灰の虎とガラスの獅子

【Vが迫る/広がる悪意】

 京水、賢という二人の「死者」から、オルフェノクの姿になって逃げ、そしてユニコーンメモリを拾い上げた……のだが。
 どーも撒ききれてなかったらしい。あの場からずっとついてきている気配に、俺は霧雨を抱えたまま、再び姿をオルフェノクの物へ変える。
 どうせここまで追って来てるって事は、見られてるって事なんだ。今更隠しても無意味だろう。
――開き直ったな、お前――
 やかましい。
 感じている気配は一つだけ。ならば追って来たのはどちらか一方だけなのだろう。京水か? 賢か?
 どちらにせよ、俺の速度についてきたって時点で、逃げ切れる自信がない。ならばここらで撃沈させた方が良い。二対一ならともかく、一対一なら何とかなる。と、思う。
 考えながらも視線を気配がする方へと向け、俺は出来る限り険しい表情を作って声を投げた。
「いい加減しつこいな。姿を見せたらどうだ? 見せる気がないって言うなら……」
『わー! 待った待った! ボクだよ、ボク』
「……は?」
 てっきり黄色か青のドーパントが出てくるかと思っていたのだが。
 両手を上げ、どこか間の抜けたような声と共に現れたのは、予想していなかった黒。タキシードを身に纏い、首から上以外はほとんど人間と変わらない、マスカレイドドーパントだった。
 スタタンっスタタンっと特徴的なリズムのステップを踏み、素早く俺の側に寄って来たそいつは……
「お前……ひょっとしてクークか!?」
『Yes! いやぁ、なかなか素敵にイカレた展開で、クークドキドキっ』
 以前、俺にバレットメモリを渡した、敵なのか味方なのかどちらでもないのか両方なのか、未だに判断のつかない存在……クークだ。他のマスカレイドとは異なり、足音……と言うかタップ音が特徴的すぎるので区別がつく。むしろ、そこしか区別のつけようがないとも言えるのだが。
 思いもかけなかった存在の登場に呆気にとられ、俺は再び本来の姿に戻る。こいつと出会ったのはバレットを渡されたあの時だけなのだが、妙に印象に残っている。
 一方でクークは、自分の胸元に手を当て、言葉通り興奮しているかのような仕草を取った。別段、俺のオルフェノクとしての姿を恐れた様子もない。俺がオルフェノクである事は、知らないはずなのに、だ。
 かと思えば、やおら俺の腕の中にいる霧雨の手を取り、その甲に恭しく口付けを落とす。いや、そこが口なのかどうかは、正直分からないが、多分位置的に口だと思う。霧雨はそれを当たり前のように享受すると、軽くとられている方とは逆の手を上げ……
「おー、くーちゃ!」
『やっほ~、むーちゃん。二十日ぶりくらい? ちょっと見ない内にまた美人さんになって。もう可愛いなぁ~。ほっぺたプニプニして良い?』
「ヤ」
「手の甲にキスとかいう気障ったらしい行為の時点で駄目に決まってるだろ。ってか、知り合いかお前ら」
 色々と聞きたい事、言いたい事はあるのだが、とりあえず俺はクークと霧雨の間の親密さの理由を問う。
 こいつらの会話は、初めて出会った者がするのとは違う。ある程度の回数の逢瀬を重ね、そしてそれなりに親密になった者達がするものだ。会話だけではなく、二人の間にある空気感も同じ。友人、あるいは親友と言った類の親密さが存在するのが、どうしても気にかかる。
 どう考えても、幼稚園児とミュージアムのマスカレイドドーパントの間に、接点なんてないと思うんだが。
『んっふっふ~。実はボク、幼稚園でアルバイトしてるんだ。そしてむーちゃんにプニプニするの断られた~。ショックすぎて凹むー』
「ぷにぷにじゃなくて、すりすりがいい」
『あ、スリスリなら良いの? 任せてOK』
「『任せてオッケー』、じゃねえよ。その顔で頬擦りしようとするな。霧雨の肌が削れる」
『熟した桃も裸足で逃げ出すレベルで、綺麗なお肌だもんねー』
 比喩抜きできゃらっと笑い、クークは頬擦りを諦めたのか摺り寄せようとした自身の顔を離し、代わりに手袋に覆われた手でもって霧雨の頬を優しく撫でた。
 パッと見異様すぎる光景なのだが、霧雨はそんな事は気にしていないらしく、きゃっきゃとくすぐったそうに首を竦めている。恐らく霧雨にはこいつの「普段の姿」ってのが見えているからなんだろうが。
――いや、純粋に慣れの問題だろ――
 は?
