灰の虎とガラスの獅子

【誇りのR/隣人の事情】

 マンションに帰りつくまでの道程みちのり。私達は互いに無言だった。
 恐らく灰猫さんは、その正体を明かすつもりなく、私を助けたのだろう。あの小説の主人公と同じように。
 だが、私は気付いてしまった。灰色の「虎人間」と呼べる異形が、隣人である「灰猫弓」その人である事に。
 助けて貰っておいて礼を言わないのは、私の一族としての誇りに反する。故に、思わず「灰猫さん」と呼んでしまったのだが……やはり、まずかっただろうか。この場合、お礼を言うだけにとどめておいて、正体に関しては知らないフリをするのが正解だっただろうか。
 だが、今更口から出た言葉を戻せるわけでもないし、私の方も知られたくない事……自らの右手の甲にある「ルークの紋章」を見られたのだから、五分五分だろう。と、思う事にしておこう。
 などと考えている間に、あっという間に私達は自分の部屋の前に到着してしまう。
 元々それ程遠い所に出かけていた訳ではないので、道理と言えば道理なのだが。
「……あの、さ」
「はい、何でしょうか?」
「話があるんだけど……俺の部屋、上がってかない……か?」
 困ったようにガリガリと頭を掻きながら、彼は私に向かってそう声をかける。
 口止めだろうか? そんな事をしなくても、私は誰にも言わないのに。
 思いながらも、私はにこやかな笑顔を向け、良いですよと言葉を返した。既に「悪人っぽい」のは顔だけである事は分かっているし、助けてもらった礼もしなければと、妙な使命感もある。
「……あんた、本当に無用心だな。……俺のあの姿を見て、まだそんな平然と……」
「助けた人間を口止めで殺すような事をされる方とは思っていませんから。それとも、そうするおつもりで?」
「しないよ! する訳ないだろ」
「なら、問題ありません」
「……いや、だから。どうしてそこで、そんなに俺を信用できるんだよ……」
 私の答えに不満でもあるのか、彼は困ったようにブツブツと何かを言いながら、結局は私を部屋に上げる。
 自分で招いておきながら、何故に不満げなのだろうか。と思わなくもないが、それは彼なりに何か理由があるのだろう。確かに普通に考えれば、年頃の男性が、見た目だけとは言え、年の近い女性を家に上げるという行為は微妙かもしれない。
「あー……とりあえず、そこ座って。ついでに飯も食ってけ」
「あ、お気遣いなく……」
「いや、むしろ食ってってくれ。この量は流石に多い」
 そう言って彼が台所から持って来たのは、お鍋いっぱいの肉じゃが。今にも溢れそうな量だ。確かにこれは「作りすぎ」だと言える。
 苦笑しながら見つめた私に、彼は少しだけ恥ずかしそうに顔を背けながら、その肉じゃがをつつき始める。
「それでは、お言葉に甘えて……いただきます」
 適度に味の滲みたそれは、私の味覚に非常によく合った。気を抜くと、この鍋の中身を全て平らげかねない程に。もっとも、ここはよそ様のお宅だ。そんなはしたない真似はしないつもりだが。
 しかしながら、私は体質的に太らない……もとい「太ることが出来ない」。世の中の女性が羨むような体質だ。気を抜くとどこまでも底なしに食べてしまう。
 のべつ幕なしに食べるとはいえ、燃費が悪い訳ではない。では何故か。
 理由は簡単。ヒトの食事が私達の本来の食事とは異なるから。その為、いくら「一般的な食事」をとったところで、私の血肉にならない……つまり空腹は満たされないし、太りもしない。
 逆に本来摂取すべきエネルギーを摂取した場合は燃費が良いらしく、幼い頃に過剰摂取して破裂しそうになった事がある。その頃は確か……近所の怖いお兄さん達二、三人分だったかなぁ。あの頃は加減も知らなかったし、ヒトの事もそれ程好きではなかったから、実にやんちゃだったものだ。
 とは言っても、たった今、灰猫さんの作った肉じゃがを頬張っているように、ヒトと同じ物が食べられない訳でもない。ヒトにとっての「食事」が、私にとって煙草やコーヒー、紅茶のような「嗜好品」としての位置付けになる。……私の場合は特に味噌汁が「依存度の高い嗜好品」になるだろうか。
