灰の虎とガラスの獅子

【紡がれるJ/冗談のような来客】

 歌宿が聖守……だった者の首を抱き、私達の目の前から消えてちょうど三日経った六月二十六日。
 グランドクロス中のイベントの一つである皆既月食が起こる、まさにその日。
「…………何しに来やがったんですか近所迷惑です今すぐ帰れ」
 ぎぎぎぎぎぎぎ。
 扉が開かないよう、全力で戸を引っ張りながら、私はその扉の向こうにいる人物に向って一息に言い放つ。
 恐らく、今の私を鏡で見たら、相当に嫌そうな顔をしているに違いない。力の限り扉を引いているので、マンスリーマンションの柔な扉は悲鳴を上げて私と外界を何とか遮断してくれている。
 だけど……それも、いつまで保つ事か。何しろ扉に負荷をかけているのが、ファンガイアの中でも腕力自慢の「ルーク」ことこの私、彩塔硝子であり、外にいる存在も存在だ。
『そんな事言わずに開けてよぉ。『商品』の確認に来ただけなんだからさぁ』
 ぎゅぎぎぎぎぎぎぃ。
 扉の蝶番が、まるで特撮映画に登場する鳥系の怪物の鳴き声のような音を上げる。扉の外の相手は、あたかも押し売りか何かのような物言いでこちらの言葉に返すが……冗談ではない。
 私の横では、「扉越しの綱引き」が楽しいのか、霧雨さんがきゃっきゃと笑いながら、扉を引っ張るのを手伝ってくれている。
 言葉だけなら、押し売りのように聞こえるだろう。だが、外にいる人物は「押し売り」などと言う可愛らしい存在ではない。
 薄く開いた隙間から覗いているのは黒い服。以前見た格好が「制服」なのだとしたら、恐らくはタキシードだろう。そんな、普段着とはお世辞にも言えないような服を着て、平然と街中を闊歩する輩を家に上げる気はさらさらない。
 ……ましてや、相手がドーパントならばなおの事。
「あなた、自分が相当に怪しい人物である事、自覚されています? 誰が家に上げると思っているんですか?」
『えー? 案外色んな人が仲良くしてくれるよ? お向かいの一軒家に住んでるお婆ちゃんは茶飲み友達だし、下の階のお兄さんはドーパント仲間だし、百メートル先のオフィスビルの受付嬢なんかはエステで一緒になるし……』
「それ当然、全部あなたが素顔の時の話ですよね?」
『勿論、この格好のままに決まってるじゃない。ほらボク、シャイだから。素顔見られたくないんだよねー』
 ぎっしぎっし鳴っている扉の向こうで、相手……以前、灰猫さんと共に博物館へ行った際に出逢ったマスカレイドドーパントのクークが、ハハハと軽やかな笑い声を上げながら答えを返した。
 …………今の発言。色々とツッコミたいところがあるんですが。しかしどこから突っ込むべきなのか大いに悩む所……
 扉を閉めるべく力の限り引きながらもそんな風に思っていると、微かにだが、誰かが階段を上ってくるような足音が聞こえた。少なくとも、灰猫さんの足音ではない。ならば、ご近所に住んでいる「灰猫さん以外の誰か」だろう。
 まずい。いくら一部の人間と仲良く過ごす変り種のドーパントとは言え、クークは異形。何も知らない、ごく普通の一般人が見れば、騒ぎ出しかねない。
 思い、私は即座にクークを隠す目的で戸を開いたのだが……どうやら一瞬遅かったようで。
 階段から上がってきたばかりと思しき女性が、両手に買い物袋を提げたまま、少し驚いたような表情でこちら……いや、正確にはクークの顔を凝視していた。
 あの人は確か……この階で娘さんと二人で暮らしている方だったか。名前は覚えていないが、灰猫さんや他のご近所の皆様は「おばちゃん」と呼んでいた記憶がある。
 目を丸くし、重そうな荷物を抱えながらも、彼女は口元に手を当てて「あらまぁ」と声を上げている。
 クークの格好……と言うか、顔を見て、「あらまあ」で済ませられる辺りは、流石風都の住人。
 確かにマスカレイドドーパントの顔は、他のドーパントに比べてインパクトに欠ける。とは言え、異形である事に変わりはない訳で。きっと大騒ぎになって、大変な事になるんだろうなぁ……と、半ば他人事のように思い、諦めかけた瞬間。
「……クークさんじゃないの~」
『やっほーおばちゃん、こんにちわー。この間は美味しい羊羹アリガトね~。アレ、うちの子達にも人気だったよ~』
「あら、良いのよぅ、あれくらい。いつもホラ、ウチの子の勉強とか見てもらっているじゃない。助かるわぁ」
 ……はい?
