと思っている。それも物凄く性格が悪く、歳の離れた。幸か不幸か、俺は一人っ子だし、実際にこんな兄貴がいたら非常に嫌なんだが。
『まあ、とにかくですねえ。明日それがあるんで。今日中に床屋に行って、そのボサボサの髪を整えて下さい。ついでに服も買っておいて頂けると助かります』
「経費で落ちますか、それ?」
『……かんらかんらかんらっ』
俺の質問に、わざとらしい笑い声を上げ、奴はとにかくお願いしますねとだけ言ってぶっつりと電話を切りやがる。
確かに、今のこの格好じゃぁファンの人には申し訳ない。それに、「著者近影」に使用されている写真には、以前履歴書用に撮った、それなりにまともに見える写真を使っている。
斉藤の言葉ではないが、流石にこのボサボサ頭の無精髭ヤローでは、読者に対して失礼に当たるだろう。作家業は、著者のイメージも大切なのだ。
ガリガリと頭を掻き毟り、俺は財布を手に取ると……こみ上げるあくびを堪える事もせず、物凄く久し振りに、床屋となる場所へと向かうのであった。
「あー、くそ……太陽が眩しい。溶ける。マジ溶ける」
伸び放題になっていた髪をバッサリと切った影響か、今まで前髪で威力を殺いでいた日光が、凶悪なまでの明るさで俺の目を射る。ついでに髭も当たってもらったのは、言うまでもない。
これで多少は見目もマシになっただろう。「要注意人物」から「一般人」程度にはなったはずだ。
とか思いながら、俺はある場所に向かう為にアパートとは逆方向へ足を向ける。原稿も大切だが、今戻っても眠すぎて書ける気がしない。何より昨日の事……彩塔さんがドーパントに襲われたっつー事実を教えておいた方が良い奴がいる事を思い出した。あいつに言っておけば、あのドーパントも近日中にどうにかなるだろう。
「かもめビリヤード」の上の階にある、知る人ぞ知る場所……「鳴海探偵事務所」。そこが今日の目的地。
ここは昔、俺が世話になった人の事務所で……風の噂では、今はその弟子に当たる人物が切り盛りしているらしい。
ちなみにその「弟子」ってのも、俺の知り合いだ。そいつとは子供の頃からの付き合いだが、流石に俺の正体までは知らせていない。
……だからこそ、今でも付き合いがあるのだが。
「よお翔。遊びに来たぜ」
「弓さん! 久し振りじゃねえか!」
机の上の書類を慌ててかき集めながら、俺よりも少し年下と思しき青年……左 翔太郎 が、嬉しそうに声をあげた。
そんな彼の横には、不思議そうな表情で俺の顔を見る少女と、特に興味もなさそうな表情で座る分厚い本を持った青年がいた。
青年の方はともかくとして、少女の方は見覚えがない。寛いでいる所から察するに、俺の知らない間に雇われた所員か何かだろうか?
「翔太郎君の知り合い?」
「んん? 何だよ、翔? お前いつの間に女の子を連れ込める立場になったんだ?」
「ちょっ……何言ってんだ! 悪い冗談はやめてくれ。……こいつはおやっさんの娘だ」
ニヤニヤと笑い、肘で軽く翔太郎を突きながらそう言ってやると、翔太郎の方は心底嫌そうな顔で言葉を返した。
「おやっさん」とは俺の「恩人」。どうやらあちらの女性は、そのおやっさん……鳴海 荘吉 の娘さんらしい。
……へえ、あの人、こんな大きなお嬢さんがいたのか。周囲の女性関係がアレなもんだったから、てっきり独身だと思っていたんだが。
感心しながら彼女の顔をよく見ると、確かに似ている部分がある。どこが、とは上手く言えないが……己の信念を貫き通そうとする瞳の色は、確かに似ている。
「そいつは失礼。俺は……」
「あー!! どこかで見た事があると思ったら!」
自己紹介をするよりも早く、彼女はびっしと俺を指差すと、ソファの上に積んでいた本の山から、一冊の文庫本を引っ張り出す。紺色の表紙には顔の左半分が灰色の虎っぽく変化している青年の絵。
……うぅわぁ。もしかしなくても、あの表紙は。
「『灰の虎』の作者……刃稲さん!?」
「何言ってんだ亜樹子 ?」
「翔太郎君、知らないの!? 今、すっごく流行ってるんだよ、この『灰の虎』シリーズ!」
あれ、おっかしぃなぁ。普段なら気付かれないはずなのに……って、はっ! そういえば俺、ついさっき身形を整えてきたトコだったっけ!? って事は、限りなく「著者近影」の写真に近い状態になってるって事か! ああ、そりゃあ、確かにバレるわな……
と、軽く諦め半分で彼らのやり取りを見やる。
「まさか、ここにも読んでくれている人がいたなんてな」
「ややや、やっぱり本物!?」
「ええ、まあ。刃稲虎丘はペンネームで、本名はそのまま、灰猫弓と申します。読んで頂けて嬉しいですよ」
「ふ、ふふふぁふぁ……大ファンです! サイン下さい!!」
差し出された本の見返しに、ペンネームである「刃稲」のドイツ語表記である「Heine」とサインをし、俺はにっこりと「亜樹子」と呼ばれた彼女に営業口調で微笑みかける。
明日サイン会があるんだが……まあ、これくらいは別にいいだろう。世話になった人の娘さんでもある訳だし、別に減る物でもない。
「……マジで弓さんが小説家かよ」
「残念ながらマジだ、翔」
「だって、バッキバキの理系人間だったじゃねえか!」
「人生とか運命って呼ばれてる奴は、往々にして気まぐれなんだよ。……俺だって今みたいな引きこもりのモノカキ生活を送る事になるとは、夢にも思ってなかったわ」