 ああ、やっぱり美味しい料理は幸せになるなぁ。

「あのさ」
 食事も終わり、少しだけ食後の余韻に浸っていた所に、灰猫さんは真剣な表情で私の顔を覗き込んで言葉を紡いだ。その真剣さに応えるように、私も居住まいを正して彼の言葉を待つ。
 恐らく、本題の「口止め」だろう。私を助けた彼の事だ、恐らく「口封じに殺す」事はないはず。それは先の会話でも証明されたし、仮に先程の言葉が嘘で、「やっぱり殺す」なんてそんな事になったとしても、負けるとも思えないが。
「あんたは、俺が怖くないのか? あんな姿を見たってのに」
「……口止めが来るかと思っていましたけれど、そちらが先ですか」
「いや、勿論俺のあの姿に関しては黙っていて欲しいんだけどさ。でも、なんつーか……気になったんだ」
 灰猫さんは、困ったようにそう言いながらガリガリと頭を掻く。どうやら彼のこの仕草は、癖らしい。それも、困った時特有の。
 しかし、そうか……口止めよりも怖がられる方を気にするのか。
 まあ、納得出来ない訳ではない。ヒトというのは、かなり奇特な者でない限り、自分とは異なる姿を持った存在に対して冷淡になれる生物だ。その掌の返しっぷりの方が、私から見れば余程化物じみていると思う。姿形や食習慣、食性が違う程度で、何故ああも迫害されなければならないのか、理解に苦しむ。
 それを思えば、灰猫さんの姿が変わる程度、どうという事はない。
「怖い訳がないじゃないですか。そもそも、何故怖がらなければならないのでしょう?」
「いやほら、俺ってその……さっきの通り……だし」
 ……成程。彼はどうやら、あの虎人間としての姿にコンプレックスのような物を抱いているらしい。確かに、異形はヒトから忌み嫌われる物だ。ひょっとすると彼は迫害された過去を持つのかもしれない。
 と、そこまで考えた瞬間。私の脳裏に先程まで読んでいた小説の作者の名を思い出した。
――刃稲 虎丘――
 ……我ながら、何と鈍い事だろう。このペンネームは、彼の名前そのままではないか。「はいねこきゅう」の切り方を変えただけの。道理で聞いた事がある訳だ。
 そしてそれに気付くと、殆ど全てに合点がいく。あの小説の主人公の心理描写がやたらと緻密だったのも、先程の灰猫さんの姿が、小説の中の主人公の姿と重なるのも、そして彼が、私に対して「怖がらないのか」と聞いた理由も。
 あの小説は、「ファンタジー」などではない。彼の「自叙伝」のような物なのだ。それを周囲の人間が、勝手に「よく出来たファンタジー」と勘違いし、そのまま売り出した、という事だろう。
 そこまで思うと、私は軽く笑い……そして、俯き気味な彼の頭を撫でた。
「……は?」
 撫でられた意味がよく分からないと言いたげに、灰猫さんはきょとんとした表情で私の顔を見やる。
 自分でも、どうして彼の頭を撫でるなどといった行動に出たのかは分からないが……強いて言うなら、先程の灰猫さんの姿が、何となく叱られてしょげた子供のように見えたからかもしれない。
 払われるでもないのでそのまま彼の頭を撫で続けながら、私は作っていない笑顔で言葉を紡いだ。
「申し上げたはずです。あなたは私を助けて下さったと。その方を恐れるのは、我が一族としても許されない行為。私は、怖くなんかありません。むしろ感謝しています」
 そう。灰猫さんが「この街の住人である事」に誇りを持っているように、私も「己の一族」に対して誇りを持っている。
「……さっきから聞こうと思ってたんだけど……アンタの言う『一族』って何なんだ? それと俺を怖がらない事と、何か関係があるのか?」
 おっとヤブヘビ。見たところ、この人のあの「虎の異形」としての姿は、「一族」やそれに近しい種族達とは趣が異なった。私を襲ってきた異形とも、また種類が異なるようだったが、今回、それは横に置いておこう。
 「ルークの紋章」の事も知らなかったようだし、出来る事なら黙ってやり過ごしたいが……それはどうやら許されるような雰囲気ではない。