 予想外と言うか、予想したくなかったと言うか、そもそも想定すらしていなかったその言葉に、私の思考は一瞬途切れた。
 ちょっと今、自分の頭が理解を拒否しているのだが、この状況はまさか……
「ところで、クークさん、今日はどうしたの?」
『いやね、この前知り合った、ここのお姉さんと、ちょーっとお茶しよーと思ったんだけど……なぁんか警戒しててさー。おばちゃんからも言ってあげてよー』
 井戸端会議のようなやり取りを、どこか遠い出来事のようにぼやっと眺めていると、唐突に「おばちゃん」は私の両肩をがっしりと掴んで言葉を紡いだ。
「彩塔さん、大丈夫よ。クークさんは確かに不審人物に見えるけど、見た目程不審でもないし、そんなに危険でもないから。基本的にはいい人よ。ちょっと見た目とかいろいろ危険っぽく見えるかもしれないけど」
『大事なことだから『見た目』に関して二回言ったね。ま、見た目からして怪しい自覚はありまくりだけど!』
 まさかの顔見知り!? ってかフォローがフォローになってないことを本人からも突っ込まれていますがそれは!?
 受け入れたくはなかったが、どうやら受け入れざるを得ないらしい。
 ……既にご近所の皆様方は、「おばちゃん」の後ろで小さくガッツポーズしている変人マスカレイドに懐柔されているのだと言う事実を。しかもどうやら一日二日の付き合いでもないらしい。かなり前から、クークはこの辺の住人の皆様に対し、草の根運動をしてきたようだ。
 ああ、頭が痛くなってきた。私は、出来る事なら「目立たずひっそりと生きていたい」と思っているはずなのに。どうしてこう次から次へと厄介事が……
 頭痛を堪え、曖昧な笑みを浮かべた私に、「おばちゃん」はそれじゃあねとだけ言うと、そのまま楽しげに手を振って自分の部屋へと戻って行ってしまった。
『と、いう訳で。改めて、入れてくれると嬉しいなぁ』
「……念の為に聞いておきますが、もしもあなたを入れなかったら……どうなります?」
『決まってるじゃない。次におばちゃんの所に遊びに行った時に、キミが入れてくれなかった事、誇張交えて話しちゃう。勿論おばちゃんだけじゃなく、ご近所さん皆に。そうしたら……どうなるでしょう? ちなみにボク、顔だけは広いしガラスちゃんよりも信頼されてるって自負があるから』
 恐らく、今クークの仮面の下の顔はにやぁっと悪役めいた笑みが浮かんでいる事だろう。
 先程の様子から鑑みるに、周辺住民の皆様への信頼は、クーク本人の言う通りかなり篤いと見た。そんな中で、クークがご近所の皆様に何やらない事ない事吹き込まれた場合……陰口は勿論の事、謂れのない誹謗中傷を受けるだろう。
 私は別に引っ越せば良いだけの事なので構わないが、霧雨さんまで巻き込む事になりかねない。それはまずい。
 そもそも引っ越すという事は、灰猫さんと離れる事になる。それが今の私に耐えられるかと問われれば、否である。
 先日の……思い返すも恥ずかしくもひどく嬉しくなる言葉を聞いてからは、ますます離れたくないと願うようになってしまった。
 それらに比べれば、クークを家に上げる事など、安く……はないが、まぁマシと言えるだろう。
 …………上手く嵌められた印象が拭いきれないのではあるけれど。
「……どうぞ。ただし、用が済んだら即刻帰れ」
『うん。それじゃ、お邪魔しまーす』
 不機嫌その物の声かつ命令口調で言ったにも拘らず、クークはあはは~と軽い笑いをあげながら、まるで友人の家へ遊びに来たような気軽さで中へと入っていく。
 ……いや、受け入れておいて難だけどちょっと待って私。そう言えば霧雨さんも一緒に扉を引いていたはずじゃ!?
