灰の虎とガラスの獅子

【Kに会ったら/本能か、理性か】

 何とか自分の部屋に辿り着き、私は霧雨さんの布団を敷くと、早々に自分も布団に潜り込んだ。
「ねるの?」
「ええ、寝るんです。何だか今日は混乱しているので寝ましょう、寝るべきです」
 言いながらも、私は問答無用で電気を消し、目を閉じる。
 そう。私は混乱している。
 お隣から戻ってくるまでの間、数えるのも馬鹿らしい回数、壁と柱と床に頭をぶつける程度には。その上、霧雨さんを気遣えていない。これは守護を司るルークとして、あるまじき事なのだが……いかんせん先程父に言われた言葉のせいで、冷静な判断が出来ない。
 私が、灰猫さんに執着している?
 私と灰猫さんが、想い合っている?
 少なくとも、父の……そして物磁や帝虎の目からは、「私が灰猫さんに恋焦がれている」と言う風に見えているらしい。
 確かに執着しているかもしれない。何かあれば、彼を頼るような行為に出ている気がするし、霧雨さんの一件だって、灰猫さんが関わる様な事ではない。確かに彼が霧雨さんを救ったのは事実であり、霧雨さんも懐いているが……これ以上巻き込まないように対策を立てる事だって出来たはずだ。
 それに、何かある度に彼の部屋に寄っている気がしなくもない。今まではそれを「ご近所で、最初に関わった人だから」だと思っていた。勿論、彼がこちらの事情を知る、数少ない人物である事も多々あるのだが、出会った当初は事情を教えなくても良いと思っていたはずではなかったのか。
 しかし、これは恋愛感情と呼ぶべき物なのだろうか?
 確かに少し前に斗李が来た際、灰猫さんが斗李に見蕩れていた時……正確には睨み合っていただけらしいのだが、とにかくその時、妙に斗李と言う存在が煩わしく、苛立たしく感じたのだが……まさか、あれは嫉妬!? 私は実の兄に、嫉妬心を抱いたと、そう言うのだろうか。
 ……そうなのだとしたら、何故嫉妬などしたのか。第三者的に見れば、理由は単純この上ない。灰猫さんの視線が、自分に向いていなかったから。つまり、私は彼に見ていて欲しいと願っているからだ。
 だとすれば、これまで自分でも不可解だった感情や行動のいくつかにも説明が付いてしまう。灰猫さんが怪我をする度、壊れるのではないかと思うくらい心臓が早鐘を打つあの感覚。無茶をしないで欲しいと言う願い。何より……私を頼ってもらいたいと言う望み。
 特定の人物を頼り、そして自分もその人物に頼られたいと言うこの感情が、「恋」と言う物なのだろうか。
 ……よく、わからない。
 私が好む「小説の中の恋愛」は、もっとこう……自分に酔っている印象を受けた。相手を想う自分に酔い、相手に想われる自分にも酔う。酔って、まともな判断が出来なくなって、そしてのめり込んでいく。そんな感じだったはずだ。
 いや、ある意味私も酔っているのかも知れない。灰猫さんに頼っている時点で、まともな判断が出来ているとは言い難い。……普段の私なら絶対に頼ったりしない。ヒトの中でひっそりと生きていたいのだから。
 相手が同族であったとしても、頼ろうとは思わない。……頼るのではなく、利用する。そう言う、小賢しくも狡い存在だったはずだ。本音は見せず、作り笑顔で周囲の人と接し、そして出来る限り他人の記憶に残らないよう、自分から接触するような真似は避けていたはずなのに。
 自分と似たような印象を抱き、似たような考えを持っていると知り、そして「いつの間にか」妙な仲間意識を持ってしまった。結果私は、これまた「いつの間にか」灰猫さんに近付きすぎた。
