灰の虎とガラスの獅子

【Vが迫る/壊すのは、あなた】

「はっ!」
「おりゃあっ!」
 右からはレイカ、左からは男性が、それぞれ自身の得物を持って襲い掛かる。連携のとれたそれを回避すれば、直後にはマリアから放たれる銃弾が表皮を掠め、また二人の攻撃がこちらに向く。
 「生ける屍」……NEVERというらしい二人は、「これ以上死なない」からなのか、同士討ちとか返り討ちとか、そういった事を考えずに攻撃してくる。
 こちらも全力で殴り飛ばして構わないと分かった以上、加減をする必要もないし、加減ができる相手でもないのだが、全力で殴った先から復活される以上、殴ったところで時間と体力の無駄でしかない。彼らの弱点が分かればいいのだが、そんな物を見せてくれる気配もない。
 いつもなら、長引きそうになれば吸命牙を出してライフエナジーを奪い、動けなくなったところで逃亡という手段に出るのだが、いかんせん相手はライフエナジーを持たぬ者。動けなくするには、やはり物理でどうにかするしかない。
 ……いっそ粉々に粉砕してしまおうかしら。
 などと、やや物騒な考えに至りかけるが、ごく普通の人間と同じ形をしている相手にそれをするのは気が引ける。
 何度目かの男性の殴打を回避し、同時に刺突を繰り出したレイカの胸部に八割方本気の蹴りを叩きこみながら、そんな事を思う。
「ぐっ!」
 致命傷なんて物にはなりはしないだろうが、勢いはある。肺を、下手をすれば心臓を圧迫され、レイカはくぐもった声を上げて足の先……マリアのいる方へと飛んでいく。
 飛んできたレイカを受け止められず、かと言って回避もしきれず、マリアとレイカは衝突し、もつれ合って倒れる。
 逃げるなら今……なのだが、眼前の男性が生き生きと私を攻撃してくれるので、どうやら逃げられそうにない。
「……楽しそうだね、剛三」
「おうよ! 俺と互角にやりあえる奴はそうそういねえからな!」
 いち早く体勢を立て直したらしいレイカが、マリアの体を引き起こしつつ、呆れの混じった声で言う。
 男性は「剛三」という名らしい。満面の笑みで力と速度の乗った棒を振り下ろしてくる。そして私は、それをいなして半歩分の距離をとる。
「ああ、本当にもう。厄介な」
 真夏の炎天下で、全力で戦闘。気温は三十度超えしていて暑いし、目の前の敵は暑苦しいし、相手は多分気温とか無関係だし、ガイアメモリが額にぶつかったのが、今になって痛み始めているし。
 これで苛立たないはずがない。苛立ちのままに先程作った「半歩分の距離」を詰めて速度をつけると、そのまま振り下ろされた棒ごと剛三を蹴り飛ばす。
 咄嗟に棒でガードされたが、それは予測の範囲内。私の狙いは剛三の体を吹き飛ばす事にあったのだから。
 ……そう。体勢を立て直したばかりの、レイカとマリアの元へと。
「ちょっと!」
「お? おおおおっ!?」
 レイカの抗議の声で、ようやく剛三自身もどこへ飛ばされそうになっているのか気付いたらしい。慌てて持っていた棒を地面に突き刺し、自分の体がそれ以上動くのを防ぐ。
 だが、それを見過ごすほどお人好しではない。
 もう一度距離を詰め、支柱代わりになっている棒を、全力を込めて蹴り飛ばした。幾度となく私の攻撃を受けたその棒は、流石にこちらの全力には耐え切れなくなったらしく、ばきんと嫌な音を立てて折れ、支柱を失った剛三の体は、そのままレイカとマリアの方へ吹き飛んでいく。
 だが、あの一瞬である程度の対策はしていたらしい。レイカはマリアを剛三の軌道から突き飛ばし、自分もマリアとは逆方向へ転がり避ける姿が見えた。
 ……と、同時に。
 全力で蹴ったのがいけなかったのだろうか。ズボンのポケットに入れていたはずの二本のメモリが、いつの間にか宙を舞っているのも見えた。
「あ」