 思い出し、慌てて私もクークの後を追うように中へ入る。
 ご近所様は根回し済みだとしても、霧雨さんはそうは行かないはず。人懐っこい性格とは言え、家にいきなり上がりこんでくる黒服など、子供にとっては脅威以外の何者でもない……
 ……と思いきや。玄関で大人しく待っていた霧雨さんは、上がりこんできたクークの顔を見つめたかと思うと、すぐにぱあっと嬉しそうな顔になって……
「おお、くーちゃ!」
『やぁ、むーちゃん。今日もホント可愛いね。抱きついてその柔らかそうなほっぺスリスリして良い?』
「駄目に決まっているでしょう何考えてるんですこの変態。……と言うか、霧雨さんとあなたはお知り合いなんですか!?」
 驚くでもなく、むしろ歓迎するかのように手を上げた霧雨さんに対し、クークも宣言通り抱きつこうと両腕を広げ、屈みこんだ。そしてもはや脊椎反射の領域と化したツッコミを入れ、クークの襟首を引っ掴んでしまっている自分が悲しい。
 大体、マスカレイドの顔に頬擦りされるのは物理的に痛そうだし、そもそも何でいきなりハグと頬擦りか。しかも霧雨さんは歓迎ムードだし。
「あのねあのね。くーちゃ、むーのおともだちなの。よーちえんバスの運転手さんなのー」
『ボク達、とっても仲良しなんだよ。ねー』
「ねー」
 嬉しそうに私のズボンの裾を引き、舌足らずな口調で説明してくれる霧雨さん。そしてそんな彼女に向って、クークは私に襟首を掴まれながら、まるで愛らしさを演出するように首を傾げた。
 くっ……まさかよりにもよって、霧雨さんまで懐柔済みとは……っ! 外堀どころか内堀まで完全に埋められていたなんて! そもそもこんな顔の送迎バスの運転手なんて正直怖いんですが。
 今は……少なくとも私や灰猫さんと生活するようになってからは、彼女はバスを使用せず徒歩で幼稚園との間を往復している。それでもクークが「バスの運転手」であると知っていると言う事は、恐らく以前……彼女の両親がまだ存命だった頃は、バスで幼稚園との間を往復していたのだろう。
 …………よくこんなのが運転するバスに子供を預けようと言う気になりますね、親御さん達……
 もはや呆れとかそう言った物を超越した、表現し難い何かをこの街の住人の皆様方に感じながらも、私は自分で歩こうとしないクークを引き摺ってリビングまで連れて歩く。
 襟首を掴んでいるせいで窒息しかかっているのか、微かにアヒルを絞め殺すような声がクークから漏れ、更に引き摺られているのが羨ましいのか、霧雨さんはクークの足にしがみつき、水上スキーのような格好で床の上を滑り、笑っている。
 ……靴下が薄くなるからやめて欲しいのですが、霧雨さん……

「……で? 改めてあなた、何をしに来やがったんです?」
『言ったでしょ? あげた物の確認に来たって。万一にも粗悪品だったりしたら、シャッチョさんの名に傷が付く』
 マスカレイドという、「口の見えない状態」で飲めるのかどうかは知らないが、一応客人なのでお茶を出しつつも半眼で問うた私に、クークは湯呑みには手を付けず、手を差し出しながらさらりと言った。
 恐らく、件の「あげた物」、もしくは「商品」と呼んでいた「それ」を見せろと言う事らしい。
 使うつもりのない物ではあるが、見せる事を断る理由もない。軽く顔を顰めつつも、私は呆れ混じりの溜息と共に立ち上がると、あの日クークから受け取った物を探す。
「……アレなら……ああ、そう言えば壊すのを忘れていました」
 「後で壊す」と言っておきながら、今まで存在を忘れていた「それ」……ミュージアムの作り出した「ガイアメモリ」と呼ばれる物を洋服ダンスの中から見つけ出すと、それをクークの掌の上に乗せる。
 薄桃色にも藤色にも見える本体を持つそれは、少し力を込めれば簡単に砕けそうに見える。遠目から見れば、それ程危険な物には見えないだろうが……これを見た目で物事を判断してはいけない。実際、灰猫さんはこれと似たような物を挿されて苦しんでいた。
 一度どんな内容が記録されているのか気になって鳴らしてみたところ、確か音声は「Queen」……「クイーン」と告げ、苦笑したのを覚えている。
 ……ガイアメモリまでレオのように、私をクイーンにしたいのか、と。
「う? ねぇねぇしょこちゃん、なぁに、あれ?」
 クークに手渡した物が視界に入ったのか、霧雨さんは興味深そうな目でクークの手の中に収まった「それ」を見つめて問う。