 付かず離れずの距離を忘れ、灰猫さんが側にいるのが当たり前になり、そして普段の……「ぼんやりとした小娘」を装えなくなっていた。そんな自分を装いたくないとさえ思っている節がある。そのくせ、良い所を見せようとして空回りし、普段とは違う……狡くも賢しくもない、情けない自分を晒している。おまけに、そんな情けない自分まで受け入れて欲しいと思うなど、重症だとしか言いようがない。
 ……灰猫さんも、そうなのだろうか。
 「想い合っている」と言う身内の寝言が、「寝言」じゃなかったら? 彼も、私に対し「情けないと思う姿」を晒し、私に依存し、依存されたいと願っているのだろうか。
 ……そうであってくれたら嬉しい。私しか知らない灰猫さんの素顔があって、何かあれば私の事を思い浮かべてくれてるのだとしたら、私はきっと舞い上がる。もっと、彼の役に立ちたい、彼に良い所を見せたいと躍起になって、また情けない姿を晒すのだろう。
 それも良いと思ってしまうのだから、もはや末期だ。いっそ、制御できないこの感情に振り回されるまま、愚かしくも自由気侭に振舞っても良いかも知れない。
 ……だけど、それで本当に良いのかと。愚かになりきれない自分が囁く。目隠しをさせてくれない、見ないフリなど出来ない……そう言った問題を、私自身に突きつける。
「…………あ……」
「……ねぇ、しょこちゃん」
 小さく上げてしまった絶望の声で目を覚ましたのか、それともまだ寝つけていなかっただけなのか。むにゃ、と眠そうな声で、霧雨さんが私の名を呼んだ。
 暗闇に慣れた目で彼女の方を見ると、今にも眠りの世界へと落ちていきそうなとろんとした表情をこちらに向けている。
「どうしました、霧雨さん?」
「あのね。むー……しょこちゃんと弓にーちゃが……おかあさんと、おとうさん、なって…………くれたら、嬉しい、なぁ……」
 にこりと。子供特有の、天使の様な笑顔をこちらに向けてそう言うと、彼女は睡魔の誘惑に抗うのをやめたのか、あっと言う間に健やかな寝息を立て、眠ってしまう。
 私と灰猫さんが、彼女の両親に……? ああ、それは良いかも知れない。それはきっと、とても楽しい毎日を送れるだろう。……今も大して変わらない気も、しなくはないのだけど。
 ……でも……
「それは……駄目なんです、霧雨さん」
 彼女が起きない事を祈りつつ、私は密やかな声を落とす。
「だって私は……ファンガイアなんです」
 異種との恋愛……特に人間との恋愛は、ファンガイアの掟で禁じられている。なくなるかも知れないけれど、今はまだ「ある」のだ。そして、その掟を破った者に与えられるのは、死と言う罰。罰を下すのは、クイーンの仕事であり、そのクイーンとは言うまでもなく霧雨さんの事だ。
 つまりこのまま、何も考えずに私が自分の欲望に忠実に動いたとしたら。…………霧雨さんが最初に殺す存在は、「私」だ。例え彼女にその気がなくとも、クイーンとしての本能が彼女を突き動かして私を殺す。そうしたら……
 そこまで考えた瞬間、体が震えだした。カタカタと歯の根は合わず、寒いはずなのに汗が止まらない。夜の闇を見たくないのに、目を閉じる事も出来ない。
 この感覚は、昼にも味わった。
 ……「恐怖」だ。
 でも……今味わっているこの感覚は、昼の比ではない。あれよりももっと不快で……残酷な物。
――会いたくなったら、博物館に来ると良い――
 気が遠くなる程の恐怖の中で、何故か「恐怖」を名乗っていた男の声を思い出す。
 自分の意思を殺し、感情を切り捨てたフリをしているような、そんな声を……

「博物館?」
「はい。深い理由はないのですが、行ってみたいなと思いまして。しかし、博物館の位置がわからない物ですから」
 高鳴る鼓動の音を無視しつつ、私は極力冷静な素振りを見せて灰猫さんを博物館へと誘う。
 昨日の今日で何をしているのかと、冷めた自分がツッコミを入れている気がするが、そのツッコミを上回る熱情が、こんな阿呆な行動に駆り立てたらしい。