 自分の、間抜けな声が聞こえる。無意識の内に漏らした声だったが、それはマリアとレイカにも聞こえていたらしい。私の視線を辿り……そして、彼女達は迷わずメモリに手を伸ばした。
 メモリもまた、まるで狙っていたかのように二人の手へと落ちる。緑はマリアへ、赤はレイカへ。
 そしてそれを視界に収めた瞬間、私は何故か直感した。あのメモリは、彼女達の下に付く事を選んだのだと。
 そしてそれは、彼女達も感じたらしい。迷うことなく二人はそのメモリを鳴らし……そして、己が体内へと導く。
『ある程度目星は付けてたけど、やっぱ運命なのかな』
『消えてもらうわ』
 赤いドーパントと、緑のドーパントが言の葉を放つ。けれどその声音は対照的だ。
 楽しげな……そしてどこか嬉しげな色をにじませる赤に対し、緑はひどく冷ややかで暗い。
 本当は、欲しくなんてなかったのに。
 そう言っているように聞こえたのは、私の気のせいだろうか。
「俺のはねえのかよぉ」
『しょうがないよ。やっぱり自分で探せって事でしょ』
「はあ。まあ、二本手に入っただけ、収穫とするか」
 折れた棒を投げ捨てながら、体勢を立て直した剛三が心底がっかりしたように言う。が、すぐに気分を切り替えたらしく、口元に笑みを浮かべると、二人のドーパントと並び立ってこちらを見やった。
 逃がしてくれるつもりは、ないらしい。メモリは手に入ったのだから、もうこれ以上私に執着する理由もなかろうに、と思わなくもないが…………ああ、口封じか。
 納得し、さてどうするかと悩みつつ……もう一本、自分がメモリを持っていた事を思い出した。
「……仕方ありません。癪ですが、試してみますか」
――Queen――
 飛んで行った赤や緑と同じポケットに入っていたはずなのに、飛ぶ事もなく留まっていたそれを鳴らす。
 ……クークに渡されたクイーンメモリ。渡された時は壊すつもりだった。そして捨てよう、捨てなければと考えながらも、何で今まで持ち歩いてしまっていたのか。しかし、今回に限り、持ち歩いていた事を幸運と考える事にしよう。
 何となく、見えざる手的な、何かしらの陰謀を感じなくはないが。
 マリアの話を信じるなら、彼らに渡った「T2」より前のガイアメモリは、確かコネクタと呼ばれる物を介して体内に取り込むのが常らしい。灰猫さんも、かつて「白騎士」にアッシュメモリを打ち込まれた際、コネクタも同時に刻まれていた。
 だが、当然だが私にはコネクタなど存在しない。それを無視して直挿しして、皮膚が爛れるのはお断りしたい。
『ミュージアムのメモリ?』
『へえ? あんたもドーパントなんだ?』
「……まさか。私、自分にこれを使うつもりはありません。コネクタもありませんし」
「あ? 試すと言ったばかりじゃねえか」
「ええ、試しますよ。……少々変わった方法ですが」
 言葉と同時に、私はメモリを「地面に」突き立てた。
 ガイアメモリは地球の記憶を引き出した物。ならば、地球に挿せば、誰もドーパントにはならずに済む。流石に地球そのものがドーパントに変じるなどという事は起こらないだろうし。
 ……これで読みが甘かったらどうしよう。
 と、思った物の。どうやら私の目論見は当たっていたようだ。メモリを挿した箇所を中心にて、半径数メートル分だけ、内蔵されていた記憶と同じような力が濃くなったのを感じる。
『何も起こんないじゃん』
「起こらないと良いなあ、と、個人的には思っていますが、何でも良いです。どの道私も、今はまだ死にたくはありませんから」
『命乞い?』
「まさか」
 本当は、地球に挿せばメモリとその中に内包された記憶は、地球に還る物だと思っていた。だが、周囲から感じる力の奔流は、還るつもりはないと言わんばかりにこの場でとぐろを巻いて、私が「命じる」のを待っている。
