灰の虎とガラスの獅子

【Yの手前/死と共に香る】

 何というか、ひどく警戒していた月食も、概ね無事に終わり、グランドクロスの期間もまた過ぎ去った、夏真っ盛りの八月頭。
 いや、実際はそんな簡単に「無事」と言えるような物ではなかった。初めての月食で霧雨さんが体調を崩し、三十八度からなる高熱に魘され、その面倒を、同じく魔力の暴走によって、全身の痛みに呻きながらも看ていた訳ではあるのだが。
 それが終わる頃にクークが「靴を忘れてたよ~」とか言って訪ねてきたり、灰猫さんは丸一日不在だったりはしたが、懸念していた歌宿からの襲撃はなかったし、ビショップの嫌味攻撃やら「刺客プレゼント」やら「毒薬ギフト」なども来なかったので、総括して「無事」と言えるだろう。もっとも、歌宿やビショップも、月食の影響を受けていただろうから、こちらに構っている暇もなかっただろうが。
 あっという間に夏休みに入り、そして月食が過ぎたことでますます活気に満ち溢れた霧雨さんは、今日も元気に私や灰猫さんを振り回していた。
 しかし、流石に四六時中霧雨さんの側にいる訳にもいかない。ここ数日、ずっと霧雨さんに振り回され続けたが為か、冷蔵庫の中身がほぼ空になってしまったのだ。
 買い物に行くので一緒に来ますか、と霧雨さんに問うたところ、「イヤ」の一言で断られた。外気温が高いので、外に出たくないのかと思って納得しかけたのだが、霧雨さんは、
「おかいものは、お店さむいからヤ。でも、しょこちゃんお家にいないなら、お家もヤ」
 との事で。結局、私は買い物、灰猫さんは霧雨さんを連れて近所の公園へ遊びに行く事になった。
 ……グランドクロス以降、何と言うか、霧雨さんが我儘になっているような。
 はっ! これってまさか、噂に聞く「イヤイヤ期」という物!? 基本的にイヤイヤ期は二歳から三歳くらいだという話を聞いていたので安心しきっていたのだが。
 しかし、もしも本当に遅めのイヤイヤ期に突入したのだとしたら、私はどうすればいいのだろうか。全てに反応する事は出来ないし、かと言ってすべてを放置する事も出来ない。丁度いい塩梅というのは、子育て経験皆無の私には難しい。
 そうと決まった訳でもないのだが、ついついそんな事を考え、溜息を吐き出した、その直後。
 一瞬、空気が震えたような気がした。その一瞬後には、だいぶ温くなった風と、僅かな焦げ臭さを感じ、そして。
「痛っ!」
 こつん、と額に何かが当たった。いや、「こつん」なんて可愛らしい表現ではきかない。普通の人間なら、頭蓋に皹の一つでも入るような勢いだった。
 私だから「痛い」で済んだ物の、普通なら救急車を呼ぶ事になるだろう。こういう時に己の頑健さに感謝をする。
 それにしても、一体何が落ちてきたのか。曇っている訳ではないが、降ってくる硬い物なんて、雹とか霰とかその辺だろうと高をくくり、地面に目を落とし、自分の額にぶつかった「それ」を見やったのだが。……私の予想は、見事に外れた。
 あったのは、赤と緑のガイアメモリ。炎のような絵柄で、「H」と書かれている物と、どこか旋風を連想させる絵柄で「C」と書かれている物の二本。
「何で空からこんなモノが?」
 思わず拾い上げ、首を傾げて呟く。
 何となくだが、筺体のデザインは弓さんが持つ「バレット」に似ている。少なくとも、今まで「敵」として私の前に現れた者達が使っていたメモリよりも、より「機械的」だ。
 しかしデザインはともかくとして。これが発する「力」に関しては、私が知るどのメモリとも、受ける印象が異なる。クークに渡された物や、今まで出逢った「敵」が持っていたメモリからは、不純物が混じっているような印象を受けるし、弓さんが持つ「バレット」や、以前出逢った黒緑ダブルが使っていた物からは、純粋に記録された力だけを感じ取れた。