 異種に恋をするのは、処刑の対象。死ぬかもしれないと言う事実に、昨夜あれ程怖がっていたと言うのに、愚かな私は、霧雨さんを幼稚園へ送り、仕事が入っているからと、迎えを帝虎と言う名の体の良い奴隷に託し、仕事を終えて現在に到る。
 さっさと帝虎の所から霧雨さんを引き取り、自分の保護下に置くのが、本来私がとるべき行動のはずなのに、そうせずに真っ先に灰猫さんの元へ向かい、その上道案内まで頼んでいる。
 図々しい上に、下手をすれば育児放棄だ。呆れられても仕方ない。おまけに、クイーンよりも他の者……しかもファンガイアですらない者との時間を優先させるなど、ルークとしてあるまじき行動と言える。
 ……いやしかし、これはあの「恐怖」が率いるミュージアムとやらへの偵察であり、行く行くはクイーンの身を守る事につながる……はず。自分が灰猫さんと二人きりの時間を過ごしたいからとか、そんな邪念からの行為では断じてない…………とは言えないかもしれない。
 とにかく、断って欲しくないと言う必死の願いを顔には出さず、極力いつも通りの表情を作って灰猫さんの顔を見上げる。
 ……そう言えば最近の彼は、「作家」の時と同じ、割と整えた格好をしている事が多い気がする。無精髭もないし、髪もブラッシングが行き届いている。寝不足らしく、随分と気だるそうな空気を醸し出しているが、それもまた色気があるような気がしなくもない。
 …………え、ちょっと私大丈夫? 何この思考回路。おかしい、絶対におかしい。
 と、私が自問自答している事には気付いていないらしい。灰猫さんは特に悩む素振りも見せずに、二つ返事で了承してくれた。
 そしてそのまま、私達は博物館へと歩き出す。
 目的地までの道すがら、他愛ない言葉を交わしては微妙に微笑み、そしてまた他愛ない言葉を交わす。
 何と言う事のない会話のはずなのに、聞き流すような事が出来ないのは、彼への執着の証か。……自覚した瞬間、開き直りでもしたかのように感情の赴くまま暴走している気がする。
 ……父の事を、暴走蜥蜴だなどと呼べないではないか。
 と、軽く凹みかけた頃合で、博物館の前に到着。今の時期は封墓からの出土品展をやっているらしく、可愛らしくデフォルメされた埴輪や土偶が描かれている看板が立っていた。
 入り口近辺には制服姿の学生さんが多いところを見ると、おそらく校外学習という奴で来ているのだろう。
「うーん、ちょっと混んでるなぁ」
「はぐれたら、迷子になりそうですね」
 軽く眉を顰め、面倒臭そうに呟く灰猫さんに対し、私も苦笑を浮かべながら答えを返す。
 とは言え、折角ここまで来たのだし、何より当日入場券を買ってしまった現状で、引き返すのは癪だ。
「じゃあ、さ。あくまでこれは提案なんだけど」
「はい?」
「……はぐれないように、手をつなぐとか……どうかな? 勿論、嫌じゃなければ……だけど」
 気温が高いせいなのか、そう言った灰猫さんの頬は少し赤い。差し出された手も、微かに汗で濡れている。
 お……黄銅! いや王道!! 灰猫さん、それ、恋愛小説なんかでも王道のパターンです! そんな事されたら、更に私の暴走度合いが加速するじゃないですか! と言うか、心臓バックンバックンですよ!?
 パニック寸前の心の中でツッコミを入れている間に、私の中に潜む欲望は勝手に私の体を動かす。
 差し出された手に、おずおずと言った風に自分の手を重ねながらも、顔は灰猫さんの顔を覗き込んで彼と視線を合わせようとする。おまけにその欲望は、人の口まで操っているらしい。普段の私なら、絶対に……いや、絶っっっっ対に言いそうにない言葉を、さらりと吐き出していた。
「はぐれる方が、もっと嫌です」
 ……っ!!