 それに気付いていないのだろう。レイカはボウっと掌の上に炎の塊を生み出すと、それをこちらに向かって投げつけた。
 だが、その火球はこちらに辿り着くよりも先に、隆起した地面に呑まれ、地中へと消える。
 ……自分が、思い描いた通りに。
 クイーンメモリの力は、「防御」なのだと聞いてはいた。だから、本来クイーンドーパントと呼ばれるべき者は、相当に堅牢なドーパントである、という情報も、クークから聞いてはいた。
 聞いてはいたが……地球に使ったら、こんな胡散臭い効果を発揮するとは思いませんでしたとも、ええ。
 周囲にわだかまっている力は、スイッチを押した人物……この場合は私の思念に反応して、効果を発揮している。こちらが考えた通りに力が動き、そして媒体となる地球も動く。
 …………ごめんなさい。何て大それた事をしたのでしょうか。局地的な事とはいえ、地球を自分の思うように動かすなんて、私には荷が大きすぎます。
 と、心の中では涙目に、しかし表面上は出来る限りにこやかに笑みながら、私は眼前で驚いた様子を見せる三人を見つめる。
 出来ればこれで見逃してくれるとありがたいのだが。これ以上地球そのものに干渉するような、恐れ多すぎる事などしたくない。
 しかし、こちらの願いとは裏腹に、彼らは一斉にこちらに向かって攻撃を仕掛けてきた。
 レイカは火球を多く生んで絶え間なく放ち、マリアは自身を暴風に変えて突進し、そして剛三はその合間を縫って物理的にこちらの壁を破壊しようと殴りかかる。が、その全てが私の思念通りに作られた壁に阻まれ、届かない。火球は最初の一撃同様大地に呑まれ、暴風はそれと全く同程度にして真逆の方向に進む大気によって相殺され、打撃は地中の金属原子が集まって出来た城壁によって弾かれる。
 地球そのものに干渉するなど、後の反動が怖くて仕方がない。今後二度と、絶対に、ガイアメモリを地球に挿して使うなんて事はすまい。
 そう心の中で固く誓いつつ、私は彼らの攻撃がやんだ事を確認する。
 一応、いつでもまた襲い掛かれるよう、体勢は整えているようだが、今襲い掛かっても全て阻まれる事は理解しているようだ。
「ここで見逃して頂けると、心の底からありがたいのですが」
 にっこりと、長年培ってきた表向きの笑顔を作って言い放てば、その顔に苛立ったらしいレイカと剛三が半歩だけ前に出る。だが、それをマリアが首を横に振って止めた。実力の方はともかくとして、立場としては彼女の方が上なのだろう。
 どこか不満げな態度を見せる二人とは対照的に、マリアは自身の体からメモリを抜く。それに倣うようにレイカもメモリを抜いたが、二人が浮かべる表情はひどく対照的だ。
 レイカはつまらなさそうな、不貞腐れたような……けれどどこか興奮もしているような表情だが、マリアのそれは凪いでいる。ただし、表面上は。その奥深くでは、何か、とてつもない激情が吹き荒れているように見える。
 それを抑え込み、彼女はくるりと踵を返し、声を投げた。
「戻るわよ、二人とも」
「ああ?」
「何で?」
「既にこの場にあるメモリは回収した。他のメモリを探す方が重要よ。それにもう……逃げ場なんて存在しない」
 ますます不満げな様子を見せる剛三とレイカだが、マリアは気に留めた様子も見せずに言の葉を紡ぐ。
 その言葉に納得したのか、二人は互いに顔を見合わせると、それまでの敵意を緩めて彼女の後ろを歩きはじめた。
「……ま、それもそうだね」
「命拾いしたな、女! 機会があれば、力比べと行きたいもんだぜ!」
 軽く髪を掻き上げ、こちらをちらりとも見ずに歩き出すレイカに、こちらを楽しげに見やってぐっと力こぶを作る剛三。
 その姿が完全に消えるまで、そこで見送り……そして私は頭の中でメモリが手元に戻るシーンをイメージする。