――さっきこいつ、この変人マスカレイドの事、「くーちゃ」って呼んでたぞ――
 呆れの混じったアッシュの言葉に、俺は数分前の事を思い出す。そして、京水達に出逢う直前にかわした会話も。
「…………霧雨、まさかお前にメモリを見せた『お友達』って……コレ、か?」
「ん。くーちゃねー、いっぱいメモリもっててねー、よーちえんでみしてくれるのー」
『今日も持ってるよー、ほら』
 恐る恐る尋ねた俺に、霧雨は嬉しそうに頷きと言葉を返し、「コレ」扱いされたクークは別段それを気にした様子も見せず、霧雨を撫でていた手とは逆の手に持っていたジュラルミンケースを開ける。その中には複数の種類のガイアメモリが、緩衝材と共にぎっしりと詰まっていた。
 筺体に貼ってあるシールから察するに、こいつ自身が使っている「マスカレイド」をはじめ、今さっき俺が拾った「ユニコーン」、何に使うのか今一つ分からない「ビーン」、何を示しているのかは分からないが「M」を象った猫みたいな物まで。パッと見ただけでも五十本近くあるだろうか。全てがミュージアム特有の筐体デザインなので、恐らくこいつも、普段はメモリのバイヤーでもしているんだろう。だから、メモリを多数所持していてもおかしくはない。
 だが。
「お前が元凶かこの野郎! 幼稚園児にガイアメモリなんか見せるな、このミュージアムの回し者がっ!」
『大丈夫! 『見せるだけ』に留めてるから! 触らせてはいないし使わせるなんて以ってのほか!』
「使わせてるとか言い出したら、即座にぶん殴って警察に突き出すわ」
『いかに変人を自称するボクと言えど、余程の事がない限りは、実年齢一桁の子相手にメモリを渡したりする気はないサ。『Baby』とか『Imagination』とかは、幼稚園児くらいの方が威力を発揮しやすいらしいけど』
「……揚げ足を取るなら、二桁になった瞬間から使わせても良いと思ってると取れる上に、余程の事があれば渡すように聞こえるんだが」
『そりゃあ、実際渡しちゃってる子もいるからねー。……もっともあの子の場合、ボクがきちんと面倒見ているし、ボクが見つけた時にはもう既に井坂並みにコネクタ打たれてたってのもあるんだけどサ。キャハっ』
 霧雨を抱いているのとは逆の手でクークの胸座を掴み、がっくんがっくんと前後に揺さぶって怒鳴る俺とは対照的に、壊れた人形のように首をカクカクと前後に激しくシェイクしながら、全く気にしていないような声でクークは笑う。
 笑っているが……言ってる事は、実は結構大変な事だし、こいつはこいつでそれなりにその「渡しちゃった子」を気にかけているらしいのは分かる。
 メモリを渡している時点でこいつの行動が全面的に正しいとは言えない訳だが、少なくともこいつなりの「矜持」があって、それを元に行動しているらしい。色々とツッコミは入れたいが、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」だ。とりあえずこっちを面倒事に巻き込まないでくれればそれでいい。
「それで? 何しに出てきた?」
『個人的な興味で、色々と説明しに? あ、その前にそろそろ手を放してくれるとありがたい。息が息がギブギブギブ』
 あ、こいつの胸座掴んだままだったの忘れてた。
 ペシペシと手を叩かれてようやく気付き、ぱっと叩かれていた手を放す。
 俺から解放されたクークは、安心したような溜息を一つ漏らすと、乱れた襟元を正しながら説明をし始めた。
『君が拾って、あいつらに奪われたのは新型。『T2メモリ』って呼ばれる種類のメモリなんだけどね』
「う? みゅじあむの新しいのなの?」
『うーん、残念。ミュージアムのじゃあなくてね。その支援団体である『財団X』が独自に作った物なんだ』
 霧雨の問いに、クークの声に苦笑めいた色が混じる。「財団X」って名前は初めて聞くが、要するにミュージアムの……園咲のスポンサーって事らしい。
 まあ、いくら園咲の家が豪邸でも、たかが一富豪程度がミュージアムなんて組織を運営・管理するだけの資金を持っているとは思えない。後ろ盾があるのは当然だろう。その「財団」は、資金提供する代わりにメモリに関する技術提供をミュージアムにしてもらい、結果、さっきの「ルナ」、「トリガー」、そして「ユニコーン」などのT2メモリって奴を開発した……と。
『T2の面倒な所は、メモリが適合者を惹きつけちゃう点と、完成した『エターナル』の存在かな。アレは、『T2』以前のタイプのメモリの作用を、完全に停止させちゃうからね』
 成程、俺がさっき京水や賢にメモリを奪われた時に感じた自然さはそのせいか。あの二本は、あの二人を適合者だと判断した訳だ。
 それから……エターナルとか言うメモリの作用。T2以前のタイプのメモリを停止させる?