 だが、目の前にあるメモリは妙に空虚だ。力は感じるけれど、何と言うか「純粋すぎて味気ない」というか。弓さんが持っている物を「天然もの」なら、こちらは「養殖もの」と言えばいいだろうか。
 何にせよ、放置しておくには危険な気がする。勿論、自分で使うつもりもない。この辺の事は、クーク辺りにでも任せておこう。いつ会えるかは不明だが、あの変人の事だ。夏休み明けまでには確実に会えるだろう。
 あまり当たって欲しくはない確信を抱きつつ、そのメモリを普段使いのエコバッグの中に放り込もうとした、その瞬間。
「ねえ。それ……こっちに渡してくれないかな?」
 前方から聞こえたその声に、私の手がぴたりと止まり、反射的に声の方へと視線を向けた。
 いつからそこにいたのだろうか。声の主はヘルメットを脱ぎながら黒いバイクから降り、私に向かって手を差し出していた。
 黒い革ジャケットの下に、赤いタンクトップを着た女性。見目から察するに二十代前半だろうか。軽く茶の入った長髪を風に靡かせ、丈の短いパンツ。腿に下げているのはナイフか。街中を歩くには少々物騒な出で立ちだ。
 そして彼女が纏っているのは、出で立ちに負けず劣らず物騒で剣呑な空気。
 彼女が醸し出しているそれは冷ややかで、言葉こそ「お願い」の形をとっているが、断れば即座に物騒な行動に出る気満々としか思えない。視線から察するに、「それ」というのは先程私が拾ったメモリの事だろう。
 そんな空気を纏った人物に、はい分かりましたと言ってメモリを渡すのは危険すぎる。
 それに、何故だろうか。彼女からは「生きた者らしさ」を感じられない。しかし灰猫さんのようなオルフェノクでもなさそうだ。直接見知ったオルフェノクなど、灰猫さんとレオしかいないが、彼らからだって、「生きた者らしさ」は感じられた。
 ……これは、まずいかもしれない。
 本能的にそう感じながらも、私はにっこりと作り笑いを浮かべて答えを返す。
「……お断りです。あなたからは……生きている臭いがしないので」
「結構気にしてる事、ズバッと言うね!」
 言うと同時に、彼女の足が私の顔面めがけて伸びる。刹那、スパイシーな香りが私の鼻腔をくすぐった。
 随分と特徴的な香水を着けている。スパイシーな香りのレディース向けの香水など、そう滅多にお目にかかる……いや、嗅ぐような機会はない。だが、この際香水などどうでも良い。
 躊躇なく即座に頭部を狙って蹴って来た時点で、やはり感じた通り、彼女はかなり危険な人物とみて良い。反射的に伸びてきた足を右手で払い、左手に持っていた二本のメモリをポケットにねじ込むと、大きく後ろに飛んで相手との距離をとる。
「へえ、やるじゃん」
「お褒めに預かり光栄です」
 髪を掻き上げながら、どこか気だるげに言った彼女に、私はにっこりと作り笑いを浮かべて言葉を返す。
 買い物前で良かった。これで生物とか冷凍物を買った後だったりしたら、きっと買い直しをしなければならないところだった。今の一蹴で感じた実力から察するに、一撃で沈められないレベル。おまけに、多分威嚇をしても退いてくれない程度の強さも持ち合わせている。
 思いつつ、エコバッグもメモリを入れたのとは反対側のポケットにねじ込んで、拳を握る。
「やる気なんだ」
「やる気と申しますか、私がメモリを渡すつもりがない以上、戦闘に突入するのは自然な流れかと」
「それもそうだね」
 互いに作り笑いのまま言葉を交わし……そして会話が途切れた刹那、どちらからともなく距離を詰めた。とはいえ、彼女はこちらを殺す気で来ているのに対し、私は出来る限り穏便に済ませようと考えている身。どうしても攻撃の勢いは、私の方が劣る。