 ひょっとすると、ファンガイアの「クイーン」である霧雨さんと、メモリの中に存在する「クイーンの記憶」が互いに反応しあっているのかもしれない。だとすればやはりあのメモリは私よりも霧雨さんの方が合っている、という事になる。……だからと言って、彼女に渡すような危険な真似はしないつもりだが。
 一方でクークも、霧雨さんに渡すつもりはないのだろう。霧雨さんに見えるように……しかし奪われない程度の位置でそれをかざすと、怪しげな笑い声を上げながら言葉を紡いだ。
『これはね、むーちゃん。ガイアメモリっていう、『大人のオモチャ』だよ!』
「玩具と呼ぶには物騒すぎますし、そもそも物言いが卑猥ですっ!」
『卑猥に聞こえるのは、受け取り手の心が汚れてるからじゃない? まあ、ボクは勿論セクハラのつもりで発言した訳だけど』
「…………殴り飛ばして良いですか、クーク。子供の前でなんて事を」
『子供の前で暴力をふるうのは、教育上よろしくないんじゃないかな~』
「あなたが言えた立場ですかっ!」
 一瞬でも卑猥な想像をしてしまった自分を恥じつつ、そしてわざとそういった連想をさせるような言い方をしたクークに軽い殺意を覚え。顔を赤く染め上げながらも、私はぐっと拳を握ってクークの眼前に見せ付けた。
 しかしこちらが本気で殴るつもりではないのは理解しているのだろう。あっはっはと心底こちらを不愉快にさせる笑い声を上げながら、クークは受け取ったメモリを透かしたり軽く叩いたりして「確認作業」を行っている。
 その作業は、どことなくだが実家で作業をする兄達に通じる部分がある。その作業の時だけは、少々厄介な性格をしている兄達でさえ真面目かつ格好良く見えたものだ。
 恐らく今頃は全員……伯父様方と共に、それこそ死に物狂いで修繕やら新調やらを行なっている事だろう。こう言う時、家族の中で唯一圧倒的な不器用さを誇る私は無力さすら覚える。
 昔はめげずに手伝おうとしたのだが…………思い出すのも恥ずかしくなるような大失敗をしでかし、それ以降工房への入室を禁止されてしまっている身だ。今も、一歩でも工房に入ろうものなら、伯父様や帝虎は勿論の事、あの物磁ですらも泣いて止めにかかる程。
 遠い目をしてかつて犯した過ちの数々を私が思い出している一方で、クークはメモリの確認を終えたらしい。
 確認の終わったメモリを私に返すと、空いた手で先程出した湯呑みを弄び……そして何の前触れもなくこう切り出した。
『ねえねえ君さ、本格的にシャッチョさんの部下になる気、ない?』
「…………は?」
 いきなりの言葉に、思わず口から頓狂な声が上がってしまった。
 このマスカレイドは、一体何を言い出すのか。そもそも私は、クークの言う「シャッチョさん」と呼ばれる人物を知らないし、「本格的に」も何も最初から部下として動いた覚えもない。
 大体、私はキングとクイーン以外の部下になる気など毛頭ないのだ。それは以前、同じように私を勧誘した「人指し指」……タブードーパントの「冴子さん」にも言った事。
『シャッチョさんには、今、味方が物凄ぉく少ないんだ。で、シャッチョさんと君なら、仲良くなれるんじゃないかなって言うボクの予想』
「……それはつまり、その方のボディーガードをしろ、と言う事ですか?」
 「シャッチョさん」と呼ばれている以上、どこぞの企業の「社長職」にある方なのだろう。社長ともなると社内外問わず敵も多くなる。味方が少ない、と言う事は社長になったばかりか……あるいは退任せよと迫られているかのどちらかか。
 その「社長さん」が、一体どこで私の事を知り、そしてこんなメモリを寄越すような真似をしたのかは知らないが、多少なりとも私の事を買ってくれているのだろう。それは分る。
 だが、渡されたメモリはミュージアムが捌いている物。つまり社長さんとやらもミュージアム関係者であると考えてしかるべきだ。
 そして一方でクークが「ボス」と呼んでいる人物は、ミュージアムの殲滅を目的とし、灰猫さんに「弾丸の記憶」と言う力を与えた。
 私が社長さんの方へつけば、それはこちらが望む望まざるに関わらず、灰猫さんと敵対する事になる。
 ……そんなのは、お断りだ。折角彼の気持ちを知る事が出来たのに。
 そんなこちらの思い……もとい、警戒心が伝わったのか、クークはひょいと肩をすくめると、軽く首を横に振って言葉を放つ。
『そうじゃなくて……何て言えば良いのかな。せめてシャッチョさんの愚痴を聞いてあげる茶飲み仲間って言うか?』