 何を言っているの、私は!? 小さな子供じゃあるまいし、そんな……あからさまに甘えたような言葉を吐き出すなんて、本当にどうかしている。自分で言っておきながら、気持ち悪い事この上ない。
 言われた灰猫さんも、流石に驚いたらしい。軽く目を見開いた後、勢い良く顔を反らされてしまった。
 繋いでいない方の手で口元を押さえている所を見ると、おそらくあまりの気持ち悪さに吐き気を催しているのだろう。ふるふると肩は小刻みに震え、塞いでいる口からは小さく「うわぁ……」と言う声が漏れている。
 ああ、もう本当にごめんなさい灰猫さん。自分でもこの「気持ち悪い自分」を抑えきれません。
 物凄く恥ずかしい思いをしながら、それでも彼の手を離す様な事はせず、ゆっくりと館内へと入る。
「何かさ、ちょっと……デートみたい、だよな。こういうの。いや、俺よく分らないんだけど」
「でっ……!!」
 他意はないのだろう。ないのだと信じたい。ないと言って欲しい。そうでなければ、私はどこまでも勘違いしかねない。仮に……もしも灰猫さんが私に好意なり何なりを向けてくれていて、その結果の行為だとしても……立場上、私は舞い上がってはいけない。私の想いは、灰猫さんの命を縮める結果になりかねない。
 理性では分かっているのに、それでも舞い上がるのは、ひとえにこれこそが恋と言うものだからだろう。駄目だとわかっているのに、それでも彼に近付いてしまう。
 それも、厄介な事に……「離れられない」のではなく「離れたくない」。「抗えない」のではなく「抗いたくない」。つまり、受身ではなく自発。やろうと思えば出来るはずなのに、やろうと思えない。
 意図せず深い溜息が漏れ、ふと顔を見上げた瞬間。
 一瞬、視界が真っ白に染まったかと思うと、次の瞬間には派手な音を立てて、正面から来た人とぶつかってしまっていた。
 私の方は灰猫さんが手をつないでいてくれたお陰で少しよろめくだけで済んだが、相手の男性は思いの外勢いが付いていたのか、尻餅をついた状態で床に座り込んでいた。
「あ……申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「……問題ありません。こちらも順路を逆に歩いていましたから」
 いくら舞い上がり、ぼんやりしていたとは言え、人の気配にすらも気付かないと言うのは流石に如何な物か。ゆっくりと立ち上がる相手を見やりながらも、彼の落としたジュラルミンを拾い、それを手渡す。
 視界が白く染まったのは、相手が詰襟の白スーツを纏っている事と、身長差から自分の顔が彼の胸部に激突してしまったが故だろう。
「ですけど……本当に大丈夫ですか?」
「結構派手な音がしてたし、俺もちょっと気付けなかったし……怪我とか、平気なのか?」
「ええ。音だけですのでご心配なく」
 頭一つ分高い所から見下ろしつつ、相手は無表情にこちらの言葉に返す。
 ……そう、「無表情に」だ。不機嫌そうでもなければ、愛想笑いもない。ひょっとしたら何かしらの感情を抱いているのかもしれないが、それが面に出ている気配は微塵もない。声も淡々としているのもあって、余計に無機質な印象を受けた。
 無機質と言うだけならともかく、何となく……何となくだが、この人、生きている感じがしない。呼吸はしているし反応もある。瞳孔だって開いている訳ではないのに……なのに何故か、そんな風に感じる。
 生きている感じがしないからぶつかった、などと言い訳をするつもりはない。こうしてみれば気配はある。だけど……何かが足りない。「生きている」と断言するに必要な何かが。
「それでは、失礼します。急いでいますので」
 短くそう言うと、男性は再び順路を逆に辿るように歩き出す。向かいから来る人の波を、上手く掻い潜って。