 振りぬかれた足を左手で払い、右の拳を彼女の鳩尾めがけて突き出すも、それは彼女がバク転をする事でかわされる。そのバク転も、回避と攻撃の両方の意味を持っている物らしく、左右の足が私の顎を捕えんと二連続で鼻先を掠めた。僅かに上半身を反らせていた為、その爪先を食らう事はなかったが、件のスパイシーな香水の香りが、鼻の奥に届く。
 速度と鋭さ、そして正確さは、かなりの場数を踏んでいる者の証。一方で、女性であるが故に仕方のない事なのかもしれないが……破壊力の面はそれ程高くない。テクニックはあるが、純粋な「力」は低い。察するに、頑健さも然程ないだろう。
 ……私が異常に堅いだけなのかもしれないが。
 思いつつ、彼女が体勢を立て直す前に、限りなく加減をした左拳を、彼女の胸部に叩き込む。
 ……? 何だろう、今少し、違和感があったような……
 当たりはしたものの、ほぼ同時に後ろに飛んで勢いを殺したようだ。だが、私が感じた違和感はそこではない。当たりが浅いのは分かっていた事だし、勢いを殺すことくらい、先程私もした事だ。そうではなく……何だろう、これに似た感覚を、以前どこかで感じたような……
 訝しく思いながらも、大袈裟なまでに距離をとって体勢を立て直した彼女を見やれば、即座に腿に下げていたナイフを引き抜いたところだった。
 流石に、凶器を出されてまで「手加減を~」とか甘い事は言っていられない。まして彼女が構えているのは、肉厚のサバイバルナイフ。素人が脅し程度に使うのならば、呆れの溜息と共に相手をするところだが、彼女の場合は違う。
「やめておいた方がいいですよ? 確かにあなたはお強いですが、絶対的に腕力がない。私が致命的な事をしてしまう前に、退いて頂けるとありがたいのですが」
「ふぅん。じゃあ、殺ってみれば? 殺れるんなら、だけど」
「……そう簡単にとらせて下さらないでしょうに」
「まあね。アンタがメモリを渡してくれれば、こっちも殺さずに済むんだけど」
「何度も申し訳ありませんが、それはお断りします」
「あっそう」
 にっこり笑った私とは対照的に、彼女はつまらなそうに唇を尖らせる。同時に再びこちらに駆け出し、手の中のナイフを躊躇なく私の首めがけて突き出す。
 仕方ない。まずはあのナイフを持った腕を捕まえて回避不可能状態にして、直後に膝蹴りで昏倒してもらって……
 と、瞬時に対策を練り、身構えた瞬間。
 パンパン、と乾いた音が二回。そしてその直後、パキンっという軽い音と共に、彼女が持っていたナイフが根元から折れた。
「なっ!?」
「は?」
 彼女の口から驚きの、そして私の口からは間の抜けた声が漏れる。銃撃によって彼女のナイフが折られたのだと理解すると同時に、私も彼女も、銃声のした方に視線を向ける。
 そこには、硝煙を上げている銃を構えた、妙齢の女性が立っていた。
 黒いコートをたなびかせ、コツコツとヒールの甲高い音を鳴らし、堂々とした態度で銃口を彼女へ向けたまま歩み寄る女性。その顔を見るや、彼女は忌々しげに顔を歪め……一方で女性の方は、そんな事知るかと言わんばかりに再度数発、引き金を引く。……完全に、彼女の体を狙っている。けれど、彼女は弾道を見極め、それをひらひらと回避している。
 そして、ちらりと私の顔を見ると、軽く口の端を吊り上げ……
「あーあ。邪魔が入っちゃった。じゃ、またね」
 それだけ言って、乗って来たバイクに跨って走り去る。
 ……バイクのエンジンは掛けっぱなしだったのだろうか。あまりにも滑らかに進んでいくバイクに、またしても違和感を覚える。
 そして最後の笑顔。あれだけは、作り笑いじゃなかった。彼女は心から楽しそうに笑っていた。
 何故?