 地球に挿したメモリは、私のそのイメージに反応したのだろう。地中に広がっていた力が収束し、メモリという筺体に宿った後、私の手の中に納まった。
 それを見下ろし、私は思わずその場にしゃがみこむ。
「……怖かった……」
 彼らが、ではない。「生ける屍」程度で恐怖を感じるような、軟な精神構造はしていない。私が怖かったのは、このガイアメモリの持つ「力」の方だ。
 普段はドーパント、あるいは黒緑のような戦士の形しか見ていなかったせいか、私はこの「力」を軽視していた。筺体の中の力だって、そんなに強力だとは思っていなかった。……侮っていたのだ。だから、地球に挿したところで、せいぜいが周囲に壁を作る程度かな、としか思っていなかったし、それだって単発で終わるだろうと予測していたのに。
「まさか、挿している間中、周囲数メートルだけとは言え、地球そのものに干渉できるなんて」
 力を行使する権限を、スイッチを鳴らした存在が持つのか、それともメモリを吸収した存在が持つのか、鳴らすまでは定かではなかった。ある意味、鳴らしたのはハッタリの意味もあった。
 しかし、「クイーン」のスイッチを押した瞬間、自分の記憶とメモリに内蔵されている記憶がリンクするような感覚があった。何と言うか、「つながった」とはっきり理解した。そして、力の行使は自分に委任されていることもまた、理解した。
 道理で、ドーパントと呼ばれる者達が調子に乗る訳だ。地球にすら部分的に干渉出来る力を、人間という小さな器に取り込んだ時の万能感は相当なものだろう。
 ……それだけに、反動が怖い事にも気付かずに。
 だが、裏を返せば。自分に挿した場合、反動も自分だけで留まる。だが、私のように他の物……地球に挿して使った場合、反動はどこに向かうのだろうか。考えるだけでぞっとする。自分にのみ向かうのなら、自業自得だが、これが私以外の第三者に向かったら。それが、大切な人だったら。
「……立ち直れない」
 はあ、と深い溜息を吐き出す。その瞬間、空から落ちてきた雨粒が項に当たった。
 先程まで晴れていた空が、今は嘘だったかのように厚い雲に覆われ、ぽつぽつと雨粒が落ちてくる。最近流行りのゲリラ豪雨という奴のようだ。今はまだ本格的には降り出していないが、家に戻る頃には濡れ鼠になる予感しかしない。
 どこかで雨宿りをするしかないか。
 はあ、と先程とは意味合いの異なる溜息を吐き出すと、私は周囲に目を走らせ、屋根のある場所を探す。確か少し離れた場所に、小さなバーベキュー場があったはずだ。あそこは屋根があったはず。
 雨脚が強くなりつつある中、目的の場所まで一気に駆け抜ける。何とか屋根の下に潜り込むと、背後の雨音が強くなるのが聞こえた。どうやら間一髪だったようだ。
 ふう、と安堵の息を吐いて、体に付いた水滴を軽く払う。時間の問題なのか、偶々なのか、あるいは別の理由があるのかは不明だが、私以外に人の姿はない。
 ……「ヒト」の姿は。
「……見逃して頂けたのではないんですか?」
 ゆっくりと姿を現した緑色のドーパント……マリアに、思わずこめかみを押さえて声を投げる。
 同時に周囲を軽く確認してみるが、レイカと剛三の姿はない。ここにいるのは、マリア一人だ。おまけに、ドーパントの姿でありながらも敵意は感じられない。
「えーっと……何か? この場で戦闘になって、雨に打たれてずぶ濡れになるのは遠慮したいのですが」
『戦うつもりはないわ。……ここにいる理由は、あなたと同じ。この姿は、ただ移動のしやすさを重視しただけ』
 苦笑と共に言えば、彼女はそう言葉を返す。本当に敵意はないらしく、直後には姿をドーパントからヒトに戻していた。