「……あれだけ上手く人を避けて歩けるくせに、何で彩塔さんにはぶつかったんだ……?」
「さあ……幽霊、とかではないですよね?」
「流石にそれはない……と思いたい」
 ハハハ、と乾いた笑い声を上げつつも、私と灰猫さんは何事もなかったかのように歩を進める。
 実体のないゴースト族ではない。それなら最初から私にぶつかるなんて事は有り得ない。すり抜けて終わるはずだ。ならば、彼は一体? いや、おそらくもう二度と会わないだろう人物の事を気にしても仕方ないのだが。
 呆れ混じりに考えていると、今度は先程とは異なる男性の姿が視界に映った。
 仕立ての良いスーツに、白に近い灰色の頭髪、顔に浮かぶ穏やかな笑み。展示物の劣化を最小限に抑える為に落とされた照明の中であるにも関わらず、自身の視線の先にある物を悟らせまいとしているかのような、色の濃いサングラス。
 昨日も会った。そして、ある意味私が会いたいと思った人物。
 ……テラードーパント。その名の通り、恐怖を司る者。
 姿を見ただけで、悪寒が走る。先程までの浮ついた気持ちから一転、怖い、逃げろ、関わるなと脳内で警報が鳴り響く。
 まるで館内を見回るかのように悠然と歩いていた彼は、こちらに気付いたらしい。今までと全く変わらぬ足取りで、こちらに笑顔を振り撒きながら近付いてきた。
「久し振りだね。そちらは……恋人さんかな?」
 ちらりとこちらに一瞥を向けた後、彼はそんな事を言い放つ。……灰猫さんに向かって。
 まるで、私など知らないと言うかのように。
 一方で灰猫さんは、この男と顔見知りなのか、一瞬だけ驚いたような表情になり……
「館長さん!? あ、いや、彩塔さんはそう言うのじゃ……」
「はっはっはっは。初々しいじゃないか」
 何が楽しいのか、「恐怖」……いや、この博物館の「館長さん」は心底楽しそうに笑って見せる。
 だが、見えるだけ。ポーズだ。自分もよく作り笑いを浮かべるから分る。本当に楽しかったなら、もっとそれが空気に出てくる。
「しかし確か……お嬢さんには昨日も会ったね? ミックとの散歩の帰りに……だったかな」
「え? そうなのか?」
「……ええ。霧雨さんと散歩の帰りにお会いしました。昨日さくじつは、どうも」
 言葉のような可愛らしいシチュエーションではなかったが、灰猫さんはこの男がドーパントであると言う事を知らないらしい。
 ならば、こんな場面で言う必要はない。言ってもパニックになるだけだし……下手をすると、この博物館の来客全員が、「恐怖」の餌食になりかねない。
「しかし私はこれから来客があってね。ゆっくり君達をおもてなし出来ないのはとても残念だ」
 一瞬だけ、サングラスの奥の瞳が冷たく光る。照明の暗さも相まって、多分常人にはその光は見えなかっただろう。
 しかし……どうやら灰猫さんには、その光が見えたらしい。一瞬だけではあったが、彼はその顔を顰め……しかしすぐに、ニヤリと悪役めいた笑みを浮かべた。
「いや別に……気にしないでくれ。ここの展示を見るだけで、充分もてなされてるから」
「そう言ってくれると嬉しいよ。では、ゆっくり見て行ってくれたまえ」
 はっはっはと高らかに笑いながら、先程ぶつかった白服の男同様、順路を逆に辿りながら「恐怖」はその場を後にする。
 ただ、人の意識から外れて歩いていた白服の彼とは異なり、「恐怖」の場合は、モーセの十戒のように人の波が割れ、その中を悠然と歩いていくと言う差はあったが。
 でもその背中は……どこか寂しそうに見えた。
 「自分の意思を殺し、感情を切り捨てたフリをしている」ように見せて、実は何よりも、そして誰よりも、「恐怖」を抱いているように見えたのは……私の、気のせいだったのだろうか……
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