 疑問に思う間もなく、銃を構えていた女性は私につかつかと歩み寄ると、眼前で止まって私に問うた。
「怪我はない?」
「はい。少しばかり汗をかいた程度です」
「そう」
 言いながら、安堵したような表情を浮かべる女性。距離が近いせいか、彼女の着けていると思しきシトラス系の香りが、微かに鼻をくすぐった。
 ……この香り、確か以前、斗李が着けていたような……
 何でそんな事を思い出したのか、自分でも分からない。だが、何故か、今、あのどうしようもない程女らしい次兄の存在が頭をよぎる。
――この香水、結構珍しいものなの。ただねえ、硝子ちゃんには合わない香りなのよねぇ――
 そう言われ、ひどく腹を立てた記憶があるが、直後には彼の言葉に納得したような覚えもある。あれは確か……
「大丈夫? ぼうっとしているけれど。やはりどこか、怪我でも?」
 昔の事を思い出し、ついぼんやりとしてしまっていたらしい。女性の心配そうな顔が目の前にあるのを見て、ようやく私は我に返った。
「いえ。本当に怪我はしていません。ところで、あの……どちら様でしょう?」
 こちらの問いで、ようやく彼女は自分が名乗っていなかった事を思い出したらしい。厳しさの残る表情のまま、懐から黒い手帳を取り出すと、それを開いて見せた。
 警察手帳のように、そこが身分証明のページらしい。所属機関名と彼女の名前が書かれているのが見て取れる。
「私は、マリア・S・クランベリー。国際特務調査機関員よ」
「ご丁寧に、ありがとうございます。私は、彩塔硝子と申します」
 国際特務調査機関。聞いた事はないが、この手帳の形状や銃を所持していた事から鑑みて、インターポールとかそういった類の物に近い組織なのだろうか。それなら、マリアの放つ凛とした気配も頷ける。
 ……彼女の言っている事が真実ならば、の話だが。
「……先程の彼女は、一体?」
「彼女の名は羽原レイカ。国際的傭兵集団、『NEVER』のメンバー。私は彼らを追っている。そして、彼らの狙いが、あなたが拾ったT2ガイアメモリである事を突き止めた」
「T2? 今までの物とは、何か違うんでしょうか?」
「『TYPE2』の略称よ。スロット処置なしで人体に入る事が出来る、次世代のガイアメモリ」
 …………処置なしで人体に入るって、そんなまた物騒な。現状の物……クイーンメモリをはじめとした、ミュージアムのメモリもまた、コネクタなしで体内に取り込む事は可能らしいが、その場合は皮膚が爛れるなどの副作用があるとクークから聞いている。
 そういった副作用、煩雑な手続きなしでドーパントになれるって? そして、そんな物を狙っている?
「それはまた……厄介ですね」
 眉根を顰め、こめかみを軽く叩きながら言った私に、マリアもまた眉根を寄せて私の顔を見やる。
 厄介な、と思う私の表情とは異なり、彼女の表情は申し訳ないと言おうとしている人間のそれだ。
「巻き込むような事になってしまって悪かったわ。あなたが持っているメモリは、私が責任を持って預かる。だから……」
「胡散臭いです」
 一歩だけ、マリアから距離をとり、そして彼女の言葉を遮って、私はきっぱりとそう言い放つ。
 刹那、彼女は心外だと言いたげな表情を作ったが、そんな顔に騙されてやるほど甘くはない。
 もう一歩、彼女との距離をとると、私はじっと彼女の目を見て言葉を続けた。
「あなたを疑う根拠はいくつかあります。まず、私が襲われていると知っているかのようなタイミングで発砲した事。いくら特務調査機関員と言えど、この日本においてすぐに発砲出来るとは思えません。案外とこの国はお固く出来てますからね。この国の刑事であると言うならともかく、異国の方にそう易々と発砲許可が下りるとは、とても」
 これは、私の固定観念なのかもしれないが。そう易々と、この日本と言う国で、「国際なんたらだから、発砲してもOK」なんて理屈は通らないはず。郷に入っては郷に従えを地で行くような、閉鎖的なお国柄だ。麻痺銃ならともかく、彼女が放っていたのは実弾だった。
 仮に前もって発砲許可を得ていたとしても、パッと見ただの民間人が側にいる状態で、あんな危険な……下手をすれば私まで流れ弾に当たるかもしれないような発砲をするだろうか?