 ……こうなったら、話すしかないか。勿論、全てを説明するつもりはないけれど。
 そう考えると、私は灰猫さんの頭から手をどけ、居住まいを正して彼の目を見つめた。
「……信じ難い事かも知れませんが、この地上には『他者の生命力を糧に生きる種族』が存在します。西洋のモンスター伝承のモデルになった者達です」
 そう言った瞬間、灰猫さんはぽかんと口を開け、信じられないと言いたげな表情を浮かべた。
 それもそうだろう。普通に考えれば、こんな話は信じられそうにない。だからこそ「伝説」や「伝承」という形で、ヒトの間では語り継がれているのだから。
 とは言え、事実そういう種が存在しているのだから仕方ない。
「彼らのほとんどの種は、『他者の命のエネルギー』……『ライフエナジー』と呼ぶそれを『ヒト』から吸収しなければ、生きていけません。……俗に言う、狼男や魚人やフランケンシュタイン、ドラゴンなどがそれに当たります。そして我が一族は、彼らと深く関わりのある者。異形と呼ぶべき存在は見慣れている為、恐怖も嫌悪も覚えません」
 ……嘘は吐いていない。実際に我が一族は、先に挙げた存在……ウルフェン族、マーマン族、フランケン族、そしてドラン族と深い関わりを持つ。彼らが他者のライフエナジーを食らって生きている事だって事実だ。
 ただ、「我が一族」こと「ファンガイア」と呼ばれる種もまた、ライフエナジーを吸って生きる、「異形の一族」であることは黙っているだけで。
 今は我らの長である「キング」が、「人との共存」を打ち出し「ライフエナジーに代わる新しいエネルギーの開発」を急務としている為、他の種族もヒトを襲わずに今のところ「食事」を我慢しているらしい。
 そもそもヒト自体が、「食物連鎖」と称して他者の命を「頂く」事でライフエナジーを吸収しているのだ。他の十二種と異なるのは、彼らは吸収した分だけでなく、自分の身の内でもライフエナジーを生み出すことが出来る事、そして他よりもはるかに短命である事だが……それも言わずとも良いだろう。
 要するに我々は、人間から生体濃縮されたライフエナジーを頂いているのだ。
「人の命を糧とするって……随分とまた、ぶっ飛んだ話だな」
「しかし、事実です」
「ああ、疑ってる訳じゃない。ただちょっと、俺とのスケール差に驚いているだけだ」
「こちらとしては、『一度死んだ人間が異形として蘇る』と言われた方が驚きなのですが」
 彼の言葉に軽く返しながら、私は彼のパソコンラックの上にあった小説に視線を向けて言葉を返す。
 その仕草で、私の言いたい事を察したらしい。彼は軽くこめかみを押さえ、深い溜息を一つ吐き出した。
「……読んでたんだな、アレ」
「ええ、まあ。バイト先の店長に勧められまして」
「で、アレがただのファンタジーじゃなくて、俺の実体験に基づく物だと推測した訳だ」
「そうですね。主人公の所謂『怪人態』の描写と、先程の灰猫さんの姿があまりにもよく似ていたので。もっとも、その事に気付いたのは、この部屋に入ってからですが」
 それに、驚いたのは本当の事だ。
 我々ファンガイアは、死を「偽装」する事はあれど、実際に死を迎えてしまったら蘇る事は殆どない。仮に蘇ったとしても、元の自我や理性が存在しているとは限らず、ただの獣と化している事の方が多いと聞く。
 そもそも、我々の亡骸自体がガラスのように砕けて散ってしまうのだ。それで五体満足、元の状態で復活できる道理など、あるはずもない。間違いなく、何かしらが欠けているに決まっている。それが体なのか、心なのか、記憶なのか……あるいは魂なのかは、分からないし分かりたくもないが。
 さて、灰猫さんの説明によると。彼のように、ある特定の条件を持つ人間が、一旦死を迎えた後に再度覚醒した存在を「オルフェノク」と呼ぶらしい。
 小説にも載っていた事だが、通常時の外見は人間だった時と変わらない。それは、今の灰猫さんを見れば一目瞭然だ。尾が生えている訳でもなければ角が伸びている訳でも、牙が突き出ている訳でもない。