 ドーパントの姿だったとはいえ、多少は濡れるのだろう。姿を戻すや否や、彼女は自身の髪に付いた水滴を払い除けた。その姿だけを見ていると、綺麗に歳を重ねる事が出来た女性、という印象が強い。きっと温かな家庭で、幸せそうに笑う母親であろうと思う。
 ……だが、そうではない。きっとこの人は、そんな綺麗で普通な人生は歩んでいない。それは彼女が共に行動していた人間からも想像できる。
「……何か?」
「いえ。あなた方はT2メモリを集めてどうするつもりなのかなあと思ったのと、この雨の中、霧雨さん……『娘』は大丈夫かなと思っただけです」
 じっと見つめていたところを訝しげに問われ、正直な疑問と心配を並べて返す。
 考えていた事とは異なるし、かなり系統の異なる二者を並べた自覚はあるが、どちらも本当に思っている事でもある。間違ってはいない。
 マリア達は、T2メモリを集めている。それは先程の撤収時の会話などから推測できる。自分達で使う為だけに集めているとは思えない。「逃げ場はない」と言っていた事と、何か関係があるのだろうか。
 一方で、公園へ遊びに行ったはずの霧雨さんと灰猫さんが、この雨に打たれていないかと不安に思ったのも事実だ。この豪雨だ。風邪をひいてしまうかもしれない。それに、霧雨さんが家中の傘を集めて組み合わせて「傘お家」なる秘密基地的な何かを作成しそうで怖い。アレをすると、傘に穴が開くからやめて欲しい。
 そんな考えが少しばかり顔に出たのだろうか。マリアは初めてその表情を崩した。
「そう。子供がいるの」
「ええ、まあ」
 実子ではないので胸を張って頷く事は出来ないが、だからと言って否定をする事でもない。何とも曖昧な態度しか返せなかったのだが、マリアはその事には気付かなかったらしい。
 先程までの固さは消え、今はここではないどこかを柔らかな眼差しで見つめている。
 この目は、見た事がある。霧雨さんを迎えに行った折の、ママさん方と同じ目。自分の子を慈しみ、見守る目。だが、その目にほんの少しだけ寂寥の色が滲んでいるのを見て、悟る。
 ああ。この人にも、子供がいるのだと。そして……その子供は、既に彼女の手を離れたのだと。それがどんな形で離れたのかまでは、生憎と分からないが。
「…………私は、私の子供の為に……克己の為に、してあげられる事をする」
「それが、T2メモリを集める理由ですか?」
「そうよ。私は、あの子が欲するなら何でも与える。それが例え、どんなに非道な行いの結果であったとしても」
 ひたりと私を見据え、マリアは暗い瞳で宣言する。けれどその奥に、微かな……本当にごく僅かな揺らぎが見えた気がした。
 迷っている。自分が正しいのかどうかを。このまま進んでしまって……進ませてしまって良いのかを。
「……悪い事をしたら叱るのも、母親の愛情だと思いますが」
「正論ね。でもそれは、子を失っていない親の論理だわ」
「何を置いても我が子を守りたい、慈しみたいという気持ちは、分かるつもりです。ましてそれが、自身の腹を痛めて生んだ子なら、なお一層強く思う事でしょう。ですが、母であるあなたが迷っているのに、子がその迷いに気付かぬまま進んで、上手くいくのでしょうか?」
 純粋に疑問に思った事を彼女にぶつける。回答は求めていない。疑問には思ったが、答えは人それぞれ、状況次第だからだ。
 彼女はこの問いに、何を感じたのだろう。一瞬だけ目を瞠り……しかし直後には、また凍りついたような表情を張り付けて口の端を笑みの形に歪めた。同時に彼女は、再びその姿をドーパントに変え、屋根の下へその身を躍らせる。
『それでも私は、克己の側にいる。そう決めたの。……例えそれで、あの子が壊れるのを目の当たりにしても』
 そう言うと、彼女はその身に風を纏わせて去って行く。
 これ以上私と雨宿りをしたくないと思ったのか、それとも何か目的が出来たのかは分からない。けれど、最後の言葉は……ひどく、寂しげに聞こえた。