 もっとも、本当は案外簡単に発砲許可が下りたりするのかもしれない可能性もあったので、最初は不自然だと思うだけで、無理矢理自分を納得させたのだが。
「次に、彼女が退いたタイミング。あなたが現れたくらいで撤退するにしては、彼女は強すぎた。あなたがお強いのかとも思いましたが、そんな気配はない」
 これもまた、気になったところだった。
 ナイフを折られたくらいで撤退するような人物には見えなかったし、銃弾を躱す時の体捌きから察するに、彼女は銃を恐れてなどいない。
 言葉通り、マリアが戦闘のプロフェッショナルなのかとも思ったが、その割には隙だらけだ。レイカがその気になれば、マリアを縊り殺す事など容易かっただろう。
 それなのに、彼女は退いた。あらかじめバイクのエンジンをかけっぱなしにしていたのも、恐らくは最初から「こうする予定」であったと考えれば、納得がいく。即ち、レイカが襲い掛かり、その時点で奪えたなら良し、そうでなければ、それらしい肩書を持ったマリアが「預かる」という名目でメモリを奪う。
 これも、レイカが二人を相手にするのが面倒だったから退いたと考えられなくもないのだが……私との戦いの折は、即座に仕掛けてきた好戦的な反応を見るに、それも可能性として低い気がする。
「そして最後。あなたと彼女、着けている香水は同じ物ですよね? 名前は『フレイムウィンド』。かなり珍しい香りです」
 そう。どうしてマリアの香水の香りを嗅いだ時、斗李の事を思い出したのか。思い出せば全てがつながる。
 斗李が彼女達と同じ香りを着けていた時に聞いた話だが、あの香水は、トップノートにスパイシーな香りが広がり、ミドルノートでシトラス系の爽やかな香りに変わり、そしてラストノートで仄かな薔薇の香りを放つ代物。その特徴的すぎる香りは着ける者を選ぶし、着ける側も好悪が綺麗に分かれる。そして斗李が私に合わないと言ったのは、この特徴的すぎるトップノートのせい。私も、これは合わないと納得した。
 そもそもあの香水は、素材の入手がそもそも困難であり、かつ調香も難しい。勿論、値段はその難易度の高さに比例している。国際特務調査機関なる組織の給料が良いというなら、マリアが着けている事は不自然ではないが、傭兵であるというレイカが着けるには値が張りすぎる。
 そんな香りをつけている人が、この短時間で二人? 偶然のはずがない。
「ただ、気になる点が一つ。……先程の彼女は、戦っていたにも関わらず、香水の臭いがトップノートから変わらなかった。戦えば当然体温が上がり、汗もかく。アルコールが早く飛んで、香りもミドルノートに変わるはずなのに、です。それがずっと気にかかっているんで……理由を教えて頂けますか? 羽原レイカさん」
 マリアからそっと視線を外し、少し離れた噴水へ向かって言えば、その陰からレイカが顔を見せた。
 その刹那、マリアの顔から表情が消え、銃口がこちらを向く。レイカの方は、見つかったにも関わらず然程気に留めていないと言いたげに髪を掻き上げ、口の端を楽しげに歪めた。
「ふぅん、案外冷静なんだ」
「ええ、まあ。それから、傭兵なのに香水を着けていらっしゃるんですか? 自分の居場所を知らしめるような物ですよ」
「こんな平和ボケした国なら、別に平気かと思ったんだけど。匂いで分かるなんて、犬みたいだよね」
「私、常人よりも鼻が利くんです。犬のようだと言われてしまっても否定できないのが哀しい程度には。ついでに言えば、マリアさんの体から微かに漂う薬品臭も、疑いを抱いた要因の一つです」
「何ですって?」
 私の言葉に、マリアが顔を顰める。恐らく、本人は気付いていなかったのだろう。薬品の臭いを嗅ぎ慣れ過ぎてしまっているが為に嗅覚がマヒする程度には、彼女……否、彼女達は、薬品に触れる機会が多いと言う事だ。
 常にラボにいる捜査官が、今回に限り外に出て、戦闘に参加する。そうそうある状況ではない。
「大人しくそのメモリを渡してくれれば、こちらも手荒な真似はしないわ」
「無駄だってプロフェッサー・マリア。だって、私を相手にして戦うような奴だよ? 拳銃突き付けられたくらいで、渡す訳ないじゃん」
 引き金に指をかけ、安全装置を外した状態で言ったマリアに、レイカは楽しげに言葉を返す。
 今回に限り、レイカの意見に同意させてもらう。よく分からないが、少なくとも彼女がレイカの仲間である以上、メモリを渡せば厄介な事になるであろう事は、容易に想像がつく。