「……あなた、部下になれと今しがた言ったばかりじゃないですか」
『言葉のアヤって奴だよぉ。キミがシャッチョさんの部下になったら、それはそれで面白そうだけどサ。でも……キミ、そんなつもり微塵もないでしょ? ボクには分るよ。キミは自分が認めた人にしか膝を折らない頑固者だ。……ボクと同じでね』
 認めた人にしか膝を折らない頑固者、と言う点は認めよう。それは私も自覚がある。
 だが……クークも同じと言われてしまうのは正直色々と抗議したいと言うか、自分が何だか駄目な人間になってしまったような気になると言うか……
 いや、それはこの際横に置いておこう。
 愚痴を聞く茶飲み仲間になるにしたって、その社長さんと話を合わせる必要はあるだろうし、そんな関係になったら、この手の中にあるガイアメモリを使う事を強要されるような気がする。
 ……正直、メモリを自分に挿す気は毛の先程もないのだから、茶飲み友達どころか敵対関係に陥る確率はかなり高い。
 そんな風に考えていると、クークはそれまで弄んでいた湯呑みを手の内から解放し、すっと立ち上がりながら言葉を紡いだ。
『まあ、とにかく考えておいてよ。茶飲み友達の事もそうだけど、そのメモリを『どう使うか』って点も含めてサ』
「……お帰りですか?」
『うん。ボク、下っ端だから。実は結構忙しいんだよ。……最近何やら不穏な噂も飛び交っててね、その噂の裏付けもしなきゃいけないんだ』
 ははっと軽く笑いながら、クークはそう言うと、やってきた時と同じくらいの唐突さですたすたとベランダへ向って歩いていく。
 ……帰る、と言っておきながら、何故玄関ではなくベランダへ……?
 不思議に……と言うよりは不審に思いながらも、私はその後を追うように立ち上がり、見送りの体勢を整える。一方で霧雨さんは、「友達」の帰宅を残念に思っているのか、足元で不満そうな声をあげていた。
「くーちゃ、もうかえっちゃうの?」
『ごめんね、むーちゃん。ボクはシャッチョさんのところへ報告に行かないと。それじゃ、むーちゃん、お別れのちゅー』
 クークのズボンの裾を掴み、見上げるようにして言った霧雨さんに、言われた方は声にほんの僅かな困惑を滲ませて言うと、軽く身を屈め……霧雨さんの頬に、口と思しき部分を軽く押し当て、霧雨さんもそれに応えるようにしてクークの頬に唇を軽く当てた。
 それは、親しい人物に対する……それこそ友人や家族と言った、「恋人ではないけれど大切な人」にするような、親愛のキス。
 あまりにも自然な流れだが…………この国に親愛のキスを交わす習慣は、当然ない。
「……っ! 何をしてやがるんですか、クークっ! ふ、ふふふ、不埒なっ!」
 我に返って霧雨さんをクークから引っぺがし、ベランダの手すりに足をかけている相手を、思い切り怒鳴りつける。
 勿論、互いに疚しい感情がないのは理解しているつもりだし、自然な流れに見えたと言う事は、つまりそれだけこの「挨拶」をし慣れていると言う事でもある。
 だが、もう一度言おう。この国に、親愛のキスを交わす習慣は、ない!
 つまり……この、今にもベランダから飛び降りようと画策しているマスカレイドは、幼稚園児に……少なくとも霧雨さんに、そんな「この国らしからぬ習慣」を植え付けた事に他ならない。
 お、女の子の接吻は、そう軽々しく与えて良い物ではないと言うのにっ!
『あはははははっ! お別れのちゅーくらいで真っ赤になるなんて、キミって案外純情さんだね~。これ以上ここにいたら、殴られちゃいそうだし……じゃなばーい』
 マスカレイドはからかうように笑って言うと、そのままぴょん、とベランダから飛び降りてその姿を消した。
 この部屋も然程高い訳ではないし、何より相手はあのクークだ。飛び降りた程度で死にはしないだろう。
 ……と言うか、この程度で死ぬような柔な存在には見えないんですよね、あの方。
 ……そう言えばあの方、靴はどうしたのだろう? 玄関で脱いでいたから……裸足で着地? そして靴は置きっぱなし?
 私は深い溜息を一つ吐きだしてそう思うと、霧雨さんを連れて部屋へと戻り……そして玄関に置かれた黒い革靴を見つけるや、再度溜息を吐き出すのである。
 ああ、何故だろう。今後も何かが起こりそうな予感がする。
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