――「永遠」ってのは、「静止した時間」、「変化しない時間」だからな。他の変化を許さないんだろ――
「って事は、エターナルって奴が発動すれば、バレットは使えなくなるのか?」
『勿論。ボクのマスカレイドも使えなくなるし、ガラスちゃんに渡したクイーンも使えない。仮面ライダーのメモリも、言わずもがなだ。アレも『バレット』と同じで、ボスが作った『T2以前のタイプ』だからね』
 アッシュの声に問いを返したつもりだったのだが、答えを返したのはクークだった。
 まあ、そうだよな。こいつや霧雨には、アッシュの声なんて聞こえてないんだし。クークが答えるのは当たり前か。
『そして君を襲った連中は『NEVER』。表向きは一騎当千の傭兵集団。しかしてその実態は、さっき君も見た通り、死者を薬液やら電気ショックやら何やらのステキ技術で蘇生させた、不死の軍団』
 一体こいつは、いつから俺達の行動を見てやがったんだと思いはするが、今はそれを疑問に思う場合じゃない。
 俺と同じで「死んだ身」であるのは分かっていたが……まさか、それが人工的かつ科学的に生き返らされた存在だとは。そこは俺達オルフェノクとは違うところか。
「……規模は?」
『小さいよ。中心人物である大道克己を含めて、NEVERは五人。そして技術を開発した大道マリアを入れても六人だ。狙いはさっき話に出した『エターナル』と、二十六本のT2を使って、この街の住人全員をNEVERに変える事』
 さらりと放たれた言葉に、一瞬だけ思考が停止する。
 街の人間全員を、NEVERに……死者に変える? 冗談なら笑えない。本気ならどれだけぶっ飛んでるんだ、と小一時間問い質したいところだ。
 だがまあ、さっきの京水や賢の事を考えれば、それだけぶっ飛んだ事を考えているのも納得する。
 ……根本にある考えは、理解できないが。
「で? 何でお前はその事を知ってるんだ?」
『あれ? 言ってなかったっけ? ボクは財団Xからミュージアムに出向中の身だって。元々NEVERは、財団の出資の権利を獲得する為に、ミュージアムと競っていた間柄だからね。切り捨てた今でも、ある程度の情報は手に入るのサ』
 ……は? だってこいつ、ミュージアムのお偉いさんの一人にくっついてるんじゃねえの? その上で、翔太郎達に協力している人物をボスと呼んで、ミュージアムを潰す手伝いもしてるんだよな? でも本当は、ミュージアムを支援している団体から出向してきていて?
 そんでもってその団体が作ったメモリが、今面倒臭い出来事を引き起こしている、と。
 更にはその辺の情報が手に入るだけの繋がりはあって?