 とはいえ、はてさてどうするか。とりあえず、彼女達を追い払うか、私が逃げるかする必要があるのだが、問題はそれらが出来るかどうかだ。
 レイカはマリアを、「プロフェッサー」と呼んだ。それに、今までの様子から察するに、「それなりに腕に覚えがある」程度の実力。彼女だけならば、実力行使は容易い。だが、問題はそこにレイカがいる事だ。
 彼女の実力は本物だし、何より先程からどうにも腑に落ちない違和感の事もある。油断できない相手である事は間違いない上に、マリアがいる以上、彼女だけに気をとられている訳にもいかない。
 ああ。どうしてこうも、「人間の中でひっそりこっそり暮らしていきたい」という願いは果たされないのだろうか。
 と、己の運のなさと言うか、首を突っ込みたがる性分というか、そういった物を情けなく思った刹那。声が、響いた。それも、この状況においてあまり歓迎できない台詞が。
「レイカ、加勢に来たぞ!」
 現れたのはレイカと同じ黒い革ジャケットを着て、頭にバンダナを巻いた筋骨隆々の男性。手に持っているのは鉄パイプ程度の太さのロッド。
 間違いなく、マリアとレイカの仲間だ。そしてどう考えても、バトルスタイルは私と同じ、「とにかく腕力に物を言わせてぶっ飛ばすタイプ」。やりやすくていいのだが、マリアとレイカもいる現状では、面倒くさい事この上ない。
「別に良いのに」
「つれない事言うなよ」
 溜息混じりに放たれたレイカの言葉に、男性は眦を下げて返す。だが、恐らくはそれも「いつもの事」なのだろう。彼の声にがっかりしたような色はない。すぐさま私の方へ向き直ると、男はロッドを構え……
「ふんっ! でぇああぁぁぁぁっ!」
 咆哮と共に駆け寄ってきたかと思うと、そのロッドを私めがけて振り下ろす。
 っ! 思ったより、早い!
 慌てて男の攻撃を受け止め、それを横に払うも、こちらは見た目通りかなりの腕力の持ち主らしい。受けた手が、軽く痺れている。
 擬態しているとはいえ、私と腕力面で互角にやりあえる人間がいたとは。なかなか興味深い。興味深いが……今はそんな興味を優先させている場合では、断じてない。
「いきなり殴りかかってくるとか、卑怯じゃないですか!?」
「でも、いなしたじゃねえか。っつーかお前、女のくせに馬鹿力だなあオイ」
「それは誇っている部分ですので、揶揄してこちらの冷静さを殺ごうとしてのお言葉なら、無意味ですよ。純粋な感想なのでしたら、お褒めに預かり光栄です」
 にっこりと笑いつつ、全力でもって相手の腹部を殴りつける。流石にそれは予期していなかったのか、彼の体は大きく吹き飛び、背中と後頭部をしこたま石畳に打ち付けた。勢いが付きすぎたせいか、彼が叩きつけられた石畳はひび割れ、砕けている。
 ……やりすぎた、か? いや、でも、大丈夫……ですよね?
 いつもなら顔を狙う距離なのだが、全力で殴る際は首を折りかねないのでしない。
 腹部なら良いのかというツッコミを自分に入れたくなるが、そこはそれ、あれだけの筋骨隆々な人だ。腹筋があるし、内臓破裂とか、そんな事にはならないだろう。
 ……と、思う事にしておく、うん。ほら、殴った時も結構腹筋堅かったし、それに冷ややかで……
 …………「冷ややか」?
 彼に触れた部分に、温度はなかった。いや、あるにはあったが、少なくとも人間の体温ではなかった。
 冷たさを感じる体温、香りの変わらない香水、違和感。
「っ!? まさか、あなた方、『生ける屍リビング・デッド』!?」
「……そうとも言えるね」
「彼らはNEVER。『死亡確定固体復環術』によって蘇生した者達」
 思い至った可能性に目を剥き、マリアとレイカに視線を向けて言えば、レイカはどこか面白くなさそうに、そしてマリアは感情の抜け落ちた声で言葉を返した。
 道理で、違和感があったはずだ。彼らには、「生きている者」にある臭いがなかったんだから。
「だから、俺達は死なねえ。どんなに思いっきりぶん殴られようがよ!」
 ガラガラと音を立て、勢いよく男が起き上がる。腹部には先程私が殴った際に出来たらしい跡がうっすらと見える程度にあるが、腫れたり痣になったりはしていない。
 ……三対一。おまけにマリアを除く二人は、自律する「生ける屍」。
 どうやら、私は、またとんでもなく厄介な出来事に遭遇してしまっているらしい。
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