 しかし先程の「虎人間」のような、動植物の特性と高い攻撃力を持った「異形としての姿」も併せ持ち、中には更に別の形態へ変化する者もいるのだそうだ。この辺りは、概ね自分の意思で変えられるとの事。
 ……その点では、我々ファンガイアと似ているかもしれない。もっとも、彼らは「元は人間」であるのに対し、我々は「人間に擬態した存在」という相違点はあるが。
 灰猫さんは、虎の特性を持つオルフェノク……「タイガーオルフェノク」と呼ばれる存在なのだとか。
 更に驚くべき事に、オルフェノクの大半は自らを「人類の進化系」と位置付け、人間を見下していると言う。そちらの方は、物語の中だけの事だと思っていたので、素直に驚いた。
 かつてのファンガイアも、「人間は我らの家畜」、「他の種には死か隷属」なる考え方を持つ者が多かったが、それは元々人間と異なる種だったからだと理解できる。その考え方に同意できるかと問われたら、答えはノーだが。
 しかし、オルフェノクは元を正せば人間だ。それなのに人間を見下すなど……正直、不愉快。
 そしてその「不愉快」という考えは灰猫さんも同じらしい。自分がオルフェノクになってしまって以降、偶にこの風都に現れて人間を襲うオルフェノクと戦い、それらを退けてきたらしい。
 最も驚いたのは、オルフェノクに攻撃された人間の末期。
 彼らの攻撃には毒性があり、並の人間はその「毒」によって灰化してしまうのだそうだ。そして、ごく偶に……本当に偶にらしいのだが、その毒をきっかけにオルフェノクに覚醒してしまう人間もいるらしい。
 道理で、灰猫さんは先程の異形に向かって攻撃を当てる気がなかった訳だ。当ててしまえば、相手を殺してしまうかもしれないし、自分と同じような存在に変えてしまう可能性もあった。
 我々ではそうはならない。ライフエナジーを吸い尽くされた人間は、魂の色を抜かれてガラスのように無色透明になり、砕けて死ぬ。そしてその「死」は、基本的には回避不可能だ。襲われた人間がファンガイアに変質してしまうこともない。
「聞くほどに、不思議な存在なのですね、オルフェノクという者は」
「恐ろしくなったか?」
「まさか。興味深いとは思いますが、やはり恐ろしいとは思えません」
 軽く顔を歪め、苦しげに問いかけてきた灰猫さんに、私は軽く頭を振って否定の意を返す。
 どうしてこの人は、こんなにも「恐れられること」を気にしているのだろう。
 そりゃあ、ヒトは弱くて、自分と違う生き物に対してはどこまでも残酷になれる生き物ではあるけれど、だからと言って気にするほどでもないと思う。騒がれれば多少なりとも面倒ではあるが、それだけだ。
「まあ……正直な話、あんたが普通に接してくれたのは、本当に嬉しい」
「そんな物でしょうか?」
「そんな物だよ。特に……俺みたいに、身内からも恐れられた奴にとっては、な」
 ……ああ、そうか。彼は私のように、親類縁者が皆異形、という訳ではないのだ。
 私は「異形」を見慣れているし、そんな中で生活していたから特に気にしないが、彼の家族は違う。唐突に自分の身内が、「ヒトではない者」になってしまったら、確かに恐怖するだろう。
 私がかつて出会った人々と、同じように。
 確かに、掌を返されて悲しい思いをしたことはあるが、それでも「仕方のないこと」として諦めていた。しばらくすれば私よりも先に死んでしまうのだし、本能的な部分で互いに「違う生き物」であると認識していた。何より血の繋がった者全てが「同族」。別段悲しんだりはしなかった。
 でも、灰猫さんは? 多分、私が予想するのもおこがましいほどの絶望感を抱いたに違いない。血の繋がった者全てが、拒絶する側に回ったのだから。
「まあ、改めて言うのも難だけどさ……これからも、仲良くしてくれないかな?」
「何を当たり前のことを仰っているんですか。こちらこそ、この街に不慣れな者ですから……色々とお教え頂けると嬉しいです」