「…………結局お前のところが元凶なんじゃねえかっ!」
『あ、気付いちゃった?』
「『気付いちゃった?』じゃないだろ! お前のところが元凶なんだから、お前のところで何とかしろよ!」
『えー? うーん……正直、財団的には、箱庭の一つや二つ、潰れようが崩壊しようが地図から消えようがゴーストタウンになろうが生物災害ってしまおうが寄生虫でゾンビな感じになろうが赤い水に浸食されようが、裏世界に迷い込もうが、どうでも良いって感じなんだよね』
「その表現マジでやめろ。現時点じゃシャレにならん」
 要するに、財団ってトコはこの街が動く死者の蔓延る不気味ワールドになろうと関知せず、ただ実験場の一つが潰れた程度にしか思わないって事か。
 まあ、ミュージアムに出資するような連中だ。どこか安全な所で高みの見物決め込んでいるのは容易に想像できるし、その出資先の行うであろう実験が非人道的な物であろうと、結果が伴っていればそれもどうでも良いのだろう。利益が出れば、あとは何でもいいって事だろうか。
 ……すっげぇ色々な事やってそうだな、財団ってトコは。何と言うか、オルフェノクの事もファンガイアの事も、あるいは俺のまだ知らない「異形」とか「怪人」の事も、既に把握済みだったりしてな。
 怒りを通り越して、呆れのような感情と共に思い……そして唐突に、声が俺の脳内で再生された。
――My cell still becomes familiar with the body. Express gratitude to the foundation――
 あれは、レオと聖守を倒した日に、レオが失ったはずの左手を生やして現れた時の台詞。
 「自分の細胞は馴染む。財団に感謝しなくては」
 大まかに言えば、そういう意味合いの事を言っていた。
 あの時は何を言ってるのか今一つ分からなかったが、今、こうやって情報が揃った状況なら理解できる。
「レオと聖守のバックにも、お前ら財団Xがついていたって事か」
『レオ? ……ああ、あのオルフェノクのお兄さんか。彼ねー、左手を失くしたあと、『NEVER』の技術を応用した細胞増殖技術と固定化技術で、もう一回腕を生やしたらしいんだ』
 推測した通りの答えを返され、カッと頭に血が上る。
 財団が、NEVERやミュージアムだけでなく、レオと聖守に協力していた。って事は、つまり。
「霧雨を使って『大災害』を起こそうとしたのも、オルフェノクとファンガイアの混血を創ろうとしてるのも、お前のところか!」
『財団にそんな事考えてたセクションもあったね。でも、ボクはソコとは無関係だもん。八つ当たり反対』
 再びクークの胸座を掴んで吠えかかれば、掴まれた方は、何故か笑みを含んだ声でそう返す。
 クークは、財団の「下っ端」だと、本人がそう言っていた。何よりマスカレイドのような「量産可能なメモリ」を使っている。つまり、財団にしてもミュージアムにしても、「有象無象」の扱い。こいつの言う「自分とは無関係」、「八つ当たり」って言葉は正しい。
 だから、こいつに言っても仕方がない。こいつを締めたところで財団とやらの計画が消える訳では……彩塔さんと霧雨の安全が保障される訳ではない。
 ぎしり、と奥歯を噛み締め、荒れる心中を何とか押さえつける。潰すべき相手が違うし、今は正直、それどころではない。……そう自分に言い聞かせて。
 クークから手を離し、何度か深呼吸を繰り返して、ようやく俺の頭に上った血は下がる。と同時に、今後の対策を練らなきゃならない。
 クークが言うには、京水達、NEVERの目的の一つは、二十六本のT2ガイアメモリを揃える事から始まる。先程拾ったばかりのユニコーンや、その前に降ってきたルナ、トリガーの事を考えれば、恐らくT2は何かの理由で街全体に「降った」事になる。
 狭くはない街だ。散らばったメモリを探し出すのに、流石に六人だけでは厳しい。
 おまけにその内の一本は俺が持っている。今は知られていないにしても、その内知られる事になる。そうなればまた襲いに来るだろう。そしてさっき同様、メモリの方からNEVER連中の方へ行くかもしれない。
 メモリの位置が全て把握できる種類のメモリってものがあるなら別だが……