信じらんねー、と言う翔太郎だが、こっちとしても「事実なのだから仕方ない」としか返しようがない。
っと、危うく忘れる所だった。今日ここに来たのには、きちんとした理由がある。そりゃあ、さっきは「遊びに来た」と言ったが……それは荘吉さんがいる時からの「符丁」だ。それを知らない翔太郎じゃない。
……ひょっとすると、俺が来た理由を忘れているのかも知れないが。
「それで? ただやって来た訳じゃないんだろう?」
騒がしくなりかけたこの空気を一気に引き締めたのは、分厚い本を手に持っていた少年。
彼は相変らず何の関心もなさそうに、その本のページをぱらぱらとめくりながらも冷静に、俺に声をかけた。
「そうだった。弓さん、『遊びに来た』って言ってたけど……仕事の依頼か?」
「いや、今回は依頼じゃないが……『ドーパントのお話』である事は確かだな」
鳴海探偵事務所は、知る人ぞ知る「怪人に関わる出来事」を解決する探偵でもある。
ちなみに、ドーパントってのは、この街に出回っている「ガイアメモリ」と呼ばれる物を使って強化、変貌した人間の事だ。昨日彩塔さんを襲った奴も、この「ドーパント」に属する。
「例の通り魔事件あるだろ」
「メモリの正体なら見当が付いている。カレントメモリ……『電流の記憶』の持ち主だ」
俺が「通り魔事件」と言っただけで、本を持っている少年は興味なさそうにそう声を上げた。
いや、まあ……それも言おうとは思ってたけどさ。流石に知ってるだろうとは考えていたものの、出鼻を挫かれた形ではある。それでも俺は、カリカリと後ろ頭を掻きつつ更に言葉を続けた。
「まあ、その辺は知ってるだろうなと思ってたから、おまけ程度だ。……奴さんの次の狙いが定まった。彩塔硝子って女性だ」
「マジか!? って……何者だ、その人? 風都にいたか?」
「マジだ。彩塔さんは最近この街に越してきた女性でな。俺の隣人でもある。そして昨日、奴さん自身が、『お前の顔は覚えた』って言ってたし、あれは懲りずに襲う気満々だね」
正確には「お前らの顔は覚えた」だったが、真っ先に狙うならば「怪人」ではなく普通の「人間」である彩塔さんだろう。流石にあの状況で「今の俺」を狙って来たなら、相当な観察力だ。彩塔さんにはバレたが。
思う俺をよそに、翔太郎は驚いたように俺の顔を見やった。
「言っていたって……まさか弓さん……」
「ああ、昨日彩塔さんを襲おうとしている所を邪魔しちまったからな。……俺の顔も覚えられたかも」
嘘は吐いていない。本当に昨日はあのドーパントの邪魔をしたし、俺の顔も覚えられている。ただし、素顔ではなくオルフェノクとしての……「怪人」としての顔だが。
「あんま無茶すんなよ、弓さん。それでなくても、入院経験があるんだから」
「何言ってんだ、翔。『男が女を守るのは、紛れもない正義』って、荘吉さんの名言を忘れたのか? そもそも俺の『入院』は怪我だ。人を病弱みたいに言うな。そりゃあ、多少の基礎体力値は衰えたかもしれないが」
クス、と笑いながら言った俺に、翔太郎は苦笑するように口の端を歪めると、そうだったっけかな、などと惚けてくる。
翔太郎は紛れもなく、「鳴海荘吉の後継者」だと俺は思っている。あの人程クールに徹しきれない部分はあるが、この街を愛し、そしてこの街に流れる涙を拭おうとする熱意は、間違いなくあの人と同等……あるいはそれ以上だ。
こいつは、注意力は散漫だが、記憶力は人並みより上、程度にはある。ハードボイルドを気取ってはいるが、結局は非情に徹しきれない甘さもあるが、俺はそれでいいと思っている。鳴海荘吉には鳴海荘吉の、そして左翔太郎には左翔太郎の「探偵」があるのだ。ハードボイルドに拘る必要はどこにもない。
と、思っているが、いかんせん翔太郎にとって荘吉さんは尊敬の対象だ。似合いもしないハードボイルドを無理に気取るのも、まあしょうがないことではあるだろう。
「それじゃ、伝えとかなきゃならない事は伝えたからな。後は好きに料理しろ」
「何だよ弓さん、もう帰るのか」
「まあな。明日、風都ブックスでサイン会があるから、その下見もあるし、お前は別件を抱えてるんだろ?」
彼の机に置かれた書類の山を指差し、俺はひらひらと手を振って扉を開ける。
俺が来た時に隠して、そしてそのまま隠しっぱなしだったという事は、恐らく「通り魔」とは別件。
もし通り魔事件の資料だとしたら、翔太郎のことだ、もう少し詳しい話を聞かせてくれただろう。だが、そうはしなかった。俺が話をしている間、ちらりとも資料に目を落とさなかったのも、その書類が俺の持ってきた案件とは無関係だったからに他ならない。
書類の中身を見た訳ではないが、慌てて隠した事を考えると、この件より厄介なドーパント絡みと見た。それを邪魔するつもりは毛頭ない。勿論、あのドーパントをどうにかしてくれるならそれに越した事はないが、それは高望みというものだ。最悪、俺自身の手でどうにかするのもアリだ。
「んじゃ、またな」
そう言って……俺は「鳴海探偵事務所」を出て、街中へ向かって歩き出す。
さてと、それじゃあ会場の下見にでも行きますか。
思い、何の気なしに視線を風都ブックスのある方へ向け直したその時。
……何だ、この感覚。誰かに見られている?