 ガリガリと気恥ずかしげに頭を掻き毟りながら言った彼に、私はにこやかな笑顔を向けてそう答える。
 改めて……私は隣人、灰猫弓という男を知る事が出来た。それが嬉しいと思うと同時に……先程の「雷神様」の事が、妙に胸に引っかかっていた。

 翌朝。
 今日の予定は……午前中は警察署へ清掃のお仕事、午後から本屋のアルバイトだったか。
 警察署が派遣清掃員を雇うのは、機密情報を扱う上でいかがな物かと思うのだが、そこはのんびり気質の風都故なのだろう。
 制服である薄い水色の作業着に着替え、私はガラガラと清掃用具の入ったカートを押しながら、自分の割り当てられた区域を掃除する。
 普段から掃除が行き届いているらしく、床も壁も窓も綺麗だ。塵一つない……とは言わないが、ひどく汚らしい訳でもない。
 だからと言って、掃除をサボるような真似はしない。任された仕事である以上は、きっちりと全うするのが礼儀という物だろう。
「えーっと次は……『超常犯罪捜査課』と……」
 割り当て表とにらめっこし、ようやく目的の部屋……建物の三階奥に位置するそこの前に立つと、私は軽くノックをしてその部屋に入る。
 ……って、何、超常犯罪捜査課って。普通の警察署にはそんな物ない……わよね? いや、そこまで警察組織に関して明るい訳ではないのだけれど。
 聞き慣れない単語に対して不思議に思いながら、軽く部屋を見渡す。
 狭すぎる事もなければ広すぎる事もない、ちょうどいい広さの部屋には、デスクの数が三。赤い革ジャンを来た青年と、水色のツボ押し器を肩からぶら下げた中年男性、そして黒いスーツの若い青年。
「……失礼致します」
「お、掃除? ご苦労さん」
 深々と一礼をしながら声を投げると、中年男性が気さくに話しかけてきた。
 しかし徹夜明けなのか、随分と疲れているように見える。目の下には微かに隈が浮いており、ちらりと他の面々を見れば、スーツの青年もテスクの上でぐったりとしているし、赤ジャンバーの青年も心なしか苛立っているように見えた。
「いやぁ、若いのに清掃の仕事をしているなんて関心関心」
 ひょいと欧米人がやるような大げさな仕草で肩を竦め、はっはっはと朗らかに笑う。
 ……この人、ひょっとすると徹夜明けハイテンションなのではなかろうか。疲れているように見えるのに、こちらに絡んでくる姿は妙に元気だ。
 それから、私は若くないと思うのだが。そりゃあ、ファンガイアとしては若い方に分類されるのかもしれないけれど。
 適当に相槌を打ちながら、私は自分の仕事を淡々とこなす。
 ゴミ袋の中には夜食として食べたらしきカップ麺のゴミと、栄養ドリンクの瓶が投げ込まれている。
 ……生ゴミと缶、瓶類は分けて欲しかったところだが、後で私の方で分ければいいだけの話か。今の彼らに分類がどうこうと言ったところで、恐らく疲労が増すだけだ。そもそも、今の状況できちんとした分類が出来ると思えない。
 軽く口元に苦笑を浮かべつつ、ゴミ袋の口を縛り新しいゴミ袋と取り換え、軽く部屋全体を見回す。書類が少々散乱しているが、掃除をするには支障はない。
 そう判断し、床に落ちた紙を拾い上げれば、それは「通り魔に注意!」と書かれたポスターだった。これを作るのに徹夜をしていたのか、あるいはこれも仕事の一環だったのかは定かではないが、男性はおや、と言いながらそのポスターを私から受け取って、こう言った。
「お嬢さんも、最近流行の通り魔には気をつけるんだ。出来るだけ夜は出歩かない方が、良い」
 通り魔……昨日のあの「雷神様」みたいな格好をした、異形の事だろう。
 私が襲われる直前、灰猫さんは「Current」と言う、宣言に似た電子音を聞いたと言う。「電流」を意味する英語だが、何故わざわざそんな電子音が?
「その通り魔も、カレントのメモリを使っている奴らしいって事はわかっているんですけどねー」
 ぐたり、と机に上半身を預けながら、若い青年がそう口にした。どうやらこの部署では、件の通り魔を追っているようだが……「カレントのメモリ」とは一体?