――強いて言うなら「空間ゾーン」で可能だろうが、それだって一朝一夕では無理だ――
 成程。と、なれば。
「……クーク、頼みがある」
『なんじゃらほい?』
「俺は、このメモリを放棄し、持っているフリをする。連中が狙ってるのはこのT2って奴だから、持っていると思い込んでいる間は、俺を狙う為に人員を割くはずだ」
 アッシュの言葉通りなら、連中はどこにどのメモリがあるのか、今は把握できない。
 俺がユニコーンを「持っている」と匂わせておいておびき出しておけば、それだけで連中の足を引っ張る事が出来る。だが、それだけじゃダメだ。
「同時に、攪乱する為の手も打っておきたい。だから、それの中身を全部、街中にばら撒け」
『ふぁっ!?』
 クークの手に提げられたそれ……ジュラルミンケースを指さして言えば、珍しくクークの口から間の抜けた音が漏れた。
 まあ、そうだろう。五十本近いメモリを、「捨てろ」と言っているような物なのだから。
「連中はT2メモリを探している。だが、全部を連中自身の手で集められる訳がない。恐らく、街の人間を使うはずだ。俺ならそうする」
『……えっとつまり、万が一にも街中の人間がメモリを探す事態に陥った時、T2ではなく、ミュージアムのメモリが大量に見つかるようにしたい、と』
「そうだ」
『ふむ。色々と厳しそうな気がしなくもないけど、まあOKとしましょう。何より、楽しそうだ』
「……助かる」
『ついでにそのメモリ、ボクがテキトーな所に捨てておくよ。ボクも、T2の『B』を拾っちゃってる事だしね。バラバラに処分して、メモリと一緒に『キミが持ってる』って噂もばら撒いとくよ』
 言うと同時に、クークは俺の手の中にあったユニコーンメモリをひょいと摘み上げて自身の胸ポケットにしまう。それと入れ替えるようにして取り出したのは、ジュラルミンの中にもあったビーンメモリだ。
 ただし、筺体や端子の色から察するに、言葉の通りT2メモリの、だが。
『ただし、あんまり無茶はしないでよ? こう見えてボクは、案外キミ達の事を気に入ってるんだから』
 くすりと笑みを含んだ声でそういうと、クークはビーンメモリをポケットにしまい直して踵を返した。
 スタタンスタタンと、不思議な足音を鳴らしながら。
 さて。これでNEVER連中が釣れればいいんだが。しかし、仮に釣れた場合、霧雨や彩塔さんに迷惑がかかる。こんな事をした、と彼女に教えれば、間違いなく首を突っ込むだろう。
 彼女の強さは知っている。だが、今回は相手が悪い。どう考えても京水や賢は彩塔さんが苦手とするタイプの戦闘スタイルだ。戦うことになれば、無傷とは行かないだろう。
 それは、絶対に避けたい。彼女自身は自分に頓着していないようだが、怪我をされれれば俺が正気ではいられない。想像しただけで頭に血が上るのだから、目の当たりにした日には絶対に暴走する。
 それこそ、周囲の迷惑顧みずに。
――まーた根暗な思考に入りかけているところ悪いがな、弓――
 ん?
――雨だ――
「は? って、うおわっ!?」
 アッシュの声に反応して見上げれば、どんよりとした灰色の雲が空を覆い、そこから一滴の雨粒が俺の目に直撃した。
 ……何だ、今日は。メモリに降られ雨に降られ、踏んだり蹴ったりだなオイ。
 直撃した雨粒が目から流れ落ちて頬を軽く濡らす。
――おーお。悪者の目に涙ってか? 似合わねぇ――
 放っとけ。
 クスクスと頭の中に響くアッシュの声に突っ込みつつ、俺は再度姿をオルフェノクの物に変える。基本的にこの姿になるのは嫌なのだが、この辺りに誰もいない事は、さっきまでのクークとの会話やら何やらで確認済みだ。
 空気の匂いやら雲の様子やらから察するに、通り雨だが土砂降りになるだろう。生憎と人間の姿のままでは、この雨をやり過ごせる場所までたどり着けそうにない。オルフェノクの姿なら、確か少し先にあるバーベキュー場までひとっ走りだ。俺は濡れるかもしれないが、少なくとも霧雨をずぶ濡れにすることはないだろう。
「んじゃ、もうひとっ走りするぞ、霧雨。嫌がられても走るからな」
「ん。むーもぬれるのはヤ」