視線を感じ、俺は大げさにならない程度の仕草で周囲を見回す。
感じる視線は、好奇とか友好とか、決してそんな好意的なものではない。どちらかと言えばねっとりと纏わり付くような、気色の悪さをひしひしと感じる。少なくとも、さっき亜樹子さんから受けた類とは別種。
そして首が軽く左に向いたところで、人垣の中に立つ視線の主を見つけた。
黒い「紳士風」の服装に身を包んだ男性。紳士風、と評したのは、あくまでそう見えるだけだと思ったからであり、纏う空気は紳士からは程遠い。
俺の事を観察するかのような視線と楽しそうな笑顔が、妙に癇に障る。
……ってちょっと待て。俺、あの人どこかで見た事があるような……
視線を振り切るように早足で歩きながらも、俺は今さっき視界に入った男性の顔を思い出す。
眠そうな半眼、やや広めの額、細面と評して差し支えない程度には細い顔。その顔に合致する記憶は…………
ああ、あったあった。思い出したよ、あの顔。
確か「井坂内科医院」の院長、井坂 深紅郎 先生だ。俺がオルフェノクになる前、まだ人間だった頃に何回かあの人に診てもらった事があったっけ。
思い出すと同時に、俺は少し歩調を落とし、追い越していった車のバックミラーで相手の姿を確認する。
間違いない、井坂先生だ。しかし、こんな真っ昼間から何やってんだ? 今日は休診日じゃなかったはずだろ。それに、あの視線……自意識過剰でないならば、間違いなく俺に向けられている。
自覚した瞬間、ぞくりと背中に冷たい物が走り、俺は出来るだけ人気のない方向へ向かって早足で歩く。本気で走っても良いのだが、それだと人間としてはあまりにも不自然なスピードになってしまう。そんな事をして周囲に騒がれるのも厄介だ。
正直、面倒臭いと思いつつも、俺はひょいひょいと人の間をすり抜けて歩く。走って逃げるよりは、こうやって人ごみの合間を縫って撒く方が楽だし、一般人にも怪しまれにくい。それに、本当に俺をつけているのかどうかも認識しやすい。
偶然同じ方へ向かっているというのなら、そのうち姿が見えなくなるはずだ。それくらいの速度で歩いている。だが、俺を意図的に追っているとなると話は変わる。相手は俺を見失わない為に、俺とほぼ同等の速度で動き、そして常にほぼ一定の距離を保って歩かなければならない。
ちらちらと自分の背後を確認すれば、井坂先生はどうやら後者……つまり、意図的に俺を追ってきているらしい。つかず離れずの距離を保ちながら俺の後方を歩いている。
何だかなぁ、すっごく嫌な予感がするんですけど、俺。
意図せず眉が寄っていくのを感じつつも、俺は速度を落とさず歩き続ける。これまでの経験上、こういう予感は、非常に遺憾ではあるがよく当たる。
やや不穏な空気を感じながらも、何とか人気のない場所……俺がよく、人を襲っているオルフェノクをおびき出して叩きのめすのに使う廃工場へと辿り着く。開けた場所だが、既に閉鎖されて随分経つので、戦う、あるいは誰かをおびき出すという手段を講じるには丁度良い場所だ。
その中でも特に開けた中央付近まで進み……そこでようやく俺は足を止めて振り返った。
「……こんな所までついてくるなんて、俺に何か御用ですか? 井坂先生」
「こんにちは、灰猫さん」
俺の質問には答えず、被っていた帽子を軽く上げながら、まるで「良い天気ですね」と言わんばかりの口調でそう言うと、彼はべろりと舌なめずりをした。しかも普通のそれより、大分早い速度で。
その仕草に、ざわりとした感覚を覚えたせいだろうか。思わず臨戦態勢をとり、俺は睨みつけるように相手を見つめる。
だが、相手はこちらの警戒など意に介した様子もなく、妙な笑みを顔に張り付けたまま……懐から、一本のUSBメモリに似た物体……世に出回っている、「ガイアメモリ」を俺に見せた。
色は灰色、真ん中には「A」の文字。ただ、その端がまるで崩れ落ちる砂のように消えかかっているようなデザインだ。
「それ、ガイアメモリですよね? そいつが何か?」
「私が、君に挿したいと思っているメモリです」
「いつの間に医者からバイヤーに転職したんです? そもそも、押し売りは勘弁して下さいよ」
「別に、売ろうとは思っていません。言ったでしょう? 君に『挿したい』だけです」
こっちの皮肉に対し、悪びれた様子もなく、井坂先生は心底楽しそうに言い放つ。
いや待て。俺に挿したいって何だ!? ドーパントになる気はないし、あんたに協力する気もないぞ!? っつか、何で俺!? 俺の意志はまるっと無視って解釈で良いんだな?