 もう、マリアの姿は見えなくなっているし、彼女の真意や本心なんてものは、私には分かるはずもないのだけど。
 思い、視線を少しずらした刹那。バシャバシャと水が跳ねる音と共に何者かがこちらに駆けてくるのが見えた。
 それは、片腕で幼女を抱きかかえた灰色の異形。ぶるりと頭を振って自身に付いた雫を弾き飛ばす様は、虎のはずなのに犬の類にしかみえない。
 そして彼……オルフェノクの姿をした灰猫さんは、幼女を床の上に降ろすと、その姿を私の良く知る「ヒト」のものへ戻し、こちらに視線を投げた。
「よ。彩塔さんは無事か?」
「ええ、なんとか。灰猫さんと霧雨さんは……結構濡れてしまっていますね」
「ああ。まさか降ってくるとは思わなかったぜ。慌ててオルフェノクの姿でこっちに避難したのに」
 ぎゅう、と彼は自身のシャツを絞る。自身の体で霧雨さんを庇っていたのか、絞られたシャツからはかなりの量の水が滴り落ちた。一方で霧雨さんは、服の裾部分こそ雨に濡れて変色している物の、乾燥している面積の方が大きいのが見て取れる。
「…………ところで彩塔さん。ちょっと話があるんですが」
「はい?」
「霧雨に、何を教えてるんですか。護身術関係」
「え? 『怪しい人物を見かけたら、頭突きもしくは右ストレートよ、硝子。相手が男の場合は金的蹴りでも構わないわ』という、亡き母の言葉を一部省略してお伝えしただけなのですが……あの、何か間違っていましたか?」
 唐突な問いに、軽く首を捻りつつも言葉を返す。
 母との記憶は多くはないが、それでもなかなか苛烈な性格だったと断言できる。私の母だけあって……そして何より、あの父の妻だけあって、決して穏やかなだけの人ではなかった。
 一般的な変質者の扱いに対して、「とりあえず拳で解決すること」と教えたのは母だ。今にして思えば、あの時代の女性としては珍しくアクティブなタイプだったと思う。
 悪い事をすれば容赦なく叱りつけ、良い事をすればご褒美として甘やかしてくれた。私にとっての母親像は、完全に彼女が基準になっている。
 子を守る為なら己の命を惜しまず、子が間違えば己の全身で叱り飛ばし、子の進む道は全力で応援する。
 ……ある意味、マリアもそこに通じる部分があるのかもしれない、とふと思った。彼女もまた、子を守る為に命を懸けているのかもしれない。私の母や、霧雨さんの本当のご両親のように。
 そう思い、視線を霧雨さんの方へ向ければ、彼女は満面の笑みを浮かべて胸を張った。それはもう、全身で「誉めろ」と言わんばかりのオーラをまき散らして。
「むーね、ちゃんと頭突きしたよー。あとねあとね! 弓にーちゃに『みぎすとれーと』もおしえてもらったのー。えらい? ねえ、えらい?」
「右ストレートを教えて頂いたんですか。良かったです…………え?」
 誉めろオーラと笑顔に負け、彼女の頭を撫でて言葉を返しつつ……気付く。頭突きをしたという事は、即ち怪しい人物、変質者、そういった類と遭遇したことを言意味すると。
 そう言えば、何故灰猫さんはオルフェノクの姿をとっていたのだろう。彼は、その姿を人目に晒す事を嫌っているのに。
 恐る恐ると言った風に彼に視線を投げれば、彼はばつの悪そうな表情を浮かべて後ろ頭を掻いた。経験上、彼がこの仕草を取った時は非常に厄介な……彼の言うところの「面倒な」事になっている時。
「あー、うん。……随分と面倒な事になってるみたいでさ。それに巻き込まれた」
 憂鬱そうに説明された内容は、多少の差異はあれど先程までの私が経験していたのとほぼ同じ。
 …………どうやら、思っていた以上に事は大きかったのだと知ったのは、その翌日の事だった。
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