 その言葉を聞くや、俺はしっかりと腕の中に霧雨を抱えてバーベキュー場までの最短距離をひた走る。だが、雨の方はまるでそれを待っていたかのように、バケツをひっくり返したような降り方をしはじめ、俺の髪や服を容赦なく濡らしていく。
 ……オルフェノクの姿をしてるからと言って、着ている服がなくなる訳ではない。服も込みで変化するのか、あるいは変化の際に服を覆う形で変化することになるのかは知らないが、元の姿に戻れば相応の濡れ方になる。
 あー、気持ち悪い。現時点で相当気持ち悪い。濡れた服が素肌に張り付いて心底気持ち悪い。
 それでも、霧雨がそれ程濡れていないだけマシか。流石に服の端の辺りまではガードできていないが、許容できる範囲の濡れ具合だ。
 何とかバーベキュー場に辿り着き、霧雨を降ろしてから、体に纏わりついた雨粒を振るい落とす。と同時に、視界の先に先客がいた事に気付いた。
 騒がれるかと警戒したが……次の瞬間、相手の顔が見えた事でその警戒は必要ないと知る。
「よ。彩塔さんは無事か?」
「ええ、なんとか。灰猫さんと霧雨さんは……結構濡れてしまっていますね」
「ああ。まさか降ってくるとは思わなかったぜ。慌ててオルフェノクの姿でこっちに避難したのに」
 相手……彩塔さんに言葉を返しながら、ぎゅうとシャツを絞れば、脱水できていない洗濯物を髣髴とさせる量の水が滴り落ちた。
 流石に雨を被りすぎたせいか、体がべたべたして気持ち悪い。霧雨は無事だろうな、と思って視線を送れば、あちらは然程濡れていない事にほっとする。
 と同時に。霧雨の額が、微かに赤く腫れている事に気付いた。
 賢に頭突きをかました名残だろう。派手な音がしていたから、そりゃあ腫れもするだろう。明日辺り瘤になるかもしれない。
 ……つくづく、クークの頬擦りを阻止して良かったと思う一方で、あの時心の中で入れたツッコミが再び俺の中で頭をもたげた。うん。本人もいる事だし、ちょっと聞いてみようか。
「ところで彩塔さん。ちょっと話があるんですが」
「はい?」
「霧雨に、何を教えてるんですか。護身術関係」
「え? 『怪しい人物を見かけたら、頭突きもしくは右ストレートよ、硝子。相手が男の場合は金的蹴りでも構わないわ』という、亡き母の言葉を一部省略してお伝えしただけなのですが……あの、何か間違っていましたか?」
 こちらのいきなりな問いに、彼女は軽く首を捻って返した。
 …………やっぱり、その教えはファンガイアって連中の中でデフォルトなのか!? それとも彩塔家独自のモノなのか!? 何にせよ、彩塔さん自身はそれが「常識なのだ」と思っているらしい事は分かった。
 これはいかん、と思いつつ、今度は霧雨に視線を向ければ、彼女は英雄であるかのごとき誇らしげな笑みを浮かべ、胸を張っていた。それはもう、全身で「誉めろ」と言わんばかりのオーラを、彩塔さんに向けてまき散らして。
「むーね、ちゃんと頭突きしたよー。あとねあとね! 弓にーちゃに『みぎすとれーと』もおしえてもらったのー。えらい? ねえ、えらい?」
「右ストレートを教えて頂いたんですか。良かったです…………え?」
 霧雨の愛らしさに誤魔化されたのか、それとも種族としての本能なのか。
 微笑みながら、彼女は足元にじゃれ付く「娘」の頭を撫でてつつ……気付いたらしい。頭突きをしたって事は、即ち怪しい人物、変質者、そんなものと遭遇したことを意味すると。
 恐々と言った感じで俺に視線を投げた彩塔さんに、俺も苦い顔を作って後ろ頭を掻く。
 思い出しただけでも面倒な事になった、そして面倒な事をした、と思って。
「あー、うん。……随分と面倒な事になってるみたいでさ。それに巻き込まれた」
 そう言うと、彼女の顔がにわかに曇る。だがそれは、面倒な事に首を突っ込んだ事に対する怒りや呆れではなく、ついさっきの俺と同じ……彼女なりに言えば「厄介な事」を思い出したかのように。
 そしてどうやら、本当に彼女は俺と同じように「面倒」かつ「厄介」な目に遭っていたのだと知ったのは、その数分後、今日の出来事を互いに話してからの事だった。
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