とまあ、様々な疑問が脳裏に浮かんでは消えるが、それを口に出すよりも早く、井坂先生はポケットから更に別のメモリを取り出した。
筐体の色は白に近い銀。中央に書かれている文字は「W」。そしてそのメモリのスイッチのような部分を押すと、メモリは己に記録された物の正体を告げる。
――Weather――
「ウェザー」、つまり天候。それを意味する音声が聞こえたと同時に、井坂先生はその白銀の筐体……ウェザーメモリを自分の耳に突き立てた。
メモリは彼の体内へと、コネクタを通じて吸収され、姿を「井坂深紅郎」から「ウェザードーパント」へと変貌させる。
体色は白。頭頂部に高く結われた「髪」のような物があり、その姿は一見すると「騎士」や「侍」のようにも見える。ウェザーというだけあって、その姿には雲、雨、雪や風を連想させる模様も描かれている。
「ドーパントを見るのは、これが初めてだ」とは言わない。そもそも昨日もカレントドーパントを見ているし、その前だって、何度か見かけている。
だが、どのドーパントも、あまり怖いと思わなかった。多分、俺のオルフェノクとしての本能が、相手を俺よりも「弱い」と判断していたからだろう。だが、今回は違う。目の前に立つ「怪人」からは、寒々しい空気が漂っており、本格的に「マズい」と思わせる雰囲気があった。
……そもそもガイアメモリよ。お前、「天候」みたいな曖昧な概念まで記録できるってどれだけ守備範囲広いんだ。
痛むこめかみを押さえつつ、俺はじっと相手を観察する。
何というか、あの人はあの姿でいる事に「慣れて」いるような雰囲気がある。メモリユーザーとしての経歴が長いのだろう。少なくとも一日や二日程度ではなさそうだ。自分が持つ力を熟知している者特有の空気が、あの人の周囲を取り巻いている。
『さあ、君にこのメモリをプレゼントしましょう』
「いらん。そもそもあんたがドーパントなんだから、あんた自身が使えばいいだろう?」
相手がドーパントに変じている上、こっちに敵意のような物まで向けているなら、敬語を使う必要はない。
さっきの灰色のメモリを構え、悠然とした足取りで近付いてくる井坂に言葉を返しつつ、俺も彼と同じ距離だけ後退する。
正直な話、この人がどんなメモリを、どれだけの数使おうが知った事じゃない。結果として苦しもうが、逆に力を得ようが、それはこの人が自分を使って実験した結果だ。
だが、その「実験」や「執念」に、他人を巻き込むのはどうかと思う。しかも、その「他人」が俺を指すなら、なおのこと遠慮したい。
おまけにこの嫌な感じ。絶対に俺が挿したら、何か大変な事が起こる。これは予感ではなく確信だ。
大体、人間に合わせて作られているであろうガイアメモリを、オルフェノクである俺が使った場合どうなるんだ? どう考えてもロクな事にならない。
『いずれは私自身に使いますよ。……ですが、今は君に挿す方が先です』
「絶対に、いらん!」
言うと同時に、俺は自分の姿をタイガーオルフェノクへと変え、大きく後ろへ飛び退りつつも数本の矢を相手に射かける。
この姿を人に晒すのは嫌だが、今回ばかりは仕方がない。俺が既に異形であると知れば、相手も諦めるだろう。と思ったのだが……どうやらその考えは甘かったようだ。
彼はこちらの矢を冷静にかわしながらも、嬉々とした声でオルフェノク姿の俺に言葉を放った。
『素晴らしい! ドーパントとは異なる存在。それでありながら、このメモリに対する可能性を秘めているとは……!』
「誉めてないだろ、それ!」
『いいえ。感動すら覚えていますよ。君のその姿には……ねえ!』
チッ、正体を明かしたのは逆効果だったか!
と後悔したのとほぼ同時に、相手は突風……いや、もはや竜巻と呼ぶべきそれを俺に向けて放った。
攻撃が来たと認識するのとほぼ同時に、俺はその風に吹き飛ばされ、いくつかの瓦礫を吹っ飛ばして隣のエリアのドラム缶に思い切りぶつかって派手な音を立てて止まる。
風みたいな目に見えないもの、どうやって回避しろっつーんだよ! そりゃあ、この格好の時は、感覚とか勘とかが多少は鋭くはなっているけれど、あんな広範囲かつ高威力な風、かわしようがないだろうが!
『ほう。あの一瞬で最も威力の弱い部分に向かって回避するとは。正直、先程の一撃で終わると思ったんですがねえ』
終わると思っていた割に、悔しさは感じられない。むしろ何でだか楽しそうに肩を震わせ、興味深そうな視線をこちらに向けている。
いや、ドーパントの場合、表情の変化なんてものは見えないから、本当に楽しんでいるのかは分からないんだが。
『ますます面白い。メモリを挿した時、君は、どんな姿を見せてくれるんでしょうかねぇ』
「チッ……面倒な奴に目ェ付けられたぜ……」
前方からゆっくりとした足取りで近付いて来る白いドーパントを見つめながら、思い切り毒吐く。
こいつみたいな、どこかネジがぶっ飛んでいるような奴の相手など、するだけ時間の無駄だというのに。……どうにも、その無駄な時間を過ごさなければならないらしい。
――『助けてくれて、ありがとう』
彼女はそう言って、ふわりと笑うと、怪人であるはずの俺の手をとった。一瞬、自分でも意識しないうちに体がびくりと揺れたが、彼女はお構いなしに俺の手を包むように握って言葉を続ける。
『大丈夫、私は怖いとは思わないから』
真摯な瞳で、俺を見つめて言ってくれた。
その言葉がとても嬉しくて……俺は思わず、泣きそうになる――
そこまで書いて、俺はふぅ、と軽く息を吐き出した。
物語上のヒロインは、結局主人公の正体を知らないという設定にはしてあるが……受け入れたって時点で、かなり彩塔さんを意識しているように思う。勿論、実際は手なんて握られてないんだが、そこは「恋愛」に発展させる為の脚色って奴だ。これくらい入れないと、絶対に担当のアホが煩く言ってくるに違いない。
昨日の夜から書き始めて、既に外は白んでいる。どうやら徹夜をしてしまったらしい。
金な物だ。
よし、寝よう。そして、起きたら続きを書こう。完徹が出来る程、もう若くもない。そう思った瞬間。
ジリジリと電話が凶悪な鳴り方をしだした。
この「早く出やがれ、このクズがっ」と言わんばかりの鳴り方は、悪魔のような俺の担当、斉藤
……いや待て。締め切りまでまだ余裕があるはずなんだが? そもそも、ついこの間も電話してきやがったよな?
自分でも分るくらい恨めしげな表情をして電話に向かい、俺はガリガリと頭を掻きながらその電話に出る。と、予想通りというか何というか。独特な、かんらかんらという笑い声と共に、やたらと元気なヤツの声が受話器の向こうから響いてきた。
『おはようございます、先生。清々しい朝ですね~!』
「……何ですか、朝一から。原稿の締め切りまではまだでしょう? ここ数日で何回確認の電話かけてくる気ですか。書けてる訳ねえだろうが」
『違いますよぉ、今日は原稿の催促じゃあありません。いや、書いていて頂けるなら、それに越した事はないんですけどね~』
じゃあ何だ。お前が催促以外に、電話してくる用事なんてそうないだろう。
と声を大にして言いたい気持ちを堪えながら、俺は彼の言葉の先を待つ。いや本当に、催促以外に電話の中身に心当たりがないんだが?
『先生、明日のサイン&握手会の事、モ・チ・ロ・ン覚えてらっしゃいますよね? 風都ブックスでやる』
「…………あ」
「勿論」の部分に力が籠った、皮肉混じりの斉藤の言葉に、俺は思わず間の抜けた声を上げてしまう。
そうだった。そういえば明日、地元の大型書店である「風都ブックス」で、「刃稲 虎丘」の「サイン&握手会」があるんだった。うわぁ、今の今まですっかり忘れてたわこの野郎。
『……その様子だと、やっぱり忘れてましたねぇ。まあ予想の範疇です』
「やっぱりって。忘れてなかったらどうするんですか」
『何年担当していると思っているんですか。先生が忘れていない訳がない事くらい、お見通しです。その上での嫌味なんですから。むしろ覚えてた方が驚きですよ~。かんらかんらかんらっ』
その言葉に、俺の喉からぐぅと詰まったような声が出る。何というか、この担当とは相性が悪い。こっちがどれだけ取り繕っても、何故か見透かされているようなところがある。
友人、上司、先輩という関係よりも、「兄」のような存在だと思っている。それも物凄く性格が悪く、歳の離れた。幸か不幸か、俺は一人っ子だし、実際にこんな兄貴がいたら非常に嫌なんだが。
『まあ、とにかくですねえ。明日それがあるんで。今日中に床屋に行って、そのボサボサの髪を整えて下さい。ついでに服も買っておいて頂けると助かります』
「経費で落ちますか、それ?」
『……かんらかんらかんらっ』
俺の質問に、わざとらしい笑い声を上げ、奴はとにかくお願いしますねとだけ言ってぶっつりと電話を切りやがる。
確かに、今のこの格好じゃぁファンの人には申し訳ない。それに、「著者近影」に使用されている写真には、以前履歴書用に撮った、それなりにまともに見える写真を使っている。
斉藤の言葉ではないが、流石にこのボサボサ頭の無精髭ヤローでは、読者に対して失礼に当たるだろう。作家業は、著者のイメージも大切なのだ。
ガリガリと頭を掻き毟り、俺は財布を手に取ると……こみ上げるあくびを堪える事もせず、物凄く久し振りに、床屋となる場所へと向かうのであった。
「あー、くそ……太陽が眩しい。溶ける。マジ溶ける」
伸び放題になっていた髪をバッサリと切った影響か、今まで前髪で威力を殺いでいた日光が、凶悪なまでの明るさで俺の目を射る。ついでに髭も当たってもらったのは、言うまでもない。
これで多少は見目もマシになっただろう。「要注意人物」から「一般人」程度にはなったはずだ。
とか思いながら、俺はある場所に向かう為にアパートとは逆方向へ足を向ける。原稿も大切だが、今戻っても眠すぎて書ける気がしない。何より昨日の事……彩塔さんがドーパントに襲われたっつー事実を教えておいた方が良い奴がいる事を思い出した。あいつに言っておけば、あのドーパントも近日中にどうにかなるだろう。
「かもめビリヤード」の上の階にある、知る人ぞ知る場所……「鳴海探偵事務所」。そこが今日の目的地。
ここは昔、俺が世話になった人の事務所で……風の噂では、今はその弟子に当たる人物が切り盛りしているらしい。
ちなみにその「弟子」ってのも、俺の知り合いだ。そいつとは子供の頃からの付き合いだが、流石に俺の正体までは知らせていない。
……だからこそ、今でも付き合いがあるのだが。
「よお翔。遊びに来たぜ」
「弓さん! 久し振りじゃねえか!」
机の上の書類を慌ててかき集めながら、俺よりも少し年下と思しき青年……
そんな彼の横には、不思議そうな表情で俺の顔を見る少女と、特に興味もなさそうな表情で座る分厚い本を持った青年がいた。
青年の方はともかくとして、少女の方は見覚えがない。寛いでいる所から察するに、俺の知らない間に雇われた所員か何かだろうか?
「翔太郎君の知り合い?」
「んん? 何だよ、翔? お前いつの間に女の子を連れ込める立場になったんだ?」
「ちょっ……何言ってんだ! 悪い冗談はやめてくれ。……こいつはおやっさんの娘だ」
ニヤニヤと笑い、肘で軽く翔太郎を突きながらそう言ってやると、翔太郎の方は心底嫌そうな顔で言葉を返した。
「おやっさん」とは俺の「恩人」。どうやらあちらの女性は、そのおやっさん……
……へえ、あの人、こんな大きなお嬢さんがいたのか。周囲の女性関係がアレなもんだったから、てっきり独身だと思っていたんだが。
感心しながら彼女の顔をよく見ると、確かに似ている部分がある。どこが、とは上手く言えないが……己の信念を貫き通そうとする瞳の色は、確かに似ている。
「そいつは失礼。俺は……」
「あー!! どこかで見た事があると思ったら!」
自己紹介をするよりも早く、彼女はびっしと俺を指差すと、ソファの上に積んでいた本の山から、一冊の文庫本を引っ張り出す。紺色の表紙には顔の左半分が灰色の虎っぽく変化している青年の絵。
……うぅわぁ。もしかしなくても、あの表紙は。
「『灰の虎』の作者……刃稲さん!?」
「何言ってんだ
「翔太郎君、知らないの!? 今、すっごく流行ってるんだよ、この『灰の虎』シリーズ!」
あれ、おっかしぃなぁ。普段なら気付かれないはずなのに……って、はっ! そういえば俺、ついさっき身形を整えてきたトコだったっけ!? って事は、限りなく「著者近影」の写真に近い状態になってるって事か! ああ、そりゃあ、確かにバレるわな……
と、軽く諦め半分で彼らのやり取りを見やる。
「まさか、ここにも読んでくれている人がいたなんてな」
「ややや、やっぱり本物!?」
「ええ、まあ。刃稲虎丘はペンネームで、本名はそのまま、灰猫弓と申します。読んで頂けて嬉しいですよ」
「ふ、ふふふぁふぁ……大ファンです! サイン下さい!!」
差し出された本の見返しに、ペンネームである「刃稲」のドイツ語表記である「Heine」とサインをし、俺はにっこりと「亜樹子」と呼ばれた彼女に営業口調で微笑みかける。
明日サイン会があるんだが……まあ、これくらいは別にいいだろう。世話になった人の娘さんでもある訳だし、別に減る物でもない。
「……マジで弓さんが小説家かよ」
「残念ながらマジだ、翔」
「だって、バッキバキの理系人間だったじゃねえか!」
「人生とか運命って呼ばれてる奴は、往々にして気まぐれなんだよ。……俺だって今みたいな引きこもりのモノカキ生活を送る事になるとは、夢にも思ってなかったわ」
信じらんねー、と言う翔太郎だが、こっちとしても「事実なのだから仕方ない」としか返しようがない。
っと、危うく忘れる所だった。今日ここに来たのには、きちんとした理由がある。そりゃあ、さっきは「遊びに来た」と言ったが……それは荘吉さんがいる時からの「符丁」だ。それを知らない翔太郎じゃない。
……ひょっとすると、俺が来た理由を忘れているのかも知れないが。
「それで? ただやって来た訳じゃないんだろう?」
騒がしくなりかけたこの空気を一気に引き締めたのは、分厚い本を手に持っていた少年。
彼は相変らず何の関心もなさそうに、その本のページをぱらぱらとめくりながらも冷静に、俺に声をかけた。
「そうだった。弓さん、『遊びに来た』って言ってたけど……仕事の依頼か?」
「いや、今回は依頼じゃないが……『ドーパントのお話』である事は確かだな」
鳴海探偵事務所は、知る人ぞ知る「怪人に関わる出来事」を解決する探偵でもある。
ちなみに、ドーパントってのは、この街に出回っている「ガイアメモリ」と呼ばれる物を使って強化、変貌した人間の事だ。昨日彩塔さんを襲った奴も、この「ドーパント」に属する。
「例の通り魔事件あるだろ」
「メモリの正体なら見当が付いている。カレントメモリ……『電流の記憶』の持ち主だ」
俺が「通り魔事件」と言っただけで、本を持っている少年は興味なさそうにそう声を上げた。
いや、まあ……それも言おうとは思ってたけどさ。流石に知ってるだろうとは考えていたものの、出鼻を挫かれた形ではある。それでも俺は、カリカリと後ろ頭を掻きつつ更に言葉を続けた。
「まあ、その辺は知ってるだろうなと思ってたから、おまけ程度だ。……奴さんの次の狙いが定まった。彩塔硝子って女性だ」
「マジか!? って……何者だ、その人? 風都にいたか?」
「マジだ。彩塔さんは最近この街に越してきた女性でな。俺の隣人でもある。そして昨日、奴さん自身が、『お前の顔は覚えた』って言ってたし、あれは懲りずに襲う気満々だね」
正確には「お前らの顔は覚えた」だったが、真っ先に狙うならば「怪人」ではなく普通の「人間」である彩塔さんだろう。流石にあの状況で「今の俺」を狙って来たなら、相当な観察力だ。彩塔さんにはバレたが。
思う俺をよそに、翔太郎は驚いたように俺の顔を見やった。
「言っていたって……まさか弓さん……」
「ああ、昨日彩塔さんを襲おうとしている所を邪魔しちまったからな。……俺の顔も覚えられたかも」
嘘は吐いていない。本当に昨日はあのドーパントの邪魔をしたし、俺の顔も覚えられている。ただし、素顔ではなくオルフェノクとしての……「怪人」としての顔だが。
「あんま無茶すんなよ、弓さん。それでなくても、入院経験があるんだから」
「何言ってんだ、翔。『男が女を守るのは、紛れもない正義』って、荘吉さんの名言を忘れたのか? そもそも俺の『入院』は怪我だ。人を病弱みたいに言うな。そりゃあ、多少の基礎体力値は衰えたかもしれないが」
クス、と笑いながら言った俺に、翔太郎は苦笑するように口の端を歪めると、そうだったっけかな、などと惚けてくる。
翔太郎は紛れもなく、「鳴海荘吉の後継者」だと俺は思っている。あの人程クールに徹しきれない部分はあるが、この街を愛し、そしてこの街に流れる涙を拭おうとする熱意は、間違いなくあの人と同等……あるいはそれ以上だ。
こいつは、注意力は散漫だが、記憶力は人並みより上、程度にはある。ハードボイルドを気取ってはいるが、結局は非情に徹しきれない甘さもあるが、俺はそれでいいと思っている。鳴海荘吉には鳴海荘吉の、そして左翔太郎には左翔太郎の「探偵」があるのだ。ハードボイルドに拘る必要はどこにもない。
と、思っているが、いかんせん翔太郎にとって荘吉さんは尊敬の対象だ。似合いもしないハードボイルドを無理に気取るのも、まあしょうがないことではあるだろう。
「それじゃ、伝えとかなきゃならない事は伝えたからな。後は好きに料理しろ」
「何だよ弓さん、もう帰るのか」
「まあな。明日、風都ブックスでサイン会があるから、その下見もあるし、お前は別件を抱えてるんだろ?」
彼の机に置かれた書類の山を指差し、俺はひらひらと手を振って扉を開ける。
俺が来た時に隠して、そしてそのまま隠しっぱなしだったという事は、恐らく「通り魔」とは別件。
もし通り魔事件の資料だとしたら、翔太郎のことだ、もう少し詳しい話を聞かせてくれただろう。だが、そうはしなかった。俺が話をしている間、ちらりとも資料に目を落とさなかったのも、その書類が俺の持ってきた案件とは無関係だったからに他ならない。
書類の中身を見た訳ではないが、慌てて隠した事を考えると、この件より厄介なドーパント絡みと見た。それを邪魔するつもりは毛頭ない。勿論、あのドーパントをどうにかしてくれるならそれに越した事はないが、それは高望みというものだ。最悪、俺自身の手でどうにかするのもアリだ。
「んじゃ、またな」
そう言って……俺は「鳴海探偵事務所」を出て、街中へ向かって歩き出す。
さてと、それじゃあ会場の下見にでも行きますか。
思い、何の気なしに視線を風都ブックスのある方へ向け直したその時。
……何だ、この感覚。誰かに見られている?
視線を感じ、俺は大げさにならない程度の仕草で周囲を見回す。
感じる視線は、好奇とか友好とか、決してそんな好意的なものではない。どちらかと言えばねっとりと纏わり付くような、気色の悪さをひしひしと感じる。少なくとも、さっき亜樹子さんから受けた類とは別種。
そして首が軽く左に向いたところで、人垣の中に立つ視線の主を見つけた。
黒い「紳士風」の服装に身を包んだ男性。紳士風、と評したのは、あくまでそう見えるだけだと思ったからであり、纏う空気は紳士からは程遠い。
俺の事を観察するかのような視線と楽しそうな笑顔が、妙に癇に障る。
……ってちょっと待て。俺、あの人どこかで見た事があるような……
視線を振り切るように早足で歩きながらも、俺は今さっき視界に入った男性の顔を思い出す。
眠そうな半眼、やや広めの額、細面と評して差し支えない程度には細い顔。その顔に合致する記憶は…………
ああ、あったあった。思い出したよ、あの顔。
確か「井坂内科医院」の院長、
思い出すと同時に、俺は少し歩調を落とし、追い越していった車のバックミラーで相手の姿を確認する。
間違いない、井坂先生だ。しかし、こんな真っ昼間から何やってんだ? 今日は休診日じゃなかったはずだろ。それに、あの視線……自意識過剰でないならば、間違いなく俺に向けられている。
自覚した瞬間、ぞくりと背中に冷たい物が走り、俺は出来るだけ人気のない方向へ向かって早足で歩く。本気で走っても良いのだが、それだと人間としてはあまりにも不自然なスピードになってしまう。そんな事をして周囲に騒がれるのも厄介だ。
正直、面倒臭いと思いつつも、俺はひょいひょいと人の間をすり抜けて歩く。走って逃げるよりは、こうやって人ごみの合間を縫って撒く方が楽だし、一般人にも怪しまれにくい。それに、本当に俺をつけているのかどうかも認識しやすい。
偶然同じ方へ向かっているというのなら、そのうち姿が見えなくなるはずだ。それくらいの速度で歩いている。だが、俺を意図的に追っているとなると話は変わる。相手は俺を見失わない為に、俺とほぼ同等の速度で動き、そして常にほぼ一定の距離を保って歩かなければならない。
ちらちらと自分の背後を確認すれば、井坂先生はどうやら後者……つまり、意図的に俺を追ってきているらしい。つかず離れずの距離を保ちながら俺の後方を歩いている。
何だかなぁ、すっごく嫌な予感がするんですけど、俺。
意図せず眉が寄っていくのを感じつつも、俺は速度を落とさず歩き続ける。これまでの経験上、こういう予感は、非常に遺憾ではあるがよく当たる。
やや不穏な空気を感じながらも、何とか人気のない場所……俺がよく、人を襲っているオルフェノクをおびき出して叩きのめすのに使う廃工場へと辿り着く。開けた場所だが、既に閉鎖されて随分経つので、戦う、あるいは誰かをおびき出すという手段を講じるには丁度良い場所だ。
その中でも特に開けた中央付近まで進み……そこでようやく俺は足を止めて振り返った。
「……こんな所までついてくるなんて、俺に何か御用ですか? 井坂先生」
「こんにちは、灰猫さん」
俺の質問には答えず、被っていた帽子を軽く上げながら、まるで「良い天気ですね」と言わんばかりの口調でそう言うと、彼はべろりと舌なめずりをした。しかも普通のそれより、大分早い速度で。
その仕草に、ざわりとした感覚を覚えたせいだろうか。思わず臨戦態勢をとり、俺は睨みつけるように相手を見つめる。
だが、相手はこちらの警戒など意に介した様子もなく、妙な笑みを顔に張り付けたまま……懐から、一本のUSBメモリに似た物体……世に出回っている、「ガイアメモリ」を俺に見せた。
色は灰色、真ん中には「A」の文字。ただ、その端がまるで崩れ落ちる砂のように消えかかっているようなデザインだ。
「それ、ガイアメモリですよね? そいつが何か?」
「私が、君に挿したいと思っているメモリです」
「いつの間に医者からバイヤーに転職したんです? そもそも、押し売りは勘弁して下さいよ」
「別に、売ろうとは思っていません。言ったでしょう? 君に『挿したい』だけです」
こっちの皮肉に対し、悪びれた様子もなく、井坂先生は心底楽しそうに言い放つ。
いや待て。俺に挿したいって何だ!? ドーパントになる気はないし、あんたに協力する気もないぞ!? っつか、何で俺!? 俺の意志はまるっと無視って解釈で良いんだな?
とまあ、様々な疑問が脳裏に浮かんでは消えるが、それを口に出すよりも早く、井坂先生はポケットから更に別のメモリを取り出した。
筐体の色は白に近い銀。中央に書かれている文字は「W」。そしてそのメモリのスイッチのような部分を押すと、メモリは己に記録された物の正体を告げる。
――Weather――
「ウェザー」、つまり天候。それを意味する音声が聞こえたと同時に、井坂先生はその白銀の筐体……ウェザーメモリを自分の耳に突き立てた。
メモリは彼の体内へと、コネクタを通じて吸収され、姿を「井坂深紅郎」から「ウェザードーパント」へと変貌させる。
体色は白。頭頂部に高く結われた「髪」のような物があり、その姿は一見すると「騎士」や「侍」のようにも見える。ウェザーというだけあって、その姿には雲、雨、雪や風を連想させる模様も描かれている。
「ドーパントを見るのは、これが初めてだ」とは言わない。そもそも昨日もカレントドーパントを見ているし、その前だって、何度か見かけている。
だが、どのドーパントも、あまり怖いと思わなかった。多分、俺のオルフェノクとしての本能が、相手を俺よりも「弱い」と判断していたからだろう。だが、今回は違う。目の前に立つ「怪人」からは、寒々しい空気が漂っており、本格的に「マズい」と思わせる雰囲気があった。
……そもそもガイアメモリよ。お前、「天候」みたいな曖昧な概念まで記録できるってどれだけ守備範囲広いんだ。
痛むこめかみを押さえつつ、俺はじっと相手を観察する。
何というか、あの人はあの姿でいる事に「慣れて」いるような雰囲気がある。メモリユーザーとしての経歴が長いのだろう。少なくとも一日や二日程度ではなさそうだ。自分が持つ力を熟知している者特有の空気が、あの人の周囲を取り巻いている。
『さあ、君にこのメモリをプレゼントしましょう』
「いらん。そもそもあんたがドーパントなんだから、あんた自身が使えばいいだろう?」
相手がドーパントに変じている上、こっちに敵意のような物まで向けているなら、敬語を使う必要はない。
さっきの灰色のメモリを構え、悠然とした足取りで近付いてくる井坂に言葉を返しつつ、俺も彼と同じ距離だけ後退する。
正直な話、この人がどんなメモリを、どれだけの数使おうが知った事じゃない。結果として苦しもうが、逆に力を得ようが、それはこの人が自分を使って実験した結果だ。
だが、その「実験」や「執念」に、他人を巻き込むのはどうかと思う。しかも、その「他人」が俺を指すなら、なおのこと遠慮したい。
おまけにこの嫌な感じ。絶対に俺が挿したら、何か大変な事が起こる。これは予感ではなく確信だ。
大体、人間に合わせて作られているであろうガイアメモリを、オルフェノクである俺が使った場合どうなるんだ? どう考えてもロクな事にならない。
『いずれは私自身に使いますよ。……ですが、今は君に挿す方が先です』
「絶対に、いらん!」
言うと同時に、俺は自分の姿をタイガーオルフェノクへと変え、大きく後ろへ飛び退りつつも数本の矢を相手に射かける。
この姿を人に晒すのは嫌だが、今回ばかりは仕方がない。俺が既に異形であると知れば、相手も諦めるだろう。と思ったのだが……どうやらその考えは甘かったようだ。
彼はこちらの矢を冷静にかわしながらも、嬉々とした声でオルフェノク姿の俺に言葉を放った。
『素晴らしい! ドーパントとは異なる存在。それでありながら、このメモリに対する可能性を秘めているとは……!』
「誉めてないだろ、それ!」
『いいえ。感動すら覚えていますよ。君のその姿には……ねえ!』
チッ、正体を明かしたのは逆効果だったか!
と後悔したのとほぼ同時に、相手は突風……いや、もはや竜巻と呼ぶべきそれを俺に向けて放った。
攻撃が来たと認識するのとほぼ同時に、俺はその風に吹き飛ばされ、いくつかの瓦礫を吹っ飛ばして隣のエリアのドラム缶に思い切りぶつかって派手な音を立てて止まる。
風みたいな目に見えないもの、どうやって回避しろっつーんだよ! そりゃあ、この格好の時は、感覚とか勘とかが多少は鋭くはなっているけれど、あんな広範囲かつ高威力な風、かわしようがないだろうが!
『ほう。あの一瞬で最も威力の弱い部分に向かって回避するとは。正直、先程の一撃で終わると思ったんですがねえ』
終わると思っていた割に、悔しさは感じられない。むしろ何でだか楽しそうに肩を震わせ、興味深そうな視線をこちらに向けている。
いや、ドーパントの場合、表情の変化なんてものは見えないから、本当に楽しんでいるのかは分からないんだが。
『ますます面白い。メモリを挿した時、君は、どんな姿を見せてくれるんでしょうかねぇ』
「チッ……面倒な奴に目ェ付けられたぜ……」
前方からゆっくりとした足取りで近付いて来る白いドーパントを見つめながら、思い切り毒吐く。
こいつみたいな、どこかネジがぶっ飛んでいるような奴の相手など、するだけ時間の無駄だというのに。……どうにも、その無駄な時間を過ごさなければならないらしい。