「おーい真倉、軽々しくそういう事は言わないように」
 何の事だろうと思ったが、どうやらそれは聞いてはいけない事……つまり機密に当たるらしい。中年男性に窘められ、青年の方はしまったといった表情で自らの口を押えてこちらをちらりと見やる。掃除にかこつけて赤いジャケットの青年の方へ視線を走らせれば、彼は彼で苦い顔をしているので、まず間違いなく「私が聞いてはいけない事」だったのだろう。
 ……ならば、聞こえなかったふりをしてやり過ごせばいい。あたかも何も聞こえませんでしたと言わんばかりの表情を作り、私は掃除道具の中からモップを取り出した。
 厄介事に巻き込まれない事。それが人間の中でひっそりと生活していく為の知恵だ。
 そう思い、黙々とモップで床を磨き始めたその時。
 部屋の扉が開き、一人の制服警官……所謂、「お巡りさん」が入ってきた。
 ここは警察署なのだから、警官がいる事に不思議はないし、入ってきてもおかしくなどない。
 ないはずなのだが……私の本能が、妙だ、この場から離れろと警告する。そして、こういう場合、往々にして何かしらの厄介事に巻き込まれてしまう。
「ん? うちに何か?」
 私の緊張とは対照的なニコニコ笑顔を浮かべ、男性がその警官に近付いた……その瞬間。
――Current――
 警官はポケットから黄色っぽい何か……USBメモリもう少し大きくしたような物を鳴らしたかと思うと、それをそのまま自身のこめかみに突き立てた。
 先程聞こえてきたのは、「電流」を意味する電子音だった。
 昨日の灰猫さんとの会話を思い出して警官の姿を凝視すれば、彼は数秒後、「雷神様」に変化した。
「どどど、ドーパント!」
『昨日言ったよなぁ、お嬢さん。貴様らの顔は覚えたって!!』
 悲鳴にも似た声で黒スーツの男性が言葉を発したのと、異形が私に向かって言葉を発したのはほぼ同時。
 異形は鬱陶しそうに、私の前に立つ中年男性を拳で殴り飛ばすと、そのまま真っ直ぐこちらに突っ込んでくる。
 殴り飛ばされた男性は、私が運んでいた掃除用具入れの中にはまってしまい、ジタバタともがいている。引き上げてあげたいところだが、いかんせん相手の狙いはこの私。そんな暇は与えてくれない。
 流石に、黙って殴られるには厄介そうな相手でもあるようだし。
 思い、私は持っていたモップで相手の足を払おうと構えたが、それよりも先にスーツの男性が私の腕を引いて下がらせた。
 逆に、赤いジャンパーの青年が私の前に立ち塞がると、相手の腹部に一発の蹴りをお見舞いする。
「早く逃げろ」
「は、早く、ここは課長に任せて、逃げるんだ!」
『逃がすか!』
 怒鳴りつけ、異形はその背にある太鼓からバチリと青白い火花を走らせる。
 それが「静電気」のような物だと気付いた時には、黒スーツの男性は感電して、はらほろひれ~と情けない声を上げて倒れこんだ。
 これ以上、私の事に巻き込むのは申し訳ないか。
「……しつこい男性は嫌われますよ? 大体、何故なんの関係もない人を巻き込むんです。恥を知りなさい」
『お嬢さんが大人しくお仕置きされていれば、倒れなかったのになぁ。そいつらも……その男も!』
 そう言うと、異形は一人残った赤ジャンパーの青年に向かって電撃を走らせる。
 ……させる物か。これ以上、関係のない人間を巻き込むつもりは毛頭ない。
 考えたのと、体が動いたのは同時。私は赤ジャンパーの青年の前に躍り出ると、彼を突き飛ばし、彼の代わりに電撃を浴びる。
「くあっ……!」
 いかに頑強さが売りの身なれど、流石にこの電撃は痛い。口からは悲鳴が漏れ、ビクンビクンと体は細かく痙攣する。しかし、これは罰だ。何の関係もない人間を巻き込んだ私への。先代ルークではないが、「私は私に罰を与える」といった所か。
『ははははっ! どーだ電撃の味は!! 意識も吹っ飛ぶくらい『効く』だろう!?』
 ……楽しんでいる。人を守る「警官」であるはずの、目の前の存在は。
 …………こんな誇りのない者に、敗北するなど……それこそ私の誇りが許さない。
 お仕置き? それは私の台詞だ。
 ピキピキと小さな音を立て、私の瞳が虹色に変わった事に気付いた人間は